6.文献は語る −中国国史・その3−



	(3).『三國志』続き
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	男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水
	人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在
	會稽、東冶之東。
	男子は大小となく、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に
	封ぜらるるや、断髪文身をもって蛟龍の害を避く。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身してまた以って大
	魚、水禽を厭うなり。後やや以って飾りとなす。諸国の文身各異る。或いは左にし或いは右にし、或いは大に或いは小
	に、尊卑差あり。その道里を計るに、まさに会稽の東治の東に在るべし。
	男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称し
	ている。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜(こうりゅう:サメの類)の害を避けたと言うが、今
	倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が大魚・水禽を寄せ付けないまじないとなっていたが、今では
	飾りとなってしまっている。国々によって各々入れ墨が異っている。色々な職種、大人・子供の間で、尊卑の差がある。
	(倭の)方角・方向を言うならば、ちょうど会稽の東治(とうや)の東にあたる。

	■倭人の習俗を記録した貴重な資料である。南方民族が入れ墨をしているのは広く知られている事実であって、ここで
	の記事は、倭人も南方民族の習俗を持っている事が窺えるが、陳壽は「倭」を南方に延びていると理解していたので、
	ことさら南方の記事を盛り込んだのだという意見もあるが、ここはやはり倭人は入れ墨の習慣があったのだと理解した
	方が正解だろう。その後に続く、「倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え」とか、「諸国の文身各異る。或いは左にし
	或いは右にし、或いは大に或いは小に、尊卑差あり。」などという表現は、決して推測や想像で書いたものではない。
	実際に見聞きし、或いは倭人そのものからの話を聞いて書き残したに違いない。

	■ここにいう、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。」という文章は、「史記」の「卷四十一 越王句踐
	世家 第十一」に登場する文章を引用している。
	「越王句践(こうせん)。その先は禹の苗裔(びょうえい)にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封じ、以て禹の祀
	(まつり)を奉守(ほうしゅ)す。文身・断髪し草來(そうらい)を披(ひら)きて邑(むら)とす。」
	「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)で有名な越の王、句践は、夏王朝を開いた禹(う)の末裔で、少康帝の子である。彼
	が会稽で崩じた禹を祀るために、この地の住民がしていた文身・断髪を行い、ともに開拓を行った。」というものであ
	るが、この文章そのものの信憑性は低いとされている。しかし、当時会稽では文身・断髪が行われていた事はまちがい
	なく、その東にある倭も当然同じ習俗を持っていると理解されていたのである。そのため陳壽はここにこの記事を引用
	したものと思われる。

	このページをUPして程なく、2004年9月の終り頃、東京で「古代史獺祭」(こだいしだっさい)というHPを製
	作されている方(本名は非公開)から1通のメイルを頂いた。私は上記の段落に、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身
	以避蛟龍之害。」という文章が、「史記」の本文に記されていると書いていたのだが、そうではなくて「史記」の「卷
	四十一 越王句踐世家 第十一」だというご指摘をいただいた。調べてみるとまさしくその通りで、上記のように書き
	改めた。続いて以下のようなご指摘も頂いた。
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	句践が夏王朝を開いた禹の末裔であることはその通りなのですが、句践は少康の子ではありません。夏后少康と句践は
	まったく異なる時代の人物です。では、夏后少康の子とはいったい誰のことかというと、『呉越春秋』 に以下の記述
	があり「無余(むよ)」という人であったとされます。
	禹の以下六世にして、帝の少康を得たり。少康、禹の祭の絶祀をおそれ、すなわちその庶子を越に封じ、号して無余
	(むよ)という。
	「夏后少康」は「殷王朝」に先だつ中国の伝説的な王朝である「夏王朝」の第六代の皇帝です。夏王朝は、およそ紀元
	前21世紀〜紀元前16世紀ころの王朝とされています(が、もちろん考古学的に実在が証明されていませんから伝承
	上のことです)。一方「越王勾践」は春秋戦国時代の人で、生年不詳ながらその没年は紀元前465年とされています。

		神話時代
		↓
		夏(紀元前21世紀〜紀元前16世紀ころ?)…夏后少康はこの第六代皇帝。
		↓
		殷(紀元前21世紀〜紀元前1066年)
		↓
		西周(紀元前1066年〜紀元前771年)
		↓
		東周(紀元前770年〜紀元前256年)
		↓
		春秋時代(紀元前770年〜紀元前476年)…臥薪嘗胆の勾践はこの時代の人。
		↓
		戦国時代(紀元前475年〜紀元前221年)

	允常の名は例の「史記 卷四十一 越王句踐世家 第十一」の引用文のすぐ後にありました。以下原文をご紹介し読み
	下してみます。
	越王句踐  其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也 封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷髮  披草rai(來にクサカンムリ)而
	邑焉  後二十餘世 至於允常 允常之時 與呉王 闔廬戰而相怨伐 允常卒 子句踐立 是為越王
	越王句踐。 其の先は禹の苗裔にして夏后帝少康の庶子也。會稽に封ぜられ、以って禹の祀を奉守す。文身斷髮し、草rai
	(來にクサカンムリ)を披きて邑とす。 後二十餘世、允常に至る。允常の時、呉王闔廬と戰いて相い怨み伐つ。
	允常卒し、子の句踐立つ。 是を越王と為す。
	越王句踐。 その祖先は禹の苗裔である夏后帝少康の庶子(無余)である。(無余)は會稽に封ぜられ、禹の祭祀をおこ
	なった。(無余)は文身斷髮し、草rai(來にクサカンムリ)を開き邑とした。その後二十数世代を経て允常の代となった。
	允常の時、呉王闔廬と互いに憎しみあって戰った。允常が他界し、その子の句踐が即位した。これが越王(句踐)である。
	以上です。
	============================================
	つまり、「句践は少康帝の子ではなく允常の子である」という事になる。「少康帝の子である」という所を「少康帝の
	子孫である」としておけばよかったのだ。この方もサラリーマンで、ある企業の情報部門におられると言うことだった
	が、世間には漢籍に詳しい人も結構おられるもんだと感心した。わたしの出典はある大學の名誉教授が書いた本だった
	のだが、「越王句踐。其の先は禹の苗裔にして夏后帝少康の庶子也。」という所だけしか、その本には載っていなかっ
	たのか、或いは私がその部分だけしか見なかったのか、今はもう定かでない。私としては前者だったような気がするの
	だが、大学の名誉教授ともあろう人が、それに続く後段を読んでいないわけはなかろうと思うと、私のチョンボのよう
	な気もする。いずれにしても、赤面の至りだった。「古代史獺祭」さんに感謝しなければなるまい。


	■【魏略曰】
	「女王之南、又有狗奴國、女(以)男子爲王、其官曰拘右(古)智卑狗、不屬女王也。自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘
	里。其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後、昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍
	之吾(害)。今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」
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	其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中
	央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑緝績、出細紵、[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、
	竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異
	處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。
	その風俗は淫ならず。男子は皆露介し、木綿をもって頭に招く。その衣の横幅は但結束して相連ね、略縫うことなし。
	婦人は被服屈介、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。禾稲、紵麻を種え、蚕桑して絹績
	し、細紵・兼綿を出す。その他には、牛・馬・虎・表・羊・鵲なし。兵は矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短くし上を
	長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃。有無する所、たん耳、朱崖と同じ。倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒
	跣。屋室あり、父母兄弟、臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。食飲にはへん
	豆を用い手食す。
	その風俗は淫らではない。男子は皆裸同然で、木緜(もめん)を頭にかけ、衣はひもで結んで縛り縫っていない。婦人
	は髪を束ね、衣は単被(中国の衣服?)のようで、真ん中の穴をあけ頭から被ってこれを着ている。禾稲 (かとう:
	稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)え、蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:
	絹?)を産出している。この地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 (カササギ)はいない。兵は矛・楯・木弓を用いている。
	木弓は下を短く上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃( てつぞく)だったり骨鏃である。國の様子は、タン耳(たんじ)・
	朱崖 と同じである。倭の地は温暖、年中生野菜を食べている。皆裸足である。住居には部屋があり、父母 兄弟、寝室
	が別である。朱丹をその身体に塗っているのは、中国で粉を(体に)塗るのと同じである。食事は器を用い手で食べる。

	■貫頭衣の語源となった箇所。稲 と紵麻(ちょま=からむし:イラクサ科の多年草)を栽培し、桑を育てて養蚕し、
	それから糸を紡ぎ、各種織物(細かい紵(ちょ)や[糸兼](けん:絹か?))や緜(綿の古い字:まわた)にしている。
	この文章は、当時倭人は紵麻のような草皮を使う植物繊維の使用と、蚕に繭を作らせそれを糸にする技術がすでにあっ
	た事をしるしている。さらには、それらの糸で織った織物が、当時の中国人の目から見ても「細かい」織物だった、言
	い換えると高度な技術による織物だったという印象を与えていたのである。

	■魏志の描く東夷の国々のなかで、3世紀に養蚕を行っている国は日本だけではない。[シ歳](わい:朝鮮半島東部)
	でも、韓(かん:朝鮮半島南部)でも養蚕は行われているが、そこで生産されている絹は布や真綿などの簡単なもので、
	倭人伝に現われる絹は種類も豊富である。[糸兼](けん:1字)という字は、中国語では単なる絹ではなくて、2本の
	糸をよりあわせて織ったもので、ある中国の古典によれば、「細緻で水も漏れない」織物という。倭人社会ではその
	[糸兼]を産出していたのである。

	■入門編で記述したように、中国・四国以東の地方で弥生時代遺跡から絹が出土した例は未だ無く、祭器或いは宝器と
	いわれるような銅鐸や銅矛ですら、絹で包まれていた例はない。つまり弥生時代の近畿へは養蚕の技術は伝わっていな
	いのである。翻って北九州では、大した副葬品も持たない庶民と思われる甕棺からも、絹に包まれた人骨が出土してい
	る。(福岡県甘木市栗山遺跡)。これだけとりあげても、倭人伝の描く倭人社会は明らかに北九州であるのに、近畿説
	を唱える学者達は、何故かこの事実には一切言及しない。

	■他の記事については、これまでこのHPの入門編その他で見てきた通りであるが、「矢の先は鉄鏃または骨鏃。」と
	いう記事は注目される。後段の「考古学から見ると」という章で取り上げているが、弥生時代の「鉄鏃」の出土は圧倒
	的に北九州、それも福岡県に集中しているのである。福岡県からは398個が出土しているのに対して、奈良県からは
	僅かに4個である。(広島大学考古学研究室川越哲志(かわごえてつし)編『弥生時代鉄器総覧』(2002年2月22日刊)
	これを見ても倭人伝の記述は北九州を対象としている事がわかる。
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	其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如
	練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若
	行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
	その死には柩在るも槨なく、土を封じて家を作る。始め死するや停喪十日余り、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、
	他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。その行来して海を渡り、中国に詣
	るには、恒に一人をして頭を梳らず、き蚕を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。こ
	れを名付けて持衰となす。もし行く者吉善ならば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、妨害に遭はば、便ちこ
	れを殺さんと欲す。それ持衰謹まざればなりという。
	人の死は、お棺におさめるが槨(かく)はなく、土に埋めて冢(つか)を作る。人が死ぬと十余日喪に服す、喪中の間
	肉を食べず、喪主は哭泣して、他人は歌い舞い踊って飲酒する。葬った後は、家の者は水中で澡浴(もくよく)し、練
	沐(れんもく:みそぎ)のようにする。海を渡って中国に詣でる時は、いつも一人の人間が、頭をとかず、蚤虱をとら
	ず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中の人のようにする。これを名づけて持衰(じさい)と言
	う。もし先行きがよければこの者の行いが善であって財物を与える。もし疾病や暴風雨にでも遭えば、すなわちこれを
	殺す。その持衰が謹まなかったから、と言うのである。

	■人の死にあたっては、「有棺無槨」とある。これは棺にはおさめるが槨はない、つまり石室のようなものは無く、封
	土作冢、すなわち土を盛って塚をつくるとある。これはあきらかに古墳ではない。韓国の慶州に行くといくつもの土饅
	頭のような古墳が街のあちこちに点在しているが、卑弥呼の墓はあるいはあのような土饅頭型に近いものだったかも知
	れないが、それにしてもあそこまで大きくはないだろう。庶民の墓が甕棺だったのは、弥生時代の北九州においては常
	識で、相当な副葬品をもった豪族でもその棺(ひつぎ)は甕棺である。鏡や剣や勾玉やガラスの首飾り等々を副葬した
	人の墓でも、甕棺に埋葬されている。「女王卑弥呼の墓」というと、我々はすぐに古墳時代の古墳をイメージし、堅固
	な石室に収められているに違いないと思いがちだが、この時代そんな埋葬のやり方は、当時の文化社会であった北九州
	はもとより、畿内にも存在しない。卑弥呼の墓も「径100歩」という語に惑わされているだけで、実際はこじんまり
	とした土饅頭のような小山だった可能性が高い。

	■続く、葬送の風習については入門編で述べたように現代とあまり変わりは無い。葬送に当たって歌舞飲食するという
	風習がいつごろどこから来たのかは不明だが、「倭族論」を展開する鳥越憲三郎氏は、倭族の発祥の地、中国南方の雲
	南省・タイ・ラオスあたりがその発祥だろうという。三国志のなかでは、確かに南方の民族にその風習は残っているよ
	うに記録されているので、すでに3世紀の東アジア・東南アジアにはこの葬送風習は蔓延していたものと思われる。

	■持衰(じさい)については、他の文献にはあまり資料がないようである。もちろんわが国の文献にもこのような制度
	は一切記録されていないし、他の国の記録にも無いようである。まだ調べ切れていないが、あるいはいずれかの文献に
	似た例があるのかもしれない.渡航時に広く行なわれていた制度ではなく、一時的に魏使がみた例だった可能性もある。
	この持衰については、もっと考察を要する。
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	出眞珠、青玉。其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。有薑、橘、
	椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。有bi	[扁犬旁爾]猴、黒雉。其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、
	先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。【魏略曰:其俗不知正歳四節、但
	計春耕秋收爲年紀】
	真珠、青玉を出す。その山には丹有り。その木には檀、杼、予樟、楙、櫪、投、橿、烏号、楓香あり。その竹には篠、
	幹、桃支あり。薑、橘、じょう荷あるも、もって滋味となすことを知らず。大猿、黒雉あり。その俗挙事行来に、云爲
	する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て
	兆を占う。その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。(魏略曰く、四季を知らず。但し、春に耕し秋に収
	穫することから年を計る)
	(この地では)真珠・青玉を生産する。山には丹がある。植物はダン・杼(ちょ) ・予樟(よしょう)・ボウ・櫪・
	投・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香がある。竹は篠・カン・桃支がある。薑(きょう)・橘・山椒・茗荷はある
	が、食べておいしいのを知らない。大猿・黒雉がいる。各行事で心配事があれば、 骨を灼いて占いその吉凶を求める。
	先ず占う事柄を口に出して唱える。そのやり方は令亀の法のようで、焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。会合の
	場では父子男女別なし。人々は酒を嗜(たしな)む。(魏略は言う。倭人は四季を知らない。但し、春に耕し秋に収穫
	することで年を計算している。)

	■真珠を産出し、青玉を出す。この文に言う真珠は当時九州か四国南方にしか取れなかったはずだという意見がある。
	そんなことはない、三重県の伊勢ではいまでも世界に冠たる真珠王国ではないかと言う人もいる。いずれの意見がまと
	もであるか、見識のある読者ならすぐにわかる。養殖に成功して真珠を世界のどこでも産出できるようになったのは、
	明治になってからだ。それまで真珠は天然の宝石で、南方のアコヤ貝やその仲間の貝にしか製造できない、それこそ白
	珠だったのである。
	■青珠とはなんであろう。青瑪瑙(めのう)、ガラス製勾玉、硬玉の大きな勾玉というような見方があるが、青大勾玉
	の研究をしていた和洋女子大学の寺村光晴氏は、日本列島での硬玉の産出地が北陸であり、そこから出雲地方を介して
	北九州に玉が移動していることに注目し、「青玉句玉が硬玉製勾玉である限り、壱与の所在は北九州であり、邪馬台国
	は北九州に比定せざるを得ない。」と述べている。(「国史学」77号「魏志倭人伝「青大勾珠」をめぐる諸問題」)

	■続いての植物・動物については入門編で述べた事と一緒である。ト占についても、当時あるいはその遥か前から中国
	で行なわれていた骨占と様相が一緒なのは注目される。
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	見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不
	to[偏女旁戸]忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。及宗族尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、
	有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中
	有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大
	人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。衞。
	大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、
	国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、
	軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、
	邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を
	檢察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都、帯方郡、
	諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯す
	るを得ず。下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両
	手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。
	大人を敬う時のやりかたは、柏手をうって踞(うずくま)り拝む。人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である。大
	人は皆四人か五人の妻を持ち、下戸も二、三人持っている。婦人は淫行を行わず、嫉妬せず盗みもしないので訴訟は少
	ない。法を犯した者は、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族も皆殺してしまう。
	高貴な者も一般の者もそれぞれ身分差がある。臣は主に服従している。租税を徴収し、貯蔵庫(邸閣)がある。国々に
	は市が立っている。色々な物を交易しており、大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方
	は、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させている。諸国では、これを畏れている。常に伊都国にい
	て統率している。国中に警備の者達がいる。女王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時、又郡(帯方
	郡)の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて(女王の所へ)届けさせる。
	身分が低い者(下戸)が高い人(大人)と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲(うずくま)ったり、あるい
	は跪(ひざまず)いて、恭順の意を表す。応対には、噫(あい:はい:おう?)と言う。わかりました、という意味の
	ようである。

	■ここには結構重要な情報が網羅されている。女王国の以北に一大卒はいて、伊都国に常駐しているとある。これまで
	にも、伊都国の南に邪馬台国はある、と再三記録されていたが、畿内説の論者はこれを「東」の間違いとしてきた。そ
	れも三度が三度とも「南」を「東」の間違いとしてきたのである。しかるに、ここでははっきりと「女王国」の北に伊
	都国はあり、しかも「女王国=邪馬台国」と認めている。奈良大学の元学長だった水野正好氏は、「女王国」は北九州
	から津軽平野に至る日本本土で、「邪馬台国」は奈良であると言っているが、どこをどう考えればそんな理屈になるの
	かまったく理解に苦しむ。
	■「傳送文書賜遺之物詣女王」。ここにははっきりと「文書」と書いてある。そうなのだ、卑弥呼は文字を知っていた。
	そして読めたはずである。あるいは返書を自分で書いたかもしれない。しかし現在まで3世紀の、明らかに文字とわか
	る資料は2,3の土器に書かれた断片的なものしか出土していない。まとまった、明らかに文章と考えられるものは、
	ないのである。それで、3世紀の日本にはまだ文字がなかったという意見があるが、私はそんなことはないと思う。57
	年に奴國王が光武帝からもらった金印にはっきりと漢字は刻まれているし、相当前から文字の存在は知っていたはずで、
	読めた者も何人かいたに違いないと思う。「そのうち、きっと北九州から(文字資料は)出土します。」(西南学院大
	学教授高倉洋彰氏:考古学)と私も信じたい。
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	其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、
	無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵
	嚴設、常有人持兵守衞。
	その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立て
	て王となす。 名付けて卑彌呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、助け
	て國を治む。王と爲りしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、
	辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、嚴かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
	この国は元々男性の王がいたが、7〜80年の間に倭国は乱れ、数年間争いを繰り返していた。そこで国々は共同で一女
	子を王として擁立した。名づけて卑弥呼という。鬼道(呪術?)にたけており、大衆を幻惑している。(能く衆を惑わ
	す。)齢はとっているか、夫はおらず、弟がいる。(卑弥呼を)佐(たす)けて国を治めている。王となってからは、
	その姿を見た者は少なく、婢千人が身の回りの世話をしている。男が一人いて、(卑弥呼の)給仕をし、言葉を取り次
	ぐため居処に出入りしている。(ここには)宮室・ 楼観・城柵が設けられていて、常に警備の者が守っている。

	■共立して王を立てる。またそれが女王である。このような国はほかに例がない。三国志全編を通してみても、女王が
	国を治めている例はない。東アジア諸国全体のなかで、邪馬台国は非常に特異な国なのである。このような、いわば協
	議によって擁立された国王の存在とはいかなるものだったのだろうか。

	■わたしはかって「狗奴国はどこへ消えたか?」のなかで以下のような文章を書いた。今でも、まだこの考えは捨てら
	れないでいる。しかし邪馬台国が、中国の史書から姿を消して、倭国が一応近畿圏を中心にまとまりをみせだすまでの
	期間の短さを考えると、邪馬台国東遷説にも強く後ろ髪を引かれている。

	「私の意見としては、邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに
	存続していたのではないかと思う。以前は、その後邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をうち立てたと
	いう「邪馬台国東遷説」の立場に立っていたが、最近どうも違うのではないかと思うようになった。
	全国に散らばる古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の150年間に本格的な軍事政権の到来を見るので
	ある。夥しい馬具に武具、鉄剣に弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。とても1女子を女王
	として擁立し、それで国中が平和に収まるというような生やさしい社会ではなかっただろう。刺し殺し、首をはね、目
	玉をえぐるというような残虐な闘いが100年以上続いたのではないかと思われる。
	「宋書」には、倭王讃以下五人の王が登場する。珍・済・興・武である。このいわゆる「倭の五王」たちは王そのもの
	が武力に秀でた絶対君主のような存在であった。「王自ら甲冑を纒い山河を駆けめぐって、寧所(ねいしょ)に暇(い
	とま)あらず。」とあり、済などは「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓六国諸軍事」「安東大将軍」の称
	号を貰っている。これは我が国のみならず、朝鮮半島をも倭国の支配下に置く事を中国が認めているのである。この時
	代になると馬が大量に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べものにならない規模に発展していたと考え
	られる。シャーマンとしての卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、とてもこの連合国家が日
	本を武力で統一したとは考えにくい。武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした倭国連合の人
	々の感性は、この激動の4世紀には通用しなかったのではないだろうか。邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集団
	によって滅ばされ、あるいは取り込まれて歴史から消えていったという可能性も大である。4世紀には大和を中心に各
	地に古墳が築造され、明らかにそれまでとは異質な民族たちの大量移入を思わせる証拠が山ほど残されている。それは
	「邪馬台国時代」とは異なる文化である。」
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	女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東
	南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
	女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千
	余里。また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に
	絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
	女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。この
	國は皆身長が三、四尺(90cm〜120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国・黒歯国がある
	が、船行一 年で到達する。倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千
	余里程である。

	■ここでいう侏儒國・裸國・黒齒國については「日本史を取り巻く謎」のなかで詳細に検討したので、是非そちらを参
	照頂きたい。(「黒齒國」「侏儒國」はほんとにあったか?)
	尚、これらの国々は「山海経」に現われる架空の国名をもってきたもので、この段落そのものが全て虚構であるので、
	いちいち取り上げて検討するには値しないという意見等(鳥越憲三郎氏)もあるが、私に言わせれば「それをいっちゃ
	あ、おしまいだよ!」という気がする。よしんばそうだとしても、一応検討し、その信憑性を自分で確かめる過程が楽
	しいのであって、はなから「これは嘘。」、「これはでたらめ、調べなくてよい。」などとやってしまうと、そもそも
	「邪馬台国論争」など成立しない。
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	景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:
	「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹
	二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授
	汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印
	青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著saup衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、
	非魏朝之失、則傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、sen[冠艸脚倩]絳五十匹、紺青五
	十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀
	二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜
	汝好物也。」
	景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、
	将って送りて京都に詣らしむ。その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方の
	太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を
	奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢獻す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親
	魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し、装封して帶方の太守に付し假授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。 
	汝が來使難升米、牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と爲し、牛利を率善校尉と爲し、銀印
	青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹(臣松之、地はと爲すべきであろう。漢の文帝は衣を着、こ
	れを戈といい、これなり。この字はのっとらず、魏朝の過失ではなく、伝写者の誤りなり)、絳地スウ粟ケイ十張、絳
	絳五十匹、紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十
	匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、
	悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
	景初二年(238年)六月に、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献し
	たいと要請した。太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年(238年?)の12月、以
	下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・
	次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した。
	貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。今
	貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人
	々に示し、人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた。今、難升米を率
	善中郎将とし、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。今、絳地(こ
	うち)、交竜錦五匹〔臣の松之(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そうい)を著(き)て
	いる、これを弋テイ(よくてい)と言う、これである。この字(テイ)は、魏朝の失(あやま)ちではなく、おそらく
	写した者の誤りであろう〕絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳 (せんこう:茜色の紡ぎ)五
	十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答える。また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい
	:模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、
	全て装封して難升米・牛利に託してある。(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、全てを貴方の国中の人に示し
	て、国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。だから、(魏は)鄭重に貴方に好物を授け
	るのである」と。

	■この部分は、難升米を団長とする卑弥呼の使節団が魏を訪れ、魏の皇帝に引見し、その際皇帝が女王に出した詔書を、
	おそらくは原文のままここに掲載することによって、この朝貢時の説明一切を省いている。この詔書の部分は倭人伝の
	他の箇所よりも資料的価値が高いとされているが、魏の皇帝からの詔書が掲載されている国も、東夷伝諸国の中にはな
	い。難升米はこの後も頻繁に名前が登場するので、相当高位の役人だったと考えられる。この詔書の要点は以下の4つ
	である。

	・卑弥呼(ひみこ)を親魏倭王に任命し、金印を与えた。
	・使節団の長である難升米(なしめ)、次官である都市牛利(つじごり)の二人にも官職と銀印を与えた。
	・献上した男の生口4人・女生口6人・班布二匹二丈に対して、絳地交竜錦ほか各種織物があたえられた。
	・さらに特例として、汝(卑弥呼)の好物、各種織物、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚などが与えられた。

				

	■景初二年(238)六月とあるが、これは景初三年の間違いとされる。というのも、魏が、燕王を名乗って暴れ回る、
	帯方郡太守の公孫淵親子を滅ぼすのが景初二年八月なので、その直前に帯方郡へ行く事は不可能とされているのだ。
	これについては特に異論はなく、いわば「誤りだ」というのが定説になっている。
	
	■このとき使者の難升米は、大夫という官名(?)を名乗っているが、これは、かっての中国の王朝である「商」(殷)
	の国の役職名であるという意見がある。そうだとすると、どういう理由で、日本の使者が、当時から見て600年も前に
	滅んだ商の役職を名乗ったのか、という疑問が生じる。想像をたくましくすれば、日本は、既に商(殷)の時代から中
	国と交流があり、或いは商から日本列島へ渡ってきた人々がいて、商の政治の慣行が残っていたということかもしれな
	い。
	■東夷伝では、漢人の官吏を別にすると、登場する諸集団の主や支配者の個人名はほとんど記録されていない。韓の辰
	王でもその個人名は記されていない。ところが倭人伝では、魏へ派遣された使者として、難升米、都市牛利、伊聲耆、
	掖邪狗、載斯、烏越、そして女王の卑弥呼、壹与、さらには邪馬台国に敵対する狗奴国の王、卑弥弓呼まで計9人の人
	名があらわれる。これらの人名をどう呼ぶのかについては別途検討するが、9人までの人名が記録されているのはこの
	倭人伝における倭人社会だけである。中国から見た東アジアの国々(東夷)の中では異例の扱いを受けているのだが、
	これには何か理由があるのだろうか。特別な関係が「倭」と中国の間にあったのではないかと思わせるほど異例である。
	また、陳壽は、卑弥呼がいる邪馬台国とそれを取り巻く周辺国を連合国家と把握し、それを「女王国」として認識して
	いたのは明らかである。「三国志」全体の中で、女王と女王国が登場するのは他に例がないし、その事で特殊な國とし
	て注目を集めていたのだろう。少なくとも中国においては、卑弥呼は既に国際的なスターだったのかもしれない。

	■「親魏倭王」の金印にしても、国号を読み込んだこのような金印を与えた例は、三国志全編を通じても「親魏大月氏
	王」というのがあるだけである。大月氏は当時、中央アジアからインド・イランにかけての大国で、そのうえ仏教の本
	場、いわば文化の宗主国だったわけで、魏が重要視したのは理解できる。しかるに極東の小国に過ぎない倭王に同様の
	扱いをするというのは、前述したような何か特殊な関係があったか、或いは中国では倭は東へ際限なく拡がる大国だと
	思われていたかのいずれかである。
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	正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、
	刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、
	緜衣、帛布、丹木、hu[扁犬旁付]、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其
	八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣
	塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘
	人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、
	壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚異文雜
	錦二十匹。
	正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拜假し、ならびに詔を齎し、
	金帛、錦ケイ、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。その四年、倭王、また使大夫伊聲耆・
	掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印
	綬を壹拜す。その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して假授せしむ。その八年、太守王斤頁官に到る。倭
	の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞
	曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。卑弥呼以て
	死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更相誅殺し、当時千
	余人を殺す。 また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩す。
	壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上
	し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す
	元始元年(240年)、(魏は)太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、倭
	国を訪問し、倭王に拝謁し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。倭王は、使に答え
	て上表し謝意を示した。その四年(243年)、倭王も使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦
	(わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布・丹・木フ・短弓 矢を献上した。掖邪狗等、率善中
	郎将の印綬を授かった(壱拝す)。その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、(帯方)郡経
	由で仮授した。その八年(247年)、太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼
	(ひみここ)とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。
	(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為
	(つ く)って戦いを激励した(告喩す)。卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇
	葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで
	卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才を擁立して女王となし、国中が遂に治まった。政等は、檄文を
	以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見送らせた。
	そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二枚・異文雑錦二十
	匹を献上した。

	■240年に魏からの遣使が来朝し、詔書・印綬を持ってきた。お返しの243年に倭王も使を派遣して、また印綬を
	授かっている。この印綬はいまどこにあるのだろうか。なんと刻印されていたのだろう。

	■翌年245年には、また難升米が黄幢を賜わり、帯方郡で仮授している。難升米は今の外務大臣のような地位にあっ
	た人物なのかもしれない。えらい活躍である。

	■「其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。」これはどう訳せばいいのだろうか。247年に、帯方郡の太守王キが着任
	したという意味なのか、それとも倭に到着したのだろうか。

	■「卑彌呼以死」からは、いつ死んだのかは不明である。しかしわざわざ狗奴国の記事を挿入しているので、この関係
	がゴタゴタしていた最中なのは確かである。載斯烏越等が帯方郡で戦争の様子を報告し、それに対して魏は、塞曹掾史
	張政等を派遣して、詔書・黄幢を授け、檄文を難升米に渡している。ここからすると、魏は邪馬台国に大いに肩入れし
	ていた事がわかるし、対立する狗奴国が、魏の対立国「呉」と連盟していたという説もまんざらでもないかもしれない。

	■大きな冢を作った。直径百余歩。これは前述したように(まだ)古墳ではない。直径百余歩、徇葬者奴婢百余人とい
	うのはおそらくオーバーな数字だろう。もしこの記事がほんとであれば、卑弥呼の墓は発見されればすぐにそれと判る。
	百人もの人骨が卑弥呼を取り巻いていれば、あるいは直径百余歩というのはありえるかもしれないが、まず、卑弥呼の
	墓はそんなに大きなものではないのではないか。民衆は甕棺に収められていた時代である。卑弥呼の墓だけが、今の近
	畿地方に見られるような大きな古墳だったはずはない。直径百余歩といば、円墳にしても相当な大きさである。

	■卑弥呼の死後、女王となった壹与は十三才とある。そして国中が治まった。これは一体どんな社会なのだろうか。い
	かにシャーマンの支配色が強いとはいっても、国中が殺し合っていた弥生社会である。13歳がどこまで統率できてい
	たのかを考えるとき、私には現代の「象徴天皇」とその位置がダブって見える。我々日本人は、遙かな昔から「象徴」
	としての存在を必要としているのかもしれない。こういう伝統が、或いは意識が、今に至るまで天皇家を存続させてい
	る要因なのかもしれないと、ふと思ってみたりする。しかしそうなると、邪馬台国が東遷して大和朝廷になる必要があ
	るしなぁ。
	■政等は、檄文を以て壹与を激励し、壹与は、大夫率善中郎「掖邪狗」等二十人を派遣して、政等を見送らせている。
	掖邪狗等は、魏の都、洛陽まで詣でているので、ここでも「魏」と「倭」の関係の堅固な事がわかる。贈られていった
	男女生口三十人の中には、私の縁者もいたのかも知れない。
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	■魏志倭人伝を読んできて、邪馬台国=近畿説がなりたたない事が理解頂けたことと思う。これを読む限り、日本は未
	だ統一には至っていない。「漢書」には別れて百余国となっているし、後漢になって朝貢した国でも一つは「奴国」で
	一つは倭の「面土国」である。三国時代になっても、倭の女王国は三十国を従属させているとは言っても、南には狗奴
	国と敵対し、東には「皆倭種」の国々がひかえている。これはとても大和朝廷(或いはその前身)によって倭が統一さ
	れている状態とは言い難い。もし日本が統一されていたとすると、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」という
	一文は全く意味をなさない。同時期、朝鮮半島では馬韓は50余国にわかれ、辰韓、弁韓も12国に別れて争っていた。
	日本だけが統一されていたという見方は、東アジアの状況を全く無視し、倭だけが特殊な民族であったとする、「天皇
	陛下万歳!」時代の史観と全く変わりがない。古墳の築造時期を古く古く持って行こうとし、大和朝廷による統一が、
	既に弥生時代には成立していたと言うことにしたい人たちは、形を変えた「皇国史観」の持ち主であるという事に早く
	気づいてほしいものだ。

	■ではいつ頃日本は統一されたのかという問題がある。卑弥呼が魏に朝貢したのは238ー247年の頃であるから、
	この頃はまだ統一には至っていない。しかるに、高句麗の好太王の碑文によれば、日本は辛卯の年(391)には大挙し
	て朝鮮半島に兵を出し、400年前後には京城付近まで進出して高句麗と争っている。これはとても九州の一隅の兵力
	では不可能だろうと思われる。「日本書紀」や朝鮮の「三国史紀」などによれば、360年頃から日本は百済と関係を
	持っている。これらを考えると、日本は3世紀の半ば頃にはまだ統一されていないが、4世紀の初めから前半には既に
	統一されていたことが明らかである。これは馬韓50余国が統一されて百済となり、辰韓12国が統一して新羅となっ
	たのとほぼ同一時期である。この、短期間に成立した日本の統一はいかにして成ったのか。邪馬台国が東遷して大和朝
	廷になったと考えると悩まなくて済むのだが、私にはまだ何か別の要因があるような気がして仕方がないのである。


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