Music: Come Together渡来人登場
平成11年5月に、連休をはさんで大阪府立弥生文化博物館で「渡来人登場」という展覧会が催された。池上曽根遺跡の大 型建物が復元されたのを記念して開催されたものだが、呼応して和泉市・泉大津市による「弥生まつりも」開催されたので、 連休中は、博物館はいつになく大勢の観覧者達を迎えていたようである。我々も「弥生まつり」の帰りに立ち寄った。展覧 会は各地から出土した弥生遺跡の遺物を陳列し、パネルの解説その他で、我が国の弥生文化の開幕とその発展について解説 していた。

大阪府吹田市にある国立民族学博物館の教授小山修三氏は「縄文学」が専門である。正式には縄文学などという学問はないが、縄文時代にかけては今でも第一人者である。酒が好きで、酔っぱらうと何を言ってるのかよくわからない。
一度大阪の飲み屋で飲んだとき( 縄文塾 )、「いやぁこの頃は学者もなにか変わった事をせんとめだたんでなぁ。」などとボヤいておられたが、いやいや十分目立ってますよ。さて、渡来人達はどうやって東シナ海、玄界灘を渡ってきたのだろう。これについては、このホームページの「科学する邪 馬台国」の中で詳しく考察したのでそちらを参照していただきたい。( 古代船の建造・航海技術 )いずれにしても、大陸 を捨て半島を捨て、一族郎党を率いて船を操り、北九州目指して人々はやってきた。中には、海流に遠く流され山口県や鳥 取県や島根県に流れ着いた一団もあった事だろう。山口県土井が浜( 山口・土井が浜遺跡 )の人々などは、明らかにその 一団と思える。私見では、島根に流れ着いた一団は、「出雲の神々」として一大勢力を誇るまでに成長した。また、最近発 見された鳥取の「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)などもこれら大陸・半島からの大集団が住み着いた集落跡である可 能性が大きい。石川県や、運が良ければ能登半島を越えて越後の国辺りにまで流れ着いた者達がいたかもしれない。紀元前 後、北九州・山陰・北陸地方は大陸からの表玄関だったのであり、こちらがまさしく「表日本」だったのだ。この時代、和 歌山や渥美半島や伊豆半島などは、渡来人達にはその存在も知られていなかった。完璧に「裏日本」だったのである。各地 から出土する舟の遺構は、埴輪も含めて、自分たちが玄界灘や日本海を渡ってきた実際の船を模倣したものである。大きさ は判明しないが、航海に耐えるようちゃんと構造船或いは準構造船の様相を呈している。




各地の弥生遺跡から発見される人骨は、彼らが明らかに渡来系の骨格である事を示している。福岡の金隈遺跡( 金隈遺跡 ) や山口の土井が浜遺跡(前出)の人骨は、それまでの縄文人の骨格とは異なっており、また今日では「渡来人」達の間での 骨格間にも差異がある事 がわかっている。 解剖学者であった金関丈夫(かなせきたけお)氏は、土井が浜遺跡を初めとする北九州の遺跡から出土した人骨を調査し、 結果から「混血渡来説」と今日呼ばれる学説を唱えた。それは、一言で言えば「渡来人が従来の縄文人と混血し弥生時代を 築き、やがて古墳時代人となっていった。」というものである。世間にはあまり知られていないが、日本人の身長は第二次 世界大戦前までは、この渡来人達の身長が約2000年間を通じて一番高いのである。混血後日本人の身長は再び低くなり、 鎌倉、戦国、江戸、明治と続いていく約2000年間、一度も「渡来人」達の身長を抜いていない。 下右は山口県綾羅木・郷遺跡(あやらぎごういせき: 下関考古博物館 )から出土した、面長な弥生人の顔を模した土製の 人形である。下の上左の女性復顔の骨格は、弥生時代中期の奈良県長田遺跡で発見された若い女性のものであるが、この女 性は井戸の中から上半身のみが発見された。いかなる運命をたどって来たのだろうか。近畿地方に「渡来人」がいつ頃やっ てきたのかについてはまだ不明である。それは近畿地方からの弥生人骨出土例が少ない事による。 奈良県唐古・鍵遺跡、 兵庫県田能遺跡や兵庫県新方遺跡など、まだ数十例しか発見されていない。 それについてはまだ今後の考古学の成果を待つ必要があるだろう。また「渡来人」が縄文人と完全に敵対したのではなく、 融合・混血して行った証拠も遺跡にある。墓から「縄文系」「渡来系」の人骨が並んで出土するのである。一緒に生活して いた動かぬ証拠であろう。


前出の金関博士の研究では「渡来人」の出自は、その骨格から、大陸から → 朝鮮半島 → 半島南部と絞られるそうである。つまり「渡来人」の多くは朝鮮半島南部の人達であったという事になる。稲作も大部分この人達によって我が国にもたらされたと考えて良い。今日では稲作の起源は、大陸の長江中部で発生した事がほぼ確定的となっているので、
勿論南方経由の稲作伝播も存在しただろう。稲のDNAを研究する国立遺伝学研究所の佐藤洋一郎氏などは、稲は南方と北方のイネが混ざって今日のジャポニカ種になったという二元説を唱えている。(科学する邪馬台国: DNAで探る稲の起源 )このホームページで紹介している様々な博物館( 全国博物館巡り )でご覧いただけるように、稲の収穫に用いた石包丁は、 西日本で出土するものと朝鮮半島のものは酷似している。また朝鮮半島では、環壕は既に紀元前1000年頃の上村里(サンチ ョンニ)遺跡にあり、多くが半島の東南部に集中している。 福岡の板付遺跡では、朝鮮半島で使用されていた「無文土器」が出土しているし、佐賀の菜畑遺跡にあった磨製石剣も同型 のものが朝鮮半島遺跡から出土している。弥生時代にあっては、日本で出土する生活用具で朝鮮半島に無いものはないと言 い切ってもいいほどである。これらを考察するに、「渡来人」は稲作を含む文化全体を引き下げて日本列島へ移住してきた 事がわかる。 移住に際しては、先住の縄文人達とさほど争った形跡もない。縄文時代に比べて弥生時代は、戦いの傷跡を残した人骨が夥 しく増加するが、それはおそらく移住に際しての戦いではなく、稲作が定着し備蓄が増えムラ同士がそれらを争った結果だ ろうと考えられる。

弥生早期には朝鮮半島の「無文土器」がまとまって出土する集落が出現するが、初期初頭には北部九州において朝鮮系「無
文土器」の影響を受けた壺や瓶が多数出現する。外面を磨いて酸化鉄で赤く塗った「丹塗磨研壺」と呼ばれるものもその一
つである。下左は福岡県朝倉郡東小田・七板遺跡(弥生中期: 九州歴史資料館 写真では赤くないが、実物は濃赤である。)
から出土した「丹塗磨研壺」であるが、弥生時代全般に渡って北部九州ではこれらの土器が受け継がれていく。
佐賀の吉野ヶ里遺跡でも「丹塗磨研壺」が出土しているが、赤く塗るのは祭祀用であろうと考えられる。たぶんに弥生式土
器というのは、東京の弥生町で発見され時代区分にもその名を冠せられているが、もともとはこの北部九州の朝鮮系「無文
土器」にその端を発していると推定される。

先述の生活用品の中で、農器具の出土例は朝鮮半島では少ない。木製品は水分が多く空気中ではすこぶる腐りやすい。日本
では多くの弥生遺跡から木製品が出土し、場所によっては縄文の遺跡からも多量の木材が出土する( 富山県・桜町遺跡など )
が、いずれも湿地帯や水中に近いところに保存され腐敗を免れたものである。
朝鮮半島ではまだ弥生時代初期にあたる遺跡の発掘は始まったばかりなので、今後大いに出土例が増加していくものと期待
される。下の農具は、我が国では最古のもので、すでに弥生初頭(縄文晩期?)に田を耕し、畦や水路を作るための器具が
あったのである。

弥生中期以降の幾つかの遺跡から中国の銅銭が出土している。これらに弥生人が、今日言う「貨幣」としての意味を見いだ していた事は容易に想像できる。単なる銅で出来た宝物として崇めていただけではあるまい。おそらくは、交易の対価とし て、富裕の象徴として用いられている事を知っていたと思われる。勿論、本格的な貨幣の流通はもっと後の時代になってか らの事であるが、一部の「渡来人」達の間では「貨幣」として流通していた可能性もある。同時に、そこに刻印されている 「漢字」についても興味を覚えたはずであり、或いは、「渡来一世」達は漢字を読み書きしていた可能性もある。現在の所 まだ証明はされていないが、弥生人達(勿論すべての弥生人と言う意味ではない。)は漢字を知っていたと考える。 伊都国歴史資料館 には、日本最古の漢字と思われる「竟」の文字を刻んだ壺が展示されているが、今後もっと多くの「文 字資料」が発見される事を期待したい。福岡市にある西南学院大学の考古学教授高倉洋彰氏も、弥生人は漢字を使用してい たと主張しているが、やがてそれが証明される日がきっと来るに違いない。




我々は現実を直視しなければならない。現実に立ち向かい、真摯にそれらと向き合うことで、今後の我々の進路を定める必要がある。我々は「渡来人」の末裔である。渡来人、平たく言えば韓国人である。一部中国人もいただろう。ごく一部には南方からの民族もいたかも知れない。しかし大多数が南朝鮮からの民族と、少数の原日本人(?)即ち縄文人との混血の子孫なのだ。混血比率はおおまかに10:1である。



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