21. 邪馬台国の考古学




	とうとう邪馬台国へたどり着いた。世間には、魏志倭人伝そのものが全くの虚構で、邪馬台国などもともと存在して
	いない、という説を唱えている人たちがいるが、私に言わせればこの人たちは実に可哀相である。可能性が無いわけ
	ではない。もしかしたらそうかもしれない。しかしそうである積極的な理由は見あたらないし、むしろ魏志倭人伝は、
	我が国の古代を描写した一級の資料としての価値の方が高い。だとすれば邪馬台国も存在していたのだと考える方が、
	古代史を学ぶ楽しさが倍増するというものである。万が一、何かの新しい発見でそれが真実(邪馬台国は存在せず)
	だとわかったら、その時は潔く「長い間楽しませてくれてありがとね。」と引き下がればいい。「邪馬台国なんぞあ
	るもんか」と斜に構えて、論争している連中を小馬鹿にするよりも、「ここだ」、「こっちだ」、「いやそれは違う」
	と論争に加わっている方がはるかに楽しい。




	という訳で、私の邪馬台国位置論は、いちおう「筑後川中下流域一帯」ということに落ち着いたのだが、下流域はど
	ちらかといえば傍国で、その中心は中流域にあったのではないかと思う。人口的に下流域も含まないととても7万戸
	にはならないので、広く中下流域を想定したが、北九州における相対的な位置関係や、遺跡の分布度合いから見て、
	邪馬台国の中心は「筑後川中流域」にあったのだと考える。
	中流域は私の生まれ故郷でもある。「あぁそうか、やっぱりな。」と思われる方もいるだろう。地方の郷土史家達の
	大半が、生まれ故郷を邪馬台国だと唱えているのは、いわば古代史の常識なので、私もその一員だと思われるのは仕
	方がない。森浩一氏が言うように、「考古学はムラ興し」だから、自分の故郷を意義深い土地にしたい気持ちが全く
	ないとは言えない。しかし私が邪馬台国を筑後川中下流域一帯とする意味合いは、郷土史家たちの思いとはだいぶ違
	う。




	これもあちこちで書いてきたが、私は今大阪に住んでいる。23才で福岡を出て、花園ラグビー場のすぐ隣の、会社
	の独身寮を皮切りに、東大阪(大阪)→尼崎(兵庫県)→八幡(京都)→吹田(大阪)→流山(千葉)→吹田(大阪)
	と転居して、流山に住んだ3年間を除けば、近畿圏にもう28年住んでいる。もともと京都に憧れていたので、前の
	会社で入社後の研修が終わった後、大阪営業所勤務を希望し、今でもまだ、最終的には京都か奈良に住みたいと願っ
	ているほど近畿圏が好きになった。生まれ故郷へ帰りたい、などと言う気持ちはサラサラない。邪馬台国が奈良だっ
	たらいいかもなぁ、と思うこともある。しかし、古代史を取り巻く状況は、あきらかに邪馬台国は北九州だと示して
	いるのである。
	思うに、近畿圏出身の歴史学者・考古学者で、全く東京住まいや地方住まいをしたことの無い人たちほど、邪馬台国
	は大和だ!と唱えているような気がする。彼らも、私に言わせれば郷土史家である。土着性がすこぶる強い。名誉教
	授や、歴史界の重鎮などと呼ばれていても、思いはまったく郷土史家であり、その論考は科学的ではなく極めて情緒
	的であると言わざるを得ない。
	故郷の意義深さを何かに見いだしたい、何もかもが東京に集中している現代の日本において、ふる里がいかに歴史的
	に崇高で系統立っているかを証明したい。こういう思いが強いあまり、客観的な状況や提示されている資料が、全く
	目に見えなくなってしまっているのではないか。見てきたような多くの事実が、明らかに邪馬台国は北九州だと示し
	ているのに、それは認めたくはないのである。あくまでも、「近畿は美しく」あらねばならないのだ。自分たちの先
	祖が、九州の蛮族なんかであってたまるものか、という思いなのだろうか。何か、ガリレオを批判した時の学者連中
	に似ているような・・・。






	さて、それでは「邪馬台国=筑後川中流域一帯」の証明に乗り出すことにしよう。しかし、この筑後川中流域一帯を
	邪馬台国だと唱えているのは私一人ではない。それどころか、もうずいぶん古くからある説である。何も目新しい説
	ではなく、また私自身も何か新しい着想が湧いてきたわけではない。従ってここで述べている内容は、殆ど先人達の
	思考の受け売りであるが、卑弥呼の居た首都がどこであったかまではわからない。安本先生の言うように甘木・朝倉
	だったら面白いなとは思うが、その確証はない。我が故郷の甘木市からは近年、吉野ヶ里と同規模か或いはそれ以上
	という「平塚川添遺跡」も出土し、「朝倉は筑紫の宝庫」という故鏡山猛九州大学名誉教授(考古学)の言葉を証明
	しつつあるのだが、それでもまだ、「卑弥呼のクニ」と断定するには至っていない。
	また、三井郡から久留米・筑後地方にかけての広大な平野も、筑前の国の中では一番稲作に適した湿地帯で、十分に
	邪馬台国の首都となり得るような可能性を秘めているし、吉井町・浮羽郡から大分県日田市にかけての一帯も、古代
	に相当な集団が在った事を示す遺跡が、近年続々出現している。従って、邪馬台国連合二十一ケ国が、筑後川周辺の
	領域にあったと仮定すれば、この領域は十分な広さと人口を抱えているし、この一帯を総称して魏の使者は「邪馬台
	国」と呼んだものだろうと思う。中でも、卑弥呼の暮らす狭義のクニを「女王国」として区別したのに違いない。



	1.概要

	邪馬台国の時代が、考古学上どの時代にあたるかと言えば、それは弥生時代中後期である。渡来してきた稲作技術は、
	次第に北九州を中心に普及していくが、同時に争いも増加し、次第に軍事力の有無がムラムラの優越を決めるように
	なっていく。天照大神も自分の田を持っている事は先に述べた。農業生産の発展と軍事力の強さは、考古学上は鉄器
	の普及と比例していると見る事が出来る。弥生時代中期中頃には、北九州における墓制はもっぱら甕棺墓が主流で、
	副葬品として多くの青銅製品をその中に収めている。青銅製の剣・矛・戈などが主流であるが、その地域の首長と見
	られる甕棺墓からは、漢式鏡も数多く出土する。



 




	やがて北九州においては、青銅製品に代わって鉄剣・農機具などが副葬されるようになり、甕棺墓は次第に姿を消し
	て、箱式石棺と呼ばれる、石の板で遺体の廻りを取り囲み、棺とする形式に変わっていく。この頃には土拡墓や木棺
	墓、石蓋土拡墓などもあるが、墓制の主流は箱式石棺である。甕棺墓にも鉄剣や鉄戈は副葬されているが、箱式石棺
	や土拡墓が主流になると、長さ30cm以上1mに近い鉄刀なども副葬されるようになる。


	魏志倭人伝では、倭人達の墓制として、「棺ありて槨なし。土を封じて冢を作る。」と記しているが、これは弥生時
	代後期後半、3世紀に、北九州の墓制の主流であった箱式石棺を指しているものと考える事ができる。鉄の普及も、
	北部九州とそれ以外の地域では圧倒的な分布の差があり、南九州でもほとんど無く、鉄は北九州に集中しているので
	ある。鏡も、弥生時代全期を通じて墓に副葬される習慣があるのは、九州北部に限定される。
	「遺跡は語る−総論−」で見て頂いたように、この時代の奈良県からの鉄の普及はゼロに近い。近畿圏には鉄はまだ
	なかったのである。



	弥生時代後期には、鉄器が広く普及し鏡を愛玩する。そしてそれらを祭祀に用い、広く権力の象徴としてあがめるよ
	うになる。そして、倭人伝に記された墓制を採用している地域、それは北部九州以外のどこにも見いだすことは出来
	ない。
	鉄製品を副葬する箱式石棺や土拡墓などの墓制は、そもそも朝鮮半島から対馬を経由して北九州に定着したものと考
	えられるが、古墳時代初頭期には、墓制とともに、鉄製品、朱丹、鏡などをその中に副葬する習慣も携えて、山陰、
	瀬戸内、畿内へと東進して行くのである。そして畿内を中心に古墳が作られるようになると、その中に多くの副葬品
	を収めるようになり、鏡も剣も、そして墓そのものも大型化・巨大化していくことになる。





	2.「三角縁神獣鏡」問題

	鏡については、古墳から出土する三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるか否かをめぐって未だに論争があるが、私は既に
	述べたように、この問題は学問的にはとっくに決着がついているものと考える。再考のため、「三角縁神獣鏡の謎」
	から以下に再掲する。このような問題が、いまだに論争として存在していること自体、考古学会が末期的状況にある
	証拠である。


	三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏からもらってきた鏡ではなく、日本で製作された倭鏡である。

	その理由は、

	(1).三角縁神獣鏡が、中国本土や朝鮮半島から一枚も出土していない。また魏晋朝当時の中国ではこれほど大き
		な神獣鏡は存在しないし、中国の学者による調査でも、三角縁神獣鏡とおぼしき鏡はいまだに発見されてい
		ない。魏は日本向けに三角縁神獣鏡を特別に鋳造したといういわゆる「特鋳説」にしても、1枚のサンプル、
		鋳型の破片くらいは残っていてもよい。魏がそれらをことごとく粉砕してしまうような積極的な理由は何も
		見あたらない。
	(2).三角縁神獣鏡は全国から既に500枚近く出土している。未出土のものや、古物商、個人蔵のものなども入
		れると、おそらく1、000枚を越えているだろう。卑弥呼が受領した「100枚」どころではない。卑弥
		呼・台与時代に4回の中国への朝貢が行われているが、毎回100枚もらったとしても400枚にしかなら
		ない。仮に1000枚日本へ下賜したとすれば、魏王朝は長期間三角縁神獣鏡を作り続けたことになり、中
		国本土からも少なくとも1枚くらい出土してもいいはずだ。
	(3).魏では存在しなかった「景初四年」銘の三角縁神獣鏡が2枚発見されている。これは明らかに、この三角縁
		神獣鏡が魏年号の改元を知らなかった海外で、即ち日本で製作されたことを示している。弥生時代に、既に
		青銅製品の鋳型や製品は北九州を中心に多く出土している。古墳時代初頭に、三角縁神獣鏡を製作する技術
		は既に近畿圏においても確立していたと考えて良い。中国の考古学者・王仲殊氏は「三角縁神獣鏡は、日本
		に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」としているが、これは未検証である。
	(4).三角縁神獣鏡は、すべて4〜5世紀以降の古墳から出土しており、初期大和政権時代の日本製と考えるのが
		妥当である。黒塚古墳も考古学的には4世紀後半から末の築造とするのが大勢で、卑弥呼が死去した247
		〜248年とは100年以上の差がある。
	(5).100年間家宝にしてきたのだという、いわゆる「伝世鏡」などという考えは、そもそも、考古学のよって
		立つ基盤を危うくする考え方である。遺物は発見された遺跡のほぼ同時代に使用されていたものと考えるの
		が妥当である。伝世を認めたら考古学などは成り立たない。
	    弥生時代の甕棺に埋葬されている勾玉が、「いやこれは縄文人製作のものだが、何百年にも亘って大事に保
		管していたのだ。弥生時代になって墓に副葬したのであろう。」というような議論が成立してしまう。殆ど
		「ねつ造」に近い。藤村進一を考古学界が糾弾しないのはこの辺りにその遠因がある。
	(6).黒塚古墳の発掘調査においても、棺内の死者の頭部分に画文帯神獣鏡1枚(後漢鏡画文帯神獣鏡)が大切そ
		うに添えられ、三角縁神獣鏡は棺の外に、一段低い評価のごとく並べられている。発掘の実務にあたった河
		上邦彦氏、石野博信氏、菅野文則氏などは、そういう扱いもあって三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとの
		見解を打ち出している。森浩一氏も、他の発掘現場で同様の思いを持ったと述べている。

	ほかにも多くの「三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡」という説がなりたたないと思える根拠はあるのだが、述べた
	ように、これは私が「三角縁神獣鏡 NOT=魏の鏡 NOT=卑弥呼の鏡」を前提にして考えているからではない。既存の
	情報を寄せ集めるとどうしてもこういう結論になると思う。三角縁神獣鏡は、初期大和政権黎明期の4〜5世紀の時
	代に日本で製作されたものである。大和盆地には、鏡作神社(石見)、鏡作伊多神社(保津)、鏡作麻気神社(小坂)、 
	鏡作伊多神社(宮古)、鏡作坐天照御魂神社(八尾)などが鎮座しており、これらの場所は明らかに鏡を作った集団
	が住居していた所の名残りと考えられ、三角縁神獣鏡は初期大和政権時代に、これらの場所で製作されたものと判断
	できる。





	3.銅鐸の問題



	上図に示されるように、銅鐸は、従来は近畿地方を中心に出土し、九州からは出土例がなかった為、北九州地方の銅
	矛銅剣文化圏と対比されて論評されてきた。昭和初期に東大の哲学者・和辻哲郎が、九州を「銅剣・銅矛文化圏」、
	近畿地方を「銅鐸文化圏」と区分して以来、弥生時代はこの二つの地方で文化が対立していたように思われてきた。
	私が高校生の頃は、教科書にも大きな円で囲んだ文化圏の対比表(上の図)が載っていた。今でもそう記載してある
	書物もある。しかし近年、近畿以西の地域からも銅鐸やその鋳型が出土し、銅鐸は必ずしも近畿圏に特有の青銅器で
	はない事が分かってきた。各地で考古学の発掘調査が進行すると、その図式は必ずしも当てはまらない事例がいくつ
	も出現しだしたのである。




	しかし学問的には、既に昭和4(1929)年、九州帝国大学の中山平次郎は「九州に於ける銅鐸」という論文で、九州
	出土の可能性がある銅鐸3点を紹介している。しかもその内の一つには、漢字の銘文があるという。今日ではこの銘
	のある銅鐸も含めて二つの銅鐸は九州出土ではないと考えられており、残る九大病院出土の銅鐸は現在行方不明であ
	る。また、昭和20年代後半、九州でも銅鐸形の土製品や小銅鐸が出土し、中でも春日市大南遺跡出土の小銅鐸は銅
	鐸の祖形ではないかと注目された。また大分県宇佐市別府遺跡では、朝鮮半島製の小銅鐸が出土し、近畿地方の銅鐸
	も朝鮮半島の銅鐸を起源として、九州経由で生まれたのではないかという説が現れた。これら九州の銅鐸出土の状況
	から、銅鐸の出現時期を巡って、九州と近畿の学者間で激しい論争が巻き起こった。

	昭和55(1980)年、佐賀県鳥栖市安永田遺跡で、九州で初めての銅鐸鋳型が発見され、九州でも銅鐸が鋳造されて
	いたことが明らかになった。その為、他の青銅器同様銅鐸も、まず九州に伝わり、ここで鋳造され、それから近畿圏
	へ移っていったものと考えられた。地元の石材(脊振山地の白雲母アプライト)を使い、鋳型から青銅器の製造まで
	の一貫したハイテク工房だった。銅鐸の製造年代を、紀元前3世紀まで遡らせたが、しかし、この鋳型で作られる銅
	鐸は、主に山陽・山陰地方で出土するものと共通する特徴を持ちながら、銅鐸そのものは出土しなかったため、山陽
	・山陰地方への搬出用に鋳造したものだろうという意見も出た。続けて福岡市赤穂の浦遺跡からも鋳型が発見された。

	平成10(1998)年、弥生時代の大規模環濠遺跡として名高い吉野ケ里遺跡から、鈕(ちゅう)を下に向け、逆立ち
	した形で埋められた銅鐸が出土した。これはそれまでに発見されていた鋳型と文様などの特徴が同じで、ここで製作
	だけでなく祭祀も行われていた可能性が強くなった。また製作技法についても、九州と近畿で同時期に同様の技法が
	用いられている事例も出現し、数は少ないが九州にも銅鐸があったことが明らかになった。現在、九州における銅鐸
	出土例は近畿地方に比べて圧倒的に少ないが、このような事例が出現したことで、和辻説が見直しを迫られている事
	は間違いないし、銅鐸も北九州がその起源であるという主張は、ますます看過できないものとなってきた。

  

 
	平成10年11月、吉野ヶ里遺跡、大曲一の坪地区の発掘調査現場から小さな穴に逆さに埋められた銅鐸が発見された。それは九州ではこれま
	で発見されていない、高さ28cmの銅鐸だった。九州では銅鐸の鋳型が出土しているので、銅鐸を生産していたことはわかっていたが、銅鐸
	そのものの出土例は知られていなかった。銅鐸は、近畿地方を中心に、祭りで使われていた道具である。九州では初めての銅鐸が、吉野ヶ里遺
	跡で発見された。これにより、九州でも祭祀の場で銅鐸が使われていたことが裏付けられ、弥生時代の青銅器を用いた祭祀を考える上で重要な
	発見となった。吉野ヶ里遺跡の銅鐸は、高さ28cmで、未の部分は綾杉文、鈕(吊り手)や鰭の部分は複合鋸歯文で飾られている。銅鐸は紐
	を下にした状態で小さな穴に埋められていた。埋められた時期は弥生時代終末(3世紀)が上限と推定される。吉野ヶ里遺跡で出土した銅鐸は、
	その大きさや文様の特徴から、中国地方で4例見つかっている「福田型銅鐸」であることが判明した。福田型銅鐸の鋳型は佐賀県や福岡県で見
	つかっており、九州で作られた銅鐸が中国地方まで運ばれたと考えられる。
	【出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/ 】



	学界では、銅鐸は祭祀に用いられた器具であろうという意見におおかたが賛意をしめしているが、鏡や玉や剣のよう
	に、墓の副葬品として出土する訳ではない。何もない山中や、周りには遺跡も何もない山腹から出現したりするので
	ある。近畿地方では銅鐸文化が滅んだあと古墳時代が始まっている事から、紀元300年頃、九州勢力の一部が東征
	して銅鐸文化を滅ぼして古墳時代を始めたと考えられ、記紀に記載された神武東征は、この時のことがモデルになっ
	たのではないかというような意見もある。あわてて隠したためそのような場所から出土するのだ、というわけである。


	ちなみに九州における銅鐸の出土例は、現在吉野ヶ里から出土した1個であるが、小銅鐸、鋳型、鐸形土製品などは、
	以下のようなものが出土している。これを見ても、銅鐸もその発生の源は北九州にあると言える。


		銅鐸鋳型   福岡県赤穂の浦遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵
		銅鐸鋳型   佐賀県安永田遺跡 
		銅鐸     佐賀県吉野ケ里遺跡 佐賀県教育委員会所蔵 
		鋳型    (小銅鐸もしくは銅鐸)福岡県勝浦高原(かつうらたかはら)遺跡 津屋崎町教育委員会所蔵 
		鋳型    (小銅鐸もしくは銅矛)福岡県松本遺跡 北九州市教育委員会所蔵 
		小銅鐸    福岡県大南遺跡 九州大学考古学研究室所蔵 
		小銅鐸    福岡県浦志(うらし)遺跡 前原市教育委員会所蔵 
		小銅鐸    大分県多武尾(たぶお)遺跡 大分市教育委員会所蔵 
		小銅鐸    福岡県板付遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
		小銅鐸    福岡県今宿五郎江遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
		小銅鐸	   大分県別府遺跡 
		小銅鐸中子2点 福岡県須玖坂本(すぐさかもと)遺跡 春日市教育委員会保管(国所蔵) 
		小銅鐸中子   福岡県雀居(ささい)遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
		小銅鐸鋳型   福岡県大谷遺跡 春日市教育委員会保管(国所蔵) 
		小銅鐸鋳型3点 福岡県須玖坂本、須玖岡本、須玖永田(えいだ)遺跡 春日市、国所蔵 
		鐸形土製品   九州大学春日キャンパス内遺跡 九州大学埋蔵文化財調査室所蔵 
		鐸形土製品   佐賀県川寄吉原(かわよりよしわら)遺跡 佐賀県立博物館所蔵 
		鐸形土製品2点 佐賀県川寄若宮(わかみや)遺跡 佐賀県立博物館所蔵 
		鐸形土製品2点 佐賀県託田西分(たくたにしぶん)遺跡 千代田町教育委員会所蔵 
		鐸形土製品5点 佐賀県原古賀三本谷、西寒水(にしそうず)一本柳遺跡 中原町教育委員会所蔵 
		鐸形土製品   福岡県駿河(するが)遺跡 春日市教育委員会所蔵 
		鐸形土製品3点 福岡県鷹取五反田(たかとりごたんだ)、貝元(かいもと)遺跡 福岡県教育委員会所蔵 
		鐸形土製品   福岡県北方(きたかた)遺跡 北九州市教育委員会所蔵 
		鐸形土製品   福岡県長野小西田(ながのこにしだ)遺跡 北九州市埋蔵文化財事業団所蔵 
		鐸形土製品   福岡県井尻(いじり)B遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
		鐸形土製品2点 福岡県琴(こと)の宮(みや)、東小田峯(ひがしおだみね)遺跡 夜須町教育委員会 
		馬鐸     福岡県雀居遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 


	このような、鋳型出土地(=生産地)からの青銅製品の移動は、初期銅鐸の生産とほぼ同時期に行われている、細形・
	中細形銅器(銅剣・銅矛・銅弋)についても言える。つまり、九州北部は、細形・中細形銅器が集中的に出土する地域
	であると同時に、その鋳型の集中的な出土地域でもあるのだ。近畿圏を除く西日本には、山陰・瀬戸内・太平洋(高知
	県)と、3つの細形・中細形銅器の集中出土地域があるが、これらのどこからもその鋳型は発見されていない。鋳型の
	出土状況から判断すると、この地域の細形・中細形銅器も北九州で製造され、各地へ運搬されていったもののようであ
	る。




	その後の青銅器研究で、九州・近畿の双方で、弥生時代初期後半〜中期前半には青銅器の生産が始まっている事が確認
	され、近畿でもその時期の銅鐸の鋳型が発見されたため、銅鐸を巡る起源論争には決着が着いていないが、青銅製品全
	体の、その鋳型の出土数では、九州北部が近畿を圧倒している。

	考古学的な事実としては、西日本では北部九州だけに、弥生中期末から後期初めの段階で、この地域に算出する軟質の
	石材をを用いて鋳型を作り、鞴(ふいご)を使って銅や錫を溶かすという技術が普及していた事が認められる。
	弥生中期後半以後、九州北部に爆発的に普及する鍛造の鉄製品(武器・農具)は、一般に朝鮮半島その他からの輸入品
	と解釈され、「魏志東夷伝・韓条」の「韓の地、鉄を産す。倭・ワイ、これを取る。」という記事がその根拠になって
	いた。しかし、考古学者で元大学教授の奥野正男氏は、青銅器製造時の製造時の溶融温度と低チタン砂鉄との関係を理
	論的な根拠にし、弥生時代の鉄の国内生産が可能だったと主張し、弥生中期後半の、北九州における青銅器製造技術が
	その基礎になったと述べている。





	4.北部九州の考古学


	上の図は、大阪府吹田市にある国立民族博物館の元教授で、現在(平成17年1月)、吹田市立博物館館長である小山
	修三氏が、今からもう20年以上前に作成された、日本の弥生時代の遺跡分布図である。氏は全国の発掘調査報告書を
	基にこの図を作成されたのだが、その後の20年間の発掘調査の数は膨大なものなので、おそらくこの図も今では様変
	わりしているのではないかと思うのだが、残念な事に、その後小山氏の後を受けてこのような図を作成している人はい
	ないようだ。しかし基本的な分布はそう変化していないだろうという推測のもとにここに掲示した。氏は、この遺跡の
	数を基に、縄文・弥生の人口を推測した事で知られるが、おもしろいのは、下の図における平野部の領域と見事に合致
	している点である。下の図は自然科学の測定に基づくものなので、この分野の専門家なら誰が作成しても以下のような
	図になるはずだ。弥生時代は農耕が主体の社会なので、平野部に人が集まり、当然ながら人口も多く、その結果遺跡も
	多いという事になる。この図をみて、上の黒い部分、下の平野部に、邪馬台国と、おそらくは狗奴国があったのだろう
	という推測は容易にたてうる。


	上の図を見ていると、倭人伝の末廬国、伊都国、奴国、不弥国が、見事に平野部と重なっているのが分かる。邪馬台国
	も私の想定通りなら見事に合致する。しかしながら、投馬国だけが見あたらない。安本美典氏は投馬国を、大分県中津
	市の宇佐地方だとしているが、この図を見るとそっちの比定の方が、正しいような気がしないでもない。




	1.弥生時代の遺跡


	(1).墳墓

	縄文時代晩期から弥生時代初頭にかけて、新たな大陸文化の波が北部九州に渡来した。それまでも渡来は漸次行われてき
	たと思われるが、大規模な水耕稲作を伴った文化は、それまでの倭人の生活内容を大きく変えた。
	北九州における墓制は、「末廬国」「伊都国」の遺跡で見て頂いたように、北西九州の夜臼式土器の期間(縄文晩期)に
	盛行した支石墓(しせきぼ)制が挙げられる。そして、夜臼式の後半になると、新たに弥生式土器(板付T式土器)が誕
	生して、集落内で両土器が共存する。しかし、支石墓からは夜臼式土器しか出ず、板付T式が出土するのは、新たに発生
	した土壙(木棺)墓であり、墓制は共存しなかったようである。支石墓は、夜臼式土器が終焉するのと同時に消滅するが、
	若干の、例外的に交流の跡を示す例を除き、とうとう最後まで他の種類の墓制と共存することはなかった。
	支石墓は、その大部分が北部九州の限定的地域内に収まるのだが、弥生前期後半〜中期にかけて、支石墓は消滅の一途を
	たどる一方各地に拡散し、五島列島や熊本・鹿児島県まで支石墓の例が若干存在する事が知られている。



	
	土壙墓(どこうぼ)は素堀りの墓で、墓穴に土器や石器を副葬している例が多い。弥生時代前期初頭に、土壙墓は主に北
	九州で出現し(甘木市峯遺跡等)盛行するが、弥生全般を通じて営まれ、弥生時代中期の甕棺墓(かめかんぼ)や祭花遺
	構などと盛んに重用される。弥生時代前期には、埋葬施設の主体部の形態は土壙墓である。しかし副葬品にみる内容はま
	だ等質的なものであった。稲作文化の普及による農業共同体の成立は、安定した食料の供給を約束するものであったが同
	時に、それは大幅な人口増加や余剰生産物の蓄積によって生ずる階級差を生じさせ、弥生時代前期末の段階になると、遺
	跡の数は、広く西日本一帯に広がっていく。北部九州における当時の社会構造は、主として甕棺墓から出土する朝鮮系文
	物(鏡、玉、剣など)に如実に反映されている。またこの時期には、福岡市西区「今山遺跡」製の太形姶刃石斧や、飯塚
	市「立岩遺跡」製の石包丁にみるように、専業の工人集団も出現してくる。これらの利権を独占することによって首長層
	が抬頭し、他の弱少集団を併合して階級差により一層の拍車がかかっていくのである。

	魏志倭人伝にいう末廬国、伊都国や奴国に見るように、弥生時代前期中葉から後期初頭にかけて、集落は「クニ」として
	成長し、やがて「王墓」が出現する。この時代の墓制の中心は甕棺墓である。甕棺墓はたいていが、大きな素焼きの甕を
	2個組み合わせたもので、内部に遺体と副葬品を収納する。王墓と見なされる墓からは、鏡、刀剣、勾玉などが出土する
	が、なかには多量の水銀朱が認められるものもある。ガラス三片円板壁は、中国では天子からの下賜品として、また夜光
	の壁として珍重されるが、北九州では福岡県の「峯遺跡」、「三雲遺跡」、「須玖岡本遺跡」の三遺跡からのみ出土して
	いる。(南九州では宮崎県の「玉の山遺跡」から出土している。日本ではこの4例のみである。)



	
	前述したように、後期後半3世紀頃には、倭人の墓制として北九州では箱式石棺が盛行する。甕棺墓や土壙墓などと併用
	されるのであるが、副葬品も青銅器から鉄器へと変遷し、鉄の普及が北部九州に蔓延していったことが見受けられる。
	豪華な副葬品を持たない普通の庶民の墓と思われる甕棺や箱式石棺からも、鉄器や絹織物が出土しており、九州北部にお
	いては相当豊かな弥生社会が実現していた事をうかがわせるが、同時に鉄鏃や石鏃を突き刺したままの人骨も発見される
	ようになり、階級間、地域間における闘争もまた激しかったことを物語る。従来、人骨を伴わない甕棺墓から発見される
	これらの鏃は、単に副葬品と見なされていたが、戦いの痕跡を残した人骨の出土により、これらの甕棺も争いの結果死亡
	して、鏃はそのまま体内に残っていたものと判断されるようになった。


	
	「棺ありて槨なし。土を封じて冢を作る。」という魏志倭人伝の記述は、同時代の北部九州に見られる箱式石棺が一番
	ふさわしく、「朱」や「銅鏡」「剣」「矛」などを副葬する墳墓も、北九州にのみ集中している。この形式の墳墓は、
	対馬にまで存在しており、邪馬台国と、それを取り巻く「邪馬台国連合」が、広く北部九州と壱岐・対馬にまで及んで
	いた事を示唆している。


福岡県甘木市の「歴史資料館」前庭に移築された箱式石棺。







	
	<方形形周溝墓>

	方形周溝墓とは、弥生時代から古墳時代につくられた墳墓のひとつの形態で、方形、または円形に、浅い溝をめぐらせ
	た内側に盛り土をして、死者を埋葬した。本来は近畿地方を中心とした弥生時代の墳墓とされているが、現在は、東北
	地方南部から九州南部まで広く分布している事が確認されている。畿内では弥生時代前期後半に出現し、後期には姿を
	消しはじめる。これに対し、九州や東日本は古墳時代に移るにしたがってその数を増し、九州で発見されている方形周
	溝墓のほとんどは古墳時代に属していると言われる。
	方形周溝墓は、昭和39年(1964)、大場磐雄(国学院大学教授)が東京都八王寺宇津木向原遺跡で検出された墓をもっては
	じめて命名したが、九州では弥生時代と区別するために「方形墳」とする説もある。しかし、構造的には弥生時代と古
	墳時代の方形周溝墓を区別する違いはみられない。箱式石棺や土壙墓を方形に囲った溝で区画し、その部分を1〜2m
	の高さに盛土しているが、古墳よりははるかに盛土が低いために早い時期に削り取られ現存しないことが多い。規模は、
	1辺5〜30m前後で、幅1〜3m、深さ1〜2mの溝が配されており、溝は四角にめぐるものや、一部に陸橋部をも
	つものとそれぞれが独立したものがある。主体部の石棺、石蓋土壙、土壙は、1基だけでなく数基存在することがある。
	遺物は、鉄製の武器や 農工具 、装身具類が副葬され、祭祀 として用いられた底部を穿孔した壷(つぼ)形土器 や小形
	丸底壷が溝に落ちこんだ状態で出土する。福岡県藤崎遺跡の方形周溝墓では、三角縁神獣鏡が出土し注目される。

	方形周溝墓をめぐっては、盛り土で低い墳丘をつくる事、副葬品が鏡、玉、剣など、後の前方後円墳の副葬品の萌芽と
	見られる事、周囲に溝を掘ることなどから、これは古墳の初期の形ではないかと言う意見もあり、古墳が必ずしも近畿
	圏発祥ではなく、方形形周溝墓とおなじく、その原型は北部九州にあるのではないかという論議もよんでいる。






	

	(2).金属器と生産拠点

	前述したように、佐賀県鳥栖市の「安永田遺跡」において、九州で初めて銅鐸の鋳型が発見されたことは史界に大きな
	衡撃を与えた。黒変した鋳型はこの地で確実に銅鐸が生産されたことを物語っていたからである。1982年の京都府「鶏
	冠井遺跡」の銅鐸の鋳型は、弥生前期にさか登り得ることが指摘されているが、北部九州ではこれとは別に朝鮮式の小
	銅鐸やその鋳型が発見されている事も見てきたとおりである。その起源、年代等についてはまだ不確定である。鐸には
	この他、土製で銅鐸や小銅鐸を模した鉾型土製品と呼ばれるものがあり、これらは主として銅鐸の分布圏外で出土する。

	現在国内で知られる青銅器の最古のものは、宗像郡津屋埼町「今川遺跡」出土の銅鏃、銅ノミであり、弥生時代前期初
	頭のものである。前期末〜中期前半の時期になると、朝鮮製の青銅製武器(剣、矛、ヤス)や多錘細文鏡、小銅鐸が舶
	載されるようになる。これらは主として、北部九州の甕棺墓や土壙墓から出土するのも見てきた通りである。
	青銅製武器のうち、初期の細形のものは実用としてその機能を果たしていたものと考えられる。弥生時代中期中ごろ以
	降、石器にかわって鉄器が普及してくると、青銅製武器は非日常用の祭器として特異な発達をとげる。また、その製作
	は佐賀県「吉野ヶ里遺跡」での細形銅矛の鋳型の発見によって、前期末の段階からすでに国産化が開始されたことが明
	らかとなった。
	現在、青銅器製作の跡と思われる遺跡は殆どが消滅している。鉄器についても同様である。しかし生産拠点があった事
	は明白で、弥生時代に、一大青銅器センターが邪馬台国の領域内に存在し、他の地域へその製品を供給していたと考え
	られる。またその技術的な基盤が、続く鉄器時代になっても豊富な鉄製品の製造を可能にし、その優位性が、周辺諸国
	を同盟国として従えて、魏にまで使者を送るような権勢を保ち得たのだろうと推察される。




	

	(3).遺跡の分布

	九州最大の大河・筑後川は、幾多の支流を従えて、流域に豊饒な耕地と平野をもたらしながら、有明海に注いでいる。
	太古から、肥前東部・筑前東部南部・筑後地方の農耕を助け、有明海沿岸の漁業を支えてきた、文字通り「母なる大河」
	である。邪馬台国時代の自然環境は、諸調査の結果により、現在より5m程高い標高の位置に海岸線があったとされて
	いる。過去幾多の洪水が自然堤防を破壊し、流域に豊かな土壌を堆積し、激しく蛇行する川筋を変えながら、流域に広
	大な農耕湿地帯を作り出した。

	筑後川は、阿蘇外輪山の北裾野と、東に九重連山の裾野が広がる大自然に囲まれた町、熊本県阿蘇郡南小国町に源を発
	している。大分県との境に近く、最近では黒川温泉で有名になった町である。ここから大分県を通り、福岡県へ入って
	有明海に注ぐ。殆ど、北部九州を東から西へと横断している。流域は上流域、中流域、下流域に分かれ、平成の大合併
	前の市町村区分で言えば、合わせて47市町村を貫いている。

	上流から順に見ていくと、

		<上流域>

		南小国町 (熊本県阿蘇郡)
		小国町  (  同   )
		九重町  (大分県玖珠郡)
		玖珠町  (  同   )
		天瀬町  (大分県日田郡) 平成17年3月22日に、「日田市」(人口約77,000人)となる。
		上津江村 (  同   )           同上
		中津江村 (  同   )           同上
		前津江村 (  同   )           同上
		大山町  (  同   )           同上


		<中流域>

		日田市  (大分県日田市) 平成17年3月22日に、「日田市」(人口約77,000人)となる。
		宝珠山村 (福岡県朝倉郡) 平成17年3月28日に、小石原村と合併して「朝倉郡東峰村」が誕生。
		杷木町  (  同   )
		浮羽町  (福岡県浮羽郡) 平成17年3月20日に、吉井町と合併。新たに「うきは市」が誕生。
		小石原村 (福岡県朝倉郡) 平成17年3月28日に、宝珠山村と合併して「朝倉郡東峰村」が誕生。

		ここまでは、国土交通省の分類によれば筑後川上流に含まれるようだが、歴史上は、私は中流域に含めた。

		朝倉町  (福岡県朝倉郡)
		吉井町  (福岡県浮羽郡) 平成17年3月20日に、浮羽町と合併。新たに「うきは市」が誕生。
		夜須町  (福岡県朝倉郡) 平成17年3月22日に、三輪町と合併。新たに「朝倉郡筑前町」が誕生。
		三輪町  (  同   ) 平成17年3月22日に、夜須町と合併。新たに「朝倉郡筑前町」が誕生。
		筑紫野市 (福岡県筑紫野市)
		甘木市  (福岡県甘木市)
		大刀洗町 (福岡県三井郡)
		北野町  (  同   ) 平成17年2月5日に、「久留米市」と合併。
		田主丸町 (福岡県浮羽郡) 平成17年3月20日に、「久留米市」と合併。
		背振村  (佐賀県神埼郡)
		基山町  (佐賀県三養基郡)
		小郡市  (福岡県小郡市)
		東背振村 (佐賀県神埼郡)
		中原町  (佐賀県三養基郡)平成17年3月1日、中原町・北茂安町・三根町合併。新「みやき町」誕生
		鳥栖市  (佐賀県鳥栖市)
		久留米市 (福岡県久留米市)
		北茂安町 (佐賀県三養基郡)平成17年3月1日、中原町・北茂安町・三根町合併。新「みやき町」誕生
		三田川町 (佐賀県神埼郡)
		上峰町  (佐賀県三養基郡)
		神埼町  (佐賀県神埼郡)
		三根町  (佐賀県三養基郡)平成17年3月1日、中原町・北茂安町・三根町合併。新「みやき町」誕生

		<下流域>

		三潴町  (福岡県三潴郡) 平成17年2月5日に、「久留米市」と合併。
		広川町  (福岡県八女郡)
		八女市  (福岡県八女市)
		佐賀市  (佐賀県佐賀市)
		千代田町 (佐賀県神埼郡)
		城島町  (福岡県三潴郡) 平成17年2月5日に、「久留米市」と合併。
		諸富町  (佐賀県佐賀郡) 平成17年10月1日、「佐賀市」と合併。
		柳川市  (福岡県柳川市)
		大川市  (福岡県大川市)
		大木町  (福岡県三潴郡) 
		筑後市  (福岡県筑後市)
		川副町  (佐賀県佐賀郡)


	
	私が邪馬台国だと想定した領域には、従来、畿内説論者から言わせるとあまり遺跡が無いではないかと言われていた。
	しかしそれは、九州考古学の成果が畿内にまで届いていなかったか、或いは発掘調査する主体が現在のように地方自治
	体の行政機関等ではなく、明善高校、八女高校、鳥栖高校、朝倉高校、浮羽高校といった、地域の普通高校にある史学
	部がもっぱら受け持っていたので、正確な報告書や内容が中央へは伝わっていなかった事にもよる。しかし、そういう
	中にあっても画期をなした遺跡については、教諭から自治体、教育委員会等々を通じて九州大学やその他の機関に報告
	され、公式な発掘調査として精査されていたのである。見てきたような、末廬国、伊都国、奴国、不弥国に比定される
	地域同様に、従来から多くの遺跡がこの筑後川流域にもあり、営々と調査され続けてきたのである。そして、行政機関
	に文化財課や埋蔵文化財センターが出来だした30年ほど前からは、ようやくそれらの遺跡の現状が集積され、町史や
	市史として発刊されて一般に開示されるようになった。それらによれば、この領域ほど遺跡の多い地方はない。

	現在の筑紫野市域では、背振山(せぶりさん)塊東山麓の低丘陵と、三郡山(さんぐんやま)塊南山麓の低丘陵の上は、
	弥生遺跡が地図上で殆ど空白の無いほど密集している。さらに、宝満川(ほうまんがわ)上流の沖積地である三笠地区
	にも大規模な弥生後期遺跡の拡がりが確認されている。小郡市域では、宝満川西岸の津古から三沢にかけての三国丘陵
	の低台地と谷間を殆ど埋めるように、弥生全期に渡る遺跡が密集している。津古内畑、津古、横隈狐塚、大板井、若山
	などの遺跡群は、三国丘陵の谷や稜線の上にあり、弥生前期から中期にかけての遺跡である。この時期の耕地は、自然
	の灌漑を利用した谷間の水田を中心として開けていき、後期には宝満川下流域への開拓が進められたとみられ、弥生中
	期末、後期の遺跡が宝満川本流沿いの平野部に進出する。なお、津古上ノ原遺跡は、約15000年前の旧石器時代の
	遺跡で、ナイフ形土器が発見されている。 
	佐賀県鳥栖市域、朝倉郡域、甘木市域にも同じ傾向が認められ、後期遺跡が旧来の谷間から少なくなり、集落の平野部
	への進出が認められる。これらは、鉄器の普及で集落あたりの耕地面積が拡大していっている事をものがたり、各集落
	がある単位でまとまった集団となり、共同作業による治水や灌漑の共同作業を行っていたのだろうという推測をうむ。
	久留米市域においてもその歴史は古く、約2万年前の旧石器時代の上津シテ遺跡では集落跡が発見され、縄文・弥生と
	続き、竪穴住居、溝、土坑、掘立柱建物、井戸、土壙墓などが見知され、ナイフ型石器、土師器、陶磁器、鉄器、石製品
	などが出土した。この領域においても、温暖な気候と筑後川の豊かな水と、それがもたらした豊穣な耕地を活かして、
	早い時期から稲作が始まっていたと考えられる。




	
	私は、筑後の浮羽郡や筑後川中流上部の大分県日田市域も、邪馬台国領域だったのではないかと考えているが、浮羽郡
	においても、浮羽町の山北、妹川の善畑、内ヶ原遺跡、吉井町の稲崎A、竹重遺跡などで押型文土器や縄文土器の破片、
	石器などが発見され、浮羽町の芝生山や山北天神の森などでは石棺・かめ棺なども多数出土しているし、この地域でも
	水縄(みのお)連山山麓でおよそ5000〜6000年前頃から、人々が住みつき集落を営んでいたものと推定してい
	る。それは大分県日田市においても同様で、現在日田市内の遺跡から出土する土器からみて、弥生の農耕は弥生前期前
	半に開始さたと位置づける。板付2式土器の出土があるので、少なくとも弥生前期後半の弥生文化の伝播は間違いない
	だろう。主に洪積台地上で生活を営み、眼下の沖積地を含んだ範囲を生活領域としていたようだ。日田市朝日・山田地
	域の弥生時の吹上(ふきあげ)遺跡は、日田盆地北部の吹上原台地に存在し、古くから土器片,石器が多数出土してい
	て、中でも磨製石器の出土量は多く、大分県内では他に例を見ない。

	しかしながらこの邪馬台国領域で、なんと言っても吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡の存在は大きい。いずれも弥生時代を
	代表する大環濠集落で、邪馬台国時代に実際に存在していたムラなのである。考古学者は、吉野ヶ里は時代が卑弥呼と
	は合わないと言い、平塚川添は豪華な副葬品に乏しいなどと言うが、実際に現地へ行くとその集落の規模や環濠の大き
	さに圧倒される。壱岐の原の辻も合わせて、この3つを九州における三大環濠遺跡と呼ぶが、その2つがこの領域にあ
	る。吉野ヶ里から日田市まで、こんなに広範囲な領域を果たして卑弥呼は統率できていたのだろうかという疑問もない
	わけではないが、見てきたような豊穣な平野部からあがる収穫を、官吏たちが旨く管理・分配できていれば、弥生時代
	初の統制国家だった可能性は十分に考えられる。




	
	上の表は、安本美典氏がいろんな著書や雑誌に発表している、九州・近畿・関東における、魏志倭人伝の内容を比較し
	たものである。弥生時代中後期における考古学的事実、文献に見る弥生期の人口の推定、遺物・遺跡の存在等々を比較
	検討しているが、これを見て、倭人伝に書かれた内容は九州以外の事である、という人がいたらお目にかかりたい。
	倭人伝は九州のことしか書いていないのである。邪馬台国の東は、「また人あり。皆倭種。」としか認識していない。
	つまり、国々があることは陳寿も認識していたはずだが、勿論行った事もなければ、話を聞いたこともないのである。

	繰り返すが、「魏志倭人伝」は私に言わせれば「倭人伝」ではない。この書物の通称は「魏志邪馬台国伝」とすべきで
	あった。この倭人の条は、九州にあった邪馬台国のことしか記録していない。それはとりもなおさず、魏からみて、邪
	馬台国=倭国という認識で良かったからである。勿論狗奴国のことも知っているし、東に倭人のクニが別にある事も知
	っていた。しかし、そっちと交渉したり、同盟を結ぼうとしたりした形跡はない。それは魏にとって、邪馬台国が倭国
	を代表していたからであり、この時代にすでに大和朝廷が日本を統一していたなどという見方は、怪しげな思惑に支配
	された全くの幻想だという事がよくわかる。

	それでは次に、その邪馬台国を構成していた国々の詳細を見ていこう。はたして卑弥呼のクニは見つかるだろうか。





ご参考までに
そのころ世界では



	日本で言う弥生時代、従来の区分に従えば、紀元前後300年ほどだが、同時代に中国・世界では何が起きていたの
	だろう。ヨーロッパでは、前509年頃ローマで「ローマ共和制」が始まり、前492年には、「ギリシア・ペルシ
	ア戦争」が起きた。前479年、中国で孔子没。前431年ギリシアで「ペロポネソス戦争」が開始さる。
	主な出来事を年表風に列記すると以下のようになる。


		年代		地域・国	項目	
	    =====  	==========	=========
		前431				ペロポネソス戦争はじまる  
		前403		中国		戦国時代開始
		前399		ギリシア	ソクラテス死去      
		前367		ローマ		リキニウス=セクスティウス法制定
		前347		ギリシア	プラトン没
		前334		ヘレニズム	アレクサンドロス大王の遠征開始
		前330		ヘレニズム	アケメネス朝ペルシア滅亡
		前322		インド		インドにマウリヤ朝成立(チャンドラグプタ)
		前300頃		倭		九州北部へ農耕が伝わる(前10世紀へ遡る説もあり)
		前272		ローマ		ローマのイタリア半島統一
		前268頃		インド		アショーカ王即位
		前248頃 	イラン		パルティア成立
		前246		中国		秦王の政即位(のちの始皇帝)           
		前221		中国		秦の中国統一 
		前202		中国		前漢成立
		前196頃		エジプト	ラチフンディウムの進展 ロセッタ=ストーンが刻まれる
		前141		中国		漢の武帝即位(前漢の全盛期)
		前108		朝鮮		衛氏朝鮮滅亡 楽浪郡など4郡設置 このころ日本の弥生文化                
		前97		中国		司馬遷の「史記」できる
		前60		ローマ		第1回三頭政治開始
		前73		インド		インドでシュンガ朝滅亡、カーンバ朝に代わる(スパルタクスの乱)
		前48		エジプト	カエサルが統治をクレオパトラにゆだねる(前44カエサル暗殺)
		前37頃		朝鮮		高句麗成立
		前30		エジプト	プトレマイオス朝エジプト崩壊 
		前27		ローマ		オクタヴィアヌス 元首政開始
		前4				イエス=キリスト誕生(異説BC8)
		 25		中国		後漢成立(劉秀:光武帝)
		 45頃 	インド		クシャーナ朝成立
		 57		中国・倭	光武帝、倭の奴国王に金印を授受
		 64		ローマ		第一次キリスト教迫害(ネロ帝キリスト教迫害)
		 70頃 	ローマ 	ユダヤ人の放浪始まる
		 79		ローマ		ベスビオス火山の爆発(ポンペイの埋没)
		 80		ローマ		ローマのコロセウム完成
		 107		倭		後漢に使者を送る       
		 117		ローマ		ローマ帝国最大になる
		 130頃 	インド		カニシカ王即位(仏教を奉じる)
		 150頃		倭		倭 国 大 乱        
		 161  	ローマ     マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝中国に使者を派遣
		 180頃		ローマ		ゲルマン人のローマ帝国への移住      
		 184		中国		黄巾の乱起こる
		 220  	中国		後漢滅亡 三国時代へ(魏建国)		
		 226 		イラン		ササン朝ペルシア成立
		 235  	ローマ		軍人皇帝時代の開始
		 239		倭		邪馬台国の卑弥呼、魏に使いを送る
		 248		倭		卑 弥 呼 死 す       
		 263		中国		蜀滅亡           
		 265		中国		魏滅亡、晋成立           
		 280		中国		呉滅亡、晋(司馬炎)の天下統一       
		 285		ローマ		ディオクレチアヌス帝がローマ帝国を2分
		 292		ローマ		ディオクレチアヌス帝がローマ帝国を4分
		 320頃		インド		グプタ朝成立 サンジオおいグプタ朝
		 375		ゲルマン	西ゴート ドナウ川を渡りローマ領内に侵入
		 376		インド		チャンドラグプタ2世(超日王)即位
		 376		中国		前秦華北統一
		 378		ゲルマン	アドリアノープルの戦い
		 392		ローマ		キリスト教がローマの国教となる
		 395		ローマ		ローマ帝国 東西に分裂










===== エル・ジェムのコロセウム =====
	<エル・ジェムの円形闘技場>       世界文化遺産に1979年登録

	ローマ、ベローナに次ぐ3番目の大きさで、ローマのコロセウムより保存状態が良い。外壁にも多くの彫刻が施されて
	いる。230年にローマ帝国のゴルディアン皇帝によって建設された。7世紀末にイスラム・アラブ軍が侵攻し、ベル
	ベル軍を率いた女王カヒナは、701年にこのコロセウムの中で炎に身を投じた。縦149m、横124m、高さ36
	m、直径65mで、30,000人収容出来、現在でも夏には民族舞踊や歌劇などのフェスティバルが開催される。コ
	ロセウムを取り囲むように通路が設けられ、コロセウムの内部では、罪人や奴隷と猛獣の戦いが繰り広げられた。闘技
	場の真ん中にある半円形は地下室で、猛獣が飼われていた。






===== ヨルダンのペトラ遺跡 =====



 


	細い曲がりくねった崖の間の道を歩いていくと、突然前方にオレンジ色に輝く神殿が現れる。これがエルカズネである。
	高さ41m、幅21mあり、アレタス3世と妻のシャキラットの墓として造られ、後に神殿になった。エルカズネとは
	アラビア語で宝物殿という意味で、ベドウィン族は、神殿の最上部にある大きな壷に宝が入っていると思い、宝をとろ
	うと思ってライフルで銃撃したことからこう名付けられたという。壷の前方は銃撃によって欠けている。 
	この神殿はエジプト、シリア、ローマの様式が採り入れられており、壷の脇の屋根の上端には鷲の像がある。当時鷲は
	魂を天に運ぶと考えられていた。中央のコリント式の柱の間にはエジプトのイシス神が彫られており、左右にはアマゾ
	ネスが彫られている。神殿の両側の壁には、足場の穴がはたくさん彫られている。その荘厳さと、本物の持つリアリテ
	ィ−がいいのだろう、インディジョーンズなど、映画にもたびたび登場している。









===== 北京の万里の長城 =====








邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編