16. 邪馬台国周辺の考古学 −その3−


	3. 志賀島(しかのしま)の考古学

	金印出土で有名な志賀島。かっては純粋に博多湾に浮かぶ島であったが、今から40年〜30年ほど前に、海の中道が
	繋がって陸続きとなった。私の家内は東区の福岡高校卒業だが、学友に志賀島から通う子がいて、船で通学していたと
	言っていた。厳密には海の中道を通って、握り拳のような形をした志賀島の直前で、志賀島橋を通るので、ここで福岡
	市とは切り離されているが、まぁ一応陸続きと見て良いだろう。島の北東部にある、標高167mの汐見山を中心に幾
	つかの低山がつらなった低山岳地帯で、平野部はほとんど無い。周囲12kmの海岸線に沿って自動車道が島を一周し
	ている。島は3つの地区に分かれており、「志賀、勝馬、弘」からなり、「志賀」が島への入り口で表玄関であり、海
	の守護神「志賀海神社」が鎮座している。「勝馬地区」が農業地区で、ここからは1958年に細形銅剣鋳型が出土し
	論議を呼んだ。また1956年に発掘された「堂ノ上古墳」の石棺からは、男女の人骨が対で出土し、弥生時代から歴
	史時代までの遺跡が点在する重要な地域である。「弘」が漁業中心の、ザンタ川の河口に開けた小さな漁村で、最近ま
	で地区人口の殆どは漁業に従事していた。今はほとんど居なくなったが、かっては糸島郡とともに、海女の部落として
	有名だった。
	志賀島については、「六国史」、古「風土記」逸文、「延喜式」、「万葉集」などを始め、諸々の文献に記事が見え、
	島の名前も、磯鹿、資珂、志加、志珂、思香、斯香、鹿、然、近島、志賀などと書かれているが、古くから「しか」と
	呼ばれていた事は間違いない。所属する郡も、奈良・平安時代は「糟屋郡」、安土桃山時代は「那珂郡」、江戸時代は
	一時的に「志摩郡」や「糟屋郡」になったりしているが、明治13年、再度「糟屋郡」となって、(戦後「粕屋郡」)
	昭和46年4月、福岡市に併合された。現在の行政区は福岡市東区である。



	1.志賀島の考古遺跡

	志賀島の考古学的な発掘調査は、1947年に勝馬地区の前田富蔵氏宅の裏庭から出土した「細形銅剣の鋳型」を契機
	に、1958年、59年に森貞次郎氏(九州大学→福岡大学→九州産業大学)らによって行われた学術調査がある。主
	に弥生遺跡を中心とした一般的な学術調査であった。次いで1973、74年に、九州大学考古学研究室によって、金
	印公園設置の為に行われた調査がある。(金印遺跡調査団)
	これ以前にも、福岡県郷土教育研究会によって一般的な調査が行われ、「志賀島の研究」という報告書が刊行されてい
	るが、本格的な学術調査は前出2回の発掘によるところが大である。この2回の調査によって志賀島の、多くの遺跡や
	土器・石器が発見され、島の縄文時代から歴史時代に至る様子が明らかになった。

	(1).縄文時代の遺跡

	島の縄文時代の遺跡は、志賀海神社境内の入り口付近と見られる1ケ所のみである。ここから縄文時代後期・晩期の土
	器と、黒曜石製石鏃、磨製石斧が発見されているが、遺跡の正確な場所は特定できていない。


	(2).弥生時代の遺跡

	志賀島の弥生時代生活遺跡は11ケ所発見されている。島の中央部の山頂づたいに分布している部分と、海岸部分に大
	別できる。

		(2)−1.志賀地区

		@.高松遺跡
		標高150mの段丘にある。中期の土器片が散布。飯塚の立岩遺跡の石包丁製造跡と同室の石包丁が出土。
		A.志賀海神社口遺跡
		昭和33年に、志賀海神社の位置する崖に石垣を築造中発見された。ここは志賀地区から勝馬地区への通り道
		にあたり、天竜川の河口でもある。弥生中期の土器片が発見されているが、特に注目されるのは、壱岐の「原
		の辻」、対馬の「佐護クビル・峯村ガヤノキ・志多留大将軍山石棺」と同質の、朝鮮系陶質土器(金海式陶質
		土器)が発見されていることである。壱岐対馬同様、志賀島の住民もすでに朝鮮と交渉をもっていた事を証明
		している。
		B.小学校裏遺跡
		志賀島小学校の裏手にある。中期土器片、黒曜石片、朝鮮式陶質土器片が発見されている。
		C.金印出土地
		金印については、このホームページではこれまでにも2,3取り上げて考証したので、そちらを参照して頂き
		たいが、出土地の発掘調査の状況について、若干補足しておきたいと思う。
		金印の発見と江戸時代の邪馬台国研究(邪馬台国研究史)
		金印公園(遺跡・旧跡案内)
		金印の全て(東京国立博物館)
		<出土地>
		現在の推定地は、大正3年九州考古学界の嚆矢、中山平次郎が現地調査に訪れた際、古老の話と文政三年(1
		820)の「筑前国続風土記付録」の絵図面やその他の資料を基に定めたもので、現存する「金印発光之処」
		という石碑は、その年、島の有志によって建てられたものである。
		しかし金印発見時の記録によれば出土地は「叶ノ崎」となっており、伊能忠敬が志賀島を訪れた文化9年(1
		812)8月2日の測量日誌にも、「印塚は叶ノ浜ニアリ」と書かれている。また、金印発見後に書かれた、
		「金印発見の図」(志賀海神社宮司安曇氏蔵)にも、「金印出・カナサキ」と書かれていて、現在の推定地、
		「古戸」とは異なることなどから、「叶ノ崎」が本来の金印出土地だったと思われる。
		しかし1973年8月の金印遺跡調査団は、出土地碑が建っている処の近くを3ケ所トレンチし、弥生式土器
		片、土師器片、須恵器片、白磁片などを発掘し分析しているが、「叶ノ崎」については鍬を入れることが出来
		なかったとして、中山平次郎が比定した場所が有力であると報告している。最近の調査では「叶ノ崎」附近は
		浸食作用が激しく、地形が大きく変化していると言うから、今となっては、出土地をめぐる真相も謎のままで
		ある。


		(2)−2.勝馬地区

		@.太刀打遺跡
		江尻川の水源地で、標高7.80mの尾根の南斜面にある。中期の土器片が出土。鉄滓が出土との記事もある
		が未確認。
		A.原江遺跡
		原江堤の堤防南端。江尻川左岸。中期の高杯と土器片が出土。
		B.かめ太郎遺跡
		島のほぼ中央。標高120mの尾根の南斜面にある。前方は博多湾、後方は玄界灘である。中期の土器片、後
		期の土器片、石包丁片、石斧片、石弋(せっか/せきよく)が出土している。
		C.前田遺跡
		前述、前田富蔵氏宅内から、1947年「細形銅剣鋳型」が出土した。細形銅剣そのものは北九州を中心に多
		数発見されていたが、その鋳型の出土は日本で始めてだった。1958年4月30日から2日間、九州大学考
		古学研究室と森貞次郎氏らによって発掘されたが、その際、長さ6cmの石剣の刃先、中期の土器片、細形銅
		矛も製作されていた事を窺わせる粘土塊などが出土した。細形銅剣の鋳型は、地下3mの弥生時代中期の層か
		ら出土したもので、黄色味をおびた灰白色の中粒砂岩で出来ており、2面セットの1面であった。尖部と茎部
		が欠けていて、残存長18.5cm。剣身の独特のくり型によって細形銅剣である事がわかった。
		それまで舶来品と考えられていた細形銅剣が、弥生時代中期に、この志賀島で製造されていたことを証明した
		重要な遺物で、当時学界の話題になった。
		D.勝馬A地点遺跡
		前田遺跡から50mの所にある。1959年3月25日から5日間調査され、前期・中期・後期の土器片が出土した。
		E.猪狩遺跡
		勝馬区の東北、江尻川の沖積地に面する山地の西南斜面にある。後期初頭のかめ型土器や高杯の土器片が出土。


		(2)−3.弘地区

		@.地頭野遺跡
		かめ太郎遺跡の150m南。ザンタ川水源地近くの標高185mの斜面にある。中期・後期の土器、石包丁が
		出土している。
		A.弘遺跡
		弘部落の後背地の、ザンタ川河口近くの扇状地。この扇状地の丘陵、標高10ー12mから前期・中期の土器
		片が発見されている。


	(3).古墳時代の遺跡

		志賀島では古墳時代の遺跡・遺物は小規模で数も少ない。古墳時代と特定できる遺跡の殆どが、弥生土器を供
		出している。
	
	<生活遺跡>

		@.志賀海神社口遺跡
		A.志賀島小学校裏遺跡
		以上志賀地区
		B.前田遺跡 中期・後期の土器、土師器、須恵器のつぼ型土器、小型のまる底つぼ等が出土。
		C.勝馬A地点遺跡 弥生時代前期〜6世紀にわたる土器が出土。
		D.教員住宅遺跡 勝馬小学校東側の教員住宅にある遺跡。土師器高杯が出土。
		E.濱田池遺跡 小型丸底つぼ。
		F.明石遺跡 須恵器堤瓶。
		以上勝馬地区
		G.弘遺跡 弘部落背後の、ザンタ川によって作られた扇状地が水田となっており、この水田の北側にある遺跡。
		弥生時代前記・中期の土器は発見されていたが、その後古墳時代後期の須恵器のかめ等が発見された。
		H.地頭野遺跡 ザンタ川支流を遡った水源地にある遺跡。弥生時代中後期の土器・石包丁・高杯等が出土した。
		以上弘地区

	<生産遺跡>

		@.弥五郎下遺跡 (勝馬地区)
		弥五郎塚古墳の下、丘陵斜面にある遺跡。古墳時代の蛸壺。弥生終末〜古墳時代初頭以降と考えられる石錘が出
		しているが、古墳時代の住居跡が海岸にある事から製塩など海に関する生産遺跡の存在が推察される。

	<埋葬遺跡>

		@.弥五郎塚古墳 (勝馬地区)
		江尻川河口右岸の洪積丘陵の尾根に位置する。丘陵の北側はすぐ海岸である。小型の箱式石棺の側石が在ったと
		言われるが現存していない。石棺の構造、副葬品、築造時期などは一切不明。
		A.堂ノ上古墳  (勝馬地区)
		西福寺本堂横の小道を登った、集落を見渡せる丘陵上の尾根に位置する。3つの墳丘があり、1つが1956年
		に発掘された。この時石棺から2体の人骨(生年男女)が発見された。百数十個の小玉が出土。古墳時代前期。
		B.大岳古墳   (大岳地区)
		海の中道の先端にある大岳神社西側の丘陵にある。鉄刀、刀子、鉄鏃などの鉄製品に加えて、金環、銀環、須恵
		器が出土している。
		志賀島自体の古墳としては@.弥五郎塚古墳、A.堂ノ上古墳以外には発見されていない。




	(4).まとめ

	志賀島は海の中である。古来より漁業・航海の発達をみたことは容易に想像できる。島には弥生時代の遺跡が11ケ所も
	存在する、この狭い土地の中では異例とも思える多さで、島の規模や容貌から見るに農業が発達したとは思えず、生活は
	もっぱら漁業・航海に依存していたと思われる。後代の「万葉集」にも、志賀島の海人を詠んだ歌が23首収められてお
	り、当時の筑前の守であった山上憶良も、荒男という男の事を歌にしている。
	また島には、航海の守護神ワタツミノカミ3神を祭る志賀海神社が鎮座しているし、この神は古事記に「此の三柱綿津見
	神は阿曇連等の祖神と以ち伊都久(いつく)神なり」とあり、先代旧事紀にも、「此三神は阿曇連等が祀る筑紫の斯香の
	神なり」となっていて、相当昔から航海に長けていたことがわかる。阿曇族は、和名抄にいう「筑前国糟屋郡阿曇郷」に
	いて、玄界灘の海上交通を支配し、海外とも盛んに交易をしていたと思われる古代氏族である。弥生時代あるいはそれ以
	前から、朝鮮半島や中国大陸と交流があったことは容易に想像できる。それは、見てきたような「細形銅剣鋳型」や「朝
	鮮系陶質土器」さらには「漢委奴国王印」の出土等によって考古学的にも証明されていると言ってよい。


志賀海神社本殿




	4. 沖の島(おきのしま)の考古学


	1.沖ノ島

	沖ノ島は玄界灘のまっただ中に浮かぶ周囲4キロ・高さ243mの孤島で、古代より航路の道標とされてきた神体島であ
	る。対岸の内地から海上約60kmにあり、韓国の釜山まで145kmである。この島に人類が足を踏み入れたのは相当
	古く、縄文時代前期から末期・晩期に至る土器が出土しているし、弥生時代・古墳時代を経て歴史時代に至るまでの遺跡
	が存在している。
	古事記・日本書紀によると、天照大神の子供である三女神は天照大神から「歴代の天皇を助け、歴代の天皇からお祭りを
	受けるように、との神勅を奉じて、国の守護神としての使命をおびて、三宮(さんぐう)に降臨したことが記されている。
	田心姫神(たごりひめのかみ)は沖津宮(沖ノ島)に、湍津姫神(たぎつひめのかみ)は中津宮(大島)に、そして市杵
	島姫神(いちきしまひめのかみ)が辺津宮(宗像市玄海町田島:内地)に降り立ったとされている。すでに「記紀」成立
	の頃にはここが祭祀場であった事を示している。写真を見てもこの「沖ノ島」はとても人が住めるような島ではない。山
	が、切り立った崖からまっすぐに伸びており、作物を育てるような平野は存在しない。唯一、現在も祭祀場として用いら
	れている少し開けた場所があるが、縄文・弥生の遺跡もここに集中している。思うに縄文・弥生時代もここは神の島だっ
	たのではないかと思われる。いったい縄文人・弥生人達はどのような思いで海上60kmも丸木船を漕いでいったのだろ
	うか?





	2.沖ノ島の遺跡

	昭和29年から33年にかけて、宗像神社史編纂のために、小島鉦作成蹊大学名誉教授・鏡山猛九州大学名誉教授を隊長
	とする学術調査隊が、はじめて沖の島の発掘を行った。そして、沖津宮社殿付近の原生林の中の巨石群のなかに、4世紀
	から6世紀に掛けての数々の祭祀遺構を発見した。各時代の文化の精粋ともいうべき2万1千点の遺物が、奉納された時
	と同じ姿のまま発見されたのである。さらに昭和32年と33年にも第二次調査が行われ、新たな成果をもたらした。そ
	の成果を受け、宗像大社、宗像神社復興期成会は、九州大学教授岡崎敬氏を隊長とした第三次調査隊を組織し、昭和44
	年4月から46年5月まで、3回にわたる更に綿密な学術調査が実施された。この調査では、7世紀から10世紀に掛け
	ての遺物が多数発見され、中でも金銅龍頭(東魏時代)、三彩長頸壷(盛唐時代)は、我が国飛鳥・奈良朝と中国との交
	流を明らかにする貴重な発見だった。出土品は5万点におよび、当時の大和朝廷から奉納されたと考えられるものが大多
	数を占めていた。

	(1).縄文時代の遺跡

		@.社務所前遺跡 縄文時代前期の土器が出土している。
		A.4号洞窟遺跡   同
		B. 正三位社前遺跡  同(先史時代の遺構もあり。石器も出土。)

	(2).弥生時代の遺跡

		@.社務所前遺跡 弥生時代全期の土器が出土している。
		A.4号洞窟遺跡   同
		B. 正三位社前遺跡  同


			

	この島は、遙か先史時代から人が足を踏み入れているようである。上記3つの遺跡には、縄文・弥生を通じて土器が出土
	しており、A.4号洞窟遺跡はその名の通り洞窟遺跡で、生活には適していたようであるが、縄文・弥生を通じてここで
	人々が生活していたわけではない。おそらく対岸の宗像あたりの住民が漁に来て、暫時、休憩あるいはキャンプを行って
	いた場所だろうと思われる。もしかしたら、現在の釜山あたりの人間達が上陸していた可能性もある。後世には祭祀場と
	して大和朝廷からも神聖視される沖ノ島であるが、弥生時代以前の祭祀遺構は見つかっていない。








	3.祭祀遺跡

	現在までに約23ケ所の古代祭祀遺跡が発見されている。斎(祭)場は、岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天と4段階の
	変遷をたどり、4世紀から10世紀までの約600年の長い年月の間、大和朝廷が鏡・金指輪・龍頭・唐三彩・馬具・奈
	良三彩など最高級の豪華な品々を奉納し、対外交渉にかかわる重要な国家祭祀を執り行ったと見られる。これらの遺跡か
	らの発掘品は現在全て宗像大社神宝館に保管されているが、その総数は11万点とも12万点とも言われ、常時約1万点
	が展示されている。驚くべき事に、この12万点にも及ぶ出土品の殆どが国宝・重要文化財に指定されている。又、奉献
	品のなかには遠く中近東のペルシャあたりから運ばれたと見られる品々も多いことから、この遺跡は「海の正倉院」と呼
	ばれている。ちなみに、「地下の正倉院」と呼ばれているのは、奈良橿原市の「新沢千塚古墳群」である。


	(1).沖ノ島が祭祀場所として登場してくるのは古墳時代になってからである。祭祀遺跡は、沖津宮裏の巨石群に集中
		している。現在までに約23ケ所の古代祭祀遺跡が発見されており、ほかにも港の上の正三位社前遺跡でも、土
		構のなかから、鉄てい、土師器が見つかっている。祭祀遺跡は巨石群のなかに点在し、岩上・岩陰・露天の至る
		所で、奉納品が土を被ることなく露出していた。三次にわたる発掘調査の結果は、「沖ノ島」「続沖ノ島」「宗
		像沖ノ島」と、三部の長編の報告書にまとめられている。




	遺跡は、岩上祭祀遺跡、岩陰祭祀遺跡、半岩陰・半露天祭祀遺跡、露天祭祀遺跡に分かれる。時代的には岩上祭祀が一番
	古く、露天祭祀が一番新しい。

	@.岩上祭祀遺跡 ・・・ 16、17、18、19号遺跡(I巨石上)。21号遺跡(F巨石上)。

	17号遺跡はI号巨石の南側に位置し、岩の上に石を敷き、その上に鏡21面、刀剣、車輪石、玉類が奉納されていた。鏡
	には、三角縁神獣鏡、方格規矩鏡、連弧文鏡、だ龍鏡、獣帯鏡、画像鏡、き鳳鏡があり全て国産品である。
	21号遺跡はF号巨石の上にあり、中央に祭壇を築き、その上に依代と思われる石を敷き磐坐としている。獣帯鏡、四乳渦
	文鏡など9面、鉄てい、わらび手刀子、石釧、玉類、子持ち勾玉、手づくね土器が出土している。

	A.岩陰祭祀遺跡 ・・・ 4、6、7、8、9、10、11、12、13、15、22、23号遺跡

	巨石の岩陰を利用した祭祀遺跡であるが、遺跡の数は一番多く、沖ノ島祭祀の中心を占めると考えられるが、未調査の遺
	跡も多い。7号遺跡と8号遺跡はD号巨岩の表と裏に位置し、この段階の代表的な遺跡である。7号遺跡からは金製指輪、
	金銅製杏葉、歩揺付雲珠、帯金具、玉類、盾、桂甲、刀剣、矛などが出土している。岩陰に置かれた奉納品は大きく3カ
	所に分かれており、東側に盾、桂甲、鉄矛などの武器類が置かれ、中央に珠文鏡と刀、玉類、西側に馬具類と大別できる
	事から、アマテラスとスサノオの誓(うけ)ひの伝承が表現されているという意見もある。


		
		


	B.半岩陰・半露天祭祀遺跡 ・・・ 5、20号遺跡

	半岩陰・半露天遺跡は、第三次調査で注目された祭祀である。5号、20号遺跡がこれにあたる。岩陰の部分が大きく、前
	面にまで奉納品を置いており、それ故に半岩陰・半露天と表現される。奉納品の内容は前代までと異なり、土器、金属製
	雛形祭祀品が中心を占めるようになって、5号遺跡では唐三彩、金銅製竜頭が出土して注目された。

	C.露天祭祀遺跡 ・・・ 1、2、3号遺跡

	露天における祭祀は、巨石とは離れたところで行われたようである。露天であるが故に、祭祀の場所を明確には特定でき
	ていない。1号遺跡からはおびただしい数の土器、滑石製品が出土している。奉納品は土器が主体を占め、滑石製の形代
	も、人型、馬型、船型と多様である。奈良三彩の小壺も新たに出現し、皇朝銭の富寿神宝(818年初鋳)が出現してい
	ることから奈良時代・平安初期という時代が特定できた。しかし、遺物の集積していた場所が祭祀の場所だったかについ
	ては、報告書も断定を避けている。





	(2).祭祀の内容

	古墳時代以降の遺跡から出土する遺物は、通常一般の遺物と違って生活品ではなく、また、この島には生活集落もない。
	出土したおびただしい遺品は、明らかに祭祀に用いた奉納品だという事が出来る。ではその祭祀はいかなる種類のものだ
	ったのだろうか。推測は容易である。沖ノ島は玄界灘に浮かび、海上交通の要所にある。古くは漁の成功、航海の安全を
	願って人々が神に祈りをささげたものであり、大和朝廷が成立してからは、朝鮮半島や中国大陸との外交交渉の成功に加
	えて、古来からの祈願である航海の安全をも祈ったのであろう。その外交相手や交渉結果、日本国内の時代区分などが、
	残されたおびただしい遺物から推定できる。難波の都を発って、瀬戸内海を通り、周防灘から玄界灘へ漕ぎだした遣隋使
	船や遣唐使船も、交渉成就を祈願して沖ノ島に寄り、或いは半島大陸での交渉を終えて、その成果に感謝するためにこの
	島に立ち寄り、さまざまな祭祀を行ったものと考えられる。

	最も初期の祭祀として、I号巨岩上に祭祀場が営まれたのは、天上から神の降臨を願うものとして至極当然ななりゆきで
	あった。その後次第に祭祀の場は周辺へ広がって行き、時代時代で変化していった事も、遺跡と遺品から見て取れる。
	沖ノ島の祭祀は、ほぼ4世紀の後半から10世紀代にかけて連続して行われている。岩上遺跡の基本的な奉納品は、国産の
	三角縁神獣鏡、大型の方格規矩鏡、連弧文鏡や、鍬型石、石釧、車輪石などの石製品である。これらの組み合わせは初期
	の古墳には見られず、九州にぽつぽつ前方後円墳が出現する時期に相当する。鏡の種類からも4世紀終末から5世紀初頭
	と見ることが出来、この祭祀は、百済・新羅との外交交渉が行われていた時代を反映していると見ることができよう。
	5号遺跡から出土した唐三彩は、遣唐使が、第17次派遣の時持ち帰ったものである可能性が高いと言われる。金銅製竜
	頭は最初「東魏」時代の作品と考えられていたが、その後の検証で統一新羅時代のものとされた。
	露天遺跡の祭場は、述べたようにはっきりしないが、仮に3号遺跡を祭祀場とし、1号遺跡2号遺跡に集積した奉納品を
	3号遺跡へ運び祭祀を行っていたとすれば、3号遺跡に於ける祭祀は、沖ノ島における古代祭祀の最後の段階で、奈良時
	代から平安初期のものと見て良く、これは、祭祀終焉の時期が遣唐使派遣の最後と符合していることを示している。



第三次発掘調査のようす(上)。三笠宮殿下も調査に参加された。



	4.宗像地方との関係

	沖ノ島の対岸、宗像地方には40基ほどの前方後円墳があり、そのうち7基ほどが、玄海町から津屋崎町にかけての玄界
	灘沿岸に分布し、この地域には水田耕作可能な地がほとんど無く、沖ノ島の祭祀遺跡と関係あるのではないかと考えられ
	ている。これらの古墳は古代「胸形氏一族」の奥津城ではないかとされる。
	4世紀代の古墳と推定されるものに玄海町神湊の上原古墳があるが、未調査である。宗像大社の辺津宮境内にある、玄海
	町田島の上高宮古墳は江戸時代に発見され、箱式石棺から円鏡12面、矢ノ根72本、太刀2振りが出たと伝えられ、大
	正15年(1926)の再調査では、鏡、有茎式銅鏃、勾玉、菅玉、わらび手刀子、刀子、鉄斧、鉄鏃、直刀、短甲などが出
	土している。この出土物の組み合わせ・量をみると、沖ノ島21号遺跡に極めて類似した点が多い。21号遺跡は、I号巨石
	群から離れて始めて行われた祭祀遺跡であり、この時期に胸形氏が沖ノ島の祭祀に始めて関わりを持ったとも考えられる。

	前方後円墳である勝浦14号墳は、その出土物から沖ノ島7号遺跡、16,17,19,21号遺跡との類似性が指摘されており、勝
	浦12号墳も前方後円墳で、その出土物か幾つかの沖ノ島遺跡との関連性が見られる。
	宗像神社のある本土側の古墳の出土品と、沖ノ島祭祀遺跡の奉納品を比較してみると、完全に一致するものはないが、類
	似性のあるものが、それぞれの古墳で幾つか見られる。それによると、5世紀前半と考えられる上高宮古墳以後に見られ、
	岩上の21号遺跡、岩陰の7号、8号遺跡と比較することができ、この段階では、胸形氏と沖ノ島祭祀が密接に関係している
	ことがうかがえる。I号巨石周辺の16号、17号、18号、19号遺跡の段階になると、畿内的な奉納品が多くなり、宗像本土
	でも見られないものがあるので、大和政権直轄の祭祀が始まったとも考えられる。或いは胸形氏自身が、この頃大和朝廷
	と強い繋がりを持つようになったのかもしれず、いずれにしても、沖ノ島での祭祀に畿内の影響が見られるようになる。
	言い換えればそれ以前は、沖ノ島での祭祀は大和朝廷のあずかり知らぬ所で行われていたか、或いは、大和朝廷がまだき
	ちんと成立していなかった可能性も秘めている。




	5.おわりに

	沖ノ島遺跡の詳細は、前述した「沖ノ島」以下の3報告書に詳しい。興味のある方は入手されたい。沖ノ島が、大和朝廷
	の遣隋使・遣唐使派遣に際して、国をあげての奉納品をここに奉ったのは、海を乗り越えて異文化・先進文化を吸収した
	いという強い意欲の表れであるが、それに伴う航海がいかに厳しいものであったかも示している。人々は航海の安全を切
	に祈願し、無事帰国する事を願って、その時代時代の宝物を惜しげもなくこの島に捧げたのであろう。
	遺跡・遺物からは祭祀の具体的な様子は判明しないが、見てきたように、残された遺物からその時代変遷や対外相手の推
	測ができる。沖ノ島が、古代、600年にわたり我が国の対外交渉の成功を祈願する祈祷の島だったことは疑いがなく、
	そのため長い間(今もそうであるが)、余人は立ち入ることも制限された「神の島」だったのである。












	<参考文献>

	この「邪馬台国周辺の考古学」シリーズは、以下の各出版物から引用・参照・転載しました。各出版社並びに著者の
	方々に謝意を表明します。用いた写真・図表等についてもこれらの資料にある各論文・論考から転載しています。

	● 倭人伝の国々 (株)学生社刊 2000年5月30日発行 小田富士雄編
	● 弥生の王国  中央公論社刊(中公新書) 1994年1月25日発行 鳥越憲三郎著
	● 古代史の鍵・対馬 大和書房刊 1975年5月10日発行 永留久恵著
	● 海の正倉院 宗像・沖の島の遺宝 昭和53年4月1日発行 大阪市美術館・名古屋博物館・宗像大社・毎日新聞社

	  

	● 歴史と旅 「特集 邪馬台国と倭の国々」 (株)秋田書店 昭和60年1月1日発行 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学」(株)梓書院発行 1984年春号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第二弾」(株)梓書院発行 1984年夏号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第三弾」(株)梓書院発行 1984年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 遺跡分布から見た邪馬台国」(株)梓書院発行 1986年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の人口」(株)梓書院発行 1987年春号 

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