7.文献は語る −中国正史・その4−



	(4).『晉書』 巻九十七四夷傳 東夷条倭人
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	唐  房玄齡等撰   
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	晋書は、西晋4代54年(265−316)、東晋11代104年(317−402)を記した正史である。帝紀30巻、志20巻、
	列伝70巻、載記30巻より成る。唐の貞観年間644年頃に編纂された。この時代は貞観の治と称されるように、文
	化的にも政治的にももっとも安定した時期であった。旧唐書、房玄齢伝によると、646年(唐の貞観年20年)時の太宗
	皇帝は、重臣の房玄齢(578〜648)と皇帝政務秘書のちょ遂良に晋書の定本をつくるよう命じ、そこで房玄齢を作業主任
	として8名の責任者が分担を決めて史料の採集登録にあたり、その下に多数のスタッフが調査.考証に従事した。それ
	までの史書編纂がどちらかといえば個人的な業であったのに対して、いわば国家事業的に編纂されるところとなった。
	一部に太宗皇帝自身が筆をとった個所があり、太宗勅撰の書とも云われる。
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	倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七
	萬。男子無大小悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟
	龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。
	婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲
	鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。
	死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知
	正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族
	滅其家。舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
	宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。 
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	倭人は帶方東南大海の中に在り、山島に依りて國を爲す。地に山林多く、良田无く、海物を食す。舊、百餘の小國相接
	して有り。魏の時に至り、好を通ずるに三十國有り。戸は七萬有り。男子は大小と无く、悉く黥面文身す。自ら太伯の
	後と謂う。又、上古使の中國に詣るや、皆自ら大夫と稱すと言う。昔、夏少康の子會稽に封ぜられしに斷髮文身し以っ
	て蛟龍の害を避く。今、倭人好く沒して魚を取り、亦た文身は以って水禽を厭わす。其の道里を計るに、當に會稽東冶
	の東たるべし。其の男子の衣は横幅にして、但だ結束して相連ね、略ぼ縫い綴ること无し。婦人の衣は單被の如く、其
	の中央を穿ち以って頭を貫く。皆、被髮し徒跣なり。其の地は温暖にして、俗は禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。土に牛
	馬无し。刀、楯、弓、箭、有り。鐵を以って鏃と爲す。屋宇有りて、父母兄弟臥息處を異にす。食飮に俎豆を用う。嫁
	を娶るに錢帛を持たず、衣を以って之を迎う。
	死には棺有りて椁无し。土を封じて冢と爲す。初め喪するや、哭泣し、肉を食さず。已に葬るや、家を舉げて水に入り
	て澡浴自潔し、以って不祥を除く。其の大事を舉するに、輙ち骨を灼き以って吉凶を占う。正歳四節を知らず、但だ秋
	に收むるの時を計りて以って年紀と爲す。人多く壽は百年、或は八九十。國に婦女多く、淫せず妬せず、爭訟无し。輕
	き罪を犯す者は其の妻孥を没し、重き者は其の家、族を滅す。舊、男子を以って主と爲す。漢の末、倭人亂れ攻伐して
	定まらず。乃ち女子を立てて王と爲す。名を彌呼と曰う。
	宣帝、公孫氏を平ぐるや、其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其の後、貢聘絶えず。文帝、相と作(な)るにおよ
	び、又、數至る。泰始の初め、使を遣し譯を重ねて入貢す。 
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	(5).『宋書』列傳 夷蠻(抜粋)
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	宋 何承天等初撰   梁 沈約 完成 
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	南朝宋の正史。100巻。南朝梁の沈約撰。本紀10巻・志30巻・列伝60巻から成る。その撰述はすでに宋代に始
	められ、何承天・山謙之・裴松之・蘇宝生・徐爰らが相次いで従事したが、487年(永明5)春,南朝斉の武帝の勅
	命を受けて沈約が撰し、徐爰らの『国史』(464)をもとに補筆・訂正して,翌年2月に完成奏上した。ただ、志は梁代
	にいたって完成したと考えられている。北宋時代までに散逸した部分がかなりあり,現行本は後人が『南史』などによ
	って補ったものと思われる。詔勅奏議をはじめ同時代史料が豊富に含まれている。文人貴族の手に成るもので駢文(べ
	んぶん)調の文章が多いのがその特徴とされる。なお97夷蛮伝中の倭国伝に,倭の五王(賛・珍・済・興・武)の南
	朝との通交記事がみえ,日本古代史研究の基本史料の一つとなっている。 
	倭の五王(わのごおう)とは、「記紀」の天皇系譜との対比から履中・反正・允恭・安康・雄略の各天皇が考えられて
	いる。武は、鉄剣・鉄刀銘文から雄略(大泊瀬幼武命;おおはつせわかたけのみこと)に比定される。遣使の目的には、
	東アジアの中心国であり、先進国である中国の文化を摂取する目的もあったかも知れないが、主な目的は、朝鮮をめぐ
	る権益にあったと考えられる。413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。
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	倭國 在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰 「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、
	讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國
	諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正。詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人。平西、征虜、冠軍、輔
	國將軍號、詔竝聽。 
	二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以爲安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、
	慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人、軍、郡。濟死、世子興遣使貢獻。 
	世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣邊業。宜授爵號、可安東將軍、
	倭國王。」 興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、
	倭國王。 
	順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬kwan[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征
	毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤
	先緒、驅率所統、歸崇天極、道kei[之繞旁右經]百濟、裝治船舫。
	而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不、臣亡考濟、實忿寇讎、壅
	塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷、
	至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。
	若以帝徳覆載、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府義同三司、其餘咸假授、以勸忠節。」
	詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。 
	倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む。高祖の永初二年、詔していわく、「倭讃万里貢を修む。遠誠宜
	しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし。」と。太祖の元嘉二年、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献
	ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安
	東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人
	を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
	二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。二十八年、使持節都督倭・新羅・任
	那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故のごとく、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済死す。
	世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔していわく、「倭王世子興、奕世戴(すなわ)ち忠、藩を外海に
	作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、
	安東将軍・倭国王とすべし。」と。興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七
	国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
	順帝の昇明二年、使を遣わして上表す。いわく、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずか)ら甲
	冑をツラヌき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
	渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に
	愆(あやま)ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、
	道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。
	毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不(しか)らず。臣が亡考済、
	実に寇讐の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄
	(にわか)に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居(むな)しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以
	て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、
	白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。
	もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧(くじ)き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀
	同三司を仮し、その余は咸(み)な仮授して以て忠節を勧む。」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・
	秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。
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	(6).『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷
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	斉 壇超・江えん 撰  梁 蕭子顕 撰   
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	本紀八巻・志十一巻・列伝四十巻の合計五十九巻よりなる。原本は六十巻であったが、唐代に一巻を失う。もともと
	斉の壇超(だんちょう)・江えんの撰したものを梁代に斉の高帝の孫、蕭子顕(しょうしけん:489-573)が補撰し
	てなる。「南齊」は479年に建国され、建庚(南京)に都した南朝のひとつで、北朝の北魏(後魏)と相対した。
	しかし502年に梁に滅ばされ、5代・23年、南朝で最も短命な王朝であった。倭国のことは、列伝・東夷の上に
	見えるだけである。
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	倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓
	〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。 
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	倭国は、帯方東南の大海の島の中にあり、漢末以来女王を立てる。土俗は巳(すで)に前史に見ゆ。建元元年(479)、
	進めて新たに使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六國諸軍事・【據南史補】・安東大將軍・倭王武
	に除し、号は鎮東大將軍と爲す。
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	(7).『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
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	 唐  姚 思廉 撰   南朝の梁の4代の事跡をしるした史書。
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	「梁書」は本紀6巻、列伝50巻、志はなく合計56巻からなる。姚察(ようさつ:?〜606)、姚思廉(ようしれ
	ん:?〜637)親子の撰で、「陳書」36巻とともに撰書した。初め姚察が「梁史」の編集に参画したが、隋の開皇
	(かいこう)9年(589)に、梁・陳両朝の歴史撰録を命じられたが、完了せずに死去。後を受けて、子の姚思廉が
	隋・唐に渡っての継続を命じられ、唐の貞観十年(636)に「梁書」と「陳書」を完成した。
	この書は周辺諸民族の紹介に詳しく、倭伝は「三国志」「後漢書」を参照しているが、倭人の出自を呉太伯に求めた
	り、倭国大乱を霊帝光和年間とするなど、幾つかの新しい記事を紹介している。
	【梁は、武帝が502年に建国し557年まで5代56年間、南朝の一つとして建庚(南京)に都した。この王朝も
	北朝の北魏と対峙したが、北魏が東魏・西魏に分裂して三国鼎立の状態になり、「陳」に移行した。】
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	倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。從帯方至倭、循海水行、歴韓國、
	乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國、又東南陸行五百里、至
	伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、
	至祁馬臺國、即倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往tei[革是]。民種禾稻紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、
	橘、椒、蘇。出黒雉、眞珠、青玉、有獸如牛、名山鼠。又有大蛇呑此獸、蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或
	有光、射之中、蛇則死矣。物産略與tan[扁人旁右澹]耳、朱崖同。地温暖、風俗不淫。男女皆露kwai[糸介]、富貴者
	以錦繍雜采爲帽、似中國胡公頭。食飲用hen[冠竹脚邊]豆。其死、有棺無槨、封土作冢。人性皆嗜酒、俗不知正歳、
	多壽考、多至八九十、或重百歳。共俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶兩三妻。婦人無婬妬。無盗竊、少諍訟、若犯
	法、軽者没其妻子、重則滅其宗族。 
	漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王。彌呼無夫壻、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟
	佐治國。自爲王少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衡。至魏景初三年、公孫淵誅
	後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼
	宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。
	興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大)
	將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。又西南萬里有海人、身黒眼白、
	裸而醜。其肉美、行者或射而食之。 
	文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎
	糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪
	者則鞭杖、犯死罪則置猛獸食之、有枉則猛獸避而不食、經宿則赦之。大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戰。
	風俗並與文身國同而言語異。
	扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云、扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中國之東、其土多扶桑木、
	故以為名、扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮為布以為衣、亦以為綿、作板屋、無城郭、有文
	字、以扶桑皮為紙、無兵甲、不攻戰、其國法、有南北獄、若犯輕者入南獄、重罪者入北獄、有赦則赦南獄、不赦北獄、
	在北獄者、男女相配、生男八歳為奴、生女九歳為婢、犯罪之身、至死不出、貴人有罪、國乃大會、坐罪人於坑、對之
	宴飲、分訣若死別焉、以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世、名國王為乙祁、貴人第一者為大
	對盧、第二者為小對盧、第三者為納咄沙、國王行有鼓角導從、其衣色隨年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚
	辛年白、壬癸年K、有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛、車有馬車、牛車、鹿車、國人養鹿、如中國畜牛、以乳為酪、
	有桑梨、經年不壞、多蒲桃、其地無鐵有銅、不貴金銀、市無租估、其婚姻、婿往女家門外作屋、晨夕灑掃、經年而女
	不ス、即驅之、相ス乃成婚、婚禮大抵與中國同、親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑妹、三日不食、
	設靈為神像、朝夕拜奠、不制、嗣王立、三年不視國事、其俗舊無佛法、宋大明二年、賓國嘗有比丘五人游行至其國、
	流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改
	慧深又云、扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔白、身體有毛、髮長委地、至二、三月、競入水則任娠、六七月産
	子、女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣、見人驚避、偏畏丈夫、食鹹
	草如禽獸、鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。
	天監六年、有晉安人渡海、為風所飄至一島、登岸、有人居止、女則如中國、而言語不可曉、男則人身而狗頭、其聲如
	吠、其食有小豆、其衣如布、築土為墻、其形圓、其戸如竇云。
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	倭は自ら太伯の後と云う。俗は皆文身。帶方を去ること萬二千餘里、おおよそ會稽の東に在り、相去ること絶遠たり。
	帶方より倭に至るには、海に循いて水行し、韓國を歴て、乍ち東し乍ち南し、七千餘里、始めて一海を度る。海闊く
	千餘里、名は瀚海、一支國に至る。また一海を度る千餘里、名は未盧國。また東南陸行五百里、伊都國に至る。また
	東南行百里、奴國に至る。また東行百里、不彌國に至る。また南水行二十日、投馬國に至る。また南水行十日、陸行
	一月日、邪馬臺國に至る。即ち倭王の居する所。其の官に伊支馬有り、次を彌馬獲支と曰い、次を奴往と曰う。民は
	禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。薑・桂・橘・椒・蘇、有り。K雉・真珠・青玉を出す。牛の如き獸有り、名は山鼠
	(さんそ)。また此の獸を呑む大蛇有り。蛇の皮堅く斫(き)るべからず。其の上に孔有り、乍ち開き乍ち閉じ、時
	に或いは光有りて、之の中を射らば、蛇則ち死す。物産はほぼ耳・朱崖と同じ。地は温暖にして、風俗淫ならず。男
	女は皆露す。富貴の者は錦雜采を以ちて帽と為す 中國の胡公頭に似る。食飲に豆用う。其の死には、棺有りて槨無
	く、土を封じて冢を作る。人性皆酒を嗜む。俗は正歳を知らず、多くは壽考にして、多く八・九十に至り、或いは百
	歳に至る。其の俗は女多く男少く、貴き者は四五妻に至り、賤なる者もなお兩三妻。婦人に婬妬無し。盜竊無く、諍
	訟少し。もし法を犯さば、輕き者は其の妻子を沒し、重きは則ち其の宗族を滅す。 
	靈帝の光和中、倭國亂れ、相攻伐して歴年、乃ち共に一女子卑彌呼を立て王と為す。彌呼に夫壻無く、鬼道を挾(き
	ょう)し、能く衆を惑わす。故に國人之を立てる。男弟有り佐けて國を治む。王と為りて、見る者少く有り、婢千人
	を以って自ら侍せしむ。ただ一男子して出入せしめ教令を傳えしむ。處する所の宮室、常に兵有りて守衡す。魏の景
	初三年に至り、公孫淵誅せし後に、卑彌呼始めて使を遣し朝貢す。魏は以って親魏王と為し、金印紫綬を假す。正始
	中、卑彌呼死し、更に男王を立てしも國中服さず、更に相誅殺し復た卑彌呼の宗女臺與を立てて王と為す。其後復た
	男王立ちて、並びに中國の爵命を受く。晉の安帝の時、倭王賛有り。賛死して弟の彌立つ。彌死して、子の濟立つ。
	濟死して、子の興立つ。興死して、弟の武立つ。齊の建元中、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國
	諸軍事、鎮東大將軍に除す。高祖即位し、武の號を征東大將軍に進む。其の南に侏儒國有り、人の長(たけ)三四尺。
	また南のK齒國、裸國は倭を去ること四千餘里、船行一年にして至るべし。また西南萬里に海人有り、身はKく眼は
	白く、裸にして醜し。其の肉は美く、行く者は或いは射て之を食う。 
	文身國、倭國の東北七千餘里在り。人體に獸の如き文有り。其の額の上に三文有り、文直なる者は貴、文小さき者は
	賤。土俗は樂を歡び、物豐かにして賤く、行客に糧を齎(あた)えず。屋宇有りて、城郭無し。其の王の居する所、
	金銀珍麗を以ちて飾る。屋を繞(めぐ)るに塹を為し、廣さは一丈、水銀を以ちて實(み)たし、雨則ち水銀の上を
	流る。 市に珍寶を用う。 輕き罪を犯す者は則ち鞭杖。死の罪を犯すは則ち猛獸之を食うに置く。枉(おう=冤罪)
	有り則ち猛獸避けて食わずは宿を經て則ち之を赦す。 大漢國、文身國の東五千餘里に在り。兵戈無く、攻戰せず。
	風俗並に文身國と同じにして言語異る。
	扶桑國。齊の永元元年、其の國の沙門慧深有り來りて荊州に至り、説に云う、「扶桑は大漢國の東二萬餘里在り、地
	は中國の東に在り。其の土に扶桑木多く、故に以って名と為す。扶桑の葉は桐に似る。 而して初めて生ずるに笋の
	如く、國人之を食う。實は梨の如くして赤し。其の皮を績ぎ布と為し以って衣と為し、また以って綿と為す。板屋を
	作り城郭無し。文字有り、扶桑の皮を以って紙と為す。兵甲無く、攻戰せず。其の國法に南北の獄有り。もし輕きを
	犯す者は南獄に入り、重き罪の者は北獄に入る。赦有りて則ち南獄は赦し、北獄は赦さず。北獄に在る者、男女相配
	し、男を生むは八歳に奴と為し、女を生むは九歳に婢と為す。罪を犯す身は、死に至りて出でず。貴人罪有り、國乃
	ち大いに會し、罪人を坑に坐し、之に對し宴飲し、分訣、死別の若(ごと)く、灰を以ちて之を繞(めぐ)らす。
	其の一に重きは則ち一身を屏退し、二に重きは則ち子孫に及び、三に重きは則ち七世に及ぶ。國の王を名づけて乙祁
	と為し、貴人第一の者を大對盧と為し、第二の者は小對盧と為し、第三の者は納咄沙と為す。國の王の行くに鼓角有
	り導き從う。其の衣の色は年に隨いて改易し、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の
	年はK。牛有り。角甚だ長く、角を以ちて物を載せ、二十斛に勝るに至る。車有り馬車・牛車・鹿車。國人鹿を養う。
	中國の牛を畜うが如く、乳を以ちて酪と為す。桑梨有り、年を經て壞(かい)せず。蒲桃多し。其の地に鐵無く銅有
	り、金銀を貴ばず。市に租估(そこ/租、估ともに税金。估は一説に物の対価とも)無し。其の婚姻、婿は女の家の門
	外に往き屋を作り、晨夕に灑掃(さいそう)す。年を經て女スばずは即ち之を驅い、相スばば乃ち婚を成す。婚禮は
	おおよそ中國と同じ。親を喪うは七日食わず、祖父母を喪うは五日食わず、兄弟伯叔姑妹は三日食わず。靈を設け神
	像と為し、朝夕に拜奠(はいてん/「奠」はまつること。時期を定めてまつることを「祭」といい、時期を定めずま
	つることを「奠」という)し、(さいてつ=喪服)を制(さだ)めず。。嗣王立ち、三年國事を視ず。其の俗に舊
	(もと)佛法無し。宋の大明二年、賓國に嘗て比丘五人有り、游(うか)び行きて其の國に至り、佛法・經像・教令・
	出家、流通し風俗遂に改まる。」と。 
	慧深また云う、「扶桑の東千餘里に女國有り。容貌は端正、色甚だ潔く白し。身體に毛有り。髮長く地に委(ゆだ)
	ぬ。 二・三月に至り、競いて水に入り則ち任娠し、六・七月に子を産む。女人は胸の前に乳無く、項の後に毛生え、
	根は白く、毛の中に汁有り、以って子に乳す。一百日に能く行き、三・四年に則ち成人す。人を見て驚き避け、偏
	(すこぶ)る丈夫(じょうふ=成人した男性)を畏(おそ)る。鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。
	鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」と。 
	天監六年、晉の安人有りて海を渡り風に飄う所と為し一島に至る。 岸を登り、人有り、居して止まる。女は則ち中
	國の如くして言語は曉(さと)るべからず。男は則ち人身にして狗頭、其の聲は吠えるが如し。 其の食に小豆有り。
	其の衣は布の如し。土を築き墻(しょう=かき。かこい)と為し、其の形は圓、其の戸は竇(とう=あな。あなぐら)
	の如しと云う。
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	(8).『隋書』巻八十一 東夷伝 倭国
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	 唐 魏徴(580−643)等撰
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	帝紀5巻、志30巻、列伝50巻、計85巻からなる。唐の貞観3年(629)に梁・陳・北斉・北周・隋の5朝史を
	魏徴(ぎちょう)が勅命により主宰して編み、「隋書」の帝紀・列伝は貞観10年(636)、顔師古(がんしこ)・
	孔よう達(くようだつ)によって完了した。しかし志は、魏徴の死後、長孫無忌(ちょうそんむき)の監修で、顕慶
	(けんけい)元年(656)に完成した。魏徴は、日本で言えば、推古朝と重なる時代に生きた。
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	倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、
	但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云
	去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里、在會稽之東、與tan[扁人旁右澹]耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝
	時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、霊之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是
	國人共立爲王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮
	室樓觀、城柵皆持兵守衛、爲法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通。 
	開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天爲兄、以
	日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。 
	王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大徳、次小徳、次大仁、
	次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中
	國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼、其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如ku[尸垂中(彳婁)]
	形、漆其上、繋之於脚。人庶多跣足、不得用金銀爲飾、故時衣横幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髪於兩耳上、
	至隋、其王始制冠、以錦綵爲之、以金銀鏤花爲飾。婦人束髪於後、亦衣裙襦、裳皆有sen[偏衣旁巽]、[扁手旁右纖]
	竹爲梳、編草爲薦、雜皮爲表、縁以文皮、有弓矢shau[扁矛旁肖]弩sen[扁矛旁贊]斧、漆皮爲甲、骨爲矢鏑。雖有兵、
	無征戦。其王朝會、必陳設儀杖、奏其國樂。戸可十萬。 
	其俗、殺人強盗及姦皆死、盗者計贓酬物、無財者没身爲奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、
	或張強弓、以弦鋸其頂。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。
	人頗恬静、罕爭訟、少盗賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、没水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於
	百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節與華同。好qui[冠其脚糸]博、握
	槊樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂ro[扁盧旁鳥]ji[扁右滋旁鳥]項、令入水捕魚、日
	得百餘頭。俗無盤爼、藉以kai[木解]葉、食用手餔之。性質直、有雅風、女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悦者即爲
	婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見、婦人不婬to[女戸]。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服、貴
	人三年殯於外、庶人卜日而ei[病垂中冠夾脚土]。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接
	天者、俗以爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如[奚隹]卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟、皆以倭爲大
	國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。 
	大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其
	國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 
	明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又
	至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於
	倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都、其
	王與清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不
	即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人
	來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢
	方物。此後遂絶。 
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	倭國は百濟・新羅の東南に在り、水陸三千里。大海の中に於いて山に依りて居す。魏の時、譯の中國に通ずるもの三
	十餘國。皆、自ら王を稱す。夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。其の國境は東西五月行、南北三月行、各々
	海に至る。其の地勢は東に高く西に下る。邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。古に云う、樂浪郡境及
	び帯方郡を去ること並びに一萬二千里。會稽の東に在りて、耳に相い近し、と。漢の光武の時、使を遣して入朝す。
	自ら大夫と稱す。安帝の時、又、使を遣して朝貢す。之を奴國と謂う。
	桓靈の間、其の國大いに亂れ、遞(たが)いに相攻伐して歴年主無し。女子有り、名を彌呼という。能く道を以って
	衆を惑わす。是に於いて國人共に立てて王と爲す。男弟有り、彌を佐(たす)け國を理(おさ)む。其の王に侍婢千
	人有り。其の面を見る者罕(まれ)に有り。唯だ男子二人有りて王に飲食を給し、言語を通傳す。其の王に宮室・樓
	觀・城柵有り。皆な兵を持して守衛す。法を爲すこと甚だ嚴なり。魏より齊・梁に至り代々中國に相通ず。
	開皇二十年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、使を遣して闕に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。
	使者言う「王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日
	出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改め	
	しむ。
	王の妻、號は彌。後宮に女六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利と爲す。城郭無し。内官に十二等有り。一に曰
	く大徳、次を小徳、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大
	信、次を小信。員に定數無し。一百二十人の軍尼有り。猶お中國の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里
	長の如き也。十伊尼翼は一軍尼に屬す。其の服飾、男子の衣は襦(くんじゅ)にして、其の袖は微小、履は形の如く、
	其の上に漆り、之を脚に繋く。人庶、多くは跣足。金銀を用いて飾と爲すを得ず。故時、衣は横幅にして、結束して
	相連ね縫うこと無し。頭には亦た冠無く、但だ髪を兩耳の上に垂らす。隋に至り、其の王、始めて冠を制す。錦綵
	(きんさい)を以って之を爲し、金銀を以って花を鏤(ちりば)め飾りと爲す。婦人は髪を後ろに束ね、亦た衣は襦
	(くんじゅ)、裳。皆な(ちんせん)有り。竹を梳と爲す。草を編んで薦と爲す。雜皮を表と爲し、縁を文皮を以っ
	てす。弓・矢・刀・(さく)・弩・(さん)・斧有り。皮を漆りて甲と爲し、骨を矢鏑と爲す。兵有りと雖も征戦無
	し。其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國の樂を奏す。戸は十萬可り。 
	其の俗、殺人・強盗・姦は皆な死し、盗む者は贓(ぞう)を計り物を酬いしめ、財無き者は身を没し奴と爲す。自餘
	は輕重もて或は流し、或は杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は木を以って膝を壓し、或は強弓を張り、弦を
	以って其の項を鋸す。或は小石を沸湯の中に置き、競う所の者に之を探らしめ、云う、理、曲なる者は即ち手爛(た
	だ)ると。或は蛇を中(おうちゅう)に置き、之を取らしむ。云う、曲なる者は即ち手螫(ささ)ると。人、頗(す
	こぶ)る恬静(てんせい)にして、争訟罕(まれ)に、盗賊少し。樂に五弦の琴・笛有り。男女多く臂に黥し、面に
	點し、身に文す。水に没し魚を捕う。文字は無く、唯だ木を刻み繩を結ぶ。佛法を敬し、百濟に於いて佛經を求め得
	て、始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戲・飲酒す。其の餘の節は、ほぼ
	華と同じ。博・握槊・樗蒲の戲を好くす。氣候は温暖にして、草木は冬も青し。土地は膏腴にして水多く陸少し。小
	環を以っての項に挂け、水に入りて魚を捕えしめ、日に百餘頭を得。俗、盤爼無く、藉くに葉を以ってし、食するに
	手を用いて之を餔う。性質は直にして、雅風有り。女多く男少し。婚嫁に同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を爲
	す。婦、夫家に入るに必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人は婬妬せず。死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に
	就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して(うず)む。葬に及び屍
	を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小を以ってす。阿蘇山有り。其の石は故無くて火起り天に接する者、俗以って
	異と爲し、因って祭を行う。如意寶珠有り。其の色青く、大いなること卵の如し。夜に則ち光有り、云う、魚の眼精
	也、と。新羅・百濟は皆を以って大國にして珎物多しと爲す。並びに之を敬仰して、恒に使を通じて往來す。
	大業三年、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰く、「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣
	して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する
	處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た
	以って聞するなかれ」と。
	明年、上、文林郎裴清を遣し國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹に至り、南に羅國を望み、都斯麻國を經て、迥か
	に大海の中に在り。又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏に同じ。以って
	夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆なに附
	庸す。王、小徳阿輩臺を遣し、數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ。後十日、又、大禮哥多を
	遣し、二百余騎を従え郊を勞せしむ。既に彼の都に至る。其の王、清と相見(まみ)え、大いに悦びて曰く、「我、
	海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣して朝貢す。我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以って境内
	に稽留し、即ち相見(まみ)えず。今、故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわく)わ
	大國惟新の化を聞かん」と。清、答えて曰く、「皇帝の徳は二儀に並び、澤は四海に流る。王、化を慕うを以って、
	故に行人を遣して來りて此に宣諭す」と。既に清を引きて館に就(つ)かしむ。其の後、清、人を遣して其王に謂い
	て曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。是において宴享(えんきょう)を設け以って清を遣
	し、復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶えたり。
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	(9).『北史』 巻九十四 列傳・倭
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	 唐 李 延壽 撰 
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	本紀12巻、列伝88巻、計100巻からなる。唐の李延壽(りえんじゅ)が著した。北朝の魏(北魏)、斉(北斉)、
	周(北周)、隋の4国の240年間の歴史を記した歴史書。起こりは北魏の道武帝(どうぶてい)の登国元年(386)
	から、随の恭帝(きょうてい)の義寧(ぎねい)2年(618)に至る。「北史」は「南史」とともに李延壽の撰になる
	が、初めは父の李大師(りたいし)が手を染めたものである。しかし既に「沈約」(しんやく)の「宋書」、簫子顕
	(しょうしけん)の「南斉書」、魏収(ぎしゅう)の「魏書」などが刊行されていた。ところが、南・北朝に分裂し
	ていた世情は随・唐によって統一されるに及んで、総合的な史書の編纂が求められていた。それを受けて、李延壽が
	高宗の顕慶(けんけい)4年(659)に、「北史」「南史」ともに完成した。従って、両書とも各史書を抜粋する事に
	なり、倭伝などは、既書をそのまま転載していることが多い。	
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	倭國在百濟新羅東南、水陸三千里、於大海中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以
	日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云、去樂
	浪郡境及帯方郡、並一萬二千里、在會稽東、與tan[偏人旁右澹]耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。計從帯方至倭國、
	循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海、又南千餘里度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海
	千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、
	至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國。即[イ妥]王所都。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安	帝時又遣
	朝貢、謂之[イ妥]奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立爲王。
	無夫有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。爲法甚嚴。 
	魏景初五年、公孫文懿誅後、卑彌呼、始遺使朝貢、魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相
	誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命、江左歴晉宋齊梁、朝聘不絶、及陳平、至開皇二十年、
	[イ妥]王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗、使者言、「[イ妥]王以天爲兄、以
	日爲弟、天明時出聽政跏趺座、日出便停理務、云委我弟。」文帝曰「此大無義理」。於是訓令改之。 
	王妻姓[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、
	次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中
	國牧宰、八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼、其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如ku[尸垂中(偏左
	行旁婁)]形、漆其上、繋之脚。人庶多跣足、不得用金銀爲飾、故時衣横幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髪於兩
	耳上、至隋其始制王冠以錦綵爲之、以金銀鏤花爲飾。婦人束髪於後、亦衣裙襦、裳皆有sen[偏衣旁巽][扁手旁纖]、
	竹聚以爲梳、編艸爲薦、雜皮爲表、縁以文皮。有弓矢shau[偏矛旁肖]弩sen[偏矛旁贊]斧、漆皮爲甲、骨爲矢鏑、雖
	有兵無征戰、其王朝會必陳設儀杖其國樂。戸可十萬。 
	俗、殺人強盗及姦皆死。盗者計贓酬物、無財者沒身爲奴。自餘輕重、或流或杖、毎訊冤獄、不承引者、以木壓膝、或
	張強弓以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云「理曲者即手爛。」或置[虫也]瓮中、令取之。云「曲者即
	螫手。」人頗恬静、罕爭訟、少盗賊。樂有五弦琴笛。男女皆黥臂、點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛
	法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒。其餘節略與華同。好qui[冠其脚糸]
	博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少、以小環掛ro[偏盧旁鳥]ji[冠茲脚鳥]項、令入水捕
	魚、日得百餘頭。俗無盤爼、藉以kai[木解]葉、食用手餔之。性質直有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悦者即
	爲婚。婦入夫家必先跨火、乃與夫相見、婦人不淫妬。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布制服、貴人三年
	殯、庶人卜日而ei[病垂中冠夾脚土]。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以
	爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如[奚隹]卵、夜則有光、云魚眼晴也。新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、
	並仰之、恒通使往來。
	大業三年、其王多利思比孤、遣朝貢。使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」國書
	曰「日出處天子致書日沒處天子、無恙」云云。帝覧不悦、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 
	明年、上遣文林郎裴世清使倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又
	至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於
	[イ妥]。[イ妥王]遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百餘騎郊勞。既
	至彼都。其王與清、來貢方物。此後遂絶。
	倭国は百済・新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中に於いて山島に依りて居(すま)う。魏の時、訳の中国に通
	じるもの三十余国、皆王と称す。夷人は里数を知らず、但(ただ)計(はか)るに日を以てす。その国境は東西五月
	行、南北三月行にして、各々海に至る。その地勢は東に高く西に下がる。邪摩堆に居り、則ち魏志の謂う邪馬台とい
	う者なり。また云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること並(みな)一万二千里にして、会稽の東に在り、たん耳と相近
	しと。俗に皆文身し、自ら太伯(たいはく)の後(すえ)と云う。帯方から倭国に至るを計るに、海に循(そ)いて
	水行し、朝鮮国を歴(ふ)るに、南し乍(なが)ら東し乍ら、七千余里にして、始めて一海を度(わた)る。また南
	千余里にして一海を度るに、□【門の中に活】(ひろさ)千余里、瀚海(かんかい)と名づけ、一支国に至る。また
	一海を度ること千余里、末廬国と名づく。また東南へ陸行すること五百里にして伊都国に至る。また東南百里にして
	奴国に至る。また東行百里にして不弥国に至る。また南へ水行二十日にして投馬国へ至る。また南へ水行十日、陸行
	一月にして、邪馬台国に至り、即ち倭王の都する所なり。漢の光武の時、使いを遣わして入朝し、自ら大夫と称す。
	安帝の時、また遣わして朝貢し、之を倭の奴国という。霊帝の光和(178〜184)中、その国乱れ、逓(たが)いに相
	攻伐し、年を歴(ふ)るも主なし。女子あり卑弥呼と名づけ、能(よ)く鬼道を以て衆を惑わし、国人は共に立てて
	王となす。夫なく、二(ふたり)の男子あり、王に飲食を給し、言語を通伝す。その王には宮室・楼観・城柵あり、
	皆兵を持ちて守衛す。法を為(つく)り甚だ厳し。
	魏の景初三年(239)、公孫文懿(こうそんぶんい)の誅せられて後、卑弥呼、始めて使いを遣わして朝貢し、魏王は
	金印紫綬を仮す。正始(240〜249)中に、卑弥呼死し、更に男王を立つるも、国中は服(したが)わず、更々(こも
	ごも)相誅殺す。復(また)卑弥呼の宗女の台与を立てて王となす。その後復男王を立て、並(みな)中国の爵命を
	受く。江(こう)の左、晋・宋・斉・梁を歴(へ)て、朝聘絶えず。陳の平ぐに及んで、開皇二十年(600)に至り、
	倭王の姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比弧(たりしひこ)、阿輩鶏弥(おほきみ)と号し、使いを遣わして
	闕(けつ)に詣(いた)る。上(しょう)、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、
	日を以て弟となし、天未(いま)だ明けざる時出(い)でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐し、日出
	れば便(すなわち)ち理務(りむ)を停め、云う、我が弟に委(ゆだ)ぬ」と。文帝いわく、「これ大いに義理なし」
	と。是(ここ)に於いて訓(おし)えて改めしむ。
	王の妻は鶏弥(けみ)と号し、後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)となす。城
	郭なし。内官には十二等あり。一にいわく、大徳(たいとく)、次に小徳、次に大任(たいにん)、次に小任、次に
	大義(たいぎ)、次に小義、次に大智(たいち)、次に小智、次に大信(たいしん)、次に小信、員には定数なし。
	軍尼(ぐんに)は一百二十人あり、猶(なお)、中国の牧宰(ぼくさい)のごとし。八十戸に一伊尼冀(いにき)を
	置き、今の里長の如きものなり。十伊尼冀は一軍尼に属す。隋に至り、其の王、始めて冠を制す。錦綵(きんさい)
	を以って之を爲し、金銀を以って花を鏤(ちりば)め飾りと爲す。婦人は髪を後ろに束ね、亦た衣は襦(くんじゅ)、
	裳。皆な(ちんせん)有り。竹を梳と爲す。草を編んで薦と爲す。雜皮を表と爲し、縁を文皮を以ってす。弓・矢・
	刀・(さく)・弩・(さん)・斧有り。皮を漆りて甲と爲し、骨を矢鏑(してき)と爲す。兵有りと雖(いえど)も
	征戦無し。其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國樂を奏す。戸は十萬可(ばか)りなり。
	の俗、殺人・強盗・姦は皆な死し、盗む者は贓(ぞう)を計り物を酬(むく)いしめ、財無き者は身を没し奴と爲す。
	自餘は輕重にて或は流し、或は杖(むち)す。毎(つね)に冤獄を訊(たず)ね、承引(しょういん)せざる者は木
	を以って膝を壓(あっ)し、或は強弓を張り、弦(つる)を以って其の項(うなじ)を鋸(ひ)く。或は小石を沸湯
	の中に置き、競う所の者に之を探らしめ、云う、理(ことわり)の曲(まが)れる者は即ち手爛(ただ)ると。或は
	蛇を瓶に置き、之を取らしむ。云う、曲なる者は即ち手を螫(ささ)ると。人、頗(すこぶ)る恬静(てんせい)に
	して、争訟罕(まれ)に、盗賊少し。樂に五弦の琴・笛有り。男女多く臂(ただむき)に黥(げい)し、面に點し、
	身に文(あや)す。水に没し魚を捕う。文字は無く、唯だ木を刻み繩を結ぶ。佛法を敬し、百濟に於いて佛經を求め
	得て、始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戲・飲酒す。其の餘の節は、ほ
	ぼ華と同じ。基博(きはく)・握槊(あつさく)・樗蒲(ちょぽ)の戲を好くす。氣候は温暖にして、草木は冬も青
	し。土地は膏腴(こうゆ)にして水多く陸少し。小環を以って「ろじ」の項(うなじ)に挂け、水に入りて魚を捕え
	しめ、日に百餘頭を得る。俗に盤爼(ばんそ)無く、藉(し)くに樫の葉を以ってし、食するに手を用いて之を餔う。
	性質は直にして、雅風有り。女多く男少し。婚嫁に同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を爲す。婦、夫家に入るに、
	必ず先ず犬を跨(また)ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人は婬妬せず。死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓(しんぴん)
	は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服(きもの)を製(つく)る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して
	(うず)む。葬に及び屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小輿(こごし)を以ってす。阿蘇山有り。其の石は故
	無くて火起り天に接する者、俗以って異と爲し、因って祭を行う。如意寶珠有り。其の色青く、大いなること卵の如
	し。夜に則ち光有り、云う、魚の眼精(がんせい)なりと。新羅・百濟は皆倭を以って大國となし、珎物多しと並
	(みな)敬仰し、恒(つね)に使を通じて往來す。
	大業三年(607)、其の王の多利思北孤(たりしひこ)、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「海西の菩薩天子、重ねて
	佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く、「日出ず
	る處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙(つつが)無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿(こうろき
	ょう)に謂(い)いて曰く、「蠻夷(ばんい)の書(ふみ)無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。
	明年(大業四年(607))、上(しょう)、文林郎の裴清(はいせい)を遣し倭國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹
	島に至り、南に耽羅國(たんらこく)を望み、都斯麻(つしま)國を經て、迥(はる)か大海の中に在り。又、東に
	一支(いき)國に至り、又、竹斯(ちくし)國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏(かか)に同じ。以って
	夷州(いしゅう)と爲すも、疑うも明らかにする能わざるなり。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、
	皆倭に附庸(ふよう)す。倭王は、小徳の阿輩臺(あわと)を遣し、數百人を従えて儀仗(ぎじょう)を設け、鼓角
	(こかく)を鳴らし來りて迎う。後十日、又、大禮(たいらい)の哥多毘(かたび)を遣し、二百余騎を従え郊勞
	(こんろう)す。既にして彼の都に至る。其の王は、世清と
	相見(まみ)え、大いに悦びて曰く、「我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣して朝貢す。我は夷人にして海
	隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以って境内に稽留し、即ち相見(まみ)えず。今、故(ことさら)に道を清め館を
	飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわく)わ大國惟新の化を聞かん」と。清、答えて曰く、「皇帝の徳は二儀に並び、
	澤は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣して來りて此に宣諭す」と。既に清を引きて館に就(つ)か
	しむ。其の後、清、人を遣して其王に謂いて曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。是におい
	て宴享(えんきょう)を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶えたり。
	
	【上部の黒字の部分を隋書から写し忘れたものと思われる。そのため原漢文は意味を為していない。】	
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	<南北朝時代>
	南北朝時代とは、中国史において、北魏が華北を統一した439年からはじまり、隋が中国を再び統一する589年まで、
	中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちら
	を南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉と東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)
	と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経
	済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に、文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が
	栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
	また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国の戦乱をおさめ、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制にもと
	づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は
	556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして、再び華北を統一する。その後581
	年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。北魏・東魏・
	西魏・北斉・北周の五王朝をふつう北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列し
	ているためである。【出典: フリー百科事典「日本語版ウィキペディア」より 】


	(10).『南史』 巻七十九・列伝・東夷・倭國条
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	   唐  李 延壽 撰
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	本紀10巻、列伝70巻、計80巻からなる。「北史」と同じく唐の李延寿の撰になるもの。宋・南斉・梁・陳の4
	史を要約し、南朝4代170年間の事跡を記す。宋の武帝の永初元年(420)に始まり、陳の偵明(ていめい)3年
	(589)まで。
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	倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往tei[革是]。人種禾稲紵麻、蠶桑織績。
	有薑、桂、橘、椒、蘇。出黒雉、眞珠、青玉。有獸如牛、名山鼠。又有大[虫也]呑此獸、[虫也]皮堅不可斫、其上有
	孔乍開乍閉、時或有光、射中而[虫也]則死矣。物産略與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。地氣温暖、風俗不淫。男女皆
	露kwai[冠髪脚介]、富貴者以錦繍雜采爲帽、似中國胡公頭。食飲用hen[冠竹脚邊]豆。其死、有棺無槨、封土作冢。
	人性皆嗜酒、俗不知正歳、多壽考或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不婬
	妬。無盗竊、少諍訟、若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。
	晉安帝時、有倭王讚、遣使朝貢。及宋武帝永初二年、詔曰「倭讃、遠誠宜甄、可賜除授。」文帝元嘉二年、讚又遺司
	馬曹達、奉表獻方物。讚死弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節都督、倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、
	倭國王、表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭[偏三水旁有]等十三人、平西、征虜、冠軍、輔國將軍等號、
	詔并聽之。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以爲安東將軍倭國王。二十八年、加使持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓
	六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人職。濟死、世子興遣使貢獻。
	孝武大明六年、詔授興安東將軍倭國王。興死弟武立、自稱使持節都督、倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安
	東大將軍、倭國王。順帝昇明二年、遣使上表言「自昔祖禰、躬kwan[偏手旁環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人
	五十五國、西服衆夷六十六國、陵平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。道kei[之繞旁經]百
	濟、裝飾船舫。而句驪無道、圖欲見呑。臣亡考濟、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。今欲練甲兵、父兄
	之志。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」詔除武使持節都督、倭新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東
	大將軍倭王。齊建元中除武持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大
	將軍。 
	其南有侏儒國。人長四尺、又南有黒齒國、裸國。去倭四千餘里、船行可一年至、又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而
	醜、其肉美。行者或射而食之。文身國、在倭東北七千餘里、人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土
	俗歡樂、物豐而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。國王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲塹、廣一丈、實以水銀、雨則流
	于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獸食之、有枉則獸避而不食、經宿則赦之。大漢國、在文身國
	東五千餘里。無兵戈、不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。 
	倭国は、その先の所出及び所在、事は「北史」に詳(つまび)らかなり。その官には伊支馬(いきま)あり、次は彌
	馬獲支(みまかき)といい、次は奴往tei[革是](ぬかて)という。人は禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を植え、	
	蠶桑(さんそう)織績(しょくせき)す。薑(きょう)、桂(かつら)、橘(きょう)、椒(しょう)、蘇(そ)あ
	り。黒雉、眞珠、青玉を出す。獣あり牛の如く山鼠と名づく。また大蛇ありこの獣を呑む。蛇の皮は硬く斫(き)る
	べからず。その上に孔あり。開きながら閉じながら、時に或いは光あり、射中(いあ)てて蛇すなわち死ぬ。物産は
	ほぼ耳・朱崖と同じ。地は温暖にして、風俗淫ならず。男女は皆露す。富貴の者は錦雜采を以ちて帽と為す 中國の
	胡公頭に似る。食飲に豆用う。其の死には、棺有りて槨無く、土を封じて冢を作る。人性皆酒を嗜む。俗は正歳を知
	らず、多くは壽考にして、多く八・九十に至り、或いは百歳に至る。其の俗は女多く男少く、貴き者は四五妻に至り、
	賤なる者もなお兩三妻。婦人に婬妬無し。盜竊無く、諍訟少し。もし法を犯さば、輕き者は其の妻子を沒し、重きは
	則ち其の宗族を滅す。 
	晉の安帝の時、倭王賛有り。使いを遣わして朝貢す。宋の武帝の永初二年(421)に及び、詔していわく、「倭の讃、
	遠く誠に宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし。」と。文帝の元嘉二年(425)、讃、また司馬曹達を遣わし、
	表(ふみ)を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那
	・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍、倭国王と称し、表にて除正(じょせい)を求む。詔して安東将軍・倭国王に
	除す。珍、また□(い)等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並(みな)聴
	(ゆる)す。(元嘉)二十年(443)、倭国王の済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。
	(元嘉)二十八年(451)、使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)
	のごとく、ならびに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。済死す。世子興、使を遣わして貢献す。
	孝武の大明六年(462)、詔していわく、興に安東将軍・倭国王を授く。興死して弟武立ち、自ら使持節・都督倭・
	百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。順帝の昇明二年(478)、使を遣わし
	て表(ふみ)を上(たてまつり)りていわく、「昔より祖禰(そでい:祖先)躬(みずか)ら甲冑をツラヌき、山川
	を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐる
	こと九十五国なり、王道は融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。累葉(るいよう)
	朝宗(ちょうそう)して歳を愆(たがえ)ず。道は百済を遙(へ)て、船舫を裝飾す。しかるに句麗(くり:高句麗)
	は無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲す。臣、亡考(ぼうこう)の済、方(まさ)に大挙せんと欲せしも、奄
	(にわか)に父兄を喪い、垂成(すいせい)の功をして一簣(いっき)を獲(え)ざらしむ。今、兵を練り父兄の志
	を申(の)べんと欲す。竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を假(か)し、其の餘は咸(みな)
	各(おのおの)假授(かじゅ)し、以って忠節を勸(はげ)まん。」と。詔して、武を使持節・都督倭・新羅・任那・
	秦韓・慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭王に徐す。齊の建元(479〜482)中、武を使持節・都督倭・新羅・任那・加
	羅・秦韓・慕韓六國諸軍事・鎭東大將軍に徐す。梁の武帝即位し、武の號を征東大將軍に進む。
	其の南に侏儒國有り、人の長(たけ)四尺。また南にK齒國、裸國あり。倭を去ること四千餘里、船行一年にして至
	るべし。また西南へ萬にして海人有り。身はKく眼は白く、裸にして醜し。其の肉は美く、行く者は或いは射て之を
	食らう。文身國、倭國の東北七千餘里在り。人體に獸の如き文有り。其の額の上に三文有り、文直なる者は貴、文小
	さき者は賤。土俗は樂を歡び、物豐かにして賤く、行客に糧を齎(あた)えず。屋宇有りて、城郭無し。其の王の居
	する所、金銀珍麗を以ちて飾る。屋を繞(めぐ)るに塹を為し、廣さは一丈、水銀を以ちて實(み)たし、雨則ち水
	銀の上を流る。市に珍寶を用う。輕き罪を犯す者は則ち鞭杖。死の罪を犯すは則ち猛獸之を食うに置く。枉(おう=
	冤罪)有る(者は)、則ち猛獸が避けて食わず、宿を經て則ち之を赦す。 大漢國、文身國の東五千餘里に在り。兵
	戈無く、攻戰せず。風俗並に文身國と同じにして言語異る。
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	(11).『舊唐書』 巻一九九上 東夷伝(高麗・百濟・新羅・倭國・日本)
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	 後晋 劉 xu[日句] 他 撰 
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	旧(舊)唐書(くとうじょ)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉□(りゅうう)らによって編纂された歴史書。
	本紀20巻、列伝150巻、志30巻の、計200巻から成る紀伝体で、唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)
	について書かれている。成立は945年だが、その翌年には後晋が滅びてしまうために、編纂責任者が途中で交代し、
	一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。
	そのため後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂される事になった。しかし逆に生の資料をそのまま書き
	写したりしているので資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われている。当初の呼び名は単に『唐書』だったが
	『新唐書』が編纂されてから『旧唐書』と呼ばれるようになった。旧唐書の中には日本について「倭国伝」と「日本
	国伝」が立てられている。ここから、中国は三国史時代の「倭」と、大和朝廷の成立後の「日本」を区別して認識し
	ていた事がわかる。
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	倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國。其
	國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之。
	設官有十三等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、
	百姓皆椎髻、無冠帯。婦人衣純色裙、長腰襦、束髪於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、
	頗類新羅。 
	貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子
	爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本
	爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中
	國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
	長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書、冠進徳冠、其頂爲花、分而四敵、身服紫袍、以
	帛爲腰帯。眞人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟徳殿、授司膳卿、放還本國。開元初、又遣使來朝、因請
	儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻爐寺教之、乃遣玄默闊幅布以爲束修之禮、題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所
	得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歴左補闕、儀王友。衡留
	京師五十年、好書籍、放歸郷、逗留不去。天寶十二年、又遺使貢。上元中、擢衡爲左散騎常侍、鎭南都護。
	貞元二十年、遺使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階眞人上言。「前件學生、藝業稍成、
	願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遺使朝貢。
	倭國は古の倭奴國なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、
	南北三月行。世々中國と通ず。其の國、居るに城郭無く、木を以って柵と爲し、草を以って屋と爲す。四面の小島、
	五十餘國。皆、(こ)れに附屬す。其の王、姓は阿毎氏。一大率を置き、諸國を検察す。皆、之を畏附す。官を設け
	るに十二等有り。其の訴訟する者は匍匐して前(すす)む。地に女多く、男少し。頗(すこぶ)る文字有り。俗は佛
	法を敬(うやま)う。並に皆な跣足(せんそく)にして、幅布を以て其の前後を蔽う。貴人は錦帽を戴き、百姓は皆
	な椎髻(ついけい)にして冠帯無し。婦人の衣は純色にして(もすそ)を長くして腰に襦(じゅ)。髪を後ろに束ね、
	銀花長さ八寸を佩(おび)ること左右おのおの數枝、以って貴賤の等級を明らかにす。衣服の制は頗(すこぶ)る新
	羅に類す。
	貞觀五年、使を遣して方物を獻ず。太宗、其の道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅してごとに貢せしむる無し。ま
	た新州刺史表仁を遣し、節を持して往きて之を撫せしむ。表仁、綏遠(さいえん)の才無く、王子と禮を争い、朝命
	を宣(の)べずして還る。二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じ、以って起居を通ず。日本國は倭國の別種なり。
	其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改
	めて日本と爲すと。或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。其の人、入朝する者は多く自ら
	矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。また云う。其の國の界、東西南北各
	數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國な
	りと。
	長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。朝臣眞人は猶お中國の戸部尚書のごとし。進徳冠を冠り、其の頂
	に花を爲し、分れて四散せしむ。身は紫袍を服し、帛(はく)を以って腰帯と爲す。眞人、好く經史を讀み、文を屬
	するを觧し、容止温雅。則天、之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本國に還らしむ。開元の初、また使を遣わ
	して來朝す。因って儒士に經を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれを教えしむ。乃
	ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の禮と爲す。題して云う、白元年の調の布と。人またその僞なるかを疑う。この
	題得る所の錫賚(しらい)、く文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。その偏使朝臣仲、中國の風を慕い、因
	って留まりて去らず。姓名を改め朝衡と爲し、仕えて左補闕・儀王友を歴たり。衡、京師に留まること五十年、よく
	籍を書し、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。天寶十二年、また使を遣して貢す。上元中、衡を擢んでて左
	散騎常侍鎮南都護と爲す。
	貞元二十年、使を遣して來朝す。學生橘免勢、學問僧空海を留む。元和元年、日本の國使判官階眞人上言す。前件の
	學生、藝業稍(や)や成りて、本國にらんことを願う。便(すなわ)ち臣と同じくらんことを請う。之に從う。開成
	四年、また使を遣して朝貢す
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	■倭と倭人に関する中国の史書を見るとき、「魏志」とほぼ同時代を扱った「魏略」、「後漢書」の間にどんな差が
	あり、それは何故生じたかを見るのは重要である。また「魏志」に続く、「晋書」「宋書」「隋書」「旧唐書」など
	の正史が、その原典をどこに求め、どう解釈したのかを見るのも意義がある。
	■基本的に、「魏志」の記事を参照した正史においては、邪馬台国は帯方郡から南へ南へと降ってきた所にあり、さ
	らにその南に敵対する「狗奴国」があるという位置関係は一致している。南北の軸にたいし、東西へ延びる線、即ち、
	「女王国より東、海を渡ること千余里」の「別の倭種」は倭人伝の対象にはなっていない。つまり北九州が、「魏」
	から見た「倭」であり、「倭人」たちの国だったことは明らかだ。しかし「後漢書」は、狗邪韓国を倭の北限とし、
	狗奴国も「女王国より東、海を渡ること千余里」の地域にあるとする。(自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、
	而不屬女王。)つまり、倭という地域を九州から本州へ拡がった地域と見ているのである。これは「後漢書」の成立
	した宋代の「倭国観」が反映している。「宋書」における倭王「武」の、「寧所に暇あらず」、「東は毛人」「西は
	衆夷」を征服したという上表文では、明らかに倭の中心は畿内にある。これは「隋書」以後の中国正史も同じで、王
	権が畿内に成立した時期以降の認識と見て良い。反して「魏志」以前の認識では、未だ日本列島に王権は成立してお
	らず、正史に書かれている国々と、魏から見た「倭」の領域はほぼ「九州島」に限定されていると言ってもいいので
	ある。


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