Music: Diana

伏見稲荷から豊国廟へ
ハイキングの会 2008/4/6(日)



	今回のハイキングは、伏見稲荷から八坂神社へ。最初案内を見たとき、「秀吉の墓」で昼食とかいてあったので、「これってまさか
	豊国廟じゃないよな。あそこまで昼までには着けんやろ、それともその途中に「秀吉の墓」なるものがあるんかいな。」と思ってし
	まった。ところが、やっぱり豊国廟まで行って昼食だったので、一時半を過ぎた頃、腹をすかせての昼食となった。



四条の高瀬川を覆う桜も、まさに満開。



南座を見ながら四条大橋を通って鴨川を渡り、京阪電車で「伏見稲荷駅」へ。


	京都の清水寺周辺、厳選飛び切り軽登山コース!

	運がよければ桜吹雪の中をニコニコ!
	プロ登山家がご案内致します。
	超安心、超ガードのハイクです。

	日時:   4月6日(日) 10:00AM 

	集合場所:京阪電車.伏見稲荷駅 ★一番下参照

	コース:  伏見稲荷駅(京阪電車)→稲荷神社→稲荷山→秀吉の墓→
	       清水寺→三年坂(産寧坂)→二年坂→八坂神社(円山公園)

	  10:10 スタート
	  12:40 昼食(秀吉の墓)昼食時間40分
	  14:10 清水寺正門 1次解散
	  15:00 八坂神社にて流れ解散

	  ※ JR稲荷駅から京阪伏見稲荷駅までは徒歩で数分です。
	  ※ 清水寺から八坂神社までは大混雑が予想されます。その為、
	    清水寺にて1次解散を予定しました。 
	  ※ 京阪電車時刻表:淀屋橋9:00発(特急)→丹波橋9:40着
             丹波橋9:42発(普通)→伏見稲荷9:49着

	申込先:申し込みはこちらからどうぞ!
	多数のご参加お待ちしてま〜す!

                     					佐伯 道
                         				ハイキング理事



伏見稲荷〜円山公園 map






	伏見稲荷大社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社。
	伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮である。
	稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮
	能売大神、田中大神、四大神を配祀する。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。
	毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集め、2008年の正月三が日の参拝者数は約269万人であった(警察庁発表による)。

	711年(和銅4年)2月壬午の日に、伊侶具秦公(はたのきみのいろく)が勅命を受けて伊奈利山三ヶ峯(稲荷山)に三柱の神を祀った
	ことに始まる。山城国風土記逸文には伊侶具秦公が稲荷神を祀ることになった経緯が書かれている。秦氏にゆかり深い神社である。 
	延喜式神名帳には「稲荷神社三座」と記載され、名神大社に列し、月次・新甞の幣帛を受けると書かれている。1871年(明治4年)に
	は近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに、正式社名を「稲荷神社」とし、「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後の1946
	年に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり、「伏見稲荷大社」と改称した。これは、神社本庁が伊勢神宮を本宗とするとしている
	が、伏見稲荷としてはそれを受け入れるわけにいかないという理由である。神社本庁とは「喧嘩別れ」したわけではなく、関係は良好
	である。社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田
	春満を祭神とする東丸神社がある(元は摂末社であったが、現在は独立した神社)。
	現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499年)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。稲荷山には信者
	から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居は名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。

	無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれている。各石碑には「白狐大神」や「白
	龍大神」などといった神名が記されている。参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」などを唱えている人もおり、日本
	で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が今でも保たれているのを見ることができる。



楼門。その奥の本殿は五間社流造。流造の典型例として知られる。



		出発前に準備体操			伏見稲荷の赤鳥居




「おもかる石」を担いだり、何かを願う07期生。07期! 私など73期なのに、なんとまぁ、月日の経つのが早いこと。



急坂を登る。 このあたりから、京都市の「京都一周トッレッキング・コース」に入る。











「しょうじょうばかま」かな?



竹林を通る。タケノコを掘っている人がいた。盗っ人なら証拠写真だけど、どうやら竹林の持ち主のようだ。



山藤も咲き誇っていた。



大石内蔵助が山科に住んでいた頃、ここに座って一服したという石で。今回の参加総勢35人のメンバー。





離合する新幹線。ここから見る光景は、どうやら山科から南下して、小野・醍醐のあたりのようだ。














	豊国廟 (ほうこくびょう)  東山区今熊野北日吉町

	豊臣秀吉の廟所である。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は齢63歳を以って伏見城にて薨じた。遺体は、遺命により、ここ
	阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成
	天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)
	豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされていた。明治30年(1897)、秀吉の三百
	年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。なお、社殿は、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿の
	地に、豊国神社として再建されている。
 




秀吉の墓









昔、この両天皇の御陵には行ったことがあるが、こんな所からも行けるんだ。しかし天智天皇陵は相当遠いと思うぞ。










	<清水寺>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮
	上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。
	清水寺は、金閣寺(鹿苑寺)、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、
	石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文
	学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部としてユ
	ネスコ世界遺産にも登録されている。

	広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本
	があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次のとおりであ
	る。
	宝亀9年(778年)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮(えんちん)上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどり
	ついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこ
	じ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていっ
	た。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。

	その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758‐811)は、修行中の延鎮に出会っ
	た。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観
	音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無
	事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年( 798年)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像
	の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年につい
	ては宝亀11年(780年)でなく延暦17年(798年)とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京
	遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもと
	にしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。
	延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とさ
	れ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。
	清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしき
	もの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌
	舞伎などにも清水寺が登場する。
	清水寺は、京都では珍しい法相宗(南都六宗の1つ)寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび
	放火にあっており、現在の本堂は寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されて
	いる。

>



満開の桜と清水の舞台


	本堂(国宝)-徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。「清水の舞台」で知られる建物である。屋根は寄棟造、
	檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すよう
	にして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。このような構造を「懸造」
	(かけづくり)、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという「観音経」の所説に基づくも
	のである。観音霊場として名高い長谷寺や石山寺の本堂が同様の「懸造」である点も注意される。



冬の清水寺。京都の冬は最高!










	八坂神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	八坂神社(やさかじんじゃ)は、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする全国各地にある神社の名称。日本全国に約2300社あるとされる。
	総本社は京都府京都市東山区祇園町にある八坂神社。かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれる。7月の祇園祭で知られ、ほかに特
	殊神事として白朮(をけら)祭がある。旧社格は官幣大社。明治元年の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々「祇園社」「祇園
	感神院」と呼ばれていたのが「八坂神社」と改められた。

	明治以降の祭神は、

	中間 -- 素戔嗚尊(スサノヲノミコト) 
	東間 -- 櫛稲田姫命(クシ(イ)ナダヒメノミコト) 
	西間 -- 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) 
	となっているが、明治時代の神仏判然令以前の御祭神は、

	中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ) 
	東の座 -- 沙竭羅竜王(サガラリュウオウ) 
	西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ(ウネメ)) 

	牛頭天王は仏教の守護神で、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女はその妻で、沙竭羅竜王は頗梨采女の父である。
	牛頭天王は祇園精舎を守護するとされていた。

	東山花灯路の頃の八坂神社社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新
	羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。他にも各種の記録がある。
	貞観18年(876年)に僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と
	称した 。延長4年(926年)、ある修行僧が祇園天神堂を建てた。承平4年(934年)に祇園感神院を建てた。
	創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実である。古くからある
	神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではな
	く寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。
	平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
	祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろか
	ら当社の祭礼として毎年行われるようになった。











円山公園の枝垂れ桜。この桜を見るのも久しぶりだ。






	第12回ハイキングは京都伏見稲荷〜円山公園までの5年前と同じコースでしたが歳月を経ると、また新鮮でした。 今回はもっとも
	多い35名参加! 天候も良し、のどかなハイキングでした。若い2人のお嬢さんも参加され 平均年齢がいっぺんに2.17才下が
	り 楽しいハイクとなりました!
	京都一周トレイルの 東山コース(全体写真図と非常時の標識番号11) はイマドキ標識の携帯電話あっての事だよね。準備運動も済ま
	せ、しばらく歩くと、竹林で作業中の『朝掘り』! 長いクワで堀りあげる竹の子を皆立ち止まって見とれました。雪柳、レンギョ
	ウ、椿、山桃、草花のコラボレーションを楽しみ 一汗かきながらテニスコート見晴台へ!
	山科を見下ろし、遠くには比叡山連邦がかすみ、華やぐピンク桜が自己主張のまっ最中。京都からの山越えの醒醐道の峠には、大石
	内蔵助の一服の石があり記念写真のポイント。
	下り坂は皆 ルンルン気分、自然と足早になり、東山トレイルは北へ北への縦走路。 
	この四辻を左に下山し『豊国廟』で昼食のところ、蹴上げの方に北進の人、西へ先に下山の人、まだ来ぬ人、四辻で待ってる人、各
	自に探しに行く人、さあ困った!!お腹はぺこぺこ13時だ!何人いないか? 誰かが一人で数えるべきだよな..トコロが、各自
	が1,2,3と叫びだすどうしても数字が合わないーーーー 皆さんは こんな時どう解決しますか ??? 

	無事に豊国廟での昼食タイム、処がロンドンかと間違う赤い派手なバス15台に迎えられました。最高の日曜日の花見シーズンにし
	ては人が少ないなぜだろう?5年前もこの場所で昼食をし、笛太鼓の輪踊りでドンチャン騒ぎだった事を思い出したが・・・案の定
	最近は入園料300円を徴収していたのだ! 
	″皆さん考えた″! その結果 入園料を払うより 結局ビールを選ぶ事となりました。 満員の清水寺、満開の清水寺、私は三年坂、
	二年坂を芸子さん通りと呼んでいる。 この近くに貸し衣装屋があるそうな。記念芸者さんが一人通っていた。
 
	八坂神社、丸山公園、なごり惜しいが『しだれ桜』で流れ解散する。橋本メモを紐解くと京都では以前よく登った京都の愛宕山〜水
	尾の里での柚子湯と鶏なべもあったな。 また今回も思い出多いハイキングとなりました。

	京都って何度来ても良いもんですね!!

	★朝掘り竹の子の取立て刺身を ワサビ醤油, 酢味噌, カラシ味噌で味わいたかったよ 
	★約 平均60才(60-20才×2人)÷35人=2.171428571才
	★ご存知ですか? 山菜の王者タラノメ 高山植物の女王コマクサ 幻の珍味イワタケ 湿原の女王ミズバショー (橋本旅メモより)

	橋本由也記

                         

井上ファミリー・ホームページ/INOUES/ outdoor