9.文献は語る −日本神話・その2
1.根の堅洲国
イザナギが、三貴神に統治を命令した地域は、アマテラスに高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原を、という
ものだったが、スサノオは泣いて「母のいる根の堅洲国へ行きたい。」という。古事記ではこの3貴神はイザナギから生
まれているので、母がイザナミである訳はないのだが、こういう記述を見ると「3貴神の父母=イザナギ・イザナミ」と
いう理解があったようである。
イザナギは泣き叫ぶスサノオに怒って高天原から追放する。ここにいう「根の堅洲国」とは一体どこであろうか。母のイ
ザナミが葬られているのは出雲の国方面だし、後にスサノオは実際出雲へ行く。また神話の後段の大国主命の部分では、
「素戔嗚尊のいる根の堅洲国」という表現がある。とすれば、根の堅洲国=出雲なのだろうか。しかし出雲は古事記では
「葦原の中津国」という事になっている。日本書紀では根の堅洲国は「根の国」と記されており、「底つ根の国」とか、
単に「根の国」というように表現されているが11回も出現する。その中で、イザナギがスサノオを追放する時、「お前
はこの国に居るべきじゃない。葦原の中津国にもいてはいかん。底つ根の国へ行け。」と書かれている。ここでは、葦原
の中津国は根の国とは明らかに区別されている。
吉田東伍は「大日本地名辞典」のなかで、「根の国は、すなわち、嶺の国であって、後世、島根郡の遺称がある。また黄
泉の夜見は、島根の東に夜見島がある。」と述べている。ここで、吉田は「根の国」「黄泉の国」を上図における島根郡
夜見島のあたりと見ているのである。さしずめ「葦原の中津国」は上図の西部、すなわち出雲郡のあたりということにな
ろう。現在出雲大社は出雲郡にあるが、夜見島はすでに島でなく南北共に陸地化している。私もこれは妥当な見解だと思
うが、それが何を意味しているか。つまり、神話の時代における国の概念はこの程度だと言うことである。葦原の中津国
が島根県だったら、黄泉の国・根の国は福井県や石川県に相当する、というような地理的概念ではないのだ。現在の郡や
町の単位がかってのクニなのである。これは魏志倭人伝に記載される国の規模とよくにている。即ち「末廬国」「伊都国」
「奴国」などの規模は、日本神話に記されている国の規模とほぼ一緒である。
2.アマテラスとスサノオ
スサノオはまっすぐ根の国へは向かわなかった。高天原の姉アマテラスを訪ねるのである。地響きを立てながら現れたス
サノオに高天の原の神々は皆驚き慌てる。スサノオの急な訪問はアマテラスを疑心暗鬼にさせ、国を奪われることを恐れ
たアマテラスは完全武装でスサノオを待ち受けるが、スサノオは根の国に向かう挨拶に来たと言う。疑うアマテラスにス
サノオは、「うけい」をして互いに子を生み、神意を聞こうと提案する。そうして生まれた神々が、
スサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)の破片の息吹から生まれた神、
多紀理昆売命(タキリビメノミコト:興津嶋比売命(オキツシマヒメノミコト))
市寸嶋比売命(イチキシマヒメのミコト:狭依昆売命(サヨリビメノミコト))
多岐都比売命(タキツヒメノミコト)
この三人の女の神々は、現在福岡県の宗像郡にある宗像神社の祭神である。次に、アマテラスの八尺の勾玉(やさかのま
がだま)の破片を吐き出して生み出した神、
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
これが、天孫ニニギノミコトの父親である。この後4人の男神が生まれるが、アマテラスは生んだ神の数が多いスサノオ
に負けたことになってしまう。
天菩卑命(アメノホヒノミコト)
天津日子根命(アマツヒコネノミコト)
活津日子根命(イクツヒコネノミコト)
熊野久須比命(クマノクスビノミコト)
ここでの「うけい」(誓約)がSEXを暗示している事は先述した。ここで注目されるのは最初に生まれた3女神が宗像
神社の祭神という事実と、降臨する天孫ニニギノミコトの父親と後の4人も高天原で生まれ、そこは九州らしいという点
である。さらにこれらの神々が十拳剣と八尺の勾玉から生まれていることも注目に値する。
3.天照大神の岩戸隠れ
「うけい」での勝利に酔うスサノオはおごり高ぶり、アマテラスの畑を荒らし、溝を埋め、聖なる場所に糞をまき散らし
た。アマテラスはしばらくはスサノオのなするがままにしていた。「糞をするのは、酔って吐き散らしてしまったのだろ
う。田を荒らし、溝を埋めたのも何か理由があってだろう。」と。
しかしあまりの暴虐に耐えられなくなったアマテラスは、機を織っているときに、その織り機を折って、天の岩屋戸に隠
れてしまった。その時壊した織機具が近くの女神のほと(女陰)に当たって女神が死んだ。アマテラスが天の岩屋戸の扉
を閉めたため、辺り一面は真っ暗になり、高天の原も葦原中津国も闇におおわれた。そして闇に包まれた日が続いた。
八百万の神々は、天の安の河原に集まり、知恵の神である「思金神」(オモヒカネノカミ)を中心に作戦を練った。オモ
ヒカネは、長鳴鳥(ながなぎどり)を集めて鳴かせる、伊斯許理度賣命(イシトリドメノミコト)は八尺鏡(ヤタノカガ
ミ)を、玉祖命(タマノヤノミコト)は八尺の勾珠(ヤサカノマガダマ)を作る、布刀玉命(フトダマノミコト)は、天
香山(あまのかぐやま)へ行って、鹿の骨を使って占いをし、榊の木を取って、上の枝にヤサカノマガダマを、真ん中の
枝にはヤタノカガミを、下の枝には木綿と麻をつるしたものを用意しろ、と指示した。
そして、フトダマノカミが榊を持ち、アメノヤノミコトは祝詞を読んだ。天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)は岩屋
戸の脇に隠れ、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が胸を出し、一心不乱に踊りだす。それにみて八百万の神々は大い
に笑った。その笑い声を聞いてアマテラスは天の岩屋戸を少し開け、外の様子をのぞくと、岩屋戸のそばに隠れていたア
メノタヂカラヲは、アマテラスの手をつかみ、一気に岩屋戸からアマテラスを引き出した。アマテラスが天の岩屋戸から
出てくると、辺り一面に光が戻り、明るくなった。八百万の神々は、スサノオのヒゲを切り、手足の爪を抜き、贖罪の品
物を課し、高天の原から追放した。
高天の原を追放されたスサノオはさまよい、やがて空腹を覚えたが、途中で大気津比賣神(オオケツヒメノカミ)に出会
う。食べものを乞うたスサノオに、オオケツヒメは、スサノオから離れて食事の準備にかかった。それを影からスサノオ
が覗くと、オオケツヒメは、口、鼻、尻から食べものを出していた。怒りにかられたスサノオは、オオケツヒメのそばに
駆け寄り殺してしまう。地面に倒れこんだその死体からいろいろな食物の芽が出てきた。頭はカイコに、二つの目は稲に、
二つの耳は粟に、鼻は小豆(あずき)に、陰(ほと)は麦に、尻は大豆になった。オオケツヒメノカミの体から生まれた
五穀を神産巣日神(カミムスヒノカミ)が拾って種にした

熊本・トンカラリン遺跡前にて「吉崎真美」
(検証1:皆既日食)
ここに言うアマテラスの「天の岩戸隠れ」が何を表わしているのかについては、これまでこのHPでは色々と検証してき
たし、「科学する邪馬台国」では、その中の「日食説」を取り上げてやや詳しく見てきたので、詳細はここでは省略する
が、歴史作家で古代史研究家でもあり、自らPCの天文ソフトを使って古天文学を調べたりしている加藤真司氏の、「古
事記が明かす邪馬台国の謎」(1994年 学研歴史群像新書)の一節を紹介しておきたい。
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「文献上の資料以外で、古事記の神代の部分で、唯一年代を特定できる事件があります。それは天照大神の岩戸隠れ事件
がそうです。つまり、そもそも天の岩戸事件には、皆既日食現象が何らかの形で関与していると想像できるからです。ま
た、このことはすでに多くのひとが指摘しています。ですから、皆既日食の出現年代を調べれば、天の岩戸事件の年代が
わかるということになります。皆既日食については、純粋に天文学的見地からその出現年がわかります。」
「もしも西暦247年が天照大神のいた時代で、天の岩戸事件の起きた年だとするとおもしろいことなります。実はこの
247年の翌年の248年というのは、邪馬台国の女王卑弥呼が死んだとされる年なのです。」
「いずれにしろ、西暦248年に卑弥呼が死に、しかもその前年に日食が生じ、その日食が天の岩戸事件の原因だとした
ら、まさに卑弥呼こそが天照大御神だったということになります。また卑弥呼=天照大神ならば、卑弥呼のいた邪馬台国
こそが、「古事記」で言うところの神々の領域、つまり高天が原であると考えられるのです。
また天照大神とスサノオの関係は、「魏志倭人伝」に登場する卑弥弓呼の関係に酷似しているのです。ちなみに「魏志倭
人伝」では、卑弥呼のいる邪馬台国が、卑弥弓呼の治める熊国(狗奴国)と戦争状態にあったと記述しているからです。
天照大神とスサノオも、「古事記」のなかでは同じような状況で闘っています。その面からすると、天の岩戸事件は西暦
247年であった可能性が高いかもしれません。」
同じ西暦247年の日食でも、奈良県でこれを見ると、経度が異なるために日没が早くなり、太陽が十分に欠けないうち
に水平線に没してしまいます。しかも奈良県は盆地ですので稜線の位置が高く、実際にはもっと日の入りが早くなります。
このため太陽の欠けかたはもっと不十分になり、日食と言うことすら認識されなかった可能性もあります。これではお世
辞にも感動的なシ−ンというわけにはいきません。こんなことからも、私は天の岩戸事件は九州で起こったのではないか
と考えています。
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スサノオ=卑弥弓呼という点を除けば、私も上記の意見には賛成したい。そもそも「岩戸隠れ」などという発想は、頭の
中で考えついたのだとしたら、当時としては非常にユニークな考えの持ち主で、想像だけでここまで思いついたのだとし
たら大したものである。私はそうではなくて、この事件はやはり当時の人々が実際に世の中が真っ暗になる現象を見たの
だと思う。そしてそれは皆既日食しか考えられないし、九州地方でそれが見られたと言うことが「古天文学」の成果から
既に証明されている。だとしたら、邪馬台国=高天が原=北九州という等式と、卑弥呼=天照大神という等式は当然のよ
うに導き出されると思うのだが。
(検証2:祭器)
思金神がアマテラスを岩戸から出すために神々に指示した祭器は、長鳴鳥(ながなぎどり)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、
八尺の勾珠(ヤサカノマガダマ)、鹿の骨、榊の木、木綿と麻、である。
記紀神話に描かれている高天が原の世界が、我が国の弥生時代を色濃く反映している事は先に述べたが、岩戸物語に登場
する事物も、明らかに弥生時代の産物である。もちろん以後の古墳時代・奈良時代になっても存在しているものもあるが、
ここで見られる、鏡や珠を祭器に用い、鹿の骨でト占を行うのは明らかに弥生時代の特徴そのものである。そして弥生時
代に隆盛を極めているのは九州、それも主に北九州である。弥生時代の奈良県からは鏡など1面も出てこない。(これは
ちょっとオーバ−じゃな、2,3面は出ているか。)奈良から出土する鏡は殆どが古墳時代の物で、弥生時代には奈良で
は鏡は流行していなかったとみてよい。
それでは邪馬台国=近畿説を唱える学者達はどうしたか? 有名な「伝世鏡」なる考えを持ち出したのである。これは京
都大学の教授だった小林行雄が考え出した姑息ないい訳で、つまり、近畿圏で大量に出土する三角縁神獣鏡は、弥生時代
に卑弥呼が魏の皇帝から貰ったものだが、弥生時代には墓に埋めることはせず、代々その家で家宝として伝世されてきた
のだ、という。だから、弥生時代の奈良に鏡はないかも知れないが、それは古墳時代になってどっと出土するのであると
いうものだ。邪馬台国論争など知らない人が、普通に歴史を勉強してきてこの考えを聴いたら、おそらく大声で笑い出す
のではないかと思う。「わっ、はっ、はっ、はっ。」
小林からこのアイデアを聴いた連中がどうして笑い出さなかったのか不思議でたまらない。しかも考古学者でありんすよ。
そんな大事な物を古墳時代に一斉に古墳に埋め出すのも不思議な事だが、そもそも伝世などは、考古学の依って立つ基盤
を危うくするような考え方である。古代でもわずかに、中世以後はしばしばそういう事例があることはあるが、奈良時代
以前に伝世などは殆どない。発見された遺跡環境が、その地層や状況で或時代と定まった時、出土した遺物はその時代に
使用されていたものと考えるのが原則である。
奈良時代に出土した木簡を、いやこれは弥生時代に書かれた物だが、みんなこれを大事に代々保管してきたのだ。そして
奈良時代になって一斉に地中に埋めたのだよ、などとやりだしたら時代認定などはめちゃくちゃになってしまうし、ほん
とは弥生時代に人々は漢字を知っていたのだという事にもなる。平城京は高天が原にあったと言う説も飛び出しうる。
考古学者がこういう説を唱えて一体どうする! と思うのは私だけだろうか。これは、直木孝次郎、佐原真と続く系譜の、
「近畿圏では鉄は溶け安いので、弥生時代の鉄製品は殆ど溶けてしまって地中に残存しないのだ。」という考えに似てい
る。開いた口がふさがらない。平城京や平安京の鉄は今日までしっかりと残っていると言うのに。
いずれにしても、ここに記述されている状況は、弥生時代=高天が原時代を示唆しているし、記述されている内容も、弥
生時代の北九州を指している。
(検証3:農業神)
この逸話での最後尾、大気津比賣神がスサノオに食事を準備する場面だが、オオケツヒメの死体からわき出てきた蚕、稲、
粟、小豆、麦に、大豆などの描写があり、五穀の種を神産巣日神が保管する。当然と言えば当然なのだが、高天原の神々
は農業神の性格を強く持っている。高天が原には稲田があり、すでに稲作が行われていたことが判るし、天照大神も自分
の田を持っている。弥生時代の農業が、北九州をパイロット・ファームとして発展してきたことは、考古学以外の成果か
らも証明されているし、佐賀の菜畑遺跡、福岡の板付遺跡などは、すでの縄文の終りに稲作を始めている。当時の先進文
化が発展していた場所が、神話に強く残るのはさも自然であるように思える。

熊本・トンカラリン遺跡前にて「吉崎真美」
4.岩戸隠れ以後の天照大神
天の岩戸からでてきたアマテラスはその後どうなったのであろうか。古事記・日本書紀に見るアマテラスの扱いは、天の
岩戸事件の前と後では大きく変わっているように見える。スサノオとの争いでも、機を織っているときでも、天の岩戸に
籠る時でも、いわば高天が原に於ける最高主権者として、一人で決断し行動している。これは古事記でも日本書紀でも変
わりがない。古事記においては、天照大神の名は岩戸事件の前では計16回現れるが、その殆どは単独行動である。
「天照大御~、忌服屋(いみはたや)に坐して、~御衣(かむみそ)織らしめし時、」(古事記)
「是に天照大御~見畏(かしこ)みて、天の石屋(いわや)の戸を開きて、刺し許母理(こもり)坐しき。」(古事記)
「是の時に、天照大~、勅して曰く、其の物根(ものざね)を原(たづ)ぬれば、則ち八坂瓊之五百箇御統は、是、吾が
物也。故、彼の五はしらの男~は、悉く是れ吾が兒なり」」(日本書紀)
しかし、岩戸から出てきた後では、
(1).古事記では、アマテラスはしばしば高御産巣日神(タカミムスビノカミ:高木の神)と連名で他の神々に命令を
下したりしているし、高木の神とペアで行動し、二人で高天が原を主宰しているように見える。時には高木の神が単独で
行動し、最高権力者のようにも振る舞っている。岩戸事件の後、天照大神の名は13回現れ、7回が高木の神との連名、
2回が高木の神の単独行動である。
「爾くして高御産巣日の~・天照大御~の命(みことのり)以(も)ちて、天の安河の河原に八百萬の~を~集(かむつ
どい)に集(つど)えて、思金(おもいかね)の~に思わしめて、「此の葦原の中つ國は、我が御子の知らさん國と言
依(ことよ)さし賜える國也。(古事記)
「是を以ちて高御産巣日の~・天照大御~、また諸(もろもろ)の~等に、「葦原の中つ國に遣わせし天の菩比の~、久
しく復奏(かえりごともう)さず。」(古事記)
「是に高木の~、「此の矢は天若日子に賜える矢ぞ」と告げて、即ち諸(もろもろ)の~等に示して詔りて、或(も)し
天若日子、命(みことのり)を誤(あやまた)ず、惡しき~を射んと爲(す)る矢の至れらば、天若日子に中(あた)
らずあれ。」(古事記)
(2).日本書紀においては、この傾向は更に強く、天の岩戸籠りの前と後でははっきりと一線を画している。岩戸事件
の後は、高天が原における全ての命令は、高木の神(日本書紀では、高皇産霊の尊(たかみむすびのみこと)と書かれて
いる。)が単独で出している。これはあたかも、岩戸事件の前は、高天が原の実権は天照大神にあり、岩戸事件後はその
実権が高御産巣日神に移ったような書き方である。日本書紀本文においては、岩戸籠りの後では、天照大神の名はただの
1回しか現れず、それも「天の忍穂耳の尊(あめのおしほみみのみこと)は天照大神の子供である。」という部分だけで
ある。
このことは何を表わしているのだろうか。今、NHKでシリーズ化している番組「古寺巡礼」の原作者として有名な和辻
哲郎が、岩戸籠りまでの天照大神は「邪馬台国の卑弥呼」で、岩戸籠り後の天照大御神はその後を受けた「台与」である
という説を唱えたのは今からもう80年も前だが、この考えは今でも甚だ合理的であるように思える。
この説に依れば、天照大神は、卑弥呼と台与の二人の女性を反映しており、天の岩戸籠りは卑弥呼の死を表現したものと
言うことになる。卑弥呼の後を継いだ時「台与」は13歳と倭人伝に書いてあるが、13歳では30国を統治していくの
は難しいかも知れない。高木の神がその補佐に当ったと考えれば納得がいく。
さらに想像すれば、「台与」はもしかすると、卑弥呼と、「彼女を補佐した一人の男」との間に出来た子供かも知れない。
そうすると、13歳の「台与」に代わって「卑弥呼のLOVER」すなわち「台与」の父が、その摂政としての任にあたったの
も理解できる。つまり「台与」は、天照大神と高木の神との間に生まれた子なのかもしれないのだ。
そもそも、この「卑弥呼を補佐した一人の男」という人物も、「高木の神」も、その出自がよくわからない。倭人伝も記
紀も共にその記述は少ないし、登場場面の重要度の割には、その人物像は曖昧模糊としている。あれだけ系統譜を述べる
ことに腐心している記紀でさえ、高木の神の系統には全くと言っていいほど言及していない。どうも妙である。

邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編