13.考古学の成果からみると


	考古学の成果からみると、邪馬台国が近畿ではなく北部九州にあった事は明白である。私は今、大阪にもう30年住んで
	いるし、邪馬台国が近畿にあったとしても心情的には別段かまわない。何が何でも、生まれ故郷である北九州に邪馬台国
	があったのだという気持ちはなくなった。しかし現在までの、歴史学(文献学)、考古学、植物学、及びその他の諸学問
	の成果から考察するに、邪馬台国はどう考えても北部九州である。特に、これだけの考古学資料が現在提示されているに
	もかかわらず、かんじんの考古学者(それも主に近畿圏で活躍している考古学者)たちが、最近その結果に全く相反する
	主張ばかりをしているように思える。産能大学教授の安本美典氏は、マスコミも巻き込んだこの考古学者たちの、文献ば
	かりか考古学の成果をも顧みない傾向に対して、孤高な警鐘を鳴らしている。
	考古学の成果を顧みない考古学者達の「邪馬台国=畿内説」にいったいどんな意味があるのかと世に問うているのである。
	そしてそれをセンセーショナルに報道しているマスコミに対しても、その報道姿勢を強く問うている。
	(季刊「邪馬台国」84号−緊急特集・朝日新聞「転換古代史」記事への公開質問状」:平成16年7月1日梓書院発行)




	このHP「邪馬台国大研究」は、この安本教授の主張には全面的に賛同するものである。しかし、教授がこれまでに発表
	した古代史に関する全ての主張に賛意を示しているわけではない。「邪馬台国東遷説」そのものにも、全面的には賛同し
	かねるような部分もあると感じているが、それはともかく、前述したような「マスコミ+畿内説論者(とくに考古学者)」
	たちの、学問の成果を顧みず情感だけで発言しているような態度と、それをオーソリティーの発言として読者に誤解を招
	きかねない特集記事ばかり書いている大新聞(特に朝日、毎日といった大新聞)には、日頃疑問を抱いていたので、遠く
	難波の空の下から安本教授の援護射撃をしたいと思う。
	私見では、最近歴史関係の報道が多く、またその記事の内容が妙に偏っていないと思えるのは、上記に讀賣も加えた三大
	新聞よりも、産経新聞、日本経済新聞といった新聞の方が多いように思える。
	尚ここでの資料解説の殆どは、教授支援のHP、或いは上記の雑誌および最近の著作集に書かれている主張とほぼ同じも
	のであるが、とくに「邪馬台国と高天の原伝承」(勉誠出版平成16年3月10発行。)をおもなテキストとした。
	従って、安本博士の著作をよくお読みの方は、このコーナーはSKIPしていただいてかまわない。

	
<弥生時代 諸遺物の県別出土状況のデータ>
都道府県 10種の魏晋鏡 弥生時代
の鉄鏃
素環頭刀子・刀子 弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈 参考
およそ
邪馬台国時代
およそ
古墳時代
合計 鉄刀 素環頭太刀・素環頭鉄剣 鉄剣 鉄矛 鉄戈 合計 三角縁神獣鏡 前方後円墳(全長100m以上)

福岡県
佐賀県
大分県
長崎県
宮崎県
熊本県
鹿児島県
20
4
1
2
0
0
1
17
5
1
1
3
0
0
37
9
2
3
3
0
1
398(4)
58(2)
241(2)
29(3)
100
339(1)
3
210(2)
39(1)
21
12(1)
6(1)
68(1)
1
17
5
1
5
1
2
0
16(1)
7
1
1
1
1
0
46(1)
18(1)
9
23
6(1)
10
0
7
2
0
1
0
0
0
16
2
0
3
0
0
0
102(2)
34(1)
11
33
8(1)
13
0
49
5
11
0
3
4
1
6
1
2
0
12
5
2
小計 28 27 55 1168(12) 357(6) 31 27(1) 112(3) 10 21 201(4) 73 28

山口県
島根県
鳥取県
岡山県
広島県
1
0
1
0
0
1
5
4
10
3
2
5
5
10
3
97
30
46(4)
104(3)
79
23
12
36
18
25(1)
3
1
16(1)
1(1)
3
1
0
1
0
0
3
2
9
10
3
2
0
0
0
0
0
0
0
0
0
9
3
26(1)
11(1)
6
9
5
7
24
5
2
0
2
13
0
小計 2 23 25 356(7) 114(1) 24(2) 2 27 2 0 55(2) 50 17

愛媛県
香川県
高知県
徳島県
0
0
0
0
1
3
1
0
1
3
1
0
25
36
53
4
18
6
1
3(1)
0
0
0
0
0
0
0
0
2
5
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
2
5
0
0
3
6
0
3
0
2
0
0
小計 0 5 5 118 28(1) 0 0 7 0 0 7 12 2

兵庫県
大阪府
京都府
奈良県
滋賀県
和歌山県
三重県
2
1
1
0
0
0
0
8
11
14
2
2
1
3
10
12
15
2
2
1
3
92(2)
40
112(1)
4
13
5(1)
3
20
6
14
0
1
1
2(2)
2
1
4
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
21(1)
2
44
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
24(1)
4
48
1
0
0
0
44
38
66
100
13
2
15
10
52
17
72
4
0
4
小計 4 41 45 269(4) 44(2) 7 2 68(1) 0 0 77(1) 278 159

岐阜県
愛知県
静岡県
長野県
福井県
山梨県
新潟県
石川県
0
0
0
0
0
0
0
1
2
2
1
2
1
0
0
2
2
2
1
2
1
0
0
3
0
11
3
27
32
2
1(1)
55
0
3
1
8
15
2
5
21
0
0
0
1
6
0
0
4
0
1
0
0
0
0
0
0
1
0
5
11
4
0
2
6
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
1
5
13
10
0
2
10
16
18
10
2
2
3
0
2
5
3
5
0
3
2
0
1
小計 1 10 11 131(1) 55 11 1 29 1 0 42 53 19

群馬県
栃木県
埼玉県
東京都
神奈川県
千葉県
茨城県
0
0
0
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
21(1)
0
1
37
7
63
3
0
0
0
2
5
14
0
0
0
0
0
1(1)
1
1
0
0
0
0
0
0
0
16
1
7
4
4
14
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
16
1
7
4
5(1)
15
2
12
0
0
0
2
2
1
28
7
9
3
0
14
8
小計 0 2 2 132(1) 21 3(1) 0 47 0 0 50(1) 17 69

福島県
宮城県
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
3
3
小計 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0
合計 35 108 143 2172(24) 619(10) 76(3) 32(1) 290(4) 13 21 432(8) 484 300

	■10種の魏晋鏡
	安本教授は、卑弥呼が魏から貰った鏡は三角縁神獣鏡ではなく、その当時中国の北方で入手できた内行花文鏡、位至三公
	鏡などの鏡であろうと考えている。魏や晋の時代に、中国北方で流行した10種の鏡について出土状況をみたのがこの数
	値である。これによれば、畿内よりも九州から多く出土し、福岡県からは奈良県の20倍にちかい数が出土している。
	時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で使われていた鏡が、後の古墳時代になって、近畿など他の地域にも広が
	ったように見えると指摘する。
	■鉄についての数値は、広島大学考古学研究室、川越哲志(かわごえてつし)編『弥生時代鉄器総覧』(2002年2月22日刊
	行)のデータによる。
	■鉄鏃・素環頭大刀・刀子・鉄剣について、出土数の記載がなく、出土した場所のみが記載されている場合は、「鉄鏃」
	「素環頭大刀」「刀子」「鉄剣」出土数1とし、カッコ内に出土地点の数が示してある。
	■「鉄剣または鉄刀1」とあるもの(福岡県の事例)は、いちおう「鉄剣1」として数えたうえで、その数がカッコ内に
	しめされている。
	「鉄剣(槍?)1」「刀子(槍先?)1」とあるもの(いずれも宮崎県の事例)は、それぞれ「鉄剣1」「刀子1」とし
	て数えたうえで、その数がカッコ内に示されている。
	■「鉄鏃?1」のように、「鉄鏃」かどうか疑問のあるものは、カウントされていない。



	上図の中から、特に福岡県と奈良県に限ってデータを抽出したのが以下の表である。






	(1).鉄

	魏志倭人伝と、記紀に書かれている日本神話の大部分は弥生時代のことである。神話の第一ステップとも言える、伊邪那
	岐・伊邪那美の日本列島形成に用いられる道具は矛(ほこ)である。2人は海の中で矛をかき回し矛先からこぼれ落ちる
	したたりで、「おのごろ島」という島を造る。ここに降って、SEX(と思われる表現)で次々と日本の国土を造って行
	くのである。「古事記」には、天の神々が2人に「天(あま)の沼矛(ぬぼこ)を授けて」とあるが、矛が祭祀用に用い
	られるのは明らかに「弥生時代」である。又、今日その出土地域は、北九州をはじめとする西日本に集中している。
	素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲で「八俣の大蛇」(やまたのおろち)を退治したときに尾の中からでてきたという
	剣は、一般に「三種の神器」の一つとして知られるが、今日これは天皇家の「神宝」とされ、名古屋の「熱田神宮」にあ
	る(と言われている)。誰も見た者はいないが、古来よりこの剣は弥生時代の有柄銅剣(吉野ヶ里からも出土した)であ
	ろうとされている。
	同じく「古事記」をはじめから読み進んでいくと「天の岩戸」物語までの間だけでも、今日我々が博物館で見ることので
	きる「弥生時代」の遺物を表現した描写が繰り返し登場する。即ち、「長い剣」、「剣の柄」、「御剣」、「左の手に付
	けた腕輪」、「右の手に着けた腕輪」、「大きな勾玉」、「靭(ゆぎ)」、「矢」、「玉の音」、「玉の緒」、「珠」、
	「鏡」、「大きな鏡」等々。
	「邇邇芸の尊」(ににぎのみこと)が降臨に際して高天原から持ってきたという「八咫の鏡」も「三種の神器」の一つで、
	現在伊勢神宮にあるという事になっているが、福岡県前原市の三雲遺跡から出土した「内行花文鏡」を想定する学者も多
	い。同じく「八尺の勾玉」(やさかのまがたま)も現在皇居にある(と言う事になっているが、今日では、天皇自身もこ
	の「三種の神器」は実見できない。したがって実物を見た者は誰もいないのである)。
	三種の神器は「剣」「鏡」「玉」である。これらは九州の特に北九州の弥生墳墓および畿内の古墳から出土する。これら
	の事実からみて、神話の時代を「縄文時代」と言う人はいないだろうし、「白鳳時代」とも言えないと思う。明らかに、
	「弥生時代」「古墳時代」の遺物について語っているし、状況的には「古墳時代」よりも「弥生時代」の方に分がある。
	つまり、日本古代の「神々」は弥生時代に活躍していたのである。

	■魏志倭人伝には、倭人は鉄の鏃(やじり)を使うと記されている。「兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く
	上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃( てつぞく)だったり骨鏃である。」鉄の鏃は、畿内よりも九州から圧倒的に多く出土
	する。上下の図表を見ても分かるように、福岡県からは、「鉄の鏃」は398個出土している。奈良県からはわずか4個
	しか出土していない。実に奈良県の約100倍の鏃が出土しているのである。奈良県を掘っていない訳ではない。同志社
	大学の名誉教授森浩一氏によれば、「奈良県の弥生遺跡の発掘は、おそらく佐賀県でやっている発掘よりも広い面積をや
	っています。いろんな人たちが、まるで、ふるいにかけるように、奈良県の弥生遺跡を掘っている。大面積を発掘してい
	る。遺跡が多いですから、福岡県の方が広いとは思いますけれど、奈良県でも、たくさんの弥生遺跡の、丁寧な発掘は進
	んでいるんです。」(季刊邪馬台国53号「考古学と邪馬台国」)






	■鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
	倭人伝にはまた、倭人は兵器に矛を持つと記録している(前出)。鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内より
	も、九州から圧倒的に多く出土する。102個と1個で、これまた福岡県からは、奈良県の約100倍出土している。   






	■刀子(とうす)
	刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。その分布は、倭人の鉄の使用状況をよく示すと思われる。
	西日本の博物館に行くと、長いさびた鉄の刀に混じって短い10−20cm位の鉄の棒が並んでいるが、これはたいてい
	刀子である。刀子も、畿内より九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土しているが、奈良県では一本
	も出土していない。




	上記のような考古学上の成果に対し、邪馬台国=畿内説を唱える学者たちの大半は沈黙しているが、中には良心的な学者
	もいて、橿原考古学研究所の寺沢薫氏などはすなおにこれらの事実は認めている。「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方
	で多く出土する事実は変わらない、鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」「(弥生時代
	後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルート
	を持っていたというような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」
	(日本の歴史02「王権誕生」2002年講談社刊)






	(2).絹

	倭人伝は、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記録する。「禾稲 (かとう:稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)
	え、蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:絹?)を産出している。」とある。
	絹が、畿内よりも、九州からはるかに多く出土することは、以下の図を見ても明らかである。奈良県に比べると、福岡県
	は圧倒的に出土地の数が多い。 
	養蚕の歴史は新石器時代にまでさかのぼる事が出来るので、日本にも相当古くから絹は存在していたと思われる。養蚕技
	術は、完全に大陸からの移植と考えられている。それは、日本も含め現在世界中で飼われているカイコの生殖細胞の染色
	体(n)は28なのに、日本の野生のカイコのものは27だからである。中国大陸の野生のカイコの(n)も28なのだ。
	つまり、養蚕は日本独自であみだされたものではなく、明らかに中国大陸から伝播したものなのである。絹を使った織物
	は、魏志倭人伝にいくつか登場する。中国から送られた交龍錦、紺地句文錦、卑弥呼が送った倭錦、こう青兼、異文雑錦
	(台与が貢納)等々である。
	京都工芸繊維大学の名誉教授で絹に関する世界的な権威、布目順朗(名前も布である)博士は、長年、各地の遺跡から出
	土した絹の細かい分析をしてきた。その結果から次のように述べている。「中国もそうであったように、養蚕は九州の門
	外不出の技術であった。少なくともカイコが導入されてから数百年間は九州が日本の絹文化を独占していたのではないか。」
	事実、弥生時代後期までの絹の出土は全て九州の遺跡からであり、近畿やその他の本州で絹が出土するのは古墳時代にな
	ってからである。出土地は筑後川北岸の福岡県と、有明海北岸の佐賀県に集中している。福岡県甘木市の栗山遺跡、佐賀
	県吉野ヶ里などが有名である。時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になっ
	て、近畿など他の地域に広がったように見える。




			<弥生時代・古墳時代の絹製品を出土する遺跡>

			■弥生前期
			 福岡市早良区有田遺跡(前期末)
			■弥生中期
			 福岡市西区吉武高木遺跡(中期初頭)
			 福岡市博多区比恵遺跡(中期前半)
			 福岡県甘木市栗山遺跡(中期前半及び後半)
			 佐賀県神埼郡神埼町朝日北遺跡(前期中葉)
			 佐賀県神埼郡神埼町吉野ヶ里遺跡(中期)
			 福岡県飯塚市立岩遺跡(中期後半)
			 福岡県春日市門田遺跡(中期後半)
			 福岡県春日市須玖岡本遺跡(中期後半)
			 福岡県太宰府市吉ケ浦遺跡(中期後半)
			 長崎県島原市三会村遺跡(中期後半)
			 福岡市西区樋渡遺跡(中期後半)
			■弥生後期
			 福岡県甘木市栗山遺跡(後期初頭)
			 福岡市西区宮の前遺跡(後期終末)
			 福岡市東区唐の原遺跡(後期終末−古墳前期)
			■古墳前期
			 富山市杉谷A遺跡(前期初頭)
			 福岡市博多区那珂八幡古墳(前期初頭)
			 京都府中郡峰山町カジヤ古墳(前期後半)
			 奈良県天理市柳本町大和天神山古墳(前期後半)
			 石川県七尾市国分町国分尼塚一号墳(前期後葉)
			 福岡県糸島郡二丈町一貴山銚子塚古墳(前期末)
			 京都府福知山市広峯一五号墳(前期末)
			 島根県安来市矢田町椿谷古墳(前期)
			 島根県安来市小谷土礦墓(前期)
			 島根県安来市荒島町造山三号墳(前期)
			 島根県飯石郡三刀屋町松本一号墳(前期)
			 奈良県桜井市外山桜井茶臼山古墳(前期)
			 福岡県太宰府市菖蒲が浦古墳(前期)
			 京都府園部町園部垣内古墳(前期)
			 熊本県宇土市松山町向野田古墳(前期末−中期前半)






	(3).勾玉
	魏志倭人伝には、倭の使いが魏の国に、「白珠五千・孔青大句珠二枚」を奉ったことが記されている。この記事を巡
	っても諸説あるが、白珠は真珠、大句珠というのは大きな勾玉と理解できるようである。孔は「ふかい・大きい・は
	なはだ」という意味(日本古典文学大系「日本書紀上」岩波書店)があり、孔青とは、「ふかい青」という意味にと
	れる。また、句は勾の本字だそうだ。(「学研漢和大辞典」藤堂明保、「大漢和辞典」諸橋轍次)。つまり「句」も
	「勾」も同じ意味を持った字で、曲がる、ひっかける、かぎ、という意味になる。日本書紀では勾玉とも曲玉とも記
	されている。
	福岡の平原古墳からは、長さ約3cm、幅約1.8cm前後の深い青色をしたガラス製の大勾玉が三個出土している
	が、これなどは正(まさ)しく孔青大句珠と言えるだろう。平原遺跡出土のメノウの首飾りやコバルトブルーの勾玉
	(下)は、2000年近い時を隔ててもなおすばらしい輝きを秘めている。

			


	弥生時代の硬玉製勾とガラス製勾玉の出土状況は以下のようになる。やはり福岡県、佐賀県、長崎県などの北九州か
	ら圧倒的多数が出土している。
	





	(4).ガラス

			

	上の写真は、福岡県春日市の赤井手遺跡から出土したガラス勾玉の鋳型である。このHPでも紹介している春日市の
	「奴国の丘歴史公園」に行けば、歴史資料館で本物が実見できる。弥生時代のガラス製品は、岩手県から山口県まで
	の本州内で約50、北九州で約100カ所から発見されているのであるが、ガラスの勾玉鋳型が出土したのは4カ所
	しかない。大阪府茨木市の東奈良遺跡、山口県菊川町の下七見遺跡、福岡県弥永原遺跡、そして春日市の赤井手遺跡
	である。ガラス製品全体を見ても鋳型は9カ所からしか出ていない。東奈良と七下見を除けば全て福岡県春日市周辺
	である。従って当時の日本に、ガラスで勾玉を製作する技術が、少なくとも伝わっていた事は確かである。
	一番可能性があるのは、福岡県それもいわゆる「奴国」とされている春日市周辺である。しかし、原材料も日本で入
	手していたかは、現段階では不明なのだ。管玉は出土数が少ない事から、吉野ヶ里の管玉も、東京ガラス工芸研究所
	の由水(よしみず)常雄所長は「製造は朝鮮半島であろう。」と推測している。朝鮮半島での管玉出土がその可能性
	を高めている。日本で出土するガラス製品は、圧倒的に「鉛・コバルトガラス」なのだが、いくつかは「ソーダガラ
	ス」も混じっている。当時中国産のガラスにはソーダガラスは全く存在しないので、由水氏の言うように、ガラスは
	「中国−朝鮮ルート」と「中央アジア−朝鮮ルート」の二つの道を辿って日本へもたらされた可能性も否定はできな
	い。




	上記の図には出てきていないが、実は弥生時代のガラス製品が大量に出土している地域がある。丹後半島である。
	北九州と並び、丹後半島も他地域に比べて圧倒的な出土数を誇る。どうして上図に表わされていないのかちょっと不
	明だが、丹後半島のガラスの多さは一つの謎である。
	丹後のガラスに関しては、歴史倶楽部の例会で丹後半島を訪問したので、その時のレポートを参照されたい。
 


	以上見てきたように、魏志倭人伝に記載があるもので、弥生時代の主な出土物の分布から言えば、弥生時代の奈良に
	は殆ど見るべきものがない。2,3世紀の福岡県と奈良県には圧倒的な差があるのである。3世紀には既に奈良の大
	和王権が日本中を支配していたなどという、一部の畿内説論者の発想は、この考古学の成果をどう判断しているのだ
	ろうか。しかも奈良県を掘っている考古学者のなかにも、そういう意見を言う人がいるのである。頭の構造はいった
	いどうなっているのか。よく学者などになれたものである。
	以下のコーナー、三角縁神獣鏡と前方後円墳については、これまでとは逆に「魏志倭人伝に記載されていないもの」
	のデータである。これらを邪馬台国の時期へ近づけるために、邪馬台国近畿説の論者達は様々な、詭弁とも思える論
	を展開しているが、全く先入観無しの公平な目で見ても、無理のある主張が多いと思う。近畿圏の学者達の、奈良県
	の前方後円墳の発生を古く古く持って行こうとする思いつきの学説、そして、思い込みによるため学術的な証拠や証
	明が全くなく、自己主張のみの断言や、マスコミも動員してのPRばかりが目立つ、ほとんど目茶苦茶な議論をして
	いる。かくて、考古学者が考古学的な事実すらも無視する傾向が目立ちはじめている。
	安本教授の言うように、全く「空理空論の考古学」というほかはない。

	しかしながら、見てきたような状況は4世紀にはいると逆転する。以下の三角縁神獣鏡や巨大な前方後円墳は、奈良
	を中心とする近畿地方で圧倒的な優位に立っている。福岡県には巨大古墳はほとんど無い。三角縁神獣鏡も近畿圏が
	圧倒的な出土数を誇る。これは王権の或いは政権の実勢が、大きく北九州から近畿圏へ移動したことを物語っている。



	(5).三角縁神獣鏡

	弥生時代の鏡は、多くが北九州から出土している。庄内式土器の時代の鏡は、奈良県よりも、福岡県から出土してい
	るし、古鋳の三角縁神獣鏡も、福岡県から出土している。このことは、八咫の鏡についての国内伝承とも重なりあい、
	三角縁神獣鏡の誕生の地が、北九州であることを示唆している。しかし、現在出土している三角縁神獣鏡のほぼすべ
	ては、四世紀後半の、崇神天皇−景行天皇を中心とする時代に、主に近畿圏を中心に、九州から関東にわたる日本各
	地で生産されたものと考えられる。  
	三角縁神獣鏡は、4世紀の墳墓からしか出土していないし、日本では500面以上出土しているのに、中国からは、
	1面も出土していない。九州よりも、畿内のほうが圧倒的に出土数が多い。奈良県から100面出土しており、福岡
	県からはその半分の49面が出土している。もし三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だという事になれば、当然邪馬台国は近
	畿に決まりである。北九州にあった邪馬台国から、近畿圏に鏡だけを大量に運んでくるわけはないからだ。当然、近
	在に居た配下の豪族達に鏡を配賦したのであろうし、邪馬台国の卑弥呼の勢力は、近畿一円に及んでいた事がはっき
	り見て取れる。いや近畿圏のみならず、西日本を中心としてほぼその当時の日本を既に支配していた事になる。

	これは、弥生時代の鏡を、後生大事に一族で保管して、古墳時代になって一斉に古墳の副葬品として埋葬するという、
	いわゆる「伝世鏡」という考え方に基づいている。しかし伝世などなかったとすれば、三角縁神獣鏡は明らかに4世
	紀になって出現した鏡であるし、邪馬台国時代が終りをつげて、古墳時代の幕開けに、急速に邪馬台国とは違う勢力
	が近畿に出現した証拠にもなる。だとすれば、卑弥呼の鏡は北九州一円に散逸している前漢鏡・後漢鏡あるいは魏晋
	鏡という事になって、邪馬台国は北九州である可能性が俄然高くなる。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないことは、こ
	のHPの「日本古代史をとりまく謎」コーナーの「三角縁神獣鏡の謎」で詳細に検証したので、そちらを参照願いた
	い。





	(6).前方後円墳

	■巨大前方後円墳(80m以上)
	巨大前方後円墳はの成立発展は、大和朝廷の成立発展と結びつく。そして、三角縁神獣鏡は、しばしば、前方後円墳か
	ら出土し、その分布のようすは、巨大前方後円墳の分布とよく似ている。三角縁神獣鏡が、大和朝廷の祭器として前方
	後円墳の発展に伴って普及したことを思わせる所以である。   
 



	■巨大前方後円墳(100m以上)
	5世紀になると、100メートル以上の巨大前方後円墳の築かれることがより多くなり、その分布のようすは、奈良県
	と福岡県の格差が大きくなる傾向にある。つまり、時代が下がるにつれ、福岡県にくらべ、奈良県の優位性が進むので
	ある。
	鏡の、墓への埋納の習慣や、鏡・剣・玉の尊重など、九州と近畿が連続性を保ちながら、出土の中心が大きく動き逆転
	するのは、いわゆる「邪馬台国東遷説」によって説明が付く、と安本教授は考えている。北九州と近畿圏(奈良)の地
	名の類似や古方言の類似などを考えると、私も大きくこの説に惹かれるがまだ完全には検証し終えていない。
	また、この「東遷」の考古学的な事実と、古事記・日本書紀の語るストーリーとは驚くほど一致しているのもはなはだ
	魅力的である。考古学的な事実も、文献学的な事実も、統一的に説明ができるというのは確かにいい理論と言えよう。








	この考古学の成果は、一研究者である川越氏単独の研究結果ではない。多くの考古学者たちが統計を取った結果でも、
	ほぼ同様の数値と分布が導き出されている。これはどんな人が考えても以下のような結果になっているのである。

	(1).わが日本列島においては、3世紀の邪馬台国頃までの遺跡からの発掘品は圧倒的に九州、それも北九州から出
		土している。
	(2).特に鉄・絹製品については、圧倒的に北九州が多く、近畿地方の特に奈良県では殆ど鉄は無かったといっても
		いいほどである。
	(3).これは、いままで見てきたような、中国の文献に書かれたわが国の弥生時代の状況とまったく完全な一致を見
		ている。
	(4).4世紀にはいると、この状況は反転し、多くの古墳が近畿に出現しだし、5世紀にいたっての大型古墳は、近
		畿以外の地方ではほとんど見られない。

	このような、小学生でも分かるような簡単な理屈が、一部の考古学者たちにはまったく理解できていない。いったい頭
	の中はどうなっているのかと言いたいほどだ。

	鉄の分布をめぐって、かって奥野正男氏と佐原真氏の間で論争があった。奥野氏はアマチュアの考古学者から宮崎公立
	大学の教授になった人で、佐原氏も幾つかの研究機関を経て、千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館の館長だった人
	である。奥野氏の見てきたような考古学の成果に対して佐原氏は、松本清張編「銅鐸と女王国の時代」という本の中で
	奥野氏に反論し、「九州からは弥生時代の鉄器がたくさん見つかっているのに畿内では乏しい。古田武彦さんも奥野正
	男さんもこれを「直接的事実」と理解し、畿内と比べて九州の優位を説いている。これに対して私は、たとえば弥生時
	代V期の畿内には石器が基本的に無いという現象を鉄器の普及とみ、「間接的事実」として受け取り、鉄器はあったの
	だと考える。」と述べている。
	つまり近畿では、石器が見つからないから鉄器を使っていたのだとし、これを「間接的事実」と名づけて以後も同様の
	主張を繰り返している。また畿内は九州に比べて鉄の腐敗が激しく、腐ってしまった、あるいは他の製品を作るのに鋳
	溶かしてしまったなどと述べている。そして驚く事に、この論争以後もこういう主張を繰り返しているのである。さす
	がにこれには、畿内説の学者の中でも批判が強く「いくら腐敗すると言っても、鉄だけが九州に比べ畿内の方が腐敗が
	激しいなどという事はありえない。鉄については、畿内説論者がいくら詭弁を弄しても、北九州が圧倒的に優位に立っ
	ているという事実は否めない。」(寺沢薫氏。橿原考古学研究所)という、きわめて常識的な意見もある。








		<参考資料>  <主要な遺跡・遺物数の全国的な統計> 出典:兵庫県HP
		====================================
		1 遺跡所在件数( 平成5年3月文化庁調べ)1位兵庫県25,406 カ所
							 2位千葉県25,131 カ所
							 3位福岡県16,968 カ所
							 4位静岡県14,149 カ所
							 5位鳥取県13,192 カ所
							 全国370,840 カ所

		2 古墳所在基数(平成13年3月末)	 1位兵庫県16,577 基
							 2位千葉県13,112 基
							 3位鳥取県13,094 基
							 4位福岡県11,311 基
							 5位京都府11,310 基
							 全国161,560 基

		3 出土遺物量累計(平成13年3月末)	 1位大阪府870,762 箱
							 2位福岡県493,356 箱
							 3位千葉県331,998 箱
							 4位京都府273,846 箱
							 5位兵庫県231,631 箱
							 全国6,296,680 箱

		4 銅鐸出土数(平成13年3月末)	 1位兵庫県56 点
							 2位島根県54 点
							 3位徳島県42 点
							 4位滋賀県41 点
							 5位和歌山県41 点
							 全国約500点

		5 三角縁神獣鏡出土数(平成13年3月末) 1位奈良県75 面
							 2位京都府55 面
							 3位兵庫県45 面
							 4位福岡県27 面
							 5位岡山県18 面
							 全国約400面
		====================================



	安本教授は前掲の書、「邪馬台国と高天の原伝承」(勉誠出版平成16年3月10発行。)で述べている。

	『魏志倭人伝には、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。」と述べられているだけではない。「女王国より以北は
	その戸数・道里は略載するを得べし。」とも述べられている。戸数・道里を略載されているのは「対馬国」「一支国」
	「末廬国」「伊都国」「奴国」「不弥国」である。これらは女王国の以北にあったのである。すると女王国はこれらの
	国、例えば「伊都国」の南にあったのである。「魏志倭人伝」はまた記す。「女王国より以北にはとくに一大率をおい
	て、諸国を検察させている。(一大率は)常に伊都国に(おいて)治めている。」ここでも伊都国は女王国の北だと記
	されている。つまり、女王国は、伊都国の「南」だというのである。「魏志倭人伝」に三度にわたって記されている。
	「伊都国」と「邪馬台国」の位置関係は三度とも誤りだというのだろうか。
	「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りなどとそんなに簡単にのべてよいのであろうか。邪馬台国論争は「魏志倭人伝」
	を出発点としている。「鉄の鏃」のように。考古学的に確かめられる事実も「魏志倭人伝」に書かれている記事内容も、
	殆ど一切無視して、邪馬台国を議論する考古学って、いったい、なんだろう。学問の名に値するものなのだろうか?』

	全く同感である。この頃考古学はおかしい。考古学者がおかしいというべきかもしれない。ねつ造問題にたいする学会
	の姿勢といい、見てきたような、事実を無視して我田引水的に大和王権が弥生中期には日本を統一していたとか、何か
	変な方向へ走っている。どこをどう見てもそんな結論には至らないと思うのだが、この風潮は、もしかしたら一人考古
	学者たちだけの問題ではないのかも知れない。
	今、日本中でおかしな現象が起きている。全国の警察署で示し合わせたように行われていた公金横領、雪印や三菱自動
	車に代表される多くの企業で行われていた大規模な不正の数々。女生徒を強姦・誘拐する教諭たち。友達を殺す小学生
	や、幼い我が子を残虐に殺してしまう若いバカ親たち。これらの根源はもしかしたら一つかもしれない。いま日本中が
	おかしな方向へ走っているその中に、考古学者達もいるのかもしれない。学問の世界にも、一億総バカ化現象は徐々に
	進行しているのかもしれないのだ。このままいけば、まもなく日本はエライ事になってしまう可能性がある。

	平成16年7月28日 猛暑の吹田市にて


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