14. 邪馬台国周辺の考古学 −その1−


	1. 対馬の考古学

	1.対馬(つしま)

	対馬島の誕生はおよそ1万年前と推定されているが、その前、洪積世の中頃までは対馬はアジア大陸と陸続きであった。
	その後東シナ海がだんだん侵入してきて、洪積世の末期に現在の朝鮮半島と日本列島との間が切れて、それまで大きな湖
	であった日本海が東シナ海に通じた。この時、対馬は「島」として誕生したという。一方、もともと朝鮮半島と日本列島
	(対馬)の間には既に海峡があった、という説もある。氷河期に氷で結ばれていただけで、人や動物はこの氷の上を伝っ
	て日本へ来たという説である。私にはいずれとも判断は出来ないが、最近の学説では後者の説が有力という記事を読んだ
	ことがある。
	対馬の地形は、中央が低く南北の山が高い。そのため、韓国の方から見ると、島が二つに見えることがあるらしい。そこ
	で対馬のツに「対」の字が用いられたのではないかという説もある。ではどうして「対島」と書かなかったのか。ことさ
	ら卑しい字(と考えられる)馬という字を間に入れているのか。これは音訓混用が当時の中国の表記では許されていなか
	ったからで、他の例でもわざわざ1字で済むところを2字表記にしたりしている。
	下の写真で見て貰うとおり、対馬はほぼ全島が山間部である。壱岐と違って、耕作に適した平野部はほとんどない。従っ
	て、魏志倭人伝に書いてあるように、古来から交易に頼って生きてきたのである。考古学的に見ても、九州の縄文土器が
	朝鮮半島南部で発見されているし、韓南部の櫛目文土器も九州から出土している。これらは壱岐・対馬を介在してそれぞ
	れ運ばれていった事は明白である。またそういう反面、九州本土に比べて祭祀用の銅矛が異常に多用され、おびただしい
	出土数を見ている。これは壱岐にもない対馬の大きな特徴である。

	縄文時代の後に出現した農耕文化の弥生時代は、青銅器とともに鉄器をあわせもっている特色を持ち、遺跡や遺物は島内
	各地で発見されるが、現在発掘調査中の、峰町の山辺(ヤンベ)遺跡は豊富な遺物と大規模な集落跡が出現し、大陸との
	文化の交流が如実に示されている。弥生時代の代表的遺跡としては、青銅の鉾や腕飾りが発掘された塔ノ首遺跡(上対馬
	町)や、縄文末期から弥生初期に連続した住吉平貝塚(豊玉町)などがある。埋葬遺跡は、自然石を利用した平板な石の
	箱式石棺が多く、北部九州などでみられる甕棺は殆どない。
	遺跡の多くは「浦」と呼ばれる良好な入り江に面し、その奥に農耕地が拡がっている場所にまとまって見られる。これは
	その後も同じ傾向をたどり、中世でも近世でも人は同じような場所に生活の居を構えている。今でこそ対馬には道路が走
	り山が切り崩されているが、このような状況は昭和の後半になってからのことである。延々と2千年に渡って対馬の人々
	は農耕に適した僅かな土地に集落を作ってきたのである。魏志倭人伝には、3世紀頃(弥生時代末期)の対馬の模様が記
	述されている。
	なお、私はこれまで対馬には3回訪れた。訪問記は、歴史倶楽部の例会記録の中に収録してあるが、ここでの解説・写真
	・資料等は、その部分と重複しているものがあるので、一言附記しておきたい。





	2.「魏志倭人伝」における対馬

	「対馬国」の名称がはじめて出現するのは魏志倭人伝の中であって、その記述からすれば対馬が倭国の一員であるのは疑
	いのないところである。「隋書」倭国伝には「都斯麻」とあり、古事記や、旧事本記に「津嶋」と書かれている事から、
	「ツシマ」という倭語に「対馬」の字をあてたものだろう。「馬」の字は「卑弥呼」同様、ことさらに卑語を用いたもの
	らしい。「馬韓」に対する島という意味を見いだす人もいる。倭人伝の記述が元になり、以後、朝鮮の資料では一貫して
	「対馬」と記され、国内でも日本書紀をはじめ正史にはすべて「対馬」が用いられている。これは倭人伝中でも唯一の例
	で、他の三十ケ国も同様に表記してあれば、今頃邪馬台国はとっくに判明していて、このHPも存在していなかったこと
	だろう。

	始めて一海を渡ること千余里、對馬国に至る。其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。
	土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市
	糴す。」 
	(・・・狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。)
	始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)
	という。この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、
	道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州)に
	のりだし交易を行っている。
	(また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。)

	狗邪韓国から海を渡って、まっすぐ対馬に到達するのは非常に難しいと思われる。狗邪韓国を今の釜山・金海付近だと想
	定すると、西から東へ流れている対馬海流では、たとえ海が凪いでいる夏(6−7月頃)だけ選んで航海しても相当東へ
	流されるはずである。魏使は朝鮮半島の西側から、絶えず海流に逆らいながら対馬を目指したのだろうと思われる。もっ
	とも、対馬から釜山が見えるということは釜山からも対馬が見えるはずなので、対馬を目で見ながら必死で軌道修正しな
	がら漕げばあるいはとも思えるが、相当な腕力と体力を持った漕ぎ手がいないと難しいだろう。
	直線距離で行けば釜山と対馬の最北端は約50kmであるが、従来の1里=90m〜100m説に従えば、これでは千余
	里にはならない。倭人伝を信用しきれば、魏使は対馬の南側に上陸したことになる。「對馬國」が今日の対馬であること
	にはほぼ異論がないが、魏使がどこに上陸したのかは不明であるし、我が歴史倶楽部の馬野さんのように、魏使は対馬に
	は上陸していないという人もいる。
	官名の「卑狗」は「ヒク」又は「ヒコ」と読まれ、日本語では「彦」にあたると思われる。「卑奴母離」は日本書紀にあ
	る「夷守」だろうと思われる。後の「防人」同様、辺境を守る人々という意味がすでに紀元あたりから存在している。
	しかし官吏となると、その仕えていた人或いは機関は一体誰だったのだろうか。対馬の王か邪馬台国の卑弥呼か、或いは
	我々の知らない古代国家が対馬を支配していたのだろうか。

	「土地は山険しく深林多く」「道路は禽や鹿の径の如し」「千余戸有り」「良田は無く」「海の物を食べて自活し」「船
	に乗りて南北に市糴す」については、読んだそのままである。確かに山が険しく、道が無く、良田が少なそうである。
	魏使は少なくとも一回は対馬に上陸しないと、これらの情報は集まらないように思う。あるいは上陸していないとすれば、
	対馬の住人か、対馬をよく知っている人物に聞かなければわからないような情報である。

	ちなみに、魏志倭人伝に記された数値情報を抜き出すと以下のようになる。

		(1).水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7千余里 。 
		(2).始めて一海を渡る千余里。対馬国に至る。方4百里可。千戸余。 
		(3).南、一海を渡る千余里。一大国に至る。方3百里可。戸数3千許。 
		(4).又一海を渡る千余里。末盧国に至る。4千余戸。 
		(5). 東南、陸行5百里。伊都国に到る。千余戸。 
		(6).東南、奴国に至る。百里。2万余戸。 
		(7).東行、不弥国に至る。百里。千余戸 
		(8).南、投馬国に至る。水行20日。5万余戸。 
		(9).南、邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月。7万余戸。 

	
	「居る所絶島,方四百余里ばかり,土地は山険しく,深林多く,道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り,良田無く,海物を
	食して自活し,船に乗りて南北に市糴(してき)す。」

	訪れた印象では、まさしくその通りと言いたいほど、この文章は対馬の特色をよく描写している。居る所絶島、土地は山
	険しく、深林多し。こんな所では、特に古代はロクなものは栽培出来なかったのではないかと思われる。壱岐に比べると
	殆ど平野らしき所はないが、しかし、古代から対馬人は海洋を利用して大陸や九州本土間を往来し,物資のみならず文化
	をも伝えて大陸とのかけ橋の役目を果していたことは確かである。あまりの急峻さの故に、馬野さんは「こんな所には魏
	の使いは絶対寄っていない。魏使は対馬は避けて行ったはずですよ。」と主張する。

	弥生時代に於いては、大陸からの流入品には土器や青銅製品が多く、特に後者に見るべきものが多い。舶載青銅器には楽
	浪郡経由と見られる前漢鏡・貸泉・太身金銅製銅釧・把頭飾・銅復などの中国製品があるが、かがり松鼻遺跡からは洛陽
	を中心とした黄河中・下流域で流行したと考えられる流雪型花文を施した把頭飾や、シゲノダン遺跡からは、遠くスキタ
	イ文化に紀元を持つと考えられる双獣十字形把頭飾が出土し注目されている。朝鮮半島産の細形銅剣・中細形銅矛や馬具
	・装身具などもあるが、これらは韓国慶尚道の遺跡の出土品と関連が深い。

	九州本土からは、奴国からと思われる国産青銅器ももたらされ、主流は銅矛と銅鏡である。銅矛は壱岐島で3ケ所計5本
	が確認されているが、対馬全島では中広・広形あわせて120本が確認されており、これは九州本土と比較しても突出し
	た数である。一体何故対馬でこんなにも銅矛の出土例が多いのであろうか。これらの銅矛は近畿圏における「埋納」と同
	じく、墓地や集落以外の場所に埋められた形で出土することから、祭祀道具であろうという考えには異論がないようであ
	る。では何のための祭祀なのだろう。

		(1).航海安全の祈願、
		(2).社会的な力の誇示、
		(3).共同体の結束を図るための宗教祭祀、
		(4).悪霊・魔霊除去のためのムラの守り神、

	など諸説あるが、魏志倭人伝の内容に鑑みれば、(1).の航海安全の為というのが一番相応しいような気がする。
	魏志倭人伝等文献による資料と、考古学上の発見からすると、対馬が邪馬台国を中心とする倭国連合に参加していたのは
	ほぼ間違いないようである。官吏もおそらくはこの連合国家から派遣されていたものと思われる。しかしその地理的な生
	産性の規模からみると、壱岐と違って魏使が長逗留出来る場所ではなかったようである。おそらくは、対馬海峡を乗り切
	ったほっとした気分で、航海の疲れをいやす一時的な休息所のような役目を担っていたのではないだろうか。疲れをいや
	した魏使たちは、ここからさらなる一海を目指して大海原へこぎ出していったのだ。

 


	3.対馬の縄文遺跡
	
	今までの所、対馬においては旧石器文化の痕跡はないようである。昭和27年(1952)に、対馬を訪れた明治大学の大塚
	初重が、対馬高校にあった石器を見て旧石器ではないかと言ったことがあるそうだが、由来も石器そのものも不明である。
	更新世末期の寒冷期(約22,000年前)から、氷河が溶けて対馬海峡が出現するウルム氷期の最終氷期(約12,0
	00年前)の間、この頃生息していたナウマン象の化石は本土でも壱岐でも発見されているし、朝鮮半島南岸でも壱岐で
	も旧石器は確認されているので、通り道だった対馬に全くその痕跡がないというのは妙である。地元研究者たちはその内
	出現するものと期待しているようだが、私見では、当時の対馬は殆どが山岳地帯だったのではないかと言う気がする。そ
	のためナウマン象やヒトの群れは、もっと低地である場所(現在は海の底だが)を通っていたのではないだろうか。もし
	対馬で、今後旧石器文化の痕跡が発見されるとしたら、それは海の底からのような気がする。

	縄文土器が出土する遺跡は、北は北海道から南は沖縄、西は対馬まで分布している。対馬における縄文時代の代表的な遺
	跡としては、8体の人骨が発掘された志多留貝塚(上県町)や,人骨のほか建物跡や腕輪,装飾具が同時に発見された佐
	賀貝塚(峰町)などがある。大正4年(1915)釜山から来島した鳥居龍蔵が、仁田湾の奥部に位置する志多留貝塚に、遺
	物含有層を確認したのが、対馬における縄文遺跡の最初の発見である。以来16ケ所の遺跡が確認されており、その半分
	が発掘調査されている。縄文早期の土器は、上県町越高(こしだか)遺跡・同町久原(くばら)遺跡・豊玉町西加藤遺跡
	などから出土しているが、西加藤遺跡からの土器が対馬での一番古い土器とされる。昭和49年(1974)に調査され、海
	底2mの深さから出土した。口縁部が外反し胴が張り出した、鈍い尖底深鉢の田村式系統の土器である。久原遺跡出土の
	土器は、貝殻による押し引き紋であることから南九州系の早期末の土器と考えられている。

	調査された遺跡の内、6ケ所から朝鮮半島系の遺物が確認されている。東海岸にある佐賀貝塚以外は5ケ所が西海岸なの
	で、直接半島と向き合っている地の利が影響しているのだろう。朝鮮半島南部の貝塚では、北九州本土との交流を示唆す
	る土器も出現しているし、非常に興味深い。土器とともに、石器もまた、朝鮮−対馬−北九州の交流を示している。朝鮮
	半島南岸一帯の貝塚や、西北九州の遺跡から出土する石器や骨格器類も、驚くほどの類似性を見ることができる。組み合
	わせ式の石鋸の先端および歯の部分は、西北九州や五島列島から多く出土しているが、佐賀貝塚を中継する形で、韓国の
	煙台島貝塚や上老大島貝塚からも確認されている。石器の供給元は佐賀県伊万里市腰岳の良質な黒曜石であることは確認
	されているので、松浦地方−壱岐−対馬−韓国南岸地帯の交流ルートが確立していて、日本の縄文文化と韓国の新石器文
	化の交流が活発に行われていたことは間違いない。

	ネット内の古代史ニュースに以下のような記事があった。佐賀貝塚で発見された、鹿角製の鹿笛に関する記事だったが、
	残念なことに写真は無かった。
	長崎県・対馬の佐賀貝塚から出土した鹿角製の鹿笛(縄文後期)は、こうした鹿笛が、縄文時代から使われてきたことを
	示している。この鹿笛は、近年まで日本各地で使用されてきた鹿笛とまったく同じ形をしており、狩猟技術における伝統
	の根強さを感じさせる。なお、この鹿笛は、吹き口の付け根の部分に隙間があり、細工に失敗したものと思われる。その
	ため、貝塚に捨てられたのではないか、と推定されている。(峰町教育委員会、『佐賀貝塚』、1989年)





	考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

	・縄文時代 … 上県町〜峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
	・弥生時代 … 峰町〜豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
	・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
	・古  代 … 国府(厳原)

	時代が下がるにつれて中心地は、ずっと南下して来ていることがわかる。

	【謝 辞】上記遺跡地図は、長崎県教育委員会の安楽さんから送って頂いた、「原始古代の長崎県(通史編T)安楽勉執
		 筆」から転載しました。記して深く感謝の意を表します。



	4.対馬の弥生遺跡

	対馬の弥生遺跡は、南部よりも北部に多く、西海岸の中央部の密度が最も高い。これは昔から対馬の遺跡に関して言われ
	てきたことであるが、最近(2000年)それを地で行くような遺跡が出現し、それまで大規模な遺跡の無かった対馬に
	おいて、こここそ「対馬国」の首都ではないかと騒がれている。
	三根町山辺(やんべ)地区で発見された山辺遺跡である。西海岸から入って、対馬島の中央部あたりにある集落だが、こ
	こから、百個以上の柱穴や竪穴式住居、高床倉跡のある弥生時代の集落跡が確認され、合計1万点以上の弥生土器や、古
	墳時代の須恵器や土師器、朝鮮半島・楽浪郡系の土器や陶質土器も見つかっており、久々の弥生時代の大規模集落の遺構
	となった。豊富な出土品から、当時は国際都市であったとも考えられ、マスコミは、「魏志倭人伝」に言う「対馬国」の
	中枢都市だったのではとあおり立てた。もちろん対馬国の王都となる可能性もあるが、まだ結論は出せない。調査はまだ
	続いているし、その全容が明らかになるのは調査報告書が刊行されてからになるだろう。




	島内には弥生時代の遺跡が多い。遺跡として確認はされていないが、石器や土器片が採集されたところもいれると、約1
	50程ある対馬の部落のうち、ほぼ半数で弥生の足跡を見いだすことが出来る。対馬の弥生遺跡はその殆どが埋葬遺跡で、
	それも箱式石棺である。北九州や壱岐に多い甕棺がほとんどない。対馬で甕棺による埋葬墓は上対馬町の泉と美津島町の
	樽ケ浜の2例しかない。
	朝鮮の青銅器時代に流行した磨製石剣が、対馬から20例ほど出土しているが、半数以上が有柄式石剣であり、そのうち
	9例は無節の一段式で、有節のものは4例しか無い。ガヤノキ出土のものは折れていて剣身は不明だが、柄部は2段式に
	なっている。このような有柄式石剣は福岡県でも多く出土しているが、その分布の中心は朝鮮半島南部と見られる。
	大陸性の細形銅剣は、三根のガヤノキ、サカドウ、タカマツノダン遺跡、同町櫛のエーガ崎遺跡、豊玉町の仁井東の浜な
	どから出土している。また、青銅器の破片と見られるものもこれらの遺跡、および対馬内の他の遺跡からも数多く出土し
	ており、青銅器が半島と北九州を行き交っていたことがわかる。対馬・壱岐にはその途中でもたらされたものだろう。し
	かしながら、青銅器を対馬島内で製造していた可能性もある。上県町の志多留貝塚が発見されたとき、黒曜石や窪み石な
	どに混じって弥生時代の遺物も出土する貝塚の上層から、砂岩に丸い円を穿った鋳型の口らしい物が出土し、口縁に溶け
	た銅が付着していた。また、貝塚から50mほど行った古谷川の岸辺で(ここはかって鳥居龍蔵博士が遺物含有層を認め
	た所であるが。)、溶鉱炉の跡が発見され、溶けた銅の屑も出土している。しかしその後の分析・解明は進んでいない。
	従って、対馬で青銅器製造が行われていた可能性は高いが、ここから出土した細形銅剣や対馬に多い広形銅矛の製造に結
	びつくかどうかは不明である。


	ガヤノキの発掘調査では内行花文鏡の断片が出土している。これは前漢の中国鏡である。同町櫛のエーガ崎遺跡からも漢
	式鏡が出土しているが、これも内行花文鏡である。ガヤノキ遺跡には、弥生時代中期から古墳時代前期にかけての墳墓が
	密集していたが、多くは盗掘にあっているので、鏡出土時の状況は不明である。しかし附近から弥生中期の土器片が出土
	しているし、福岡では前漢鏡が出土するのは多くが弥生中期の地層なので、ガヤノキの鏡もおそらくその頃にもたらされ
	たものであろう。
	箱式石棺から出土する遺物としてはまず土器がある。壺形が多く、小形の甕、高杯がそれに次ぐ。ついで剣がある。前期
	から中期前半までは磨製石剣で、中期後半から後期初頭にかけて細形銅剣、そして後期全般で鉄剣、および鉄刀が出てい
	る。






	5.塔の首遺跡 国指定遺跡(昭和52年2月指定)弥生後期(紀元1〜2世紀)

	比田勝港のすぐ側にある。港まで徒歩5分くらいのところである。大きな説明板があり、この遺跡の説明、出土した遺物
	について解説してくれている。説明板わきのコンクリート段を昇っていく。ここも10mほどの小高い丘で、尾根が突き
	出た突端に箱式石棺がむき出しになっている。三根遺跡といい、今まで見てきた対馬の遺跡は、全て海に付き出した尾根
	の先端にある。説明板によると、この遺跡は地元の小学生によって発見された。弥生時代後期から古墳時代前期の埋葬遺
	跡で4基の箱式石棺がある。昭和46年の発掘調査によると、2箇所の石棺から細形銅剣・銅釧・管玉・水晶玉・ガラス
	小玉・朝鮮からもたらされたと見られる土器類などが出土。又、床石だけになっていた石棺の床面から鉄斧と漢式鏡も出
	土した。現在1号墳は失われているが、その他の2号墳から4号墳の石棺が残存している。対馬特有の幅広銅矛の他、土
	器としては朝鮮式の無文土器と北九州系の弥生土器の両方が出土している。このことから、ここから朝鮮半島や大陸と、
	日本との交流が頻繁にあった事を類推させる。ここから朝鮮半島まで50km、北九州へは倍以上ある。古代、対馬の民
	は、船を操って東シナ海を自由に行交し、交易に精を出していたに違いない。


比田勝港











上3枚の写真は、厳原町の「対馬歴史民俗資料館」の「塔の首遺跡」からの出土品の一部。



	6.三根遺跡群、山辺(ヤンベ)遺跡

	2000年、峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に、弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われた。
	調査されたのは、山辺区約4万平方メートルのうち、7000―8000平方メートルで、三根遺跡全体では山辺区の
	10倍以上の範囲に広がっているとみられる。集落は少なくとも弥生前期〜後期(紀元前3〜紀元3世紀)に存在した
	とみられる。同町内は、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。三根町教委は3世紀の日本を描いた中国の史書、
	「魏志倭人伝」が記録する「対馬国」の拠点集落だった可能性もあるとみて、調査を続けている。三根遺跡山辺区は対
	馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、広さ約4平方メートル。町教委の発掘調査の結果、100以上の柱穴と、高
	床式建物跡3、4棟分、竪穴住居あと2棟分が出土した。また、弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮系の土器などの破
	片1万点以上と鉄製釣り針や鍛造の袋状鉄斧が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。

	対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地ではないかと、マスコミ
	も大々的に取り上げ注目をあびた。遺跡のすぐ前まで海であっただろうと云われ、船着場やその遺構の発掘を期待する向
	きもあり、魏志倭人伝・邪馬台国の「対海国」出現を待ち望むのは地元民だけではあるまい。訪れた時、遺跡は無人で作
	業員は	誰もいず、説明も聞けなかった。すぐ前の民家の奥さんが、「この周りをいっぱい掘ってましたよ。」と言う。
	あたりは今なお湿地帯で、排水の溝があちこちに掘ってあった。現在発掘調査は継続中で、最終的な調査結果が待たれる。
	山辺遺跡から出土した遺物は「峰町歴史民族資料館」に収容・展示されており、ここが対馬で一番充実した発掘品を所持
	しているとの事(長崎県安楽課長)だったが、残念なことに土曜日半ドンで担当者は帰宅しており、資料館も閉まってい
	た。しかしながら、倭人伝のクニグニのなかで明確な中心集落跡が確認されているのは、一支(いき)国(長崎県壱岐)
	の首都とされる原(はる)の辻(つじ)遺跡だけで、この遺跡の発見は、大陸からの先進文化の橋渡しとして弥生文化の
	成立に大きな役割を果たし、邪馬台国の勢力圏の最前線をも担った「対馬国」の解明に向けて重要な手がかりを得たこと
	になるだろう。 
 


	対馬三根遺跡対馬で初めての弥生時代の集落跡確認
	--------------------------------------------------------------------------------
	長崎県対馬・峰町教委は28日までに、対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認
	した。集落は弥生前期〜後期(紀元前3〜紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。同町内は弥生後期の墳墓などが
	多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。町教委は3世紀の日本
	を描いた中国の史書「魏志倭人伝」が記録する「対馬国」の拠点集落だった可能性もあるとみて、調査を続ける。
	三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、広さ約4万平方メートル。町教委はこれまでに7000〜
	8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居
	跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や
	袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。
	「魏志倭人伝」は朝鮮半島から海を渡って最初にたどりつく倭人の国として対馬国を挙げ「土地は山険しく、深林多く
	道路は禽鹿(きんろく)(鳥や鹿)の径の如し。千余戸あり。良田なし」と、その生活環境の厳しさを描く。「千余
	戸」という人口も同書が記す他の国々、一支(いき)国(壱岐)の三千戸、末盧(まつろ)国(松浦)の四千余戸、奴国
	(福岡)の二万余戸、邪馬台国の七万余戸に比べてひときわ少ない。しかし、続けて「海物を食して自活し、船に乗りて
	南北に市糴(してき)す(米を買う/商いをする。)」と記しており、漁業と海上交易が活発だったことをうかがわせる。
	それは峰町内のガヤノキ、エーガ崎、木坂、サカドウ、タカマツノダンなどの弥生後期の墳墓遺跡で朝鮮半島渡来の銅鏡、
	銅剣が出土していることでも裏付けられる。
	現地を視察した小田富士雄・福岡大教授は「対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認され
	ていない。土石流に埋まった部分が多く、今後の調査を見守りたい」と話している。	[毎日新聞2000年10月28日]


 
	対馬三根遺跡対馬で初めての弥生時代の集落跡確認
	--------------------------------------------------------------------------------
	長崎県対馬・峰町教委は28日までに、対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認
	した。集落は弥生前期〜後期(紀元前3〜紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。同町内は弥生後期の墳墓などが
	多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。町教委は3世紀の日本
	を描いた中国の史書「魏志倭人伝」が記録する「対馬国」の拠点集落だった可能性もあるとみて、調査を続ける。
	三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、広さ約4万平方メートル。町教委はこれまでに7000〜
	8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居
	跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や
	袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。
	「魏志倭人伝」は朝鮮半島から海を渡って最初にたどりつく倭人の国として対馬国を挙げ「土地は山険しく、深林多く
	道路は禽鹿(きんろく)(鳥や鹿)の径の如し。千余戸あり。良田なし」と、その生活環境の厳しさを描く。「千余
	戸」という人口も同書が記す他の国々、一支(いき)国(壱岐)の三千戸、末盧(まつろ)国(松浦)の四千余戸、奴国
	(福岡)の二万余戸、邪馬台国の七万余戸に比べてひときわ少ない。しかし、続けて「海物を食して自活し、船に乗りて
	南北に市糴(してき)す(米を買う/商いをする。)」と記しており、漁業と海上交易が活発だったことをうかがわせる。
	それは峰町内のガヤノキ、エーガ崎、木坂、サカドウ、タカマツノダンなどの弥生後期の墳墓遺跡で朝鮮半島渡来の銅鏡、
	銅剣が出土していることでも裏付けられる。
	現地を視察した小田富士雄・福岡大教授は「対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認され
	ていない。土石流に埋まった部分が多く、今後の調査を見守りたい」と話している。	[毎日新聞2000年10月28日]


	対馬峰町で弥生時代後期の集落跡を確認
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	対馬峰町教委は28日までに、同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で、弥生時代後期(2―3世紀ごろ)の竪穴住居跡2
	基など弥生集落跡を確認した。対馬では弥生時代の墳墓などはこれまでに見つかっているが、集落跡の発見は初めて。
	現地視察した小田富士雄・福岡大人文学部教授(考古学)は「三根遺跡が、中国の史書『魏志倭人伝』に記された対馬国
	の中心集落だった可能性もある」と指摘している。
	竪穴住居跡周辺から弥生土器や古墳時代の土器片など約1万点が出土した。中国系と朝鮮系の土器片など大陸との交易が
	盛んだったことを示す遺物も多数見つかっている。 	[長崎新聞 2000年10月29日(日)

	ここがどういう性格の集落あるいは施設だったのか、それは今後の調査報告とその研究を待つしかないが、安楽課長の言
	うように、対馬で一番の弥生遺跡であるならば、そのもたらすものは相当重要なものになる可能性がある。「峰町歴史民
	族資料館」を見れなかったのは断腸の思いだが、調査が終了した段階で又訪れるのもいいかも知れない。対馬の弥生遺跡
	はその墳墓が小高い丘の突端にあり、集落や海を見下ろすことの出来る高台に在ることが多い。多すぎるような銅矛の出
	土と言い、この遺跡の発見と言い、対馬の弥生時代の研究はまだまだ今からだ。大陸との関係、半島との関係、そして壱
	岐、北九州との関係、新しい遺跡の出現は、古代世界の様相を刻々と変化させ続け、我々歴史ファンに新しい感動と史観
	を与えてくれる。

 
 

	2002年6月25日(火) 日韓交流イベントめじろ押し 遺跡発掘を初企画
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	日韓国民交流年を記念して対馬日韓交流協議会(会長・松村良幸美津島町長)は、七、八の両月に対馬島内外で開かれる
	さまざまな日韓交流イベントを一括してPRしている。
	今年は初めての企画として峰町の「日韓遺跡発掘交流」がある。期間は七月十四―二十三日の十日間。韓国の大学教授や
	学生ら二十人を招き、弥生集落跡がある同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区などで発掘調査をする。日本側は二十人を
	公募。現地までの旅費は自己負担だが、宿泊施設や食事は町が準備する。同町の担当者は「三根遺跡から朝鮮系の遺物が
	見つかっており、遺物の検証を通して交流を深めたい」と話す。
	八月三、四の両日には対馬最大の夏祭り「対馬アリラン祭」が厳原町で開かれ、朝鮮通信使行列を再現。同二十四日には
	美津島町で「対馬ちんぐ音楽祭」があり、日韓のミュージシャンが共演する。また日韓のランナーが多数出場する上対馬
	町の「国境マラソンIN対馬」、豊玉町の高校生らが韓国・釜山市で現地の高校生らと交流する「日韓オープンカレッジ
	・イン釜山」、上県町では「日韓青少年スポーツ交流」が開かれる。
	問い合わせは対馬日韓交流協議会事務局の対馬観光物産協会(電09205・2・1566)。


	朝鮮日報 2002.06.26(水) 19:17  日本の遺跡発掘に韓国人が初参加
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	韓国の考古学発掘団が日本で行われる発掘に史上初めて参加する。東亜(トンア)大学の沈奉謹(シム・ボングン/59)
	教授が率いる東亜大学発掘団は来月14日、日本の対馬にある峰町で行われる紀元前後の遺跡発掘に参加することになった。 
	共同発掘団には両国の考古学研究者がそれぞれ20人ずつ参加する予定。韓国側からは沈教授の他に朴広春(パク・グァン
	チュン)東亜大学教授などが参加し、日本側からは峰町教育委員会で発掘団20人を構成することにした。  
	沈教授は「峰町は以前から新羅の仏像や韓国の青銅器時代の代表的な柄のない土器など、韓半島と関連のある遺物が多く
	出土された場所」としながら、「この4年間、東亜大が発掘作業をしている慶尚(キョンサン)南道・泗川(サチョン)市
	の勒島(ヌクド)遺跡(紀元前1世紀の三韓時代(辰韓・弁韓・馬韓)の遺跡)と類似した遺物が峰町でも出土されたこ
	とから、今年初め、峰町教育委員会に共同発掘を要請し、今回参加することとなった」と明らかにした。  
	共同発掘団が作業に取り掛かる峰町遺跡は、道路工事中に発見されたもので、発掘面積は約25坪だ。  
	沈教授は「韓国の学者による初の発掘として挙げられる1946年の慶州(キョンジュ)壺棹(ホウ)塚も日本人学者の援助
	によって行われたが、それ以来約60年を経て、日本の考古学界が韓国の考古学界に初めて公式的に援助を要請したものと
	思われ、嬉しい」と語った。  
	韓日考古学の権威の一人、西谷正九州大学教授は、「今回の発掘は韓日考古学史の一つの道標となるだろう」としながら、
	「古代の韓日関係で重要な役割を果たした対馬に対する韓日両国の視点を総合的に比較することェできる良い機会となるだ
	ろう」と展望した。  愼亨浚(シン・ヒョンジュン)記者 
 



	<参考文献>

	この「邪馬台国周辺の考古学」シリーズは、以下の各出版物から引用・参照・転載しました。各出版社並びに著者の
	方々に謝意を表明します。用いた写真・図表等についてもこれらの資料にある各論文・論考から転載しています。

	● 倭人伝の国々 (株)学生社刊 2000年5月30日発行 小田富士雄編
	● 弥生の王国  中央公論社刊(中公新書) 1994年1月25日発行 鳥越憲三郎著
	● 古代史の鍵・対馬 大和書房刊 1975年5月10日発行 永留久恵著
	● 海の正倉院 宗像・沖の島の遺宝 昭和53年4月1日発行 大阪市美術館・名古屋博物館・宗像大社・毎日新聞社 
	● 歴史と旅 「特集 邪馬台国と倭の国々」 (株)秋田書店 昭和60年1月1日発行 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学」(株)梓書院発行 1984年春号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第二弾」(株)梓書院発行 1984年夏号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学 第三弾」(株)梓書院発行 1984年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 遺跡分布から見た邪馬台国」(株)梓書院発行 1986年秋号 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の人口」(株)梓書院発行 1987年春号 

邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編