15. 邪馬台国周辺の考古学 −その2−


	2. 壱岐の考古学

	1.魏志倭人伝の壱岐


	<魏志倭人傅(読み下し文)>
	倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所
	三十国。郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て、乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七
	千余里。始めて一海を度る。千余里。対馬国に至る。大官を卑狗といい、卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里
	ばかり。土地は山剣しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南
	北に市糴す。 
	又南一海をわたる千余里。名づけて瀚海という。一大国に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方、三百里ばか
	り。竹木、叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり。 田を耕せどなお食足らず。南北に市糴す。
	また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に濱いて居る。草木茂盛して行く前に人を見ず。好んで魚鰒を
	捕うる。水、深浅となく、みな沈没してこれを捕る。東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄
	謨觚、柄觚という。千余戸あり。世々王あるもみな女王国に統属す。郡の使いの往来して常に駐る所なり。 

	<魏志倭人傅(現代語訳)>
	倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。もともと、百
	余国に分かれていた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。帯方郡より倭に至
	るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?)狗邪韓国(くやかん
	こく)に到る。七千里余りである。始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、
	副官を卑奴毋離(ひなもり)という。この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかり
	で険しく、深林も多く、道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、 海産物を食べて生活し、船で南北
	(韓国や北九州?)にのりだし交易を行っている。
	また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。長官を(対馬と)同じく
	卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し田畑があるが、
	これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。 
	さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、 山際や海岸に沿って
	家が建っている。草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関
	係無しに、潜水してこれらを捕らえる。東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、
	副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が常
	駐している所である。

	中国西晋の時代に、陳寿が書いた全65巻にも及ぶ歴史書『三国志』の中に、3世紀頃の日本列島について記した2000字程度
	の記述がある。いわゆる「魏志倭人伝」である。ここに邪馬台国についての記述があるのだが、周知のごとく、その場所は
	未だ確定していない。
	「倭人伝」の刊本・紹煕本」では「一大國」と書かれているが、「紹與本」「梁書」「北史」「翰苑」には「一支國」と記
	載されている。通説では「一支」が正当と見なされ、「一大」は記載ミスであろうとされるが、隋書、通典には「一支國」
	とされ、対馬から東と書かれているのでこれは壱岐ではなく沖ノ島であり、「一大」が壱岐なのだという説もある。私見で
	は、「一支国」も「一大国」も現在の壱岐島に比定して問題はなかろうと思う。壱岐島は、対馬とは対照的に穏やかな起伏
	の少ない低地が広がり、そこに水田が営まれている。勝本、郷ノ浦、芦辺、石田の四町で一島一郡(壱岐郡)を構成してい
	るが、平成16年4月1日をもって4町は合併し、壱岐市となる。これは対馬も同様で、同日に対馬市が誕生する。

	対馬国より一大国に至る行程を考えると、仮に、対馬浅茅湾から壱岐勝本(壱岐島北端)迄の距離を求めると約80kmと
	なり、対馬厳原から壱岐の郷乃浦までは65キロとなる。倭人伝にはこれも千余里と記されている。
	又、南へ、一海を渡ること、千余里。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦卑狗、副は卑奴母離と曰う。方三百里可。
	竹木叢林多く、三千許りの家有。僅かに田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す。
	また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。長官を(対馬と)同じく
	卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し田畑があるがこ
	れだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。
	(さらに大海を渡る事千里余りで末盧国に到達する。)
	魏の使節が壱岐島のどこに上陸したのか、その比定地は対馬同様不祥であるが、原の辻の規模から見て、ここに一大国の都
	があったと考えられ、魏使もここを訪れた可能性は高い。幡鉾川を遡り、船着き場から上陸して一大国の長官・卑狗と会見
	したのであろうか。後述する唐神カラカミ遺跡は、勝本町立石にあって、刈田院川上流北方の標高60m前後の丘陵上に位
	置している。銅鏡の破片、金海式土器等朝鮮半島との関連が認められる遺物が多数出土しており、壱岐の弥生遺跡として古
	くから知られている。
	倭人伝は、対馬と壱岐との面積について、「方四百里」と「方三百里」と記録しているが、対馬の実際の面積は約709平
	方キロメートルで、壱岐の実際の面積は約139平方キロメートルであることから、記録は1.3倍であるにもかかわらず、
	実際には約5倍の面積差があることになる。このことは、倭人伝の記載全体はこの程度の信憑性として理解すべきであると
	いう考えをうみ、私もどちらかと言えばその考えに賛成である。戸数について、対馬では千余「戸」有りとされており、一
	大国では、三千許りの「家」有りとされている。「戸」と「家」の違いについて、これまた多くの論議を呼んでいるが、私
	見では同意に解釈して差し支えないものと思う。しかし、「春秋の筆法」を信奉する馬野さんあたりからは「大雑把なやつ」
	と思われているふしがある。「竹木叢林多く」「僅かに田地有り」「田を耕せども猶食うに足らず」「亦南北に市糴す」に
	ついては対馬と同様である。



	2.壱岐の島の旧石器時代

	昭和46年、勝本町立石西触の六郎瀬鼻(ろくろうぜばな)の海岸(湯ノ本湾)の崖からステゴドンの化石が発見された。
	ステゴドンは約1200万年前から200万年前にかけて、中国大陸からインドにかけて広く分布した象の一種で、壱岐の
	化石は約500万年前のものとされている。壱岐郷土館にこの象の復元が展示されているそうだが、私は見ていない。
	昭和52年度の原の辻遺跡範囲確認調査(苣(ちしや)地区)で、壱岐島内で初めて旧石器時代の遺物含有地層が確認され
	た。出土遺物は、黒曜石や瑪瑙(めのう)を加工して製作したもので、切る・刺す・削る等の利器として使用したナイフ形
	石器・台形様石器、剥片尖頭器、・使用痕のある剥片等の石器類が、約130点出土している。なかでも台形様石器は、特
	徴的な石器製作技法で造られ、「原の辻型台形石器」として標式的な石器となっている。これらは今から約2万年前の人々
	が使用したものである。また、遺跡の北側を流れる幡鉾川流域で、更新世末期(旧石器時代)の古生物が発見された。種類
	は、ナウマン象の臼歯・助骨や、シカ・ウマ(と思われる)の化石で、約300mの範囲に約40点出土した。この古環境
	は沼湿地で、古生物が群れをなして棲息していたものと推測される。ナウマン象の化石は、我が国最西端の出土例である。


	3.壱岐の島の縄文時代

	壱岐の縄文遺跡は、24ヵ所が確認されているようだが、詳細な情報は見あたらない。代表的なものは旧郷ノ浦町海岸の鎌
	崎・名切遺跡、旧勝本町海岸の松崎遺跡などの海岸部分で発見され、ふだんは海中にあり、干潮時にだけその姿を表す、と
	壱岐の山口さんのHPにある。


	4.壱岐の島の弥生時代

	壱岐の弥生時代遺跡には一つの特徴がある。それは、隣の対馬とは相当様相が異なっているという点である。壱岐には甕棺
	墓が多いのに対馬には少ない。見てきたように、対馬の弥生墳墓の殆どは箱式石棺で、北九州では弥生時代の早期に見られ
	る墓制である。また、銅矛が壱岐では4本しか出土していないのに、対馬では120本以上の出土が見られ、しかも北九州
	で(あるいは対馬で)製造されたと思われる節がある。つまり、北九州で製造された(と仮定)銅矛は、壱岐をす通りして
	直接対馬へ運ばれた事になり、壱岐には銅矛を信奉する風土は無かったことになる。これは非常に奇異である。
	その地理的条件から言っても、対馬が朝鮮と交流が多く、壱岐が北九州と交流が深いのは理解できるし、土器や金属器の出
	土分布も、それを支持しているように見える。なのに何故銅矛だけが壱岐にはないのであろうか。壱岐は北九州の文化度は
	非常に高いと言うのに。
	壱岐の弥生遺跡は、以前から代表的なものとして、カラカミ遺跡、原の辻遺跡が知られていた。近年原の辻遺跡が大々的に
	調査され、一支国の首都であると騒がれたのはご存じの通りである。またカラカミ遺跡も、「ト骨」の出土で、魏志倭人伝
	に書かれた占いの様相が具現化したものとして、一部にはよく知られていた遺跡である。その他、天ケ原遺跡、鉢形山遺跡
	をはじめ多くの弥生遺跡が全島に分布している。


		  


	(1).カラカミ遺跡 (壱岐郡勝本町(現・壱岐市)立石東触字カラカミ・川久保・国柳所在)

	弥生時代中期〜後期の、高地性の環濠集落遺跡。島の北西、対馬や朝鮮半島との往来に便利な地にある。刈田院川を見下ろ
	す標高約80mの高台にあり、山城風の頂上付近が中心である。V字溝、U字溝に区切られた、貝塚・墓地・住居址が検出
	された。原ノ辻遺跡と共に、壱岐の弥生時代の考察に欠かせない遺跡であり、倭人伝に言う「一支国」を構成する主要な遺
	跡でもある。頂上付近に「香良加美」と刻まれた石の祠がある。加良加美神社の裏手、南側に開けた斜面が、当時の集落の
	跡と思われる。
	原の辻遺跡が河口近くの低地にあるのと対照的に、海岸から離れた山間の丘陵一帯に分布し、原の辻遺跡に比べると小規模
	であるが、原の辻が発見されるまでは、壱岐では一番重要とされた遺跡だった。この遺跡は、大正時代から発掘調査が行わ
	れ、ウマ・イノシシ・シカなどの獣骨、鳥骨、魚骨、貝類、これらを使用した骨角器、弥生式土器などが出土した。シカ、
	イノシシの肩甲骨を利用した占いの道具、「ト骨」が発見されたことでも有名である。イヌの骨も出土している。
	豊富な青銅器や鉄器類、中国大陸や朝鮮半島系の土器、また漁撈に関する遺物が多く出土し、漁業や交易に従事した人々の
	集落であったと考えられる。また、青銅器・鉄器が豊富に出土しているが、石器が少なく鉄器が主であるということは、石
	器時代より一気に金属器時代が訪れた可能性を示唆している。また、鯨の骨が出土し、現地に鯨伏(いさふし)という地名
	がある事、沼津の古墳に捕鯨の線刻があることなどから、鯨猟が島で頻繁に行われていた事も想像できる。
	ここから出土した遺物が、「壱岐風土記の丘」に保管されているようだが、私が行ったときには展示されていなかった。壱
	岐を案内して貰った山口さんの話では、カメ棺、高杯(たかつき)、壺形土器、ヒョウタン型土器、器台などがあるようだ。
	(一部は、松永安左右衛門記念館にもある。)

	カラカミ遺跡は壱岐で小学校の教諭をしていた松本友雄によって、大正8,9年頃発見された。松本はこの遺跡の近くに居
	住し、精力的にカラカミ遺跡を掘ってその成果を発表した。大正15年3月に、カラカミ遺跡内の通称小川貝塚と呼ばれて
	いた所を掘って、弥生土器の他、陶質土器、鉄器、鹿骨製刀子柄、鯨骨製品、内行花文鏡などを入手した。松本は発掘品の
	保管場所に困り、自宅1階を展示室にして、そこに発掘品を展示した。後にそのなかから重要文化財に指定された壺形土器
	なども含まれていた。松本は壱岐における考古学の嚆矢で、それ以前には遺物を重要視する人間などいなかった。松本は生
	徒につれられ、原の辻遺跡も掘っている。松本が所蔵した、カラカミ遺跡からの一連の遺物は、その後「松永安左右衛門記
	念館」と福岡市美術館に引き取られた。
	その後カラカミ遺跡は、昭和5年にも松本や他の研究者によって調査された。昭和13年には鴇田忠正もここを発掘してい
	る。鴇田は、鯨骨製の短剣を発見したと記しているが、現物は行方知れずである。続いて、昭和27年の東亜考古学会が大
	がかりな調査を2地区で行い、多くの出土物を得た。列記すると、弥生中期後半の土器(甕、壺、高杯)、方格規矩鏡の破
	片、片刃石斧、凹み石、鉄鏃、鉄銛、鉄鎌、鹿骨柄付刀子、銅鏃、楽浪系の漢式土器、カマビレサカマタの頭骨、大型鯨骨
	製の銛、灰色丸底の金海土器、石製紡錘車、鉄施、炭化籾、等々である。その後この遺跡の調査は行われなかったが、昭和
	52年3月と7月に、九州大学文学部考古学研究室が、岡崎敬教授を柱として、実に25年振りの発掘調査を行った。
	この時の調査で溝状遺構が発見され、その中からイノシシとシカの、肩甲骨に点状の焼き孔を施したト骨が出土した。魏志
	倭人伝に記された邪馬台国の習俗が実証されたと当時話題になった。
	昭和57年4・10・11月に長崎県教育委員会、昭和58年に勝本町教育委員会が調査し、58年度には多量の後期土器
	にまじって中期の土器も出土し、同一地層内に中・後期の土器が包含されていたことが明らかになった。そして、平成16
	年、九州大学考古学研究室が、22年ぶりに再びカラカミ遺跡を調査した。その結果、カラカミ遺跡も環濠が遺跡全体を取
	り囲む環濠遺跡であることが明確になった。






	2003年10月12日、佐賀市の「ホテルニューオータニ佐賀」で行われた講演で、同志社大学の森浩一氏は以下のように述べる。
	「・・・。さらに、壱岐には大きな遺跡が2つあります。原の辻とカラカミです。朝鮮半島の記録である『東夷伝』の『韓
	伝』によると、現在の南韓国あたりに、「国邑」と「別邑」がありました。ここは宗教的な中心都市として書かれています
	ね。壱岐に遺跡が2つあることとにも、おそらく合致すると思います。特に、カラカミ遺跡の場合は、片仮名で「カラカミ」
	という遺跡名になっていますからから、宗教的性格が残っているのと思いますね。以上のように、日本の弥生時代の終わり
	頃には各地に、それぞれの国の中心となる小都市がありました。吉野ヶ里遺跡も国邑の1つでしょうね。」

	また、カラカミ遺跡は最近、再発掘調査が実施された。以下はそれを報じた新聞記事と、九州大学の発掘調査説明会の資料
	である。


	環濠底辺部を確認 壱岐・カラカミ遺跡  長崎新聞 [2004年9月29日(水)]  
	===========================================
	壱岐市勝本町立石東触の「カラカミ遺跡」を調査していた九州大考古学研究室の宮本一夫教授は二十八日、「祭祀(し)的
	性格の強い特別な環濠(ごう)遺跡」と発表した。同年代の国特別史跡・原の辻遺跡との関連性については、「遺跡の性格
	が機能的に分かれているとみられ、今後さらに研究が必要」としている。
	カラカミ遺跡は壱岐島北部にあり、原の辻遺跡と同年代の弥生中期後半から後期(今から約二千百年―千八百年前)の遺跡。
	東亜考古学会(一九五二年)や九州大(一九七七年)などの調査で、遺跡西側から環濠や占い道具の骨、朝鮮系土器片など
	が出土している。今回の調査で、遺跡東側から環濠の底辺部(幅約一・五―二メートル、深さ〇・五メートル、長さ約十メ
	ートル)を確認。遺跡全体の規模は東西約七十メートル、南北約二百十メートルの環濠遺跡であることが分かった。環濠中
	心部には現在、カラカミ神社がある。
	同教授は「環濠周辺に住居跡は認められず、出土品から見ても環濠内は聖域で何らかの施設があり、祭祀や対外交流の拠点
	的な役割があったのではないか」と話す。壱岐市教委文化財課の田中聡一学芸員は「カラカミ遺跡は急斜面に環濠があり、
	山頂部には神社が位置する形状。弥生時代の一般集落とは違い、信仰の場として作られたと推定しており、(九大調査は)
	それを裏付けた格好」と評価した。

カラカミ遺跡発掘調査現地説明会資料
==========================
					2004年9月28日 	九州大学考古学研究室
	カラカミ遺跡は,弥生時代中期後半〜後期(今から約2100年〜1800年前)の遺跡です。今回の調査の経緯と意義に
	ついてご紹介します。

	【1】.調査日程  2004年9月20日〜9月30日

	【2】.調査主体ならびに調査経費  九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室
	 日本学術振興会科学研究費B(2)「弥生時代早期渡来人問題の考古学的研究」(代表:宮本一夫)およびCOEプログ
	 ラム「東アジアと日本:交流と変容」(代表:今西裕一郎)

	【3】.これまでの調査と調査の目的
	 カラカミ遺跡は,1926(大正15)年に松本友雄氏によって発掘されて以来,1938(昭和13)年に鴇田忠正氏,
	 1952(昭和27)年に東亜考古学会,1977(昭和52)年に九州大学によって発掘調査が行われ,その後勝本町
	 教育委員会や長崎県教育委員会によって継続的に確認調査が実施されてきました。過去の調査においては,カラカミ神社
	 のある丘陵の西側を南北にめぐる溝状遺構(環濠)が確認されており,そこからは弥生土器や石器をはじめ,占いの道具
	 である卜骨(ぼっこつ)や,朝鮮半島の三韓土器,楽浪系の土器など,多数の遺物が出土しています。
	 今回の調査は,丘陵の東側をめぐると推定される環濠の正確な位置と方向を確認することを主な目的として実施しました。

		
		カラカミ遺跡遠景(東側から)

	【4】.調査の概要
	 今回の調査では,大きく東西方向に細長く調査区を設定し,環濠が検出されました。調査の成果としては,次のような点
	 が挙げられます。

	 ・環濠は北西−南東方向にめぐっており,その位置と方向がほぼ確定された。
	 ・検出された溝は,幅が約1.5〜2m,深さは約50pである。
	 ・環濠の埋土中から,ガラス小玉1点,楽浪土器片をはじめ,多数の土器片や石器類などが出土した。
	 ・検出された環濠が非常に浅いことから,遺跡が営まれていた当時の地形はかなり削平されている可能性がある。
	 ・環濠は丘陵の斜面を掘り込むことによってつくられたと考えられる。
	 ・環濠の外側では多数のピット(穴)が検出された。

		
        ガラス玉出土状況

	【5】.今回の調査の意義
	 カラカミ神社の丘陵東側を巡る環濠の発見により,カラカミ遺跡も環濠が遺跡全体を取り囲む環濠遺跡であることが明確
	 となりました。その規模は推定で,東西70m,南北210mに及ぶものです。カラカミ遺跡は,カラカミ神社丘陵部を
	 取り囲む環濠によって形成されていますが,地形的に丘陵斜面部には住居が建築しにくいこと,ならびにこれまで明確な
	 住居址が発見されていないことから判断して,一般的な環濠集落ではないと考えられます。
	 これまで占いのための卜骨(ぼっこつ)が発見されていることから,祭祀的な空間である可能性が考えられます。また,
	 楽浪系土器など他地域の土器が出土しており,そのような祭祀空間に他地域の人々も関わっていた可能性があります。
	 環濠内出土土器は弥生時代中期後半から弥生時代後期で,原の辻遺跡とほぼ同時期ですが,環濠自体はやや小規模です。
	 原の辻遺跡が拠点的な大型の環濠集落であるのに対して,カラカミ遺跡は同時期の祭祀的な性格の強い遺跡であり,遺跡
	 の性格が機能的に分かれているといえます。したがって今後は両遺跡を以て壱岐の弥生時代を考える必要性があると思わ
	 れます。

		
        環濠検出状況

	 最後となりましたが,調査に際しまして多大なご支援,ご協力をいただきました地元住民の皆様,壱岐市教育委員会,
	 長崎県教育委員会の皆様に厚く御礼申し上げます。 
	【九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室】






	(2).天ヶ原遺跡 (壱岐郡勝本町東触所在)

	天ヶ原遺跡は、壱岐の島北端の、勝本港の東側に位置する海辺の遺跡である。昭和36年2月、海岸線の護岸工事中に、国
	産の中広銅矛3本が出土したが、工事は停止されることなく進行したので遺構は確認されていない。附近には箱式石棺もあ
	り、無文土器も見つかっている。この近くには串山貝塚とミルメ浦遺跡もあったが、串山貝塚も道路工事によって消滅した。
	詳細は全く不明である。ミルメ浦遺跡は、昭和55年に勝本町の依頼で、九州大学考古学研究室が発掘調査を行った。ここ
	は以前から多くの土器片、須恵器片が散乱していたところで、調査でも同様のものが見つかった。加えて金海式土器、陶質
	土器片、縄文土器片も採集された。






	(3).鉢形山遺跡 (壱岐郡郷ノ浦町田中触所在)

	鉢形山は、幡鉾川の上流物部田原の一画にあって、標高50.9mの小高い丘である。遺跡はこの丘の頂上と、これを中心
	にした範囲に拡がっている。中期前半から後期にかけての土器片が採集されているが、遺構は発見されていない。土器片は
	雑木林の中で、落ち葉の下や木の根にからまった格好で残っていた。江戸時代(延宝4年:1676)、平戸藩の藩命で壱岐の
	式内社の査定を行った同藩の国学者・橘三喜(たちばなみつよし)は、神社の跡とおぼしきところを掘らせたが、神鏡1面、
	2体の石体を掘り出したと記録し、さらに、「その外上代の土器中に埋もれる事、其の数を知らず。」と書いている。
	神鏡は湖州鏡、石体は滑石製の石造弥勒如来座(重要文化財)として現存している。この時の夥しい土器というのが、弥生
	土器ではないかと言われるが、弥生中期初頭の土器片が出たのは壱岐ではここだけであった。




	(4).原の辻遺跡 (壱岐郡芦辺町(現壱岐市)深江鶴亀触)

	弥生時代の壱岐では何といっても「原の辻遺跡」が有名である。集落は、外濠、中濠、内濠、の三重以上の環濠に囲まれ、南北
	約850m、東西約350mの大規模な環濠集落である。その中からおびただしい遺物が出土している。発掘時の様子など
	詳細は「遺跡巡り」のなかの「原の辻遺跡」を参照いただきたいが、原の辻遺跡で出土した、弥生時代中期後半(紀元前1
	世紀)の甕棺に、捕鯨の様子が線刻で描かれているのが確認され、これまで最古とされていた捕鯨記録は6〜7世紀のもの
	だったのを、今回の発見で一気に遡らせたし、弥生時代後期から古墳時代前期(1〜4世紀ごろ)の鉄鎚(かなづち)の頭
	部は、従来最古とされていた5世紀の猫塚古墳(奈良県五条市)や随庵寺古墳(岡山県総社市)などの出土物をさらに遡り、
	国内最古と思われるなど、古代史の記録を次々と塗り替えている。鉄鎚と同じ地層から板状鉄斧(てっぷ)も出土しており、
	いずれも朝鮮半島から持ち込まれた可能性が高い。それらの出土品は、平成7年4月に開館した「壱岐・原の辻展示館」に収
	納されている。



	弥生時代、日本最古の石積み護岸が出土…壱岐の遺跡   2004/06/18 読売新聞 Yomiuri On-Line 
	長崎県教委は18日、同県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)の石積み護岸が出土
	したと発表した。弥生時代のものとしては前例がなく、大陸の進んだ土木・治水技術が壱岐島にいち早く導入されていたこ
	とを示す発見として注目される。 
	遺構は、玄武岩の自然石を川底に投げ込んで積み上げた「捨て石護岸」で、環濠集落の北西部を南北に蛇行して流れる旧河
	道の東岸に沿って、約40メートルが確認された。高さ1・2メートルで、幅は護岸の基底部で2・5メートルあった。
	現場は河川の合流点だった可能性があり、浸食から守る目的があったとみられる。遺構の南西200メートルにある別の河
	道では、1996年に弥生中期前半(紀元前2世紀後半)の船着き場とみられる石積みの突堤も出土しており、同遺跡調査
	事務所は「この一帯に交易のための市場や倉庫などが営まれた可能性が高い」とみている。  


	原の辻遺跡は、長崎県壱岐の島の芦辺町と石田町にまたがる弥生時代の大規模環濠集落で、「魏志倭人伝」に記載されてい
	る「一大国」の中心的集落と推定されている。一大国は一支国の誤記とするのが定説である。島全体は平坦で、倭人伝にも
	対馬は土地は山ばかりで険しく良田がないとあるが、壱岐は若干田があると記述されている。実際、対馬は南北に長く、海
	岸線はリアス式の海岸で入り組んでおり、多数の島々が湾内に浮かんでいるが、壱岐はほぼ方形の1つの島である。標高約
	213mの岳ノ辻(たけのつじ)が島内の最高峰で、島の東南部に平野が広がっており、原の辻遺跡はこの平野の中にある。
	倭人伝に言う「若干の田」というのはこの辺りにあったものだろうと思われる。

	遺跡の広さは80haで、九州では佐賀県の吉野ケ里遺跡に次いで広い。弥生時代の大規模な船着場跡や、中国「新」王朝
	の青銅貨、青銅製の矢じりなど、歴史的に貴重な出土品も多い。これらをふまえて長崎県教育委員会は、同遺跡が「魏志倭
	人伝」に記されている「一支国」の王都だったとの見方を強めている。



	原の辻遺跡は、旧石器時代から中世まで続く、いわゆる複合遺跡と呼ばれる遺跡だが、主体となるのは弥生時代で、環濠集
	落として発展した。弥生時代初期(紀元前3世紀頃)から集落が発生し、程なく多重の環濠を築き大集落として発展した。
	集落は5世紀初めの古墳時代前期あたりまで存続していたようである。

	遺跡の存在は、すでに大正年間に地元の研究者によって発表され、一部には広く知られていた。その規模と豊富な出土品に
	より、昭和52年(1977)には、中心の三重環濠部分約24haを含む遺跡全域約80haが国史跡に指定されたが、発掘
	調査はまだ全体の数%しか進んでいない。 本格的な発掘調査は平成5年に開始され、多重環濠・祭儀建物跡・船着き場跡・
	大引材・ココヤシ笛・金鎚・捕鯨線刻絵画土器などが相次いで発見され、中でも船着き場跡遺構は、東アジアでも最古のも
	のとされ、しかも当時としては革新的な進んだ土木技術で作られていた。それらからこの遺跡は、卑弥呼の邪馬台国時代を
	記した「魏志倭人伝」に登場する「一支(壱岐)国」の王都と特定され、平成12年11月、国の特別史跡に指定された。
	弥生時代の特別史跡としては、静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とここだけである。




	魏志倭人伝に「南北に市糴す」と記されたように、多くの交流の品々がそれらの事象を裏付けている。北からの搬入品は、
	中国製品では前漢鏡、銅剣、トンボ玉、貨幣などであり、朝鮮半島のものは楽浪郡製のものと朝鮮半島南部の「三韓地方」
	の製品に分かれる。青銅製品は原の辻遺跡に集中しているが量的な多さはでていない。鉄製品は鋳造鉄斧や鉄の素材などが
	出土しており弁辰地方からの輸入品であると考えられる。南からの搬入品は、青銅製品では天ケ原遺跡出土の中広銅矛があ
	るが、対馬の120本以上に比べるとはるかに少ない量である。土器では瀬戸内系土器で周防地方の弥生前期の綾杉文土器、
	備後地方の弥生中・後期の鋸歯文を施す壺などがある。
	しかし、圧倒的に多い土器は糸島地方を中心とした北部九州の影響下にあり、北部九州の文化圏にあることを示している。
	いずれにしてもこれら多くの地域からの搬入品は、朝鮮半島と九州以東との交流が盛んに行われていた証左であり、「倭の
	水人」と称された海人集団を中心に、壱岐が国際貿易都市として重要な役割を果たしていたことを目の当たりに見ることが
	できるのである。
	これからの原の辻遺跡に期待されるものであるが、第一には王墓の発見であるが、これは現在調査が進行中の石田大原地区
	でまとまって甕棺が出土し、埋め土から鏡片や細型銅剣類が出土している事から、大いに期待がもてる。第二には、文字の
	存在である。文字を書いた筆も必ず出土すると思われる。第三には船の発見である。これは低地部のどこかに必ず出土する
	と確信する。第四位は外港の存在である。内陸部に小型船の船着き場がある以上は、海外との交流基地としての港津の整備
	が行われていたはずで、幡鉾川の注ぐ内海湾に最も期待が寄せられる。以上、これからの調査と遺跡整備の進展を見守って
	いきたい。

以下は壱岐市「松永安左右衛門記念館」にある、壱岐の弥生遺跡からの出土物。
もっと見たい方は歴史倶楽部HPの第77回例会「魏志倭人伝の旅」をどうぞ。














	5.壱岐の島の古墳時代

	古墳時代の5世紀から7世紀を迎える頃になると、勢力をもった豪族たちが巨大な古墳を次々に造営した。これらは「鬼の
	岩屋」をはじめとして円墳が主で、江戸時代の記録には338基とあるが(『壱岐国続風土記続風土記』)、現在は半壊し
	たものを含めて約260基が残っている。長崎県教育委員会が行った調査によると256基で、この数は、実に長崎県全体
	の古墳の62.5%を占めている。それらは主に円墳で横穴式石室を持つが、当時は壱岐がいかに繁栄した島であったか、
	多くの古墳が語っている。おそらく繁栄の基になったのは、壱岐が大陸と日本の接点に位置していたからで、遣唐使・遣隋
	使などの寄港地となり、そのため畿内・大陸の最新文化がもたらされたものであろう。



	●勝本町(111基)
	 ・双六(そうろく)古墳     立石東触・前方後円墳では県下1位・長さ91m。藤ノ木古墳に匹敵する出土品。
	 ・対馬塚(つしまづか)古墳   立石東触・前方後円墳・県下4位・長さ65m。北西方向に対馬を遠望。
	 ・篠塚(ささづか)古墳     百合畑触・円墳・径66m・亀形金銅製馬具出土。
	 ・掛木(かけぎ)古墳      布気触・円墳・径23m・石室13.6・家形石棺 6世紀末〜7世紀前半の築造。円墳で、
					   墳丘の直径は約30m。県下で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名。
					   大きな石をくり抜いて造ってあり、屋根の形をした蓋も同様の作り方である。 
	 ・百合畑(ゆりはた)古墳群   百合畑触・前方後円墳全長26.5m・21・20二基・18他。丘陵に古墳が群集する。
	●芦辺町(55基)
	 ・鬼の窟(おにのいわや)古墳  国分本村触・円墳・径45m・高さは13m。横穴式石室は国内12位、九州2位の規模を
					   持つ。6世紀後半〜7世紀前半頃の築造で、内部は大きな玄武岩を幾つも積み上げ
					   た横穴式。石室は壱岐最大で全長16m、最大の天井石は4mもある。当時の豪族・壱岐
	 				    直(あたい)の墳墓といわれる。
	 ・大塚山(おおつかやま)古墳  深江栄触・円墳・径14m・竪穴系横口式石室



	●郷ノ浦町(145基)
	 ・鬼屋窪(おにやくぼ)古墳   有安触・円墳(封土流失)・石室4.1m・捕鯨線刻画
	●石田町(27基)





	6.壱岐の島の古墳時代以降

	古墳時代以降の壱岐国は、大陸と日本との二つの文化圏の接点として、最も新しい華やかな文化を開花させていた。遺新羅使
	・遣勃海使・遣随使・遣唐使などの使節団は、壱岐を寄港地として往来した。大陸文化も壱岐を窓口として流入してきた。
	まさに壱岐は、日本とアジア大陸を結ぶかけ橋であった。しかし、いったん外交上不利な問題がおきると、国境の島としての
	宿命はさけがたく、国防の最前線として、幾多の外敵の侵入をうけ、悲惨な歴史を残すことになる。
	天智2年(663)日本の水軍は、白村江の戦いで大敗した。これから、唐・新羅の侵入に備えて壱岐は国防の最前基地となり、
	翌年には防人と烽(とぶひ)が置かれた。防人は国境守備兵であり、烽は狼煙(のろし)のことで、夜は火の光によって、
	昼は煙によって、危急を知らせる施設である。天平13年(741)聖武天皇の発願により各国に国分寺が設置されたが、天平
	16年(774)7月壱岐にも島分寺(国分寺)がおかれることが決まった。壱岐では壱岐直の氏寺があてられた。律令の制度
	では、壱岐は辺要の地と規定され、国司がおかれ、国境防衛と外交の任にあたった。9世紀末には、新羅人や正体不明の海賊
	による侵入が目だって増大する。寛仁3年(1019)大事件がおきた。刀伊(とい)の襲来である。
	刀伊とは中国東北部にいた女真族である。50余隻の船で侵入した刀伊の賊は、壱岐に上陸すると悪鬼のような狼藉を働き、
	らき、国司藤原理忠とその手兵はことごとく戦死した。壱岐の被害は、殺害された者は148人、奴隷として連れ去られた者
	239人、わずかに生き残った者35人という数が記録されている。



	<参考文献>

	この「邪馬台国周辺の考古学」シリーズは、以下の各出版物から引用・参照・転載しました。各出版社並びに著者の
	方々に謝意を表明します。用いた写真・図表等についてもこれらの資料にある各論文・論考から転載しています。

	● 倭人伝の国々 (株)学生社刊 2000年5月30日発行 小田富士雄編
	● 弥生の王国  中央公論社刊(中公新書) 1994年1月25日発行 鳥越憲三郎著
	● 古代史の鍵・対馬 大和書房刊 1975年5月10日発行 永留久恵著
	● 海の正倉院 宗像・沖の島の遺宝 昭和53年4月1日発行 大阪市美術館・名古屋博物館・宗像大社・毎日新聞社 
	● 歴史と旅 「特集 邪馬台国と倭の国々」 (株)秋田書店 昭和60年1月1日発行
	● 魏志倭人伝の考古学 対馬・壱岐篇 Academic Series NEW ASIA 42 岡崎 敬著・春成秀爾編
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学」(株)梓書院発行 1984年春号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第二弾」(株)梓書院発行 1984年夏号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第三弾」(株)梓書院発行 1984年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 遺跡分布から見た邪馬台国」(株)梓書院発行 1986年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の人口」(株)梓書院発行 1987年春号 

邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編