Music: 北国の二人(ブルーコメッツ)


1998年7月18日


	【青森県立郷土館発行パンフレットより】
	●郷土館のあらまし

	青森県立郷土館は、明治百年記念事業のひとつとして建設された総合博物館です。
	青森県の自然・歴史・産業・文化の移り変わりを示す資料を展示し、過去のようすを振り返り、美しい自然や文化を保護し
	ながら発展していく未来の姿を考える広場という事が出来ます。資料の展示にはジオラマ・模型・音響装置・パソコンなど
	近代的立体的な方法を取り入れて、考えさせ、興味をひかせるようくふうしています。
	館内の各展示室・収蔵庫には空気調和機が設置され、温湿度・換気などを制御できるようになっている他、消毒装置、炭酸
	ガスによる消火設備なども完備しています。

 




	◆先史時代のなぞを秘める青森
	
	青森県の先史時代は、古い順に旧石器時代(〜約12、000年前)から、縄文時代(約12,000年前〜2,300年前)、弥生時代
	(約2300年前 〜 約1700年前)へと移り変わるが、なかでも 縄文時代の遺跡・遺物にめぐまれ、青森県は
	「縄文文化の宝庫」とも呼ばれている。木村知事が「文化観光立県宣言」を行いたくなるほど豊富な遺跡がひしめいて
	いる。青森県を中心とした地域では、前期中頃から中期中頃(約6000年前 〜 約4000年前)の円筒土器文化、後
	期(約4000年前 〜 3000年前)の十腰内文化、晩期(約3000年前 〜 2300年前)の亀ガ岡文化が代表
	的なものとして知られている。また、弘前市砂沢遺跡や田舎館村垂柳遺跡では弥生時代前期〜中期の水田跡が発見されてお
	り、我が国最北の弥生水田跡として注目されている。

 

 

 

発掘された土器に直接手で触れてその感触を確かめるコーナーもある。

 

 


	
	縄文時代の住居は、基本的には地面を掘りくぼめた竪穴式住居である。時期によって、住居の形や大きさは異なるが、経4
	〜6mのものが多い。又屋根の形も上図のように直接地面に接するものの他に板壁の上に乗せる様式のものも想定されてい
	る。この模型は、大畑(おおはた)町水木沢(みずきさわ)遺跡(縄文後期)をモデルにしたもの。



 

 

	
	<縄文時代草創期・早期>
	縄文時代は、今から約13000年前から2300年頃前まで1万年以上続いた時代で、草創期、早期、前期、中期、後期、
	晩期に分類される。この時代に土器が発明され煮炊きができるようになり、食生活が大きく改善した。また、弓矢が発明さ
	れ狩猟技術も進歩した。長期にわたる縄文時代のうち、草創期の遺跡は青森市では1ヶ所しか見つかっていない。早期の遺
	跡が約10ヶ所見つかっており、昭和51年に発掘調査が行われた「蛍沢遺跡」では尖底土器が出土して、表面には貝殻文
	様が施されていた。早期には人々は竪穴式住居に居住するようになり、各地に集落が形成される。また貝塚の発生もこの時
	期である。

 



	
	<縄文時代前期>
	縄文時代前期は、現在と比較して気候が温暖であった時代と考えられる。青森市の前期には多くの遺跡が見つかっているが、
	前期の中頃からは、円筒土器を用いる文化が、青森県・北海道南西部から東北北部の広範囲にわたって花開く。その中に、
	前期から中期にいたる円筒土器文化のもと、約1500年の長期にわたり集落が営まれた、全国でも最大規模の縄文集落で
	ある有名な三内丸山遺跡がある。他にも、昭和52年に高速道路建設に伴う調査で、集落と共に大量に廃棄された円筒土器
	の捨て場が見つかった熊沢遺跡や、標高100m以上の地点に集落が営まれた桜峯1遺跡などがある。



 

	
	<縄文時代中期>
	前期中頃より始まった円筒土器文化は中期に引き継がれる。前期の土器が円筒下層式と呼ばれるのに対して中期の土器は円
	筒上層式と呼ばれ、シンプルな形の多い前期の土器に比べると、土器の口の部分に突起や粘土紐による装飾が加えられるな
	ど、より華やかになる。また、前期には胎土に植物繊維を混ぜることにより土器を強化していたのに対し、中期には砂粒を
	加え、焼成温度を高くしてより強固な土器を作っていた。この時期の青森市の遺跡には、前期から引き続いて、大集落を造
	営していた三内丸山遺跡や、四戸橋遺跡、山吹1遺跡など、総数では前期には及ばないものの、多数の遺跡がある。東北北
	半に広がる円筒土器文化圏に対して、東北南半には大木式土器文化圏が広がっていた。前期から長く続いてきた円筒土器文
	化も中期末期には衰退し、南の大木式土器文化が徐々に浸透してゆく。

 



	
	<縄文時代後期>
	後期は、気候が冷涼で湿潤な環境に悪化し、陸上の動植物に大きな被害を与え、特に東日本では、中期に爆発的な人口増加
	があったため食料資源の枯渇に追い討ちをかけることとなり、壊滅的ともいえる打撃をうけたと考えられる時期である。ま
	た、この時期には、呪術的・祭祀的遺物が豊富に作られ、多数の石を配置した「環状列石」や「配石遺構」、多量の土を盛
	土した「環状土籬」や「盛土遺構」などの大規模な遺構も多く作られる。青森市内には、約300ケ所の遺跡が地中に眠っ
	ているが、そのうち約100ケ所が後期の遺跡にあたる。市内で調査された遺跡としては、環状列石をシンボルとする小牧
	野遺跡、石棺墓が見つかった山野峠遺跡、再葬用の土器棺墓が見つかった蛍沢遺跡、近年、クマの土製品が見つかった三内
	丸山6遺跡、そのほか近野遺跡や稲山遺跡などがある。

 
	
	<縄文時代晩期>
	晩期の東北地方では、サケ・マスなどの河川漁業を最大限に活用し、それを基礎に縄文文化の極致の様相をみせる「亀ケ岡
	文化」が展開した。各種の漁労具は亀ケ岡文化で最高度に発達し、土偶・岩版・石棒などの呪術的・祭祀的遺物の多彩さに
	加えて極めて優れた技法のもとに、美術工芸品とも呼べるような土器や様々な漆器が作られるなど、その内容の豊かさは群
	を抜いている。亀ケ岡文化の広がりは、北海道南西部・青森県を中心に、東北、関東、甲信越地方にまで及び、一部は近畿
	地方にまで達しているほどである。
	青森市内では、約30ケ所の晩期の遺跡が見つかっているが、前時期の後期の遺跡数と比べると、約3分の1に減少する。
	市内の遺跡の代表例としては、塩づくりに使われた土器(製塩土器)や漁労には欠かせない銛や釣針などの骨角器が見つか
	った大浦貝塚、多量の玉類が副葬された土坑墓や、県内でも検出例の少ない住居跡が見つかった長森遺跡、複数の土坑の上
	に多数の石と石棒を配石した墓が見つかった玉清水遺跡、多数の土坑墓が見つかった朝日山遺跡などがある。
	<以上、上記部分は、青森市のホームページから転載・加筆させていただいた。深く謝意を表したい。>


	
	青森県の縄文遺跡で一番有名なのはもちろん「三内丸山遺跡」である。この博物館にもそのコ−ナーが設けてあったのだが、
	あちらはあちらで出土物を一括して陳列した資料館があるので、ここではささやかな紹介に留まっていた。






	
	昭和56年、田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)で水田跡が発見された。北海道には水田の痕跡が皆無なので、この
	稲作技術が西から来たものという事は明白だ。青森では、北海道の続縄文文化(本土の弥生時代・古墳時代に相当)に続く、
	擦文文化(さつもんぶんか:奈良時代以降に相当)で盛んに使われた「擦文土器」が発見されているので、少なくとも北海
	道の一部の人々が津軽海峡を渡ってきていた事も明白だが、稲作は反対に海峡を越えなかったようである。
	北九州に伝わった稲作は、一体どんなスピードでここまで到達したのだろう。古墳時代における文化の伝播速度にも驚かさ
	れるが、この稲作技術の伝播も恐ろしく早い。通常言われる弥生時代がほんとに600年程ほどだとすると、ここに稲作が
	伝わったのが中期と言うことなので、およそ3,400年で稲は日本列島を縦断したことになる。これは驚くべきスピード
	である。稲作は、実はもっと早くから北九州には伝わっていたのではないだろうか。そうでなければ、こんな短期間で津軽
	まで来るのがどうしても理解できない。本土の弥生時代をみても、低地では稲作を始めていてもまだ山中や丘陵では狩猟や
	木の実採集に明け暮れていた痕跡があるのに、稲作だけが恐ろしい速度で伝播していっている。



 







 
	
	下左は奈良時代の東北農民住居跡。殆ど竪穴式住居のままである。室内には煮炊き用の釜戸が備わり換気用の煙突が設けら
	れるなど、若干の工夫跡が見られるが、形そのものは竪穴式の伝統の上になりたっている。こののち、ようやく掘立住居が
	一般化するのは平安時代になってからの事。礎石と床板を持つ上流貴族の住居などは考えも及ばない時代であった。

 

 

	
	まことに申し訳ない事に、デジカメのメモリーがここで一杯になってしまい(三内丸山等で写しすぎた?)、この博物館の
	遺物は殆ど実写で紹介できなかった。ここには中世から江戸時代以降にかけての遺物や、自然を紹介したコーナーや、民俗
	資料などが山ほど展示されていたが、いずれもおおいに興味をそそられるものばかりである。是非訪れて一見される事をお
	すすめしたい。


邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES/ 青森県立郷土館