Music: 北国の二人(ブルーコメッツ)





第9回歴史倶楽部例会「東北遺跡の旅」 1998年7月18・19・20日

	1998年7月18日(土)からの3連休、我が歴史倶楽部はメイン・メンバーで青森・三内丸山遺跡の旅に出かけた。こ
	の旅は今年の課題ではあったのだが、秋頃だと誰もが思っていた。それがどうした事か、いきなりよし今度の連休に行こう!
	という事に相成った。全く計画性のない倶楽部だこと。2泊3日で、廻れるだけ名所旧跡を見て廻ろうという事になり、三
	内丸山遺跡だけでなく、亀ケ岡遺跡やキリストの墓(大陸書房系の人達が信じる遺跡:我が倶楽部にも一人二人信奉者が居
	るのだ。)にも行く事になった。中世津軽の大都市、十三湊の発掘現場や各博物館も巡った。大阪が暑くなるとき青森に着
	いて(青森は3日間25.6度の涼しい気温だった。大阪は雨が降ったらしい。)、青森が雨になって大阪へ戻った。なん
	て善人ばかりなんだろう。

出発前の大阪空港(伊丹)と搭乗したJAS機★  ★一時間半で到着した青森空港



	この遺跡は、これまでの縄文・弥生時代の既成概念を覆したばかりでなく、縄文遺跡としては考えられないような巨大建築
	物や、さまざまな生活用品の遺物を残していた。下の写真の左は、直径1mを越える建築物の柱の跡。3本づつ2列、つま
	り6本の柱跡があった。高さは20mに及ぶと推測されている。一体このような高さの建築物は何であろうか。





	これらを復元したのが次の写真。祭祀用に建てたものか、あるいは隣国との戦いのための物見櫓か、答えはまだ見つかって
	いない。




	
	平成9年11月10日付けの朝日新聞朝刊に、この柱の跡とは別に直径1〜2mの大きな穴が26個も発見されたという記
	事が載っている(上右)。食料の貯蔵庫ではないか、とか新たなる巨大建築物の痕跡か、とか諸説定まっていないが、次々
	と新たなる発見が出現する。
	まだまだ、我々には想像できない遺跡が埋まっている可能性もある。三内丸山にこういう遺跡があるという事は、他の地域
	にもあるはずである。我々が発見できていないだけなのだ。今後の教科書は大幅に刷新する必要があろう。



	縄文時代人の生活は、我々が今までに想像していたものより遙かに豊かな生活だった可能性もある。下の写真は体長1mの
	マダイの骨である。三内丸山遺跡は海岸線に隣接しており、釣り針やモリ等の骨器の他に1mのオールも出土している事か
	ら、丸木舟で沖へ出て大型の魚を捕獲していたと考えられる。タイの他にも、マグロ、ブリ、ヒラメ、メバル等の骨が出土
	している。

  

	
	縄文文化の生活水準が、これまで考えられていたよりもはるかに高度だった事を示す遺物。上中はイグサ科の植物で編まれ
	ているポシェット(手提げかご)。上右は朱色の漆のお椀。5000年以上前にすでに漆の技術があったのである。



 


	こういう遺跡の出現や新たなる発見に接するたびに、タイムマシンの存在を渇望する。一足飛びに石器・縄文・弥生時代の
	中へ入って、人々がどんな暮らしをしているのか、どんな家に住み何を食べているのか、どんな言葉を喋っているのか、こ
	の眼で実際に見てみたい。私の祖先は縄文時代何処にいたのか?祖先から派生した血脈は、今日本中のどこら辺に散らばっ
	ているのか?もしかしたら、会社の中に一人くらいいるかもしれない。コンチクショウと思っている上司や同僚も、もしか
	したら一族かもしれないと思うと、何となく腹も立たない。想像力はアルコールの力も借りて太古の世界を闊歩する。


● とうとう来た!三内丸山遺跡 


我々がここを訪れた7月19日は、ちょうど青森県が主宰しての「青森県文化観光立県宣言」イベントが行われる当日ですごい人だかりだった。普段の建造物以外にも、イベントのための仮設施設がいっぱい建てられていて、ステージでは木村知事の挨拶の後、郷土芸能や各種バンド演奏などにぎやかだった。
青森県は、他の東北の県と違ってこういう遺跡や文化財の保護・保存に非常に積極的である。又、それを観光資源に県財政の向上を意図している。この「文化観光都市宣言」イベントも1日だけではなく、10日位かけて、青森県内の各地会場で著名な講師を招いて講演会・討論会などを企画している。講師陣の顔ぶれをみると、歴史学者達ばかりでなく、映画監督や女優、アナウンサーなど実に多彩だ。梅棹忠夫、森本哲朗、小山修三、佐原真、竹下景子、星野知子、津本陽、篠田正浩、等々、まだまだこの5倍ほどの講師陣だ。力の入れようがわかる。これらのフォーラムの模様は8月28日NHKの教育テレビで一部報道された。

さて、縄文時代とはいつ頃の事を言うのであろうか。日本列島に人類が出現したのは数十万年前と言われている。青森県で人類の生活痕跡が発見されているのは、約2万年前の地層からである。この頃は氷河期で、日本全体で気温は現在よりも7〜10度低く、水位は百数十メートル低かったと考えられている。青森県も北海道と陸続きで、さらに大陸とも陸続きであった。旧石器時代の人類は、大型の動物を追いながら大陸から日本に、そして青森県に渡来し、氷河期の終わりとともにこの地に住み着いたと考えられる。気候の温暖化は、今から1万2千年前位からはじまり現在も続いている。現在は、次の氷河期との間に訪れている間氷期(かんぴょうき)なのである。第4間氷期とよばれている。 この1万2千年前位からを、時代区分では縄文時代と呼んでいる。温暖化はこの頃から徐々に進み、約6千年前位にそのピークに達したと考えられている。溶け出した氷河の氷は水位を押し上げ、日本列島全体で今より5m程水位が高く、海が各地で内陸部まで浸水していた。この三内丸山遺跡も、この近くまで海が入り込んでいたと言われている。
この遺跡は今から約5500年前位から人々が生活を始め、約1500年の間続いた一大縄文集落の跡である。出土する遺物からは、食料とする動物が大型からイノシシ・ウサギなどの中型、小型の動物に変わってきた事、針葉樹に変わってブナ・ナラなどの広葉樹林が広がってきた事、石器が「打製」から「磨製」へ変わってきた事、クジラ・マグロなどの大型海洋動物を食べた事から、集団による共同作業での狩りが定着していた事などが窺い知れる。しかし何と言っても我々を驚かせたのは、高度な技術に基づく大型建造物の存在と、計画された集団生活の定着化である。従来これらは全て弥生時代に入ってからのものとされていたため、この遺跡が古代史の分野に投げかけた意味はとてつもなく大きなものとなった。
当初はそんな馬鹿な、と思っていた人々も、その後続々と発見され続けている縄文遺跡の有り様に、縄文時代が我々の考えていた以上に高度な文化と技術を備えた時代であった事を認めざるを得なくなった。鹿児島県の上野原遺跡は、三内丸山よりもさらに4000年も前の縄文遺跡である事が判明したし、既に7500年前に弥生式土器に似た壺型土器も作られていた。古代は想像以上に発達した社会だったのである。

さて、現在の三内丸山遺跡跡には、幾つかの竪穴式住宅と大型竪穴式住居、高床式倉庫などが復元され、柱の跡とそこに残った木片、子供の墓地・大人の墓地、ゴミ捨て場の堆積跡なども一部見学できるように保存されている。また用途は不明だが、大型建造物の跡地にはロシアから輸入したクリの巨木で6本の柱による建造物が復元されている。このページの冒頭にある写真はそのミニチュアであるが、おそらくこのような建造物であったろうという推定で製作されているのである。




 
遺跡全体の航空写真。





	
	縄文海進はここまで来ていたのだ。これを見る限り、三内丸山ムラは海際にあった事になる。あの巨大柱はやはり、海から
	の標識と灯台を兼ねていた建造物と理解した方がいいような気がする。

 

 

大型建造物を囲むように作られたイベントのメインステージ。我々が帰る頃には大群衆で埋まった。

 

上と下の写真が、大型建造物の柱跡。これで三内丸山遺跡は日本中で有名になった。穴の直径は約2m、穴の深さも約2m、
中の柱は直径が1mのクリの木だった。6個の穴の、中心から中心までは、ぴったり4.2mだった。

 

	
	下は、ゴミ捨て場。堆積した土器や動物の骨で周囲の土地よりも高くなって、土饅頭のようになっている。竪穴住居や大き
	な柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されること
	によって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられ
	る。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。

 

	
	下左は子供の墓の遺構。大人の墓と異なり、住居に近い位置にある為、親心のなせるワザとの意見がある。子どもは亡くな
	ると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ埋葬されていた。これまでに約880基ほどが発見され
	ており、土器の中には握り拳大の、丸い1,2個の小石が入っていた。当時の習慣に関係していると考えられる。

 

	
	下左が大人の墓の跡。約120基の墓が発見されており、地面に掘られた円形や楕円形の穴に埋葬された。集落のはずれに
	設けられている。大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されていた。2本の柱の間をズーッと墓が続いて
	いる。

 

	
	上右は大型竪穴式住居の復元物。長さ32m、幅9m。共同作業場、集会所などの見方がある。下はその内部。長さ10m
	以上の大型竪穴式住居跡は幾つか確認されている。住居内に炉が設けられ6本の柱で支えられていた。三内丸山遺跡では最
	大のもので長さ約32m、幅約10mのものが見つかっている。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作
	業所、共同住宅などの説がある。柱の跡から、数度に渡り立て替えられていた事も確認されている。



 

 

 

	
	上右と下4枚の写真は高床式倉庫の復元物。遺物からは豆類や穀物の種子も出土している為、植物を栽培していた可能性も
	あり、この建物はそういったものの貯蔵庫だった可能性もある。これは、今までの時代感で言えば殆ど弥生時代の特徴であ
	る。

 

	
	高床式倉庫は、発掘されたそのままの位置に、建物の大きさ、柱の太さなど忠実に復元されている。棟が同一方向を向いて
	いる為、同時期に建てられた可能性もある。又これらの倉庫群は、集落のほぼ中心位置に集中して建てられている。

 

 

 

	
	下右は竪穴式住居の跡だが、よく見ると高い棒と短い棒が立っているのがわかる。短い棒のほうが古い時代で、高い棒はそ
	の後建てられた住居の後なのだ。つまり、手狭になった為、同じ場所に又新しく建てたというわけだ。縄文時代における住
	居の定着を証明している。
 

	
	以下の写真は竪穴式住居とその内部。縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造った。中央には炉がある。住居の平面形や
	柱の配置、炉の位置や構造は、年代によって、少しづつ変化が見られる。集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つ
	かった。

 

	
	立て替えられた時代毎に、竪穴式住居にも流行があった事も確認されている。特に炉には、土器片を敷き詰めたものや、石
	で囲ったものなどがあり、同一年代は同じ様な様式が多い。

 

 



	
	左の谷はゴミ捨て場として使われていた。水分が多く空気から遮られていたので保存状態がよく、石器、土器の他に通常は
	残らないような木製品や漆器、動物・魚の骨、ウロコ、植物の種子、木の実、寄生虫の卵などが良好な保存状態のまま残っ
	ていた。これらの遺物が5,6千年の間残っていることは殆ど奇跡に近い。これらは全て遺跡側の資料展示室で見る事がで
	きる。又、谷の中央部から北の川に向かって幅2m、長さ約60mの道路も建設されていた。この道路には、土止め用の杭
	を打ち込んだり、崩落防止の為に土器を張り付けたりした部分もあった。その発想は現在の道路補強のやり方と少しも変わ
	っていない。

 

 

CGとジオラマによる三内丸山遺跡の復元。



発掘風景









 





上記発掘写真提供: 青森県教育庁文化課




イベントでは、この地方の舞踊なども披露されていた。地元のマスコミも大勢来ていた。

	
	縄文時代は今から約1万2〜3千年前に始まり、約2千3百年前に終わる(最近は3000年前との説が出現)。その約一
	万年間を「縄文時代」、その文化を 「縄文文化」 と呼ぶ。縄文時代には土器の製作と矢の使用が始まり、ムラが作られ出し
	た。縄文時代より前を「旧石器時代」、縄文時代の後を 「弥生時代」と呼ぶ事は常識だが、この遺跡の発見は、それまで日
	本史上で常識と考えられていた項目をことごとく塗り替えていった。
	勿論部分的には、北陸や東北の遺跡で、三内丸山に見られるような大形建物跡や定住集落の跡が発見されてはいたのだが、
	縄文の概念を覆すに足る確たる証拠としては誰も取り上げなかったのである。小規模で地域的なものだろうという判断だっ
	たのだ。縄文時代に、いわば都市にも似た大規模な集落群が、実は東北一円に存在していたのだとは、誰にも想像出来なか
	ったのである。

	三内丸山遺跡は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた。
	平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物
	跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、ゴミ捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的に判明した。
	また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の
	地域から運ばれたヒスイや黒耀石なども出土している。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析により
	クリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えた。平成12年11月には国特別史跡に
	指定された。

	この遺跡で一番注目を集めたのは、地面に穴を掘り柱を建てて造った建物跡である。柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔
	が4.2m、中に直径約1mのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐ら
	ないで残っていたのである。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられるが、他にも諸説ある。集落の中心から幅約12m、
	長さ420mにわたって海に向かって延びていた道路も驚きだった。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになって
	いるものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもあった。最近の調査で、南北にのびる
	道路も見つかっている。人々は素っ裸で、鹿や熊を追いかけ回していたと思われていた縄文時代に、舗装道路!である。こ
	こがいかに管理された「社会」的なムラだったかを人々は思い知った。同時に、これまでの縄文時代観を大きく見直さねば
	ならない事にみんなが気づいたのだ。

	三内丸山遺跡では、遺跡の解明と整備・活用を円滑に進めるために、三内丸山遺跡対策室が毎年継続して発掘調査を行って
	いる。これまでに第1〜第25次調査(平成14年度末まで)が着手され、遺跡全体の約40%の確認調査が行われている。
	発掘調査を進めるにあたっては、専門家、学識経験者、文化庁から構成される「三内丸山遺跡発掘調査委員会」を設置し、
	調査地点の選定や目的や学術的成果の検討を行っている。また、これまでの出土資料の整理、学術報告書の刊行も、自然科
	学的分析を積極的に取り入れ、進められてきた。さらに三内丸山遺跡特別研究推進事業を行い、学術解明に取り組んでいる。
	この研究は遺跡に関する研究課題を公募し、研究費を交付する公募研究と、発掘調査委員会委員による共同研究があり、こ
	れらの研究成果や発掘調査成果については、一般県民に向けての報告会開催や年報に掲載され情報公開が積極的に行われて
	いる。





竜飛岬(たっぴみさき)

	
	今回の旅は、宿を青森市郊外の厚生年金施設(サンピア)と、本州最北端「竜飛岬」の国民宿舎にとった。サンピアは田圃
	の中で綺麗な点を除けば、特に取り上げるほどのものは無かったが、竜飛岬の方は、国民宿舎が昔の学校のような恐るべき
	老朽館だった点に目をつむれば、実に素晴らしい所だった。九州や関西にはない、北の果ての日本海と、そこからイメージ
	される「北の海・津軽海峡」の厳しさが眼前に迫ってきて、その迫力には圧倒されっぱなしだった。



いかにも厳しそうな北の海と、寂寥感あふれる林木立の風景。



一帯には風力発電の風車が立ち並び、ちょっと他では見たことがない光景だ。



国民宿舎がある、岬の最高地点駐車場の側にあった、「津軽海峡冬景色」の歌碑と、夕日に暮れなずむ竜飛岬灯台。旅情あふれる光景。


<この旅で廻ったその他の青森の遺跡>
イエス・キリストの墓 亀ケ岡縄文遺跡・資料館 十三湊遺跡・資料館 青森県立郷土館



邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/ 三内丸山遺跡