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月読神社
2007.4.1(日)







	京都洛西、松尾山から下りてきて松尾の里へ入った処、児童公園の向かいに「月読神社」がある。道路に面して鳥居があり、石段
	を登ると境内である。「月読神社」は以下の解説にもあるように、「月読神」を祭神として祀るが、この神は神話には非常に登場
	回数が少ない。有名な天照大神(アマテラスオオミカミ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と三兄弟でありながら、その事さえも
	一般にはあまり知られていない。また、この神を研究した書物もほとんどないと言ってよい。いったいこれはどうしたことだろう
	か。
	また、「月読神社」も全国には80数社しかない。天照大神や素戔嗚尊を祀る神社は数万とも数十万とも言われ、八幡社ですら4、
	5万社はあるというのに、80数社というのはあまりにも数が少ない。いったいこの神はどのような神で、何故人々はその存在を
	忘れてしまっているのだろうか。




	葛野坐月讀神社(月読神社)  松尾大社摂社 <京都市指定史跡>

	<祭神>
		月読神	(月読尊を主祭神とし、高皇産霊尊を相殿に祀る。)
	<境内社>
	聖徳太子社	月読尊を崇敬した聖徳太子を祀る 
	御船社		天鳥船神を祀る。神幸祭の前には、この社において渡御安全祈願祭が行われる。 
	月延石(安産石)元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ、舒明天皇の時代
			に月読尊の神託によって当社に奉納された。安産の霊験があるといわれている
	<由緒>
	約1500年前に鎮座したという古社で、山城国葛野郡の式内社。創建の由緒が『日本書紀』に記されている。
	「顕宗天皇3年( 487)阿閉臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、
	預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、
	是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に
	侍ふ。
	日本書紀によれば、阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上し、顕宗天皇3年
	(487年)、「山城国葛野郡歌荒樔田」に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請し、壱岐県主・押見宿禰に祀らせたのに始まる。
	歌荒樔田の比定地は、上野村、桂里、有栖川流域説など諸説ある。斉衡3年(856年)、水害の危険を避けるために、現在地の松尾山
	麓に遷座された。押見宿禰の子孫は卜部氏を称し、代々神職をつとめた。

	<所在地>	京都府京都市西京区松室山添町15 
	<拝観>	境内参拝自由 5:00〜18:00
	<社格等>	式内社(名神大) 
	<創建>	顕宗天皇3年(487年) 
	<本殿の様式>	流造 
	<アクセス>	市バス 28番・京都バス73番で松尾大社前下車すぐ。阪急電鉄嵐山線松尾下車すぐ。




	月読神社は、松尾大社から南へ4m500mのところにある。もとは大堰川(桂川)の川べりにあったが水害に遭い、水害を避ける
	ため斉衡(さいこう)3年( 856)に現在地(西京区松室山添町)へ移ったという。創建は、阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が
	朝鮮半島へ派遣される途中の壱岐島に寄ったとき、月読神があらわれて自分を祀れといったので、都に帰ってこれを天皇に奏上し、
	顕宗(けんぞう)3年( 487)に、山城国葛野郡(かどのぐん)に松尾社を建てたという。当初の社家は秦氏で、秦氏は松尾社の禰
	宜(ねぎ)をかねていた。祭神である月読神は、もとは航海の大族である壱岐氏が壱岐島(長崎県)で祀っていた航海の神である。
	壱岐島から京都へ分祀されるにあたっては秦氏が関わった可能性が強いといわれている。壱岐氏は航海の大族で、秦氏の新羅からの
	渡来活動に協力した親縁ともいう。秦氏が、渡来人たちの渡日ルートである韓半島 → 対馬 → 壱岐 → 九州の航海安全を祈
	るため、月読神の勧請に応えたとされる。壱岐郡の、式内の名神大社である「月讀神社」には、祭神は中月夜見尊、左月弓尊、右月
	讀尊とあり、 対馬の古族が日神、壱岐は月神を祀った。

	大宝元年(701年)には例祭が勅祭と定められ(『続日本紀』)、延喜6年には最高位となる正一位の神階を受けている(扶桑略記)。
	延喜式神名帳では「葛野坐月読神社」と記載され、名神大社に列している。延喜6年( 906)正一位勲一等、名神大社に叙せられ、
	天慶4年(942年)には神宮号の宣下を受けた。以後、朝廷の奉幣が行われ慶福の神として尊崇されていたが、江戸時代には衰退し、
	歴史も古く、高い格式を持つ独立の神社であったが、松尾大社の勢力圏内にあることから古くからその影響下にあり、「松尾七社」
	の一社とされた。明治10年(1877年)3月21日に松尾大社の境外摂社と定められた。
	境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に御船社、聖徳太子社などから構成されている。本殿北には、神功皇后が腹を撫で
	て安産を祈願したと伝わる「月延石(通称安産石)」がある。現在でも、この石の前で手を合わせ、安産を祈願する女性を見かける。




	<ツクヨミ>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ツクヨミ(月讀、ツクヨミノミコト)は、日本神話の神。記紀においては、イザナギによって生み出されたとされる。普通には月を
	神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。名前の読み方はツキヨミとも。
	日本書紀に保食神を斬り殺す話が存在する為、一般には男神と考えられているものの、記紀の中では性別を決定づけるような描写は
	ない。他国神話では月神が女神である場合も多く、更に好戦的な性格の女神も他国の神話では多く登場する為、保食神殺害の話が男
	性神だと断定する要素にはなり得ないとして、女神説を唱える学者も存在する。

	ツクヨミは、月の神とされているが、その神格については、文献によって様々な相違がある。『古事記』では伊邪那伎命が黄泉国か
	ら逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた建速須佐之男命と共
	に重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、『日本書紀』では『古事記』とは逆に左目から生まれたという話、右手に持った白銅鏡
	から成り出でたとする話もあり、支配領域も天や海など一定しない。
	ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になって誕生するが、比較神話学の分野では、様々な神話に同様の発想があることが指摘
	されている。例えば、中国の盤古伝説(『五運歴年記』)には、盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になったという起源譚が
	あり、ギリシア神話においても太陽神アポロンと月の女神アルテミスが双子とされる。(ただしアポロンはもともとは太陽神ヘリオ
	スとは別の神で、両者が同一視されるに至ったのは後代の事である。)また、旧約聖書の創世記では、天地創造の四日目に、神が空
	の中に「二つの巨いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げて、それぞれに昼と夜を司らせ、光と闇を分けたという日月の創造が語
	られている。アマテラスとツクヨミの誕生もまた、太陽と月が対として誕生したという、世界中に共通する日月起源譚のパターンに
	沿ったものと考えられる。

	日本神話において、ツクヨミはアマテラス・スサノオと並ぶ重要な神とされているにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』の神話
	にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源が語られているぐらいであ
	る。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に何もしない神を置くことでバランスをとっているとする説も
	ある。同様の構造は、タカミムスビとカミムスビに対する天之御中主神、ホオリ(山幸彦)とホデリ(海幸彦)に対するホスセリな
	どにも見られる。これを日本神話の中空構造と言う。スサノオとは支配領域やエピソードが一部重なることから、同一神説を唱える
	者もいる。




	<ツクヨミ>(続き)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	古事記上巻では、伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、アマテラスやスサノオとともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月読命
	は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切無い。伊邪那美神のいる夜見の国という説もある。
	日本書紀神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と
	簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日?尊を生み、右の
	手に白銅鏡を取り持って月弓尊を生んだとされる。
	支配領域については、天照大神と並んで天を治めよと指示された話が幾つかある一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じ
	られたという話もあり(これは月が潮汐を支配しているという発想からきたものらしい)、複数の三神生誕の話が並列している。

	書紀第五段第十一の一書では、天照大神と月夜見尊がともに天を治めるよう命じられたが、のちに天上で天照から保食神(ウケモチ)
	と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は
	「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で撃ち殺してしまったという神話がある。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これ
	が穀物の起源となった。天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住
	むようになったという。これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。
	しかし、古事記では同じようにして食物の神(オオゲツヒメ)を殺すのはスサノオの役目である。この相違は、元々いずれかの神の
	神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。

	ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代にもまた現れる。書紀巻十五の顕宗紀には、高皇産霊をわが祖
	と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、
	壱岐県主の祖・押見宿彌(オシミノスクネ)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月読神社の由来であり、宣託された壱岐
	にも月読神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われている。

	『出雲国風土記』の嶋根郡の条には、伊佐奈枳命の御子とされる「都久豆美命」が登場する。
	「千酌の驛家 郡家の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命の御子、都久豆美命、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂
	ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。」
	「ツクツミ」は、海神ワダツミや山神ヤマツミなどと同じように、月の神霊を意味するものと考えられている。

	『山城国風土記』(逸文)の「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中国に下り、保食神のもとに至ったとき、
	湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。これは月と桂を結びつける古代中
	国の伝説から月読命が桂のもとに立ったとされたのであろう。万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。日本神話において桂と関
	わる神は複数おり、例えば『古事記』からは、天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至っ
	た山幸彦が挙げられる如く、桂は神が降り立つものとされていた。

	『万葉集』の歌の中では、「ツクヨミ」或いは「ツクヨミヲトコ(月読壮士)」という表現で現れてくるが、これは単なる月の比喩
	(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格をみせる。また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者
	として現れ、「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘さ
	れている。なお、万葉集中の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現も見られる。

	『続日本紀』には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜したところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たの
	で、荒御魂として馬を献上したとある。

	『皇太神宮儀式帳』では、「月讀宮一院」の祭神に、「月讀命。御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ。」 
	と記しており、記紀神話では性別に関する記述の一切無い月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。

	逆に月を女と見た例としては、『日本三代実録』における、貞観7年(865年)10月9日の記事や、貞観13年(871年)10月10日に出雲
	国の「女月神」(「めつきのかみ」、あるいは「ひめつきのかみ」)が位階を授けられている記事が挙げられる。これは月の女神を
	祭った神社らしい。この神は記紀万葉には登場しないが、出雲国風土記の意宇郡の条には「賣豆貴社」とあり、同一の神社と考えら
	れる。しかし、『三代実録』には「女月神」とは別に、貞観元年(859年)9月8日に「山城国月読神」の記事があるので、ツクヨミ命
	とは別系統の月神であると考えられる。



舞殿と拝殿・本殿


	<ツクヨミ>(続き)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。
	まず、最も有力な説として、ツクヨミ=「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数
	える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの
	原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられる。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち日読み=カヨミであるのに
	対して、ツクヨミもまた月を読むことにつながる。「読む」は、万葉集にも「月日を読みて」「月読めば」など時間(日月)を数え
	る意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が
	太陽暦に先行して発生したのである。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深い。つま
	り、ツクヨミは日月を数えることから、時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている。

	一方、『日本書紀』に見える「月弓」は、三日月と弓が結び付けられたものであろう。万葉集の歌には、上弦や下弦の弦月を指して
	「白真弓」と表現した歌があり(巻十・二〇五一)、「月弓尊」の表記は、このような発想から呼ばれた異名と考えられる。
	その他にも、海神のワタツミ、山神のヤマツミと同じく、「月夜のミ」(ミは神霊のミ)、あるいは「月夜のミ」から「夜の月の神」
	とする説がある。
	このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして記紀万葉のみなら
	ず延喜式などやや後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」
	表記が並行して用いられていることから、ツクヨミの神格は一義的に決定できるようなものではないことは明らかである。ツクヨミ
	の管掌についても、『古事記』や『日本書紀』の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することで
	ほぼ「天上」に統一されているのに対し、月神の支配領域は、『日本書紀』に「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜
	の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている話もある。支配領域の不安定ぶりも、ツクヨミの神格は複数の観念が統
	合された、不安定かつ多様なものであることを意味している。




	松尾山南麓に静かに佇む。人影もなく静かな境内と拝殿である。ここの祭神「月読命」とは、いったい何と読むのだろうか。「つき
	よみのみこと」とか「つくよみ」とか記されるが、古事記では、「月読命」と書かれ、日本書紀には、月弓尊(つくゆみのみこと)、
	月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと) などと書かれている。さすればどうやら「ツキヨミ」でいいようである。
	ではこの「月読命」とはいったい何者なのだろうか。

	日本書紀に依れば、国生み、神生み神話の後半部分、伊奘諾尊(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)のまぐわいによっ
	て、自然物やそれを司る神々が次々に生まれ、最後に三貴子が出現した。すなわち、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命
	(つきよみのみこと)、そして素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。

	日本書紀本文では、伊奘諾尊と伊奘冉尊のうけひにより、海、川、山が出現し、木祖(句句廼馳)、草祖(草野姫,野槌)、と出現したあ
	と、日神(大日?貴、天照大神、天照大日?尊)、月神(月弓尊、月夜見尊、月読尊)が生まれ、その後「蛭児」が現れたのでこれを海
	に流し、その後に素戔鳴尊(神素戔鳴尊、速素戔鳴尊)が登場する。

	日本書紀一書の1には、伊奘諾尊によって三貴子が出現したとなっており、大日?尊、月弓尊、素戔鳴尊が出現した。

	また、日本書紀一書の6では、伊奘諾尊と伊奘冉尊のうけひによって次々と神々が出現した。八十枉津日神、神直日神、大直日神、
	底津少童命、底筒男命、中津少童命、中筒男命、表津少童命、表筒男命、天照大神、月読尊、素戔鳴尊である。

	そして伊奘諾尊は三貴神たちに以下のように命令する。

	古事記では、天照大神は高天の原を、月読命は夜の食国を、建速須佐之男命は海原を治めよ。
	日本書紀本文では、天照大神は高天の原を、月読命は青海原の潮の八百重を、素戔鳴尊は天下を治めよ。
	日本書紀、第十一の一書には、天照大神は高天の原を、月夜見尊は日の神とならんで天を、素戔鳴尊は青海原を治めよ。

	と。

	月読神に関する神話は少なく、日本書紀にただ一つあるだけである。

	伊耶那岐尊の命で天界を治める事になった天照大御神と月読尊であるが、ある時天照大御神が月読尊に命じた。「葦原中国(あしは
	らのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)という者が住んでいる。月読尊、行って調べてこい。」
	月読尊は、天照大御神の命に従い保食神に会うため下界に降りた。月読尊の訪問を受けた保食神は、尊を歓迎し、保食神が首をまわ
	して、陸に向けた。すると口から米の飯が出てきた。また海に向かって首をまわすと、口から大小の魚が出てきた。また山に向かう
	と獣が出てきた。食材を用意し終わった保食神は、それを机にのせて月読尊をもてなそうとした。それを見た月読尊は、怒りにふる
	えて言った。「口から吐き出したものを、この私に食わそうというのか。なんと汚らわしいやつだ。」そして、腰の刀を抜き保食神
	を斬り捨てて天界に戻り、天照大御神に事の次第を報告した。
	天照大御神はそれを聞き、「お前はなんという事をしてくれたのだ。彼は下界の民の食べ物を生む尊い神であるぞ。お前の顔など二
	度と見たくない。」月読尊を下がらせると天照大御神は、二度と月読尊と会おうとはしなかった。これによって天照大御神と月読尊
	は、昼と夜に別れて暮らすようになった。昼夜起源の話として伝わるが、しかし、この話は古事記では須佐之男神の話になっている。

	この後、天照大御神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして、保食神の様子を見に行かせた。保食神は本当に死んでいたが、その頭
	からは牛馬が、額の上には粟が、眉には蚕、目には稗、腹の中には稲が、さらに陰部に麦と大豆と小豆が生まれていた。天熊人は、
	それをすべて持ち帰って天照大御神に献上した。それを見た天照大御神は、大変喜んだ。そこで粟、稗、麦、豆を畑の種として、稲
	を水田の種とした。さらに天の邑君(あまのむらきみ)を定めた。その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田に植えた。その年の垂
	穂は、八握りもあるほどしなって、たいそう気持ちよかった。また天照大御神は口の中に、蚕の繭を含んで糸を抽ことが出来た。こ
	れから初めて養蚕が出来るようになった。また、日本書紀の顕宗紀(3年2月)には月読神が高御産巣日神に土地を献じるよう託宣し
	たという記事がみえる。




	月読神を祀る神社については、その性格上基本的に3系統にわかれるようである。ひとつは天照大神の兄弟神として祀られる立場で、
	伊勢神宮内宮の月読神社がその代表であろう。ここは内宮の十所別宮のひとつで、伊勢神宮を創建した倭姫が建てた神社のひとつと
	されている。同じ神域には月読荒魂神社もある。また、外宮の四所別宮の一つ、月夜見宮も、月夜見尊・月夜見荒魂尊を祀っている。
	これは延喜式神名帳に「度会郡月読宮二座・月夜見神社」とある。延喜式神名帳には、ほかに、山城・丹波・壱岐などにも月読神を
	祀る神社が見受けられる。

	山城国葛野郡 葛野坐 月読神社
	山城国綴喜郡 樺井  月神社・月読神社
	丹波国桑田郡 小川  月神社
	壹岐国壹岐郡     月読神社
	出羽国飽海郡     月山神社

	もうひとつの月読神社の系統は、一般に月の神を祀るところから出発し、後に、祭神が月の神様なら月読神であろうということにな
	ったと思われる神社である。同様の現象は天神、白山などにも見られる。この系統の代表は、上記にもあげた、山形県・出羽三山の
	月山神社である。出羽三山では、出羽神社で宇迦之御魂神、月山神社で月読神、湯殿山で大山祇神を祀っている。月山神社の社伝に
	よれば崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(大伴小手子の子)が、崇峻天皇暗殺後、飛鳥の地を出てやがてこの出羽三山に流れ着き、羽黒山
	で出羽大神の御顕現を感得。そこでこの三つの山にそれぞれ神社を創建したという。全国の月山神社の多くはこの山形の月山から勧
	請されたものではないかと思われる。

	そして最後の例は、月読神を文字通り「月を読む神」すなわち月の神として祀るものであり、壱岐の「月読神社」は、海洋民として
	の、月と潮汐の関係から来たものと思われる。この神社も壱岐の「月読神社」を勧請してきたのでこの範疇に属する。古来月を読む
	こと、すなわち月の満ち欠けが生活に及ぼす影響は大きいとされ、当社は暦数、天文、占い、航海の神として信仰を集めてきた。
	「月を読む」とはなんとも神秘的な表現だが、直截的には月の運行から暦を読みとることを表していると思われる。また月の満ち欠
	けは、死と再生の象徴であるという。満月の日には子供が生まれやすいと言う伝承もあるが、実際に月に関連して生命の営みが観察
	される生物もあることを考えると、潮の満ち干をコントロールする程の強い力が、天空の高みから地上の森羅万象を操っているとも
	考えられる。
	月読命は、古事記では「夜の食国」を、日本書紀では「青海原の潮の八百重」を治めることになっている。日本書紀の記事は、海原
	にわざわざ「青」が付き、「潮の八百重」と記しているから、まず「海」のことと考えて問題はない。古事記の「夜の食国」は元々、
	「夜食之国」と書かれていたものを、このままでは、どこか判ってしまうので、判らないように、「夜之食国」と書きなおしたとい
	う説もある。この説では「夜食之国」(やすのくに)と呼べなくもない。倉野憲司氏は、「夜の食国」の食は、治めるという意味で
	あると注釈している。築後国(久留米市)の高良大社の祭神について、「月神の垂迹」とあり、住吉神とともに神功皇后の船を先導
	したと云う。月読神が海の支配神であると考えれば、神功皇后の守護に当たる神としてはふさわしいかもしれない。

	さて、「月読命」を巡っては、月神は女神か男神か、という問題もある。これについては記紀からは何も読み取れない。性別を示唆
	する記事は一切ないからである。月読尊が保食神を殺し、その死体から作物が生じる神話があるが、これで「刀」「斬り殺す」とい
	う表現から男だとする意見もあるし、作物を生じる、地母神の性格があるとして女だとする意見もある。後の「皇太神宮儀式帳」で
	は、月読神は馬上で太刀を佩いた男形で記述されていて、ここでは「男神」としてとらえられている。夜の神、暦を司る農事の神と
	いう性格を考えると男のような気もするし、Lunatic(狂人)、Lunacy	(精神異常)の語源がLuna(月)であることを考えると、女
	のような気もするが、今の世の中、その判断基準そのもが役にはたたないのも確かである。



	<万葉集におけるツクヨミを詠んだ歌>

	巻四・六七〇		月讀の 光に来ませ 足疾(あしひき)の 山寸(やまき)隔(へ)なりて 遠からなくに 
	巻四・六七一		月讀の光は清く 照らせれど 惑へるこころ 思ひあへなくに 
	巻六・九八五		天に座す 月讀壮士 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ 
	巻七・一〇七五		海原の 道遠みかも 月讀の 明(ひかり)少なき 夜は更けにつつ 
	巻七・一三七二		み空ゆく 月讀壮士 夕去らず 目には見れども 因るよしもなし 
	巻十三・三二四五	天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て
			 	公(きみ)に奉りて をち得てしかも 
	巻十五・三五九九	月余美の 光を清み 神嶋の 磯海の浦ゆ 船出すわれは 
	巻十五・三六二二	月余美の 光を清み 夕凪に 水手(かこ)の声呼び 浦海漕ぐかも 






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