17. 邪馬台国周辺の考古学 −その4−




	5. 末羅国の考古学


	1.末廬(羅)国

	国道382号線は、対馬の北端から南端を走り、海上を経て壱岐の勝本港に上陸し、壱岐を縦断して印通寺港から九州の
	松浦半島(佐賀県東松浦郡呼子町呼子)へ抜けている。つまり、呼子から壱岐を抜けて対馬まで国道が連なっているわけ
	である。その為フェリーも「国道フェリー」という名前が付いている。
	我が歴史倶楽部の例会で、対馬−壱岐−呼子と、魏志倭人伝の道を旅した事がある。非常に貴重な体験だった。甲板から
	玄界灘を眺め、洋上からの壱岐の姿や松浦半島の姿をこの眼で確かめる事が出来た。現代の船だと、感慨に耽るまもなく
	アッという間に目的地に着いてしまうが、しかしさすがに玄界灘は豪壮だ。季節的には海が荒れるような季節ではなかっ
	たのだが、船は結構揺れて、すこし気分の悪くなった人もいたくらいだった。今から2000年の昔、ここを渡っていっ
	た古代人達の船はどんな船だったのだろうかと思いを馳せた。

	
	決死の思いで船を漕いでいったのだろう。文字通り、一歩間違えば待っているのは「死」である。先に何があるか知って
	渡って行ったのだろうか。海の向こうに何があるか知っていて渡ったのだとすれば、その知識はどうやって得たのだろう。
	おそらくは先人から聞いた知識なのだろうが、それにしても一番最初に海峡を渡った人の蛮勇には敬意を払いたくなる。
	好奇心か、飢えか、或いは大陸・半島からの逃亡かもしれないが、いずれにしても大波に揺られながら、転覆の恐怖と戦
	いながら松浦半島を目指していったのである。
	呼子港に近づくと、加唐島、小川島と抜けて松浦半島本土に近づく。港の両側は切り立った崖である。ここからは勿論上
	陸は出きない。呼子港に入っても、現在は整地され道路が港まで来て平坦になっているが、古代にはここも岩だらけの断
	崖だったのではないかと思わせる。僅かな平地に民家が密集している。

	
	魏志倭人伝にいう「末廬国」は、現在の佐賀県唐津市を中心とした地域である。後述するように多少異論もあるが、ここ
	は定説に従って、「末廬(羅)」を「松浦」と理解しておく。
	この地域からは過去、豊富な副葬品を持った遺跡が数多く発掘されており、それらの遺跡の年代変遷により、末廬国の都
	がそれぞれの遺跡を中心とした地区に移っていったと考えられている。末盧国には、日本の稲作発祥の地、或いは日本農
	業の発祥の地とも言われる「菜畑遺跡」があり、既に縄文末期から水田を営んでいたことはよく知られている。実際に舟
	で壱岐から渡ってきた印象で言えば、松浦半島突端の「呼子(よぶこ)」やその沿岸は、切り立った崖で、にわかには近
	づきがたい。それよりももっと内海へ入ってきて、唐津や虹ノ松原あたりに上陸したほうがはるかに楽だろう。もっとも、
	1,2世紀頃の唐津の海岸がどういう地形だったのかはまだまだ検証が必要である。いずれにしても、菜畑から始まった
	縄文人・弥生人達の営みは、葉山尻支石墓群、桜馬場遺跡、柏崎遺跡群、宇木遺跡群、などと変遷し、邪馬台国時代の古
	墳ともいわれる「久里双水古墳」に繋がっていくのである。

	
	2.魏志倭人伝にみる末廬国

	
	又、一つの海を渡ること、千余里にして、末盧国に至る。四千余戸有り。 山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、
	行くに前が見えず。人々は好く魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。
	さらに大海を渡る事千里余りで末盧国に到達する。四千余戸あり、山際や海岸に沿って家が建っている。草木が生
	い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。人はうまく魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関係無しに、潜
	水してこれらを捕らえる。(東南へ陸を行く事五百里で伊都国に到る。)
	いよいよ日本列島本土に上陸である。一支国より末盧国へ至る行程も又、「千余里」と記載されている。魏の使節が日本
	のどこに上陸したのか、倭人伝からはわからない。呼子、唐津、佐世保等々の説がある。わが馬野先生のように、奴国や
	不弥国へそのままで向かったのではないかというような意見もある。説が混乱しているのは一大国から末廬国までを「千
	余里」と倭人伝が記載しているからでもある。そもそも倭人伝の「一里」という単位には一貫性がない。一里が何mに当
	たるのかは、局面局面で異なる。
	魏の使者が仮に壱岐勝本港から船出したとすれば、唐津迄の距離は約50キロであり、石田港から唐津までの距離は約4
	0キロとなり、壱岐島の最南端から東松浦半島北端の呼子を結んだら約30キロとなる。これらを一里当りに換算すると
	50m以下ということになる。ここまでの行程では、一里はほぼ100m前後として考えられるので、むしろ「一海渡五
	百余里」とした方が正確であろう。となると、倭人伝の作者はどんぶりで「千余里」と記録した事になる。
	或いは、「千余里」が正しかったとするとどうなるのか。一大国より末盧国へ至る航路が、通説とは違うという事になる。
	つまり、末廬国は松浦半島周辺ではないことになる。壱岐から千余里で到達する範囲は、西は長崎県の五島列島から、東
	は福岡県の宗像郡あたりまでの任意の地点が比定可能であるが、しかしそうなると後に続く伊都国の比定地との整合性が
	とれなくなってくる。末盧国をどこに比定するは、従来の通説は、現在の佐賀県東松浦郡.西松浦郡.北松浦郡一帯であ
	り、松浦半島の北端の呼子説と唐津説に分かれている。勿論この場合、見てきたように里数が合わないので、外にも神湊
	説(宗像)、福岡説、佐世保港説、西彼杵(にしそのぎ)半島説、伊万里港説、前原市の「三雲、井原、平原付近」説等
	々がある。しかしながら、末盧国=松浦半島唐津市説が距離的にも直線最短コ−スであるし、「マツラ、マツロ」と「マ
	ツウラ」との音訳比定を考えれば、この地が末廬国である確立は高いと思われる。里程が合わないという欠点はあるが、
	やはり末廬国は松浦半島周辺(特に唐津市附近)なのであろうと思われる。
	マツラはマヅラに通音し、はじめ末羅であったが、のちに松浦の字をあててマツラと呼ぶようになった。日本書紀巻第九
	神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月ー四月の条に「因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后の曰はく、梅豆邏國
	と曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり」とあるが、これはそもそもあった地名に、後からこじつけた、文字通り故事のよ
	うである。
 

	
	3.末廬国の地形

	3世紀の末廬国の舞台となったのは、現在の佐賀県唐津市を中心とした、いわゆる唐津平野である。この地域は東は背振
	山地の西部、西は上場台地と呼ばれる玄武岩からなる溶岩台地、北は唐津湾、南は松浦杵島丘陵に取り囲まれた平野であ
	る。平野の西端寄りを流れる松浦川が主たる河川で、宇木川、半田川が合流して、平野を南から北に流れ、唐津湾へ注ぐ。
	縄文海進の時代には、唐津平野の大部分は海の底だったと思われるが、縄文後期は海退に転じ、気候も温暖化に向かうと、
	主として上場台地を中心に縄文人たちの生活が営まれたようである。縄文末期から弥生にかけての海水面は、現在よりも
	1,2m低下していたと見られる。
	この海面後退現象によって、唐津平野の各所に後背湿地を持った旧砂丘列が出現した。縄文時代晩期から弥生時代にかけ
	ての遺跡は、この後背湿地を囲む山麓や旧砂丘に沿って形成されている。この湿地帯が、日本最初の水田可耕地に選ばれ
	ることになった。採集・漁労・狩猟にのみ依存できなくなった自然環境と、水田可耕地の出現が密接に関連して、弥生文
	化を受容する条件が整ったとも言えよう。


	
	4.末廬国の旧石器時代遺跡

	枝去木山中遺跡 
	---------------
	 唐津市の西部、標高136mの上場台地の低丘陵に立地する旧石器時代後期前半の遺跡である。ナイフ形石器と台形石器を
	主体とする石器群で、彫器、削器、掻器、揉錐器など約3、300点が発見された。また、北部九州では類例の少ない局部磨
	製石斧が出土しており、石器群の製作技術、組成からも古相のものと考えられ、東松浦地方でも最古の人々の残した石器
	群であろうとされる。 

枝去木山中遺跡出土の石器群
	
	5.末廬国の縄文遺跡

			縄文時代
			BC7000    牟田辻遺跡
			          菜畑遺跡
			          西唐津遺跡
			BC3000    徳蔵谷遺跡
       			  	  湊松本遺跡
			          菜畑遺跡
			BC1000    高峰遺跡
					  大深田貝塚
					  柏崎貝塚
					  宇木汲田貝塚
			          菜畑遺跡
			          葉山尻支石墓   太字は訪問した遺跡
	(1).柏崎貝塚・宇木汲田貝塚

	いずれの遺跡も1930年代前後に発見され、縄文時代終末期と弥生前期の土器が併出して注目を浴びた。柏崎貝塚は、
	1951年、宇木汲田貝塚は1965年に本格的に調査された。前者は、九州文化総合研究所・九州考古学会・日本考古
	学協会・佐賀県教育庁の合同調査で 、遠賀川式土器(弥生前期)が下層から、須玖式土器(同中期)が上層から出土し、
	最下層からは縄文晩期の浅鉢形研磨土器片が発見されて、柏崎式と名付けられた。(のちの夜臼式)。1965年にも再
	調査されている。宇木汲田貝塚は1965年の日仏合同発掘調査の前に、1930年松浦史談会によって発掘され、板付
	I式土器(弥生早期)と夜臼式土器が同時に出土して注目されていた。それは1965年の調査でも再発見され、翌年本
	格調査が行われた。貝塚層は2ケ所で認められ、上層の上半分に板付II式土器(弥生前期)を含み下半分には、板付I式
	土器と夜臼式土器を含んでいた。貝塚層の下層には、夜臼式単純土器のみが含まれており、しかも貝層末端のイノシシの
	頭骨から、炭化米2粒が発見された。この地域ではじめて、夜臼式単純層の発見と共に、低湿地帯でも、縄文末期におけ
	る稲作の存在を実証するという画期的な成果を上げた。
	しかしながら、学界においても稲作は弥生時代という概念は広く浸透していて、さらにこの時の発掘調査は狭い領域しか
	発掘しなかったので、この成果を疑問視する声も一部にはあった。「縄文時代のイネ作」は、実はこの時に発見されてい
	たのであるが、15年を経て、菜畑遺跡から夜臼式よりさらに古い層の水田跡、大陸性磨製石器の存在が明らかになるま
	で、日の目を見ることは無かったのである。


	(2).菜畑遺跡・末盧館

	約2600年前の縄文時代晩期に、大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行っていたと思われるのが菜畑である。遺跡
	からは、炭化した米や、稲穂をつみ取る石包丁、木のクワなどとともに水田跡も発見された。また、家畜として飼育され
	ていた豚もはじめて確認され、ここ菜畑は今の所、「日本農業の原点」であると言ってもいい。
	1979年12月に、唐津市都市計画街路事業に伴う、文化財発掘事前調査が行われ遺跡が発見された。翌1980、8
	1年(昭和55年・56年)に本格調査が行われ、日本最古の稲作の「ムラ」が発見された。菜畑では、今から2500〜2600年
	前の縄文時代晩期に、大陸から伝えられた稲作を、日本で初めて行なっていた事があきらかになった。遺跡からは、これ
	を証明する多数の炭化した米、稲穂をつみとる石包丁・石斧・石鏃などの石器をはじめ、木のクワ・エブリ(柄振り)そ
	の他の農具などとともに、小区画(20〜30平方メートル)の水田跡も発見された。
	また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギ・などの穀物類に加えて、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実
	・根菜類も栽培していたことが明らかになり、なかでも縄文時代にメロンを栽培していたことは大きな反響を呼んだ。
	さらに平成元年の発掘で、儀式に用いたと思われる形のままの、数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていた事を
	裏付けた。これらの事実から、「菜畑遺跡」は我が国「農業の原点」であった事が証明されたのである。

	遺跡は現在遺跡公園として整備され、稲作ムラの竪穴式住居や、日本最古の水田跡・縄文の森なども復元されている。そ
	の水田では、今も毎年たくさんの子どもたちの参加で、田植えと収穫祭が盛大に催されている。遺跡の敷地内には、高床
	式建物をイメージした「末廬館」が建設され、「菜畑遺跡」出土の炭化米をはじめ石包丁、クワ、カマなどの農具、カメ、
	ツボ、スプーン、フォーク(既に現代と同形のものが使用されていたのである。)などの食器類等々、多くの遺物が展示
	されている。「末盧(まつろ)」とは魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある、唐津市郊外の「松浦」の古語で、建物は、
	古代の高床式倉庫をイメージし、菜畑遺跡の遺物の紹介と大型のジオラマ、ビデオなどの展示、邪馬台国時代の唐津、即
	ち「末盧国」周辺の遺跡から出土した青銅器や土器類も多数展示されている。私は今までに3度訪れた。
	
	「魏志倭人伝」に現れる「末廬国」(まつろこく:まつらこく、とも言う)は、佐賀県の、ここ唐津を含む松浦半島東側
	一帯にあったクニだと考えられている。古代から大陸との交流が多くあった場所である。菜畑遺跡は唐津市の西南部、J
	R唐津駅から西へ2km程行ったところにある。昭和55年から56年にかけて行われた発掘調査により、縄文時代前期から弥
	生時代中期に至る遺跡である事が確認された。なかでも縄文時代晩期後半(約2500〜2600年前)の水田跡の発掘と、付随
	して出土した数々の農機具は、我が国稲作の起源が縄文晩期後半まで遡る事を明らかにした。福岡の板付遺跡の発見では
	半信半疑だった者も、ここに至っては「縄文時代の水田」を認めざるを得なくなった。稲作は弥生時代に開始されたので
	はなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである。

 


当時の菜畑遺跡を復元したジオラマ。

 

末廬館に展示されている菜畑遺跡の出土品。(詳細は博物館めぐりの「末廬館」を参照されたい。)



 

	
	(3).支石墓

	縄文時代晩期から弥生時代初頭にかけて、新たな大陸文化の波が北部九州に渡来した。それまでも渡来は漸次行われてき
	たと思われるが、大規模な水耕稲作を伴った文化は、それまでの倭人の生活内容を大きく変えた。
	唐津市菜畑遺跡・女山遺跡では籾痕のある縄文晩期土器が発見されている。菜畑遺跡では我が国でも最も初期の水田遺構
	が確認されている。そして稲作技術の伝来に伴って支石墓という墓制も伝来されたと思われる。丸山遺跡(佐賀市)では
	「もみがら」のついた土器も支石墓の副葬品として見つかっている。佐賀平野全体では、支石墓が10数カ所見つかって
	いて、日本列島でも集中してみられる地域である。唐津平野の葉山尻支石墓はこの時代の墓制である。結果的に支石墓は、
	稲作文化という一つの文化体系の中の新しい埋葬の仕方として渡来してきたものと考えられる。


	

	【唐津市・葉山尻支石墓群 】(国指定史跡/昭和41年12月19日指定)
	
	飯盛山から北に延びる標高約30メートルの丘陵北端に立地する。縄文時代晩期末から弥生時代中期の支石墓・甕棺墓を
	主体とする遺跡で、昭和26年発見され昭和27・28年に県教育委員会が発掘調査を行った。調査により、支石墓6基
	・甕棺墓26基・古墳1基が確認されている。支石墓は、上石がいずれも花崗岩で、6〜8個の支石で支える構造である。
	支石墓の内部は土壙墓やカメ棺墓からなり、1号支石墓は弥生中期のカメ棺6基を内蔵していた。甕棺墓には管玉が副葬
	されていた。この遺跡は、支石墓としては我が国で最初に学術調査が行われたもので、弥生時代墓制と朝鮮半島墓制のつ
	ながりを研究する上で重要な遺跡である。支石墓は米作技術と一緒に朝鮮から人も渡ってきた証とされ、当時の北部九州
	における国際交流の様子を示している。


唐津のシンボル「鏡山」のトイ面にこの支石墓群はある。

 


	支石墓(しせきぼ:ドルメン(仏):コインドル(韓))
	--------------------------------------------------------------------------------
	ドルメンとは、もともとケルト語で石卓の意味である。新石器・青銅器の巨石文化の名残で、西ヨーロッパから、北アフ
	リカ、アジアまで広く分布している。2−4個の石を支柱にして、その上に平たい大きな石を乗せてテーブルのようにし
	た事からこう呼ばれるようになった。それらの石で囲んだ中に死者を葬るのである。
	アジアでは中国、朝鮮半島に広くこの墓制は普及し、我が国では縄文の終末期から紀元前後にかけて、主に西北九州(長
	崎・佐賀・西福岡)の、いわゆる魏志倭人伝に登場する国々(對馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国)で多く発見され
	ている。現在の長崎・佐賀・福岡西部を中心に分布しており、同じ形態が朝鮮南部にも見られ、この墓制が朝鮮半島から
	渡来したものであることがわかる。支石墓は多くが箱式石棺で、その長さはほぼ1m以内で、縄文時代の特徴である屈葬
	の形で埋葬したようだ。朝鮮半島の文化と縄文文化が融合したという見方もある。糸島半島の新町遺跡では、その支石墓
	の下から、縄文人的な形態と抜歯風習をもった弥生前期初頭の人骨が出土した。いわば渡来系の墓に土着系の人が埋葬さ
	れていたわけである。
	大韓民国全羅北道高敞郡・全羅南道和順郡・京畿道江華郡の支石墓群は規模も大きく、特に高敞支石墓群は全羅北道高敞
	郡竹林里と道山里一帯を中心に分布する大規模な支石墓群である。分布は東西1700m余りの範囲に密集して築かれて
	おり、その総数は442基を数える。韓国に於いて最も大きな支石墓群集地域を形成している。使用されている石材には
	10トン未満のものから300トンを越すものまで見られ、多様な大きさの支石墓が確認できる。テーブル式、碁板式、
	地上石槨形等各種の支石墓が共存している。
	これらは現在世界遺産として登録されている。朝鮮半島で支石墓が多く建設されたのは、紀元前1000年から紀元前1
	00年くらいまで続いた無文土器時代という時代にあたり、日本でいえばちょど縄文が終わり弥生が幕を開けた頃にあた
	る。支石墓は、数基から数百基が群をなして一つの墓域を形成し、それが朝鮮半島全体で2000ケ所くらいが発見され
	ている。特にその半数が朝鮮半島南部の全羅南道、慶尚南道に集中しており、密度の地域差が大きい。

	支石墓は大きく3通りに分類される。1.石棺式支石墓、2.卓子式支石墓、3.碁盤式支石墓である。石棺式支石墓は
	石棺を地中に埋葬し、石棺の周りは積石で満たし、石棺の蓋の代わりに大きな上石をかぶせるもので、朝鮮半島全域から
	中国東北部に多い。卓子式支石墓は平安南北道、黄海南北道に多く集中するタイプで、二枚の板石の大きな平たい石を置
	いてテーブルのようにする支石墓である。江華の支石墓はこのタイプ。碁盤式支石墓は別名南方式支石墓ともいい、高敞
	に代表されるような全羅南道、慶尚南道のものはほとんどこのタイプ。碁盤のような厚い上石を数個の支石で支え、上石
	の下に積石を設け、そこに埋葬する。朝鮮では、支石墓は鉄器の流入によって衰退し、それはやがて囲石木棺墓に変遷し
	ていく。
	我が国では支石墓は、縄文晩期の西北九州に出現した墓制であるが、その起源は朝鮮半島南部に分布するいわゆる「碁盤
	式支石墓」に由来している。ただし朝鮮の支石墓との違いとして、西北九州のそれは屈葬の採用や縄文の系譜を引く遺物
	の出土などがあげられる。支石墓は、地上に露出する上部石組構造と、地中の埋葬主体から構成されており、上部構造は
	基本的に、楕円形の巨石を数個の支石が支えている石組みをとり、まれに支石を持たないものもある。上部構造が良好に
	保存されていることは少ないので、その分類には不明な部分が多い。
	我が国における支石墓の埋葬主体は細かく分類されており、大別すると箱式石棺・土壙・甕棺が主なものであるが、各地
	域それぞれ特徴がある。支石墓は、海岸に近い小規模な平野に面した、舌状の丘陵や微高地上に立地することが多く、石
	墓の埋葬主体は、玄界灘沿岸では土壙、長崎県では箱式石棺、佐賀平野では石蓋を持つ土壙というように、同時期ではあ
	るが、地域によって異なる種類が使われている。我が国でも、支石墓は単独では存在せず、10基前後が最小単位となって
	墓地を形成している。家族的な小集団が支石墓の被埋葬者だったことが推測される。

	支石墓は、北西九州の夜臼式土器の間に盛行した墓制である。そして、夜臼式の後半になると、新たに弥生式土器(板付
	T式土器)が誕生して、集落内で両者が共存する。しかし、支石墓からは夜臼式土器しか出ず、板付T式が出土するのは、
	新たに発生した土壙(木棺)墓であり、墓制は共存しなかったようである。支石墓は、夜臼式土器が終焉するのと同時に
	消滅するが、若干の、例外的に交流の跡を示す例を除き、とうとう最後まで他の種類の墓制と共存することはなかった。
	支石墓は、その大部分が北部九州の限定的地域内に収まるのだが、弥生前期後半〜中期にかけて、支石墓は消滅の一途を
	たどる一方各地に拡散し、五島列島や熊本・鹿児島県まで支石墓の例が若干存在する事がしられている。
	

	6.末廬国の弥生遺跡


			弥生時代
			BC300     柏崎貝塚
			          宇木汲田遺跡
			AD100     久里大牟田遺跡
			          柏崎田島遺跡
			AD200     桜馬場遺跡   太字は訪問した遺跡


	「漢書・地理志」の一節には、「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという」という
	一文がある。有名な一節であるが、ここに登場する倭人は、「海に潜って生活している。山が多く畑が少ないので商売に
	勢を出している。」といった生活の描写ではなく、すでに整然とした指揮系統によって漢を訪れた外交官としての姿であ
	る。「歳時を以て来たり、献見」しているのであるから、当然歳時を知っていた、国際人としての倭人である。楽浪は、
	漢の武帝が紀元前108年に、朝鮮半島に設置した四郡の一つで、今日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌(ビヨ
	ンヤン)付近にその都があった。百余国に分かれていた倭人の国は、それぞれが漢の出先機関としての楽浪郡に、定期的
	な外交接触をもっていたか、あるいはそれができる単位だとみなされていたのである。「魏志倭人伝」になると、「もと
	ば百余の国があり、漢の時代に朝見に来た国もあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国である。」として、漢か
	ら三国時代へ移る過程で百余国が三十国になったような事を示唆しているが、もとより「百余国」とか「三十国」が、そ
	の数どおりかどうかは不明である。邪馬台国連合国の三十に合わせたのかも知れない。

	いずれにしてもこの記事は、おおむね北九州の弥生時代中期の初めころの状況を記録したもののようであり、中国人の目
	に「国」として認識された領域(その領域内に王が存在しその居所となる王都があるような)が、当時三十ばかりあった
	という事を示している。そして、末廬国、伊都国、奴国などを見てもわかるように、当時の国々の領域は極めて小さい。
	現在の市町村の領域が当時の国である。そして三十の国々は当然の事ながら北九州のエリア内にすっぽりと収まってしま
	うのである。邪馬台国が近畿にあったとすると、それを取り巻く国々が三十というのはあまりに少なすぎる。各地で発見
	される遺跡を見ても、この中国人の観点からすれば十分に国として認識されて良い領域は、北九州から近畿までの間にご
	まんとある。魏志倭人伝には三百くらいの国の名が記録されていないとおかしい。

	弥生時代初めから中期にかけての、領域内の中心的な場所で国王の居所の侯補となれるような遺跡は、福岡県や佐賀県な
	ど北九州を中心に数多く発見されている。福岡県では前原市三雲遺跡、福岡市吉武高木遺跡、春日市須玖遺跡、飯塚市立
	岩遺跡、甘木市平塚川添遺跡、そしてここ、佐賀県唐津市では、宇木汲田遺跡や桜馬場遺跡、柏崎遺跡などがその代表例
	である。「使者や通訳が往来」しているという記録からみて、漢とこれらの国々の情勢は、お互いに刻々と把握されてい
	たとみてよい。佐賀県神埼郡神埼町と三田川町にまたがる「吉野ケ里遺跡」も忘れてはなるまい。時代が卑弥呼の時代と
	は異なるとはされるが、あれだけの領域をもった国である。当然漢にも知られていたと見て良く、ひょっとしたら邪馬台
	国である可能性も完全にはぬぐいきれないと思う。








	【唐津市・桜馬場遺跡 】

	唐津市桜馬場遺跡は、弥生時代中期からAD1世紀あたりの後期の甕棺墓地である。松浦川左岸砂丘上に当たり、戦中防
	空壕構築中に桜馬場3丁目の宅地から甕棺が出土し、棺内から副葬品として、後漢鏡2面、銅釧26個、巴形銅器3個、
	鉄刀片1個、ガラス小玉1個が発見された。昭和30年に発掘調査が行われ、これらの副葬品を納めていた甕棺が後期初
	頭のものと位置づけられた。銅鏡2面は、「流雲文縁方格規矩四神鏡」と「素縁方格規矩渦文鏡」でいずれも王莽の新代
	から後漢初期の鏡である。有鈎銅釧は南海産のゴホウラ製貝釧をモデルとしたもので、巴形銅器は小型で、有鈎と無鈎の
	ものがある。これらは一括して国の重要文化財に指定され(昭和32年2月19日指定)、佐賀市城内の佐賀県立博物館
	にある。その豊富な副葬品から、宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡と続く、3代にわたる弥生後期の「末廬国」王墓
	とされている。

	<桜馬場遺跡出土の有鈎銅釧(ゆうくどうくしろ:ブレスレット)>
	26個を出土している。これと飯塚市「立岩遺跡」34号甕棺墓とを対比すると、弥生時代中期後半から後期前半におけ
	る副葬品の推移が読みとれる。即ち、「立岩」では鉄戈(か)の他、前漢鏡の内行花文「日光」鏡一面とゴホウラ製貝釧
	14個が出土し、「桜馬場」では鏡が方格規矩鏡の後漢鏡に、釧は青銅製に変わっている。福岡県朝倉郡夜須町では東小
	田「中原前遺跡」の銅戈鋳型や朝日「宮ノ上遺跡」の有釣銅釧鋳型出土地にみるように、弥生時代後期前半代までの拠点
	的集落は、平野部の低位丘陵上に立地している。しかし、中頃以降後半代になると同町「曽根田宮ノ前遺跡」の環濠集落
	や、その至近距離にある三牟田「下町遺跡」の土壙墓出土の後漢鏡にみるように平野部でも比較的高所の急峻な段丘上に
	拠点的集落が移動していることがわかる。この時期、北部九州では甕棺墓葬が糸島地方を除いて姿を消し、前代まで続い
	た「王墓」も途絶えてしまう。これらは、「魂志倭人伝」にいう「倭国大乱」の社会的状況と関わりがあるのかもしれな
	い。





	【柏崎遺跡】

	柏崎には幾つか発掘調査された地点があり、それぞれ柏崎xx遺跡とその地区の名前を付けて示されている。柏崎石崎遺
	跡からは、我が国でこれまで3例しか出土がないと言われる「触角式有柄銅剣」(*)が出土して注目を浴びたし、柏崎
	田島遺跡からは「連孤日光銘鏡」という前漢中期の鏡が出土し、日本と中国の関係を示す遺物として、これまた注目を浴
	びた。これの特異な出土物から、柏崎遺跡は「魏志倭人伝」に記されている末廬国の王墓に比定され、有柄銅剣は有力部
	族長の権力を象徴するものとされた。故佐原真氏は「銅剣の貴重さからみて墳丘墓は王族の墓であることは間違いない』
	と評価していた。
	(*)柏崎遺跡のほか、福岡県糸島郡前原町三雲遺跡、山口県西端の向津久保遺跡。その後「触角式有柄銅剣」は吉野ヶ
	   里遺跡でも同様のものが発見された。





	柏崎石崎遺跡出土の「触角式有柄銅剣」49.0cm。スキタイ風銅剣という珍しいもので、取っ手が丸みを帯びており、
	ちょうどハサミの親指と中指を入れる二ヶ所の感じで、刀身も全体的に丸みを帯びふくよかな感じである。中央アジアの
	文物がここまでもたらされているとしたら驚きである。



	【宇木汲田遺跡(出土品は重要文化財) 】
	約2100年前の弥生前期末から中期初頭、佐賀県唐津市東部鏡山南の「宇木汲田」のムラに大陸系の青銅器を副葬する
	初期の王墓が出現した。この遺跡からは、鏡のほか、多くの銅剣、銅矛、勾玉などが出土し、ここから末廬国における王
	権が始まったと考えられている。宇木汲田遺跡は、唐津市大字宇木字汲田に所在し、夕日山から北東に延びた二つの小丘
	陵の前面、松浦川の左岸平坦地域に立地している。昭和3年、排水溝の工事中に発見されたカメ棺より銅剣2、銅鉾2、
	勾玉2、管玉29などが出土し、森本六爾によって昭和5年に紹介されて以来、東亜考古学会、それに日仏合同調査団に
	よる調査が行われ、弥生時代前期から後期の甕棺墓を中心とした墓地であることが判明している。この遺跡の特色は甕棺
	の副葬品にあり、これまでに細形銅剣・細形銅戈・細形銅矛・多鈕細文鏡・銅釧・管玉・勾玉などが数多く発見されてい
	る。また、縄文時代晩期の貝塚も発見され、初期農耕文化の生成を考える上でも学史的に重要な遺跡である。


 






	7.末廬国の古墳

		古墳時代
		AD300     久里天園遺跡
		          久里双水前方後円墳
	 	          経塚山古墳(浜玉町)
			      長崎山古墳群
		AD500     谷口古墳(浜玉町)
		          さこがしら古墳
		          樋ノ口古墳
	 	          島田塚
		          外園古墳
		          中の瀬古墳群   太字は訪問した遺跡

	(1).久里双水古墳

	古墳時代初期、3世紀末から4世紀はじめに、唐津市内久里双水において日本最古級の大型前方後円墳が形成された。
	昭和56年に発見され、平成6年8月の学術調査の結果、日本でも最も古い古墳の一つであることが確認された。全長
	108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの3世紀末から4世紀初めの前方後円墳である。後円部の頂上か
	らは内法で長さ2.5m、幅0.8mの竪穴式石室が検出され、内部には舟船形木棺を安置したと考えられる舟形粘土床
	が発見された。竪穴式石室から直径12.1cmの盤龍鏡1面と、管玉2個さらに刀子が出土し、邪馬台国時代の3世紀
	にさかのぼる前方後円墳の起源を考える上でも、全国的に注目される古墳である。発見当時はニュースステーションに
	も取り上げられ、一時ドッと見学者が訪れたらしい。出土された副葬品の在り方から、近畿とは別の文化圏の古墳であ
	る可能性が高いと注目されているし、前方後円墳もその起源は九州ではないかという説の拠り所にもなっている。魏志
	倭人伝に記述される「末廬国」の首長墓ではないかという見方もある。現在は外観整備、ベンチ、ライトアップ等を整
	え、石室のレプリカも作成し、古墳公園として市民や観光客に親しまれている。








(*) ここでの解説の一部は、「末廬館」発行の「末廬国の歴史」他パンフレットから転載した。


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