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八女津媛神社 女王「卑弥呼」を祀る ? 福岡県八女郡矢部村 2006.5.9




 

	
	八女市・黒木町(女優の黒木瞳の故郷)方面から、国道442号線を進むと、岩山に囲まれた日向神(ひゅうがみ)ダム
	が見えてくる。上写真左の、ピラミッド型の山の裾野左手にダムがある。上右は、そのダムから流れてくる矢部川である。
	このダムにそって10分程行くと矢部村の集落が見える。集落といっても、民家やいくつかの商店のほかには、国道の両
	側にJA、郵便局、役場、学校がある程度のひなびた寒村である。この集落の、洪水のため架け替えられた新しい橋の手
	前から左に折れ約1kmほど行くと、神ノ窟(かみのいわや)地区にたどり着く。「神ノ窟」とはまたエラいネーミング
	だが、その由来は以下をご覧いただけばわかる。しかし、ほんとに山の中である。ここに八女津媛神社を守る氏子たちが
	住んでいるのだ。


 

	
	八女津媛神社 下の鳥居

	国道442号線沿いに鳥居が見えたので、車を止めてここから歩き出したが、ここからだと歩いて20分ほど参道を上る
	そうだ。迂回すれば車で行けるとのことなので、また車に乗ったが、参道の石段の上に「浮立資料館」があった。
 

	
	「浮立」とは、起源は明らかではないが古くから五穀豊穣を祈願する舞踊としてこの地に伝えられる踊りである。現在は
	県無形民俗文化財に指定、氏子や地元保存会により5年に1度行われているが、矢部村の子どもたちは夏休みに「浮流」
	の練習をして11月の矢部祭りで浮流を披露しているそうだ。浮立奉納は平安末頃期(600〜700年前)頃から始ま
	ったとされる。昭和3年が戦前最後の浮立奉納で途中休止。昭和26年1月より復活する。
	施設内部は「森」をイメージし、浮立の様子をシアターで見ることができ、また、舞踊の衣裳や道具、参道の模型などが
	展示されていると案内にある。八女の起源「八女津媛」に関する歴史や伝説などの資料もあるらしいが、普段は閉まって
	いる。この日も鍵が掛かっていて、見たい人は教育委員会へ連絡してくれとあった。わざわざ大阪から来たというのに。
	時間があれば連絡を取ってでもじっくり見るのだが、隣の黒木町の「グリーンピア八女」で行われている洋画家・青沼茜
	雲先生の個展に行く時間が迫っていたのでなくなく見学は断念した。そういえば青沼先生も八女津媛の絵を描いてたなぁ。








 

	
	切り立った岩山の中に、ひっそりと神社が建っている。樹齢700年とも言われる「権現杉」やうっそうとした山の木々
	に囲まれた神社である。「常に山中にいる」という言葉がぴったりする。八女津媛のその身を隠すように、建てられたの
	ではないのかとも思えるほど、静謐のなかにある。



	八女津媛神社(やめつひめじんじゃ)
	
	文献上は、日本書紀の中に「八女」の地名がはじめて出現する。
	景行天皇十八年春三月、景行天皇(大足彦忍代別尊)が八女の県(あがた)に巡行したとき、「東の山々は幾重にも重な
	ってまことに美しい。あの山にたれか住んでいるか」と尋ねた。そのとき、水沼の県主(みぬまのあがたぬし)「猿大海
	(さるのおおあま)」が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことが記録されている。
	これから八女の地名が起ったと日本書紀は記す。この神社はその八女津媛を祀った神社である。神社の創建は養老三年三
	月(719)と言われ、日本書紀完成の一年前にあたる。



 

	
	日本書紀 卷第七
	
	大足彦忍代別天皇 景行天皇

	(略)

	十八年春三月 天皇將向京 以巡狩筑紫國 始到夷守 是時 於石瀬河邊 人衆聚集 於是 天皇遥望之 詔左右曰
	其集者何人也 若賊乎 乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩 乃弟夷守 還來而諮之曰 諸縣君泉媛 依獻大御食 而其族
	會之 
	○夏四月壬戌朔甲子 到熊縣 其處有熊津彦者 兄弟二人 天皇先使徴兄熊 則從使詣之 因徴弟熊 而不來 故遣
	兵誅之 
	○壬申 自海路泊於葦北小嶋而進食 時召山部阿弭古之祖小左 令進冷水 適是時 嶋中無水 不知所爲 則仰之祈
	于天~地祗 忽寒泉從崖傍涌出 乃酌以獻焉 故號其曰水嶋也 其泉猶今在水嶋崖也 
	○五月壬辰朔 從葦北發船到火國 於是 日沒也 夜冥不知著岸 遥視火光 天皇詔挾杪者曰 直指火處 因指火往
	之 即得著岸 天皇問其火光之處曰 何謂邑也 國人對曰 是八代縣豐村 亦尋其火 是誰人之火也 然不得主 知
	 非人火 故名其國曰火國也 
	○六月辛酉朔癸亥 自高來縣 渡玉杵名邑 時殺其處之土蜘蛛津頬焉 
	○丙子 到阿蘇國 其國也郊原曠遠 不見人居 天皇曰 是國有人乎 時有二~ 曰阿蘇都彦・阿蘇都媛 忽化人以
	遊詣之曰 吾二人在 何無人耶 故號其國曰阿蘇 
	○秋七月辛卯朔甲午 到筑紫後國御木 居於高田行宮 時有僵樹 長九百七十丈焉 百寮蹈其樹而往來 時人歌曰	
	阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和羅秀暮 瀰開能佐烏麼志 爰天皇問之曰 是何樹也 有一老夫曰 
	是樹者歴木也 嘗未僵之先 當朝日暉 則隱杵嶋山 當夕日暉 亦覆阿蘇山也 天皇曰 是樹者~木 故是國宜號
	御木國 	
	○丁酉 到八女縣 則越藤山 以南望粟岬 詔之曰 其山峯岫重疊 且美麗之甚 若~有其山乎 時水沼縣主猿大海
	奏言 有女~ 名曰八女津媛 常居山中 故八女國之名 由此而起也 
	○八月 到的邑而進食 是日 膳夫等遺盞 故時人號其忘盞處曰浮羽 今謂的者訛也 昔筑紫俗號盞日浮羽

	(略)



	
	神の窟(かみのいわや)

	いつこの奇岩が穿たれたのかは判然としないが、「神の窟(かみのいわや)地区」というこのあたりの集落名にもな
	っている所を見ると、相当むかしに刳りぬいたものと思われる。太古の昔、この窟の下で八女津媛が政をしたと地元
	では伝えている。神社の側にある権現杉は天然記念物に指定されている。



	
	福岡県八女郡矢部村大字北矢部字神ノ窟にあり、創建は養老三年 (七一九)三月といわれる。後の持統天皇四年に「上つ
	陽刀iやめ)、下つ陽刀iやめ)」の名が出てくるが、これはこの頃の八女地方が上・下に分かれていたことを示すもの
	であろう。その後、地名表記はすべて漢字二時をもって表記せよと言う詔が出され、八女地方は上妻、下妻の二郡になり、
	上妻は太田、三宅、葛野、桑原の四郷、下妻郡は新居、鹿待、村部の三郷であったことが平安時代の「倭名抄(わみょう
	しょう)」に見える。矢部村はこの三宅郷にあたるのではないかと推定されているようだ。
	大化の改新の公地公民の制によると、「五十戸を以って里となし、里毎に里長一人をおき、戸口を検校し農桑を課殖し、
	非違を禁察し、賦役催駐することを掌らしむ。而して四十里を大郡、三十里以下四里以上を中郡、三里を小郡となし、郡
	毎に郡司を置く」とある。その後、大宝令により郡制を改めて五等とした。すなわち「二十里以下十六里以上を大郡、十
	二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、四里以下を小郡とす」とある。元明天皇和銅六年(七一三)の詔に、
	郡郷の制度を、郡は郷を統べ、郷は里を統ぶるとあるが、のち里を郷に改めているが、しかし、この制度は次第に乱れて
	いったようだ。上つ陽唐フ郡は十二里以上の上郡、下つ陽唐ヘ四里以上の下郡であったかと考えられる。
	平安時代も末期になると、公地公民の制はくずれ、各地に荘園(貴族・社寺・豪族の私有地) が発生したが、上妻郡にも
	川崎荘、広川荘、水田荘があり、矢部は地理的にも川崎荘と密接な交渉を持っていることから、川崎荘の一部であったか
	と考えられる。 



	
	矢部村は、南北朝時代にも日本の歴史に登場する。当時、朝廷は、吉野山に皇居をおく南朝と京都の北朝とに分かれ、約
	60年に及ぶ南北朝の内乱が続いていた。後醍醐天皇は、南朝の勢力を挽回するため皇子を方々につかわし、征西将軍と
	して正平3年に懐良親王を九州に派遣した。矢部村の山容は大和における吉野山地のように戦略的要地となり、肥後菊池
	氏の庇護のもと、矢部村は南朝方の九州のひとつの重要な拠点となった。その後、懐良親王は征西将軍の職を後村上天皇
	の第6皇子良成親王に譲り、正平21年、後西征将軍良成親王が九州へ下ってきた。懐良親王自らは肥後八代城や矢部山
	中の五条氏の館に住み良成親王を援けたが、晩年病に倒れ当時の住まいであった矢部の地で亡くなったとする説がある。
	その後、幾度も敵の攻撃を受けたが、良成親王は、矢部を守り、ついに矢部が敵の手に墜ちることはなかったという。
	応永29年、五条頼経が矢部に「老松天満宮」を創建した。晩年の良成親王の消息を知る手段はないが、今でも、親王の
	墓前では毎年10月8日に村をあげての祭典が行わるという。この神社から東方に車で10分ほどの所にその墓があるが、
	この日は時間が無くパスした。


 

 

本殿の前に立つ「八女津媛」の像。

	
	邪馬台国=八女説は、その「八女」という語韻からか、そうとう古くから存在しているようだ。しかしその中心が矢部村
	であったとしたのは、私の知る限り中堂観恵氏(現地踏査 邪馬台国 昭和53年原書房発行)が最初ではないかと思う。
	氏は明治27年石川県の生まれで、ほぼ一生を軍人として過ごし海軍少将にまでなっているが、晩年は衆議院議員だった
	赤城宗徳氏の顧問となって郷土史編纂などにも従事している。
	2003年3月7日に物故した作家の黒岩重吾も「耶馬台国は八女津媛が君臨した矢部の山峡ではないか。」と唱えてい
	た。黒岩重吾は創作期の後半は古代史に造詣を深め、多くの古代史関係の作品がある。邪馬台国、卑弥呼をあつかったも
	のとしては「鬼道の女王卑弥呼」(1996年、文藝春秋) がある。邪馬台国が北九州の連合国となって、やがて大和地方へ
	と進出し、大和政権が成立したと言う、いわゆる「邪馬台国東遷説」の立場に立った小説だったように思うが、私の印象
	では、三十国を統治するにはここはあまりにも山峡すぎるような気がする。

	八女市・八女郡を大きな一つの地域と見た場合、その古代勢力の一番の痕跡は「岩戸山古墳」だろう。これが卑弥呼の墓
	という訳ではないが、この古墳に代表される八女古墳群や、この矢部村にも近い童男山古墳を見ると、古代ここに相当な
	勢力を有した渡来人達の末裔が根を張っていたのがわかる。童男山古墳の石室の構造は、紀州和歌山県の岩橋千塚古墳群
	にみられる、石板を横にして積んでいくやりかたと全く一緒だし、岩戸山古墳から出た「金箔の勾玉」は、紀州の大谷古
	墳から出たものと同じである。この二つの地域に渡ってきた渡来人達は同一の部族だと断言してもいいくらいだ。古墳時
	代、何らかの大きな勢力が八女地方にあったのは間違いないし、おそらくはそれが「筑紫の君」、「磐井」へとつながっ
	ていくのだろうと思われる。しかし卑弥呼の時代に、その素地がこの地方にあったのかどうかまではわからない。大きな
	弥生時代の遺跡もないし、何より、前述したように三十国を統治するにはあまりにも辺境で、「奴国」や「投馬国」との
	交信すら不自由するのではないか。筑紫の君の背景としての素地はあるが、それにしても、さかのぼって5世紀まで戻れ
	たとしても、4世紀には何もない。勿論3世紀の痕跡もない。「八女津媛=女王=卑弥呼」という書記の記事と、大型古
	墳群だけでは、今のところ、ここを邪馬台国の候補にするには決め手を欠くと言わざるを得ない。


	中堂 観恵(ちゅうどう かんえい)
	明27(1894). 4.27  石川県生。大 5(1916).11.22 海軍少尉候補生。常磐乗組(海兵卒)。大 6(1917).12. 1 海軍少尉。
	大 8(1919).12. 1 海軍中尉、大11(1922).12. 1 海軍大尉となる。昭 3(1928).12.10 海軍少佐、昭 9(1934).11.15 海軍
	中佐  昭14(1939).11.15 海軍大佐、 となり、南支那方面軍司附/大本営参謀/大本営陸軍参謀に勤務。昭19(1944).10.
	15 海軍少将。昭20(1945). 3. 1 軍令部出仕。ビルマ方面軍参謀/南方軍総参謀副長/大本営参謀をつとめる。後予備役
	となり、衆議院議員赤城宗徳氏の郷土史編纂などを手伝うなど史学者として活躍。昭60(1985).10.20歿。91才。 


	黒岩 重吾(くろいわ じゅうご)
	男性、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は日本の小説家。大阪市生まれ。旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)、
	同志社大学法学部卒。大学在学中に学徒出陣。このことが創作の原点になる。 帰国後証券会社に入社するが、株相場で
	大失敗し家財を売り払う。1953年ふぐの毒による小児麻痺を発病。以後三年間入院生活を送る。 退院後はドヤ街に移り住
	み、トランプ占い、証券会社勤務、業界紙記者、キャバレーの呼び込みなどさまざまな職業を経験。1959年 源氏鶏太の
	紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人として、小説を書く。
	1960年、『休日の断崖』を刊行。直木賞候補となる。翌年に釜ケ崎(あいりん地区)を舞台にした『背徳のメス』で直木賞
	受賞。以後、「西成モノ」を主に金銭欲・権力欲に捕らわれた、人間描写を巧みに抉った社会派推理・風俗小説作家とし
	て活躍。1963年、日本推理作家協会関西支部長就任。『休日の断崖』『裸の背徳者』『さらば星座』などの作品がある。
	その後、1970年代後半から、関西の歴史・考古学者との交流や発掘現場での取材を生かした歴史小説に転じる。『天の川
	の太陽』で吉川英治文学賞。古代史を舞台とした一連の歴史小説により菊池寛賞受賞。代表的な古代史小説は、『聖徳太
	子』『天翔ける白日』『白鳥の王子ヤマトタケル』など。弟子に難波利三がいる。
	2003年3月7日13時20分、肝不全で逝去。79歳。 	【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】







神社にはヤマツツジが満開である。


はたして神々の舞い降りし大地だったのか? 「矢部村」を流れる矢部川








	
	<八女津媛神社までのアクセス>

	JR博多〜鹿児島線の羽犬塚(はいぬづか)で降り、駅前の「羽犬塚」バス停から堀川バスに乗り、矢部村の「石川内」
	までおよそ1時間30分。1時間に1,2本しか便がないが、夜8時くらいまで便はある。(2006.5現在)
	マイカーだと、九州高速道路八女インターから、国道442号線を東へ、黒木町、日向神ダムを経て約一時間ほど。



	

	邪馬台国に八女説	2012年03月05日	asahi.com

	「邪馬台国は八女だ!」――。そんな刺激的なタイトルの講座が10日、八女市本町のおりなす八女である。元大分県立歴史博物館
	副館長の真野和夫さん(66)=大分県豊後高田市=が自著を元に、持論を展開する。
	 真野さんは九大大学院で考古学を学び、古墳時代が専門。2005年3月に退職後、邪馬台国について記した中国の歴史書「魏志
	倭人伝」を読み込むうちに、所在地を八女と確信。09年に「邪馬台国論争の終焉(しゅう・えん)」を自費出版した。
	 倭人伝によると、3世紀ごろ、女王卑弥呼が30余りの国を治めたという邪馬台国。所在地には諸説あり、九州北部と近畿が有力
	と言われる。九州では、旧山門郡(みやま市)が古くから候補地とされ、朝倉市も「卑弥呼の里」を掲げる。
	 真野さんは、倭人伝の記述から、邪馬台国は伊都国(糸島市)から南約90キロの位置にあると推察。3世紀の北部九州の状況や、
	倭人伝に書かれている周辺の国の様子などから「邪馬台国は八女だ」と結論づけた。
	 日本書紀で八女の地名の由来として「八女津媛という女神が山の中にいる」と記されていることも、邪馬台国の女王を指している、
	とする。真野さんは「発掘調査されている場所が少ないので、八女に邪馬台国のような大国があったと想像しにくいかもしれない。
	倭人伝を客観的に素直に読むと、八女にたどり着く」と言い切る。
	 講座は、八女市立図書館が年2〜3回開いている「郷土史講座」として開かれる。堤諭吉館長は「地元の遺跡や歴史を知り、八女
	に邪馬台国があったかもしれない可能性を考えてほしい」と話している。
	 午後1時から。先着50人。無料。申し込みは同図書館(0943・22・2504)へ。(八尋紀子)



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