12.文献は語る −日本神話・その5


	1.もうひとつの天孫降臨

		


	一般的には、迩迩芸命(ににぎのみこと)が日向に降臨して、その子孫の神武天皇が東征する話が「天孫降臨」の神話
	として有名である。昔の本や、今日でも絵本に登場する「天孫降臨」の場面は、全てこの神話が元になっている。しか
	し見てきたように、高天が原から降臨する話は、「記紀」によれば、大国主の命の「国譲り」の前後、高天原から出雲
	の国へ天穂日命(あめのほひのみこと)が天下り、天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。そして、
	大国主の命の領地であった可能性が高い大和地方には、饒速日命(邇芸速日の命:にぎはやひのみこと)が天下る。い
	ずれも天照大神の孫であり、先代旧事本紀等に記述されている。饒速日命の降臨の時期は、古事記では神武天皇が畿内
	大和に入った時に後を追ってきたとなっており、日本書紀では「神武東征」の前に天降ったことになっている。
	記紀ではこの記述は簡単だが、「先代旧事本紀」(せんだいくじほんき/ぎ)という本にはその辺りが詳しく記述され
	ている。この本によれば、饒速日命は物部氏の祖先である。「先代旧事本紀」は、「旧事紀(くじき)」「旧事本紀(く
	じほんぎ)」とも呼ばれ、物部氏の伝承を記紀よりも遙かに詳しく伝えた、平安初期頃に成立したと考えられる歴史書
	である。

				  
「にぎはやひのみこと」と、その子の「可美真手命の像」(東京の浜離宮恩賜庭園)
2.先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)


	序文には、推古天皇28年(620)に、勅によって聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされ、近世になるまでは
	事実としてそう信じられていた。しかし、本文の大部分が記紀や古語拾遺(こごしゅうい)からの引用で成っていること
	や、天皇謚号など、後代になって出現したことに関する記載があることなどから、現在では聖徳太子らが編纂に携わっ
	たことはあり得ないと否定されている。また、古事記、続日本紀、弘仁格式(こうにんきゃくしき)などと比べて、序
	文の形式が当時のものと異なっていることも指摘され、日本書紀推古28年の条に、「皇太子・嶋大臣、共に議りて、
	天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」という記事がある事から、先代旧事本紀はこれに付
	会して成立年代をさかのぼらせた「偽書」であるという声が強い。また、推古天皇が史書の編纂を命じた年月日が本文
	と序文の両方に記載されているが、双方で日付が異なっている。序文では暦の干支の扱いも誤りがある。同一の著者が
	書いたのであればこんなことは起こらないはずで、明らかに序文は本文とは別人の作と思われ、これらも、偽書説を補
	強する材料となっていた。

	しかし近年、作為的な部分は序文など一部分だけで、記紀に準じる史料価値をみとめてもよいのではないかという意見
	もある。旧事本紀の内容自体は、「古事記」「日本書紀」と同じような内容の事績がつづられていて、神代から推古天
	皇に至るまでの内容が、記紀、古語拾遺などを参考にして書かれているのだが、「偽書」とされるのは上記の「聖徳太
	子の撰」を騙ったと見られているためで、内容的には、全体に物部氏に関する独自の伝承が織りこまれており、これに
	は拠るべき古伝があったのではないかとする見解である。先代旧事本紀の物部氏の伝承や国造関係の情報は、ほかでは
	得られない貴重なもので、推古朝遺文のような古い文字の使い方があるので、相当古い資料も含まれている可能性があ
	る。 
	本居宣長は、「古事記伝・巻一」で、「(先代旧事本紀)の巻三の饒速日命が天から降るときの記事と、巻五の尾張の
	連、物部の連の世つぎ(系譜)と巻十の「国造本紀」などは、他のどの書物にも見えず、あらたに造作した記事とも思
	えないので、しかるべき古書があって、そこからとったものだろう。」と述べているが、現代でもこれに与(くみ)す
	る研究者は多い。
	私も、記紀に書かれていない事績や、物部氏の系譜などは、明らかに記紀とは違う古伝から編纂したものだろうと考え
	る。物部氏伝承自体がすべて偽作されたわけではないと思う。巻五の「天孫本紀」、巻十の「国造本紀」は尾張氏・物
	部氏の伝承等古い資料によっていると思われ、記紀にはない記述がみられる。


			  
			御巫清直(1812〜1892)

	産能大学教授の安本美典氏は、幕末・明治の国学者、御巫清直(みかんなぎきよなお:1812〜92)が、その著書
	『先代旧事本記折疑』のなかで、『先代旧事本紀』の序文はおかしいが本文はよろしいと述べ、その選者が興原敏久
	(おきはらのみにく:「としひさ」ともよむ:生没年不詳)であろうと云っているのを受け、先代旧事本紀の編著者は、
	平安時代前期の官吏であった「興原敏久」ではないかと言う。
	興原敏久は三河国造の家柄で、三河国造は、物部氏の祖とされる出雲醜男(いずもしこお)を祖先とする氏族なので、
	興原敏久は物部氏の資料と国造の資料の両方に接する機会を持てる立場にあったと言う。はじめ物部氏であったが、弘
	仁4年(813)、物部中原宿禰の氏姓をあたえられ、のち興原宿禰に改姓。明法(みょうぼう)博士から大判事となり、
	「弘仁格式」「令義解(りょうのぎげ)」の撰修にかかわった。
	安本氏は、選者=興原敏久説に同調する理由を、「先代旧事本紀は、記紀からの引用のほかに、物部氏と国造について
	非常に詳しい情報を記述している。物部氏と国造の情報はほかの文献にはみられないものである。このことから、先代
	旧事本紀の著者は、807〜833年頃に活躍した人で、物部氏と国造について詳しい情報を保有する立場にあった人
	であるといえる。興原敏久はこの条件に合う。」と言っている。穴太内人が『穴記』の中で興原敏久を紹介しているこ
	とから、興原敏久は、弘仁・天長年間(810〜833年)に活躍した穴太内人と同世代の人であったと考えられる、
	とする。
	いずれにしても、先代旧事本紀の編纂者は、おそらく物部氏の同族系統につながる人物で、その目的は、「物部氏は由
	緒正しい家柄である事を強調し、神武天皇以来、代々石上神宮(いそのかみじんぐう)に神を祀ってきた」と主張する
	ためだったのではないかと考えられる。


		平安時代以前の文献と成立時期		平安時代初期の文献と成立時期 

		古事記 712年         	続日本紀 797年 
		日本書紀 720年        	古語拾遺 807年 
		出雲国風土記 733年      	新撰姓氏録 815年  
		万葉集 770年ごろ       	先代旧事本紀  ?








	先代旧事本紀の構成は、全十巻から成っており、

		第一巻「神代本紀」
		   「陰陽本紀」	天地のはじまりから、天照太神ら三貴子の誕生まで。
		第二巻「神祇本紀」	天照太神と素戔烏尊の誓約から、素戔烏尊の高天原追放まで。
		第三巻「天神本紀」	物部氏の祖神である饒速日尊の天降りから、出雲国譲りまで。
		第四巻「地祇本紀」	素戔烏尊・大己貴命ら出雲神の神話。
		第五巻「天孫本紀」	饒速日尊の後裔とする尾張氏と物部氏について。
		第六巻「皇孫本紀」	瓊々杵尊の天降りから、神武東征まで。
		第七巻「天皇本紀」	神武天皇の即位から、神功皇后まで。
		第八巻「神皇本紀」	応神天皇から、武烈天皇まで。
		第九巻「帝皇本紀」	継体天皇から、推古天皇まで。
		第十巻「国造本紀」	大倭国造から、多ネ嶋国造まで、124の国造の由来について。

	である。なお、旧事紀には七十二巻本と三十巻本のものなどもあるが、両書とも江戸時代につくられたもので十巻本旧
	事紀とは全くの別物である。

	物部氏の祖神・饒速日尊(にぎはやひのみこと)について、古事記は神武天皇の東征に続いて饒速日尊が天降って来たと
	記し、日本書紀は神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して、神武天皇もそれを認めたとしているが、
	饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかについては全く触れていない。一方先代旧事本紀では「神代
	本紀」において、中臣氏や忌部氏、阿智祝部氏らを、皇室に連なる神世七代天神とは別の独化天神の後裔として、皇室
	と距離を取らせる一方、「天神本紀」などでは、饒速日尊を尾張氏の祖神である天火明命と同一神にして、瓊々杵尊と
	同じ「天孫」に位置づけ、物部氏の格の高さを主張している。また、物部氏の人物が、「食国(おすくに)の政(まつ
	りごと)を申す大夫」「大臣」「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調している。
	「先代旧事本紀」は、まだまだ偽書説も根強く、その取り扱いに注意を要するとはいえ、文献の絶対数が少ない古代の
	研究のためには、貴重な資料の一つであることは確かである。




	3.先代旧事本紀巻第三・天神本紀 <饒速日尊、葦原の中国に降臨す>

	先代旧事本紀の中で、天孫本紀、国造本紀と並んで重要視されるのが、饒速日尊の降臨伝承が載っている、この巻三・
	天神本紀である。三十二人の武将、五人の随行者、五集団の供、二十五の軍団、船長・梶取など六人の名前も見え、日
	本書紀・神武即位前紀にある「むかし天神の子・饒速日命が天磐船に乗って天降った」という記述を具体的なものにし
	ている。またこの巻には、出雲国譲神話も収録されている。

	天照太神(あまてらすおおみかみ)は、言った。
	「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳
	尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と。
	そして、天押穂耳尊に天からの降臨を命じた。そのとき天押穂耳尊は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子の思
	兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこ
	と)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
	を生んだ。天押穂耳尊は天照太神に奏上した。「私がまさに天降ろうと思い準備中に、生まれた子がいます。これを天
	降すべきです。」天照太神は、これを許した。天神の御祖神は、みことのりして、天孫の璽(しるし)の瑞宝十種を授け
	た。すなわち、

		・羸都鏡(おきつかがみ)    一つ、
		・邊都鏡(へつかがみ)     一つ、
		・八握劔(やつかのつるぎ)   一つ、
		・生玉(いくたま)       一つ、
		・死反玉(まかるがえしのたま) 一つ、
		・足玉(たるたま)       一つ、
		・道反玉(ちがえしのたま)   一つ、
		・蛇比禮(おろちのひれ)    一つ、
		・蜂比禮(はちのひれ)     一つ、
		・品物比禮(くさぐさもののひれ)一つ、

	である。
	天神の御祖神は、次のように教えた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、
	九、十といってふるわせよ。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう。」これが
	『布留(ふる)の言(こと)』の起源である。
	高皇産霊尊が勅して述べた。「もし、葦原の中国の敵で、ふせいで待ち受け戦うものがいるならば、方策をたて、計略
	をもうけ平定せよ。」そして、三十二人に命じて、防御の人として天降りに仕えさせた。

	天香語山命(あまのかごやまのみこと)、 		尾張連(おわりのむらじ)等の祖
	天鈿売命(あまのうずめのみこと)、   		猿女君(さるめのきみ)等の祖
	天太玉命(あまのふとたまのみこと)、  		忌部首(いむべのおびと)等の祖
	天児屋命(あまのこやねのみこと)、   		中臣連(なかとみむらじ)等の祖
	天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)、  		鴨県主(かものあがたぬし)等の祖
	天道根命(あまのみちねのみこと)、   		川瀬造(かわせのみやつこ)等の祖
	天神玉命(あまのかむたまのみこと)、  		三嶋県主(みしまのあがたぬし)等の祖
	天椹野命(あまのむくぬのみこと)、   		中跡直(なかとのあたい)等の祖
	天糠戸命(あまのぬかとのみこと)、   		鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖
	天明玉命(あまのあかるたまのみこと)、 		玉作連(たまつくりのむらじ)等の祖
	天牟良雲命(あまのむらくものみこと)、 		度会神主(わたらいのかんぬし)等の祖
	天背男命(あまのせおのみこと)、    		山背久我直(やましろのくがのあたい)等の祖
	天御陰命(あまのみかげのみこと)、   		凡河内直(おおしこうちのあたい)等の祖
	天造日女命(あまのつくりひめのみこと)、		阿曇連(あずみのむらじ)等の祖
	天世平命(あまのよむけのみこと)、   		久我直(くがのあたい)等の祖
	天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)、  		額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)等の祖
	天背男命(あまのせおのみこと)、    		尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)等の祖
	天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)、	間人連(はしひとのむらじ)等の祖
	天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)、 		安芸国造(あきのくにのみやつこ)等の祖
	天神魂命(あまのかむたまのみこと)、  		葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)等の祖。
					   		または三統彦命(みむねひこのみこと)
	天三降命(あまのみくだりのみこと)、  		豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)等の祖
	天日神命(あまのひのかみのみこと)、  		対馬県主(つしまのあがたぬし)等の祖
	乳速日命(ちはやひのみこと)、     		広湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)等の祖
	八坂彦命(やさかひこのみこと)、    		伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)等の祖
	[天活玉命(あまのいくたまのみこと)]   		伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭久連(わくのむらじ)等の祖
	伊岐志邇保命(いきしにほのみこと)、  		山代国造(やましろのくにのみやつこ)等の祖
	活玉命(いくたまのみこと)、      		新田部直(にいたべのあたい)の祖
	少彦根命(すくなひこねのみこと)、   		鳥取連(ととりのむらじ)等の祖
	事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、   		取尾連(とりおのむらじ)等の祖
	表春命(うははるのみこと)			八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子
					   		信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)等の祖
	天下春命(あまのしたはるのみこと)、  		武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)等の祖
	月神命(つきたまのみこと)、      		壱岐県主(いきのあがたぬし)等の祖

	また、五部(いつとも)の人々が副い従って天降り、仕えた。

	物部造(もののべのみやつこ)等の祖、  		天津麻良(あまつまら)。 
	笠縫部(かさぬいべ)等の祖、      		天勇蘇(あまつゆそ)。 
	為奈部(いなべ)等の祖、        		天津赤占(あまつあかうら)。 
	十市部首(とおちべのおびと)等の祖、  		富々侶(ほほろ)。
	筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)等の祖、 	天津赤星(あまつあかぼし)。

	五部の造を供領(とものみやつこ)とし、天物部(あまのもののべ)を率いて天降り仕えた。

	二田造(ふただのみやつこ)
	大庭造(おおばのみやつこ)
	舎人造(とねりのみやつこ)
	勇蘇造(ゆそのみやつこ)
	坂戸造(さかとのみやつこ)

	天物部ら二十五部の人々が、同じく兵杖を帯びて天降り、仕えた。

	二田物部(ふただのもののべ)。     		当麻物部(たぎまのもののべ)。
	芹田物部(せりたのもののべ)。     		鳥見物部(とみのもののべ)。
	横田物部(よこたのもののべ)。     		嶋戸物部(しまとのもののべ)。
	浮田物部(うきたのもののべ)。     		巷宜物部(そがのもののべ)。
	足田物部(あしだのもののべ)。     		須尺物部(すじゃくのもののべ)。
	田尻物部(たじりのもののべ)。     		赤間物部(あかまのもののべ)。
	久米物部(くめのもののべ)。      		狭竹物部(さたけのもののべ)。
	大豆物部(おおまめのもののべ)。    		肩野物部(かたののもののべ)。
	羽束物部(はつかのもののべ)。     		尋津物部(ひろきつのもののべ)。
	布都留物部(ふつるのもののべ)。    		住跡物部(すみとのもののべ)。
	讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。		相槻物部(あいつきのもののべ)。
	筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。 		播麻物部(はりまのもののべ)。
	筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

	(天の磐船の)船長が、同じく、梶をとる者たちをひきいて、天降り仕えた。

	船長・跡部首(あとべのおびと)等の祖 		天津羽原(あまつはばら)
	梶取・阿刀造(あとのみやつこ)等の祖 		天津麻良(あまつまら)
	船子・倭鍛師(やまとのかぬち)等の祖 		天津真浦(あまつまうら)
	笠縫等の祖 					天津麻占(あまつまうら)
	曾曾笠縫(そそかさぬい)等の祖 			天都赤麻良(あまつあかまら)
	為奈部(いなべ)等の祖 				天津赤星(あまつあかぼし)

	饒速日尊は、天神の御祖神の命令で、天の磐船にのり、河内の国の河上の哮峰(いかるがみね)に天降りした。さらに、
	大倭の国の鳥見の白山に遷った。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地を天から眺め見て天降った。
	すなわち、『虚空(そら)見つ日本(やまと)の国』と言われたのは、このことであろうか。
	饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれ
	ないうちに、饒速日尊は亡くなった。
	その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)にみことのりしてのべた。「私の神の御子
	である饒速日尊を、葦原の中国につかわしたが、疑わしいところがある。お前は天降って復命するように。」速飄神は
	天降って、饒速日尊が亡くなっているのをみて、天に帰りのぼって復命して、「神の御子はすでに亡くなっています。」
	と奏上した。高皇産霊尊はあわれと思って、速飄の神をつかわし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀
	の遊楽をし、悲しんだ。そして天上で葬った。




	4.天磐船(あまのいわふね)に乗って河内の国から斑鳩峰(いかるがのみね)へ


	奈良県の「生駒市誌」によれば、「神話時代の鳥見郷上村(上町)」として以下のような解説が載っている。
	---------------------------------------------------------------------------
	上村(上町)から斑鳩まで続く矢田丘陵(斑鳩三十六峰)のような長くのびた地形を長層嶺(ナガソネ)と呼び、そこ
	の部族の長が長髓彦(ナガスネヒコ)だったようであり、登美彦(トミヒコ)とも呼ばれた。彼は長くこの地方を占拠し
	ていたが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天磐船に乗って河内の国から斑鳩の峯をこえて白庭山に来たので、この
	命を奉じて益々勢盛となった。命は天照大神の皇孫で、長髓彦を帰順させ、その妹の御炊屋(ミカグヤ)姫を娶って、
	可美真命(ウマシマデノミコト)という男児をもうけた。
	その後、神武天皇が九州を発ち、瀬戸内海を東征して大和へ攻め込もうとしたが、長髓彦が地利のよい生駒山を盾にこ
	れを迎え撃って、天皇はついに、難波からは大和にはいれなかった。そのため、天皇は紀州を廻って大和に入り、東か
	らこの地を奇襲攻略した。この時に金色の鵄(トビ)が飛び来たりて天皇の弓にとまった。その鵄の光が流電の如く輝
	いて、長髓彦の軍兵が目がくらんでしまって戦えなくなった。この話が有名な「金鵄伝承」である。神武天皇は、自分
	が饒速日命と同族(天孫)であることを知ったが、長髓彦を斬って帰順させた。後には物部氏として饒速日命の子孫が
	栄えたという。
	これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源である。一説によると、トビ・トべ(その変化としてのトミ)またナガ
	(ナカ)は「蛇神」をさす呼称であり、金色の鵄は本来、長髓彦(登美彦)の側の神であり「金色の蛇(トビ)=金色
	の鳥(トビ)」である。 
	---------------------------------------------------------------------------





	安本美典教授は、「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎(勉誠出版 平成15年6月11日刊)」のなかで、饒速日命が天
	降ってきた哮峰(いかるがのみね)について以下のように書いている。

	饒速日の尊が天下った場所について「先代旧事本紀」は以下のように記録している。
	「饒速日の尊は、天神の命令で天の磐に乗り、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の
	国の鳥見白庭山にうつった。ここでいう「哮峰」とはいったい何処なのだろうか。現在、哮峰の所在地については2つ
	の説がある。

	(1).哮峰=北河内郡説 
	交野市私市(きさいちし)にある磐船神社の「磐船」の地で、磐船神社の社殿の後ろに大きな岩があり石船岩と言われ
	ている。交野の地は、摂津・河内から大和に入る要衝である。後の神武天皇が長髓彦と戦った孔舎衛(くさえ)の坂も
	この近くである。また交野の地は肩野物部氏の本貫地でもある。

	(2).哮峰=南河内郡説 
	南河内郡河南町平石にある磐船神社の近くの山であるとする説である。哮峰=平石説をとる秋里籬島はその著書『河内
	名所図会』に次のように記す。「磐船。社頭のところどころにある。船の形に似て、艫へさきがあって、なかがくぼん
	でいる。土地の人はいう。この山のなかに48個あるのだろう、と」 

	この二つの説のうち、交野市の磐船の方が物部氏に関係の深い土地の伝承なので饒速日の尊の降臨地にふさわしいであ
	ろう。物部の守屋が蘇我氏と争ったとき、最後にこの本拠地に逃げ込み、蘇我氏に囲まれて戦死している。このような
	場所が物部氏の祖神の饒速日の尊が天降りした哮峰であるとすることに妥当性がある。

	私もこの説には賛成である。神話が或程度史実の核を含んでいるという前提に立てば、古書に書いてあることが、こん
	なに史跡や旧跡として残っている地は、北河内郡の方が有力だと思う。以下の図を見ても、西から船(磐船)できて最
	初に上陸する土地と言えば、南河内より北河内の方に分がある。そして、そういう旧跡が多く残るという事実は、やは
	りこの物語は何らかの歴史的な故事を伝えているのだと考えた方が楽しいし、イマジネーションも湧くというものだ。
	神話など全くの嘘っぱちだと思ってる人たちには「先代旧事本紀」など全然面白くないだろうし、我が国古代の様相な
	ど想像も出来まいと思われる。
	また、鳥見(とみ)という地名についても奈良県には2ケ所の候補地があるが、登美や富雄川に残る地名、磐船神社の
	存在などからみても、生駒の方が有力候補のように思える。


	 
	(前出「先代旧事本紀の謎」より。)





	5.天磐船神社(あまのいわふねじんじゃ)


	磐船神社の祭神は、正式名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎ
	はやひのみこと:以下「饒速日命」と記す。)である。この祭神は天孫であり、物部氏の祖先神である饒速日命である。
	饒速日命の天より伝えられた十種神寶(とくさのかんだから)は人々を病苦より救うと言う。磐船神社は巨石信仰を今
	に伝え、神体は「天の磐船」と呼ばれる巨石である。磐船神社の岩窟は行場霊場であり、今は岩窟めぐりとして知られ
	る。磐船神社には本殿がなく、御神体「天の磐船」を直接拝む形で拝殿が設けられている。

	<交通の案内>
	所在地:大阪府交野市私市9丁目19ー1   国道168号線沿い。国道1号枚方・天野川交差点より約12km。
	国道163号生駒・北田原大橋交差点より約2km。京阪交野線私市駅より京阪バス、奈良交通バスにて磐船神社前バ
	ス停下車。近鉄生駒駅より奈良交通バス北田原方面行き、終点北田原バス停より北へ徒歩10分 [運賃]磐船神社前・
	羽衣橋まで220円 [所要時間]磐船神社前まで9分。






	神社の「創祀の由来」によれば、

	磐船神社は御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨した地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ば
	れている所である。御神体は命の乗ってきた「天の磐船」といわれる高さ12m、幅12mある船の形をした巨大な磐
	座(いわくら)で、初めて訪れた人々は皆一様にその威容に圧倒されるという。
	当社は大阪府の東北部、交野市私市(かたのしきさいち)にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに
	河内と大和の境に位置する。境内を流れる天野川は、10kmほどくだって淀川に注ぐ。この天野川にそって古代の道
	ができ、「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」とか「割石越え」と呼ばれる。この道(現在の国道16
	8号線)は現在の枚方と奈良の斑鳩地方をむすび、さらには熊野にまで続く道であった。瀬戸内を通り大阪湾に到着し
	た人々や大陸の先進文化は、大和朝廷以前にはそこから淀川、天野川を遡りこの道を通って大和に入るのが最も容易で
	あったと思われる。またその一方で、古代からの日本人の巨石信仰に思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとって
	まさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域であった。そしてこの地に
	出現した饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、長髓彦などの豪族たちをはじめ、大和の人々から天神(あま
	つかみ)として崇敬を集めたのであり、命の伝えた文化が大和河内地方を発展させたものと思われる。そして当社は、
	天神として初めて大和河内地方に降臨した「饒速日命の天降りの地」として信仰されていった。 






	6.磐船神社と物部氏

	古代における磐船神社の祭祀は、饒速日命の子孫である物部氏(もののべし)によって行なわれていた。その中でも特
	に交野地方に居住した肩野(かたの)物部氏という物部の一族が深く関係していたと思われる。この一族は現在の交野
	市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末〜4世紀の前方後円墳群はこの
	一族の墳墓と考えられており、相当有力な部族であったようだ。
	また饒速日命の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊
	加賀町あたりにあったと伝承され、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者はこの人物ではないかとする説が有力である。 

	物部守屋が蘇我氏との崇仏・排仏論争に破れ、物部の本宗家が滅びるとともに、交野地方の物部氏の勢力も一掃される
	こととなる。このため磐船神社の祭祀も衰退を余儀なくされるが、磐船神社を総社としていた私市、星田、田原、南田
	原の四村の人達が共同で祭祀を行ってゆくようになった。その後、生駒山系を中心とする修験道や山岳仏教が盛んにな
	ると、磐船神社もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿・岩船の宿としてその行場に組み込まれてゆく事にな
	る。また、平安朝になると交野が貴族の御狩り場や桜狩りの名所となり、歌所ともなる。そして歌の神様でもあり、航
	海の神様でもある住吉信仰が広まり、磐船神社も御神体天の磐船のそばの大岩に住吉四神がお祭りされるようになる。
	この理由についてはお互いに船と関係の深い事により結びついたとも、「新撰姓氏録」という典籍によると、住吉大社
	の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられて
	いる。
	住吉大社と磐船神社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山(いこまかんなびやま)
	本記四至(中略)北限饒速日山」として、磐船神社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるか、あるいは住吉大神と
	縁の深い「生駒山」北の境界として記していることは興味深いものがある。
	鎌倉時代にはこの住吉の神の本地仏としてその大岩に大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四
	社明神として知られている。その後四社明神の祀られた大岩の前に御殿が建てられ、現存はしていないがその屋根や柱
	を立てた穴らしい跡が岩に残っている。また境内の大岩には不動明王が彫られ、「天文十四(1545)年十二月吉日」
	の銘が彫られ、神仏習合の色合はますます強まった。 

	近世に入ると磐船神社は先の四村の宮座による共同の祭祀が定着して行なわれていたが、度重なる天野川の氾濫による
	社殿、宝物などの流失が続き、神社の運営は困難を極めた。そして江戸時代宝永年間(1704〜7年まで)に四村宮
	座の争いから、各村御神霊をそれぞれ神輿にのせて持ち帰り、それぞれの村に新たに社殿を設け氏神として祀った。
	このため磐船神社は荒廃を余儀なくされる。しかしその後も村人たちの努力により饒速日命降臨の地としての伝承は守
	られ、明治維新後多数の崇敬者の尽力により復興された。また日本中に吹き荒れた排仏毀釈運動の影響もなく神社境内
	の仏像も無事保護され、神仏習合をそのまま今に残している。

	饒速日命は天照大御神の孫にあたり、大御神の詔を受けて高天原より豊葦原の中津国に降臨した神である。命は32人
	の伴緒をひきつれ、天の磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に天降り、のちに大和国鳥見の白庭山に遷り、土地の豪族鳥見
	の「長髓彦」の妹御炊屋媛を妃とし、大和河内地方の開拓に着手した。
	日本国(やまとのくに)というこの国の呼び名は饒速日命が天の磐船に乗って降臨する時に空よりこの国土を望んで、
	「虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに)」と言った事から始まるとされている。また日本という呼び名のもともと
	は、「ひのもと」といい、日(ひ)の下(もと)と書くところから、日下(くさか)がその発祥であろうという説があ
	り、現在の生駒山の西麓、東大阪市日下町がそれであるとされる。

	饒速日命には、天上において生まれ、尾張氏の祖神となる天香語山命と、御炊屋媛門との間に生まれた、物部氏の祖神
	となる宇摩志麻治命の二人の子がいる。神武天皇の東遷に際し長髓彦は反旗を翻すが宇摩志麻治命(古事記、日本書紀
	では饒速日命となっている)は、長髓彦を誅し天皇に帰順し、以後長く朝廷に仕え、物部氏という強大な氏族を形成し
	てゆく。また、天香語山命の子孫の尾張氏は尾張地方(愛知県)を開拓した氏族としてその地名に名を残している。 


	【天璽瑞宝十種】

	饒速日尊の降臨に際して、天神(高皇産霊尊か天照大神か)が授けたという神宝である。

	都鏡(おきつかがみ)一つ 
	辺都鏡(へつかがみ)一つ 
	八握の剣(やつかのつるぎ)一つ 
	生玉(いくたま)一つ 
	死反の玉(よみかへしのたま)一つ 
	足玉(たるたま)一つ 
	道反の玉(みちかへしのたま)一つ 
	蛇の比礼(へびのひれ)一つ 
	蜂の比礼(はちのひれ)一つ 
	品物の比礼(くさぐさのもののひれ)一つ 

	鏡・玉・剣・領巾の四種十品がみえる。

	十種神寶(とくさのかんだから)は、饒速日命が降臨に際して天照大御神より授かったもので、十種類からなる神宝で
	ある。天皇家の神器は鏡・玉・剣の三種であるが、ここには領巾(比礼)は含まれていない。天皇家の神器が設定され
	た時代には、すでに領巾の瑞宝信仰は無くなっていたのかも知れない。
	『万葉集』によれば、松浦の佐用比売は、「高き山の嶺に登り、離り去く船を遥望し、悵然肝を断ち、暗然魂を銷つ。
	ついに領巾を脱きてふ」った、とあり、これは恋人の魂を揺すって、自分のもとに呼び返そうというまじないのような
	ものと思われる。また、出雲神話に、大己貴命が須佐之男命から試練を受ける説話があり、その中で大己貴命は須勢理
	毘売からもらった領巾の力で、蛇やムカデ、蜂を鎮めたとある。領巾には、魂を振るわして活動的にすることも、逆に
	鎮めることもできる力があると考えられていた。領巾の呪力を認める物部の十種の天璽瑞宝は天皇家の神器よりも古い
	形を伝えているようにも見える。
	それぞれの神宝には、元々それぞれの意味や、もたらす効験があったと考えられるが、現代となっては憶測するしかな
	い。たとえば栗田寛は「物部氏纂記」のなかで、死反玉は「死人を蘇生しむる効験ある由の名」、道反玉は「邪鬼の追
	来などに禍を為むとする時、逐及れざる徳ある由の名」ではないか、としている。使者の口の中に真珠を含ませていた、
	奈良時代の官吏達の葬法もこれに由来しているのかも知れない。太安万侶の墓からも、口に含ませていたと思われる真
	珠が発見されている。
	これらの神宝を用いて鎮魂祭(みたましずめのまつり)をすることにより、病み患いの類、痛み苦しみは全て直り、死
	んだ人も甦ると言い伝えられている。このことにより、饒速日命は祈祷の祖ともされ、特に病気平癒に霊験あらたかな
	神様として今日でも崇敬されている。東大阪市石切神社は饒速日命を祭神とするが、病気・できものや怪我の神様とし
	て参拝者が絶えない。




	7.先代旧事本紀巻第五・天孫本紀  <饒速日尊、葦原の中国に死す>

 	天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)、またの名を天
	火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命、またの名は胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)。

	天照大日霊女尊(あまてらすおおひるめむちのみこと)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひ
	あまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘・豊秋津師姫栲幡千千姫命(とよあきつし
	ひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を生んだ。天照大神、高皇産霊尊の両方
	の子孫として生まれた。そのため、天孫といい、また皇孫という。
	天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊に授けた。そうしてこの尊は、天神の御祖先
	神の命令で、天の磐船にのり、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)の国の鳥
	見(とみ)の白庭山に移った。天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。
	天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て、天降った。すなわち、『虚空(そら)見つ日
	本(やまと)の国』と言われたのは、このことだろうか。

	饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻として、宇摩志麻治命(うましまちのみこ
	と)を生んだ。まだ子が生まれないときに、饒速日尊は妻に言った。「お前がはらんでいる子は、もし男の子であれば
	味間見命(うましまみのみこと)と名づけよ。もし女の子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけよ。」
	男の子が生まれたので、味間見命と名づけた。
	饒速日尊は亡くなった。高皇産霊尊が速飄の神(はやかぜのかみ)に詔(みことのり)してのべた。「私の神の御子で
	ある饒速日尊を、葦原の中国につかわした。しかし、疑わしいところがある。お前は天降って復命するように。」速飄
	の神は天降って、饒速日尊が亡くなっているのをみて天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなってい
	ます。」高皇産霊尊はあわれと思って速飄の神をつかわし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽
	をし、悲しみ、天上で葬った。
	饒速日尊は妻の御炊屋姫に夢の中で教えて言った。「お前の子は、私の形見のものとするように。」すなわち、天璽瑞
	宝をさずけた。また、天の羽弓矢、羽羽矢、また神衣、帯、手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓と
	した。饒速日尊は、天上にいたとき天道日女命を妻として、天香語山命(あまのかごやまのみこと)を生んでいた。天降
	って、御炊屋姫を妻として、宇摩志麻治命が生まれた。



鳥見白庭山碑・長随彦本拠地碑(上)と、鵄山碑・鵄山(とびやま)(下)





	8.饒速日(にぎはやひ)の尊の墓 

	饒速日尊は大和に移ってから、鳥見の豪族長髓彦の妹・御炊屋姫を妃として宇麻志麻治尊を誕生させる。また、それ以
	前に天道日女命を妃にし、天香語山命が誕生していたと言う。天孫本紀は、宇麻志麻治命(物部氏祖)と天香語山命
	(尾張氏)の系譜を主として記述した巻である。饒速日の墓は高天原にあり、大和には三つの形見の品が遺体の代わり
	に葬られたことになっている。
	先代旧事本紀の巻三「天神本紀」や、巻五「天孫本紀」には、次のように記されている。「饒速日の尊は河内の国の河
	上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見(とみ)の白山(または白庭山)にうつった。」
	また、先代旧事本紀の巻五「天孫本紀」には「(饒速日の尊がなくなったとき)天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢(は
	はや)、神衣帯手貫(かむみそおびたまき)を、登美(とみ)の白庭の邑に埋葬して、墓とした。」とある。 
	先代旧事本紀によれば、饒速日の尊は登美の白庭の邑を墓所としたことになる。白山(白庭山)は奈良県生駒市の北部
	とする説が有力である。ここには現在も「白庭」という地名があり、饒速日の尊の伝承がある土地である。また「とみ」
	は、神武天皇が長髓彦(ながすねひこ)と戦ったときに、金の鵄(とび)がやって来て弓の先にとまった逸話から来た
	地名であるとされる。 
 	奈良県と大阪府の、庄内式土器が多量に出土する地域、あるいは、饒速日命が天降ったとされる生駒山の地域では下表
	のように共通の地名がいくつも存在する。また九州とも地名が共通する部分がある。これらをみると、物部氏の祖先が
	九州から河内に移り、ここで基盤を築いたのち大和に勢力をのばし、それによって地名が移されたようにみえる。
	河内では物部氏の本貫地や関係地域から庄内式土器が集中的に出土し、奈良県でも物部氏と関係のある地域から庄内式
	土器が出土する。物部氏の移動に従って庄内式土器も、九州から河内、河内から大和へ移っていったように思われる。
 

		読み		大和		 	河内			九州

		しき		磯城郡			志紀郡			肥後国志記郡 
		あと		磯城郡阿刀	 	渋川郡阿都		豊前国跡田、豊後国跡部郷 
		さくらい	磯城郡桜井	 	河内郡桜井郷		筑前国糸島郡桜井
										肥後国宇土郡桜井郷 
		おさか		磯城郡恩坂郷	 	中河内郡刑部郷  
		おんち		城下郡倭恩知神社	高安郡恩知神社  
		おほち		磯城郡大市郷	 	渋川郡邑智郷
							志紀郡邑智郷  
		ふる		山辺郡布留	 	古市郡 		豊後国国崎郡古市駅
		あすか		高市郡飛鳥	 	南河内郡安宿  
		とようら	高市郡豊浦	 	河内郡豊浦郷  
		たけち		高市郡		 	渋川郡竹淵郷  
		さかと		生駒郡坂門郷	 	古市郡尺度郷  
		とみ		生駒郡鳥見郷		磯城郡迹見郷		豊前国企救郡登美 
		やた		生駒郡矢田郷	 	中河内郡矢田		肥前国養父郡屋田郷 
		ぬかた		平群郡額田郷	 	河内郡額田郷		筑前国早良郡額田郷 


	饒速日の尊の子である宇摩志麻治の命は島根県太田市の物部神社に墓がある。神社の由緒によると宇摩志麻治の命は神
	武天皇の命を受けて尾張、美濃をはじめ全国各地を征伐に行ったとされる。記紀には滋賀県、岐阜県などのように征伐
	した記録がないにもかかわらず、大和朝廷の支配下に入っている地域がある。これらの地域は宇摩志麻治の命が征伐し
	たと伝えられる地域と一致している。  



	9.饒速日の尊に従って天降った武将・軍団・その他 

	物部氏は、神武天皇に先立って高天が原から天下ったとされる饒速日の尊の子孫である。先代旧事本紀によれば、饒速
	日の尊は、天の磐船に乗って船長・舵取り・船子などを引き連れて天下ったという。そして饒速日の尊が天下った時に、
	供に下がってきた物部一族のなかには、その氏族名に、北九州の地名と関係しているものが多い。五部人や天物部の名
	前のなかに、遠賀川流域を中心とした北部九州と、河内・和泉を中心とした畿内の地名と同じものが多く含まれている。
	北部九州と近畿の地名の一致もあることから、饒速日の天降り神話を九州からの東遷を反映したものと見たほうが合理
	的であろう。また、この時の氏族の事については、先代旧事本紀だけに書いてあるわけではなく、幾つかの部族につい
	ては、「新撰姓氏録」にも饒速日の尊と一緒に天下って来たという記載がある。
	また、大阪教育大学名誉教授の鳥越憲三郎氏も、その著書(「弥生の王国」中公新書1994年・「女王卑弥呼の国」中公
	新書2002年)のなかで同様の考察を展開し、以下のように述べている。
	「物部氏の降臨伝承には、重要なことが秘められている。それは降臨に供奉した多くの氏族のことである。後に船長な
	ど船を操る六氏族を紹介するが、実はその記事の前に左の如く三十四の名が列記されている。それら各氏族の下に彼ら
	の住地を附記しておくが、はからずも九州との関係が濃く認められるのである。」


	【防衛の人 32神】

	1.天香語山命(あまのかごやま) 	尾張連等の祖 
	  日本書紀に天火明命の子とある。天孫本紀では天火明命と饒速日尊は同一神とするため、天香語山命も饒速日尊の
	  子となっている。 
	2.天鈿賣命(あまのうずめ)  		猿女君等の祖
	3.天太玉命(あまのふとだま) 		忌部首等の祖
	4.天兒屋命(あまのこやね) 		中臣連等の祖 
	  記紀では、これらの神々はともに「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」の降臨に供奉したとなっている。
	5.天櫛玉命(あまのくしだま) 		鴨県主等の祖 
	  伊勢国風土記逸文には、出雲建子命の別名とあり、またの名を伊勢津彦神とある。石の城を築き、阿倍志彦神の襲
	  来を撃退したという。また、伊勢津彦神は伊勢の国を治めていたが、神武天皇の派遣した天日別命に国譲りを迫ら
	  れたため伊勢を明け渡したが、自らはその軍門に降ることを潔しとせず、「八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に
	  乗って」信濃の国に去ったとある。
 	6.天道根命(あまのみちね) 		川瀬造等の祖   新撰姓氏録和泉神別に神魂命の五世孫とある。 
	7.天神玉命(あまのかむたま)  	三嶋県主等の祖 
	  神代本紀には、神皇産霊尊の子として「天神玉命:葛野鴨県主等祖」がある。
	8.天椹野命(あまのむくの)   	中跡直等の祖  
	9.天糠戸命(あまのぬかと)   	鏡作連等の祖
	10.天明玉命(あまのあかるたま) 	玉作連等の祖   記紀に瓊々杵尊の降臨に供奉した神として登場。 
	11.天牟良雲命(あまのむらくも) 	度会神主等の祖 
	  天孫本紀に尾張氏の祖として「天村雲命」がある。同一神であれば、天香語山命の子で饒速日尊の孫となり、異な
	  る場合には、豊受大神宮禰宜補任次第に「天牟羅雲命」があり、瓊々杵尊の降臨に従った神ということになる。 
	12.天背男命(あまのせお) 		山背久我直等の祖 
	  新撰姓氏録山城国神別に神魂命の五世孫とあって、天神系であることが分かる。日本書紀にある「香々背男」が
	  「久我背男」のことならこの神と同一で、瓊々杵尊以前に天降っていたという旧事本紀の記述は、建葉槌命や経津
	  主命、武甕槌命に討たれたことと対応する。
	13.天御陰命(あまのみかげ) 		凡河内直等の祖 
	  新撰姓氏録左京神別に天津彦根命の子とある。天津彦根命は天照大神が素戔鳴命との誓約の時に生んだ子である。
	  天御影神は近江の国、野洲の三上山の神であり、子の息長の水依姫は日子坐命(開化天皇皇子)と婚して丹波の美
	  知能宇斯王、水穂の真若王らを生んだと古事記にある。 
	14.天造日女命(あまのつくりひめ) 	阿曇連等の祖 
	  他の文献には見られない。天道日女命の誤記とすれば、天孫本紀にある饒速日尊の妃神(天香語山命の母)となる。 
	15.天世平命(あまのよむけ) 		久我直等の祖  
	16.天斗麻弥命(あまのとまね) 		額田部湯坐連等の祖 新撰姓氏録摂津国神別に天津彦根命の子とある。
	17.天背男命(あまのせなお) 		尾張中島海部直等の祖  
	18.天玉櫛彦命(あまのたまくしひこ) 	間人連等の祖 新撰姓氏録左京神別に玉櫛比古が神魂命の五世孫とある。 
	19.天湯津彦命(あまのゆつひこ) 	安芸国造等の祖 
	  国造本紀の阿岐国造、白河国造の条に見える。白河国造条では、「天降天由都彦命」とあって、天降ったことが強
	  調されている。 
	20.天神魂命(あまのかむたま 別名・三統彦命) 葛野鴨県主等の祖 神魂命は神産巣日神と同一視する説もある。 
	21.天三降命(あまのみくだり) 		豊田宇佐国造等の祖 豊田は豊国の誤記であろう。
	22.天日神命(あまのひのかみ) 		対馬県主等の祖 
	  対馬県主は、新撰姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命から出るとあり、中臣氏系と見る
	  ことができるかもしれない。
	23.乳速日命(ちはやひ) 		広湍神麻続連等の祖
	24.八坂彦命(やさかひこ) 		伊勢神麻続連等の祖  他に名前が見えず、未詳。 
	25.伊佐布魂命(いさふたま 別名・天活玉命) 倭久連等の祖 
	  姓氏録摂津国神別に、五十狭経魂命が角凝魂命の子であるとされ、天神系と分かる。
	26.伊岐志邇保命(いきしにほ) 		山代国造等の祖  他に名前が見えず、未詳。
	27.活玉命(いくたま) 			新田部直の祖   他に名前が見えず、未詳。 
	28.少彦根命(すくなひこね) 		鳥取連等の祖   似た名の少彦名命(すくなひこなのみこと)との関係
	  は不明。 
	29.事湯彦命(ことゆつひこ) 		畝尾連等の祖  姓氏録和泉国神別に畝尾連は天児屋根命から出るとある。
	30.(八意思兼神の子)表春命(うははる) 信乃阿智祝部等の祖
	31.天下春命(あまのしたはる) 		武蔵秩父国造等の祖 
	  八意思兼神は記紀によって天神であることが分かり、国造本紀には知知夫国造条に名前が見える。その子の、表春命、
	  下春命は高橋氏文に「知々夫国造上祖、天上腹、天下腹人」とある人名と関係するものと思われ、天降ったことが分
	  かる。
	32.月神命(つきたま) 			壱岐県主等の祖  姓氏録右京神別に壱岐直は天児屋根命から出るとある。



	【五部人(いつとものひと】

	1.天津麻良(あまつまら)   物部造等の祖  姓氏禄の和泉国神別大庭造条に神魂命八世孫とあり、天神系。 
	2.天勇蘇(あまのゆそ)    笠縫部等の祖 (摂津説)東生郡笠縫、(大和説)城下郡笠縫、
					 (大和説)十市郡飯富郷十笠縫村
	3.天津赤占(あまつあかうら) 爲奈部等の祖 (摂津)河辺郡為奈郷、(伊勢)員弁郡
	4.富々侶(ほほろ)      十市部首等の祖。和名抄に鞍手郡十市郷と見え、この地か?(大和説)十市郡
	5.天津赤星(あまつあかほし) 筑紫弦田(つるた)物部等の祖。筑前の国鞍手郡鶴田の地か?(現福岡県鞍手郡宮田町)
					  宮田町磯光に、天照神社があり、この神社は饒速日尊が祭神である。
					 (大和説)平群郡鶴田

	【伴領(とものみやつこ)】

	1.二田造  筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)
	2.大庭造  新撰姓氏禄に神魂命八世孫・天津麻良命の後裔とある。 
	3.舎人造 
	4.勇蘇造 
	5.坂戸造 


	【天物部(あまのもののべ)25部】

	1.二田物部 筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)。筑後の竹野郡二田郷とする説も。
	2.当麻物部 肥後益城郡当麻郷。(大和説)葛下郡当麻郷。
	3.芹田物部 鞍手郡生見郷芹田村。(大和説)城上、城下、平群各郡芹田。
	4.鳥見物部 北九州の鳥美(登美)とすれば、豊前の国企救郡足立村富野とする説が有力。(現北九州市小倉北区富野)
		    馬見物部とすれば、馬見神社(福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群)(奈良説:奈良県大和高田市)
	5.横田物部 嘉麻郡横田村。(大和説)添上郡横田村。
	6.嶋戸物部 「島門は遠賀川西岸にある。埴生郷の北で垣前郷に属する村であろう。」(吉田東伍:大日本地名辞書)
		    高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡岡垣町)、
		    岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡芦屋町)
	7.浮田物部 (大和説)添上郡浮田村。
	8.巷宣物部
	9.疋田物部 鞍手郡疋田。(大和説)城上郡曳田。
	10.須尺(酒人)物部 酒人説は、須尺は、酒人の草書を見誤ったものとする。
	11.田尻物部 筑前上座郡田尻村。(大和説)葛下郡田尻村。
	12.赤間物部 筑前宗像郡赤間。
	13.久米物部
	14.狭竹物部 鞍手郡粥田郷小竹村。
	15.大豆物部 筑前穂波郡大豆村。
	16.肩野物部 (河内)交野
	17.羽束物部 
	18.尋津物部
	19.布都留物部
	20.住跡物部
	21.讃岐三野物部
	22.相槻物部
	23.筑紫聞物部 「聞」は、豊前の国の企救郡を指すと思われる。(現在の北九州市小倉区・門司区のあたり)
	24.播麻物部 
	25.筑紫贄田物部 筑前の国鞍手郡新分(にいきた)郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)

	二田物部と坂戸物部は「姓氏録未定雑姓」に、饒速日命が天降った時の従者「二田天物部」「坂戸天物部」の後裔とある。
	日本書紀に拠れば、神武東征で、天皇は紀州を廻って大和に入る時、金色の鵄(トビ)が飛び来たりて天皇の弓にとまり、
	その鵄の光が流電の如く輝いて、長髓彦の軍兵は戦えなくなった。これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源であると
	されているが、鳥見という地名がもともとからあったものではないようにも見える。だとすれば鳥美(登美)という地名
	も、饒速日の尊達が北九州から持ってきた地名のように思われる。


	【船長・梶取等】

	1.天津羽原(あまつはばら) 	船長跡部首等の祖 
	  跡部首は他に見えないが、河内の国の渋川郡跡部郷や、伊勢の国の安濃郡などには跡部の地名があり、それらのいず
	  れかを率いた伴造ではないか。また、跡部は阿刀部と等しく、阿刀物部と同じとも考えらる。新撰姓氏禄摂津国神別、
	  山城国神別の阿刀連は饒速日命の後裔とあるので、阿刀部も物部系と見ることが出来よう。
	2.天津麻良(あまつまら) 	梶取阿刀造等の祖 
	  梶取は現代風にいえば操舵手、航海長のようなもの。阿刀造は後に連姓になり、天武朝には宿禰姓となっている。
	  新撰姓氏禄左京神別に「石上同祖」とあり、物部氏族であることがわかる。
	3.天津真浦(あまつまうら) 	船子倭鍛師等の祖 
	  古事記の天の岩戸の段に「鍛人・天津麻良」と、日本書紀の綏靖即位前紀に「倭鍛部・天津真浦」が見える。それぞ
	  れ祭祀用の金属器の製作と関係していりようである。武器の他に、船の金属部品や工具の製作、修理に携わったもか
	  もしれない。 
	4.天津麻占(あまつまうら) 	笠縫等の祖 
	5.天都赤麻良(あまつあかまら)曾曾笠縫等の祖  
	6.天津赤星(あまつあかほし) 	爲奈部等の祖 
	  応神三十一年八月紀に、爲奈部が新羅系の船大工集団だったとある。新撰姓氏録未定雑姓に為奈部首は伊香我色乎命
	  の六世孫・金連の後裔とあり、物部氏の配下に属していたようだ。 


	「饒速日の尊に従って天降った武将・軍団・その他」の九州・河内・地名比較表




	10.北九州(福岡県)で物部氏を祀る神社 

	福岡県の鞍手郡、遠賀川流域には物部氏を祀った神社が多い。これは物部氏がこの地方に勢力を張っていた証拠だと思え
	る。物部氏が、もしこの地方とは関係のない近畿圏の出だとすれば、ここにこんなにも物部氏ゆかりの神社が存在する理
	由がない。


	古名地域  神社   	  祭神		                所在地           備考

	筑前糟谷  熊野神社   「饒速日命、速玉男命、伊弉冉命、 糟屋郡古賀町大字筵内
			  	  事解男命、宇麻志麻智命」 
	筑前鞍手  剣神社    「倉師大明神」		  直方市下新入字亀岡  (倉師は高倉下のくらじ)
	筑前鞍手  古物神社   「布留御魂神社、剣神社」八幡宮   鞍手郡鞍手町大字古門
	筑前鞍手  熱田神社   「天照大神ほか」		  鞍手郡鞍手町大字新北 (元剣神社)
	筑前鞍手  八剣神社   「日本武尊」			  鞍手郡鞍手町大字中山
	筑前鞍手  八剣神社   「日本武尊」			  鞍手郡鞍手町大字小牧
	筑前鞍手  八剣神社   「日本武尊」			  鞍手郡鞍手町大字木月 
	筑前鞍手  鞍橋神社					  鞍手町長谷 
	筑前鞍手  天照御魂神社 「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」  鞍手郡宮田町大字磯光 
	筑前鞍手  笠城神社   「饒速日命」			  鞍手郡宮田町大字宮田 天照御魂神社上宮 
	筑前鞍手  笠城権現神社 「饒速日命」			  鞍手郡宮田町大字宮田
	筑前鞍手  穂掛神社   「饒速日命」			  鞍手郡宮田町大字宮田 天照御魂神社中宮 
	筑前遠賀  高倉神社   「大倉主神、莵夫羅姫命」	  遠賀郡岡垣町大字高倉 (大倉主神は高倉下のこと)
	筑前遠賀  岡湊神社   「大倉主命」			  遠賀郡芦屋町船頭町  (高倉神社の下宮)
	筑前遠賀  八剣神社					  遠賀町今古賀
	筑前遠賀  埴生神社   「布津御魂神合祀」		  中間市大字垣生字八広
	筑前遠賀  十五社神社  「布留大神」			  中間市大字下大隈字村前
	筑前夜須  白木神社   「天照國照彦」		  甘木市上秋月2408
	筑前嘉穂  馬見神社					  嘉穂町大字馬見1594
			馬見という地名は、神武天皇が馬に乗ろうとした際に馬が暴れてこの山中に逃げ込み、天皇は呆然
			と見送っていたという伝説に由来する。上記2社は私の実家のすぐ近くである。昔、白木神社も、
			馬見山にも登った事があるが、その頃(実家にいた頃)は物部氏と関係しているなど思いもしなかった。
	筑後御井  赤星神社   「天津赤星=筑紫弦田物部の祖」  久留米市高良内町759(坂口)
	筑後御井  高良大社   「高良玉垂命、物部胆咋連?」	  久留米市御井町
	筑後三瀦  石上神社   「十種神寶」			  大川市大字下牟田口
	筑後三瀦  高良玉垂神社 「高良玉垂命」		  三潴郡三潴町大字田川
	筑後三瀦  高良玉垂命神社「高良大神」			  三潴郡城島町大字楢津
	筑後三瀦  高良玉垂神社 「高良玉垂命」		  三潴郡三潴町大字田川
	筑後三瀦  高良玉垂命神社「高良玉垂命」		  大川市大字郷原
	筑後三瀦  伊勢天照御祖神社「天火明命」		  久留米市大石町
	筑後御原  媛社神社   「媛社神=饒速日命、織女神」	  小郡市大崎    (磐船神社、棚機神社)
	筑後御原  福童神社   「天照国照彦火明命」		  福岡県小郡市福童
	筑後御原  福童神社   「天照国照彦火明命」		  福岡県小郡市大崎字東
	豊前京都  大原八幡神社 「大原足尼命、饒速日命、誉田別命」都郡苅田町大字新津字恩塚
	豊前京都  白庭神社   「天照國照彦天火明櫛玉饒速日命」  京都郡苅田町大字与原字御所山
	豊前京都  若宮八幡神社 				    京都郡勝山町 大字宮原字上原
	豊前京都  大原八幡神社 				  京都郡勝山町大字大久保字宮畑
	豊前京都  八雷神社 					  行橋市大字長木字宮ノエン
	豊前京都  大原八幡神社 「饒速日命」 			  京都郡苅田町大字新津字恩塚 
	豊前田川  英彦山神宮  「天火明命」 			  田川郡添田町大字英彦山
	豊前田川  高住神社    「天火明命」 			  田川郡添田町大字英彦山
	豊前田川  八幡神社 					  田川郡大任町大字今任原









	11.先代旧事本紀巻第五・天孫本紀  <天の香語山命>

	子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たか
	くらじのみこと)という。天香語山命は饒速日尊に従って、天から降って紀伊の国の熊野邑にいた。
	天孫の瓊々杵尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、西の宮から出発して、船軍を率いて東征したとき、命令にそむく
	ものが蜂のように起こった。いまだ服従しない葦原の中国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)が、兵をととのえて磐余彦尊の軍
	をふせいだ。天孫(磐余彦)の軍は戦ったけれども、勝つことができなかった。紀伊の国の熊野邑に至ったとき、悪神が毒
	気をはき、人々はみな病んだ。天孫は困惑したが、よい方法がなかった。高倉下命はこの邑にいて、夜、夢をみた。
	天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)に述べた。「葦原の瑞穂国は、聞くところによるとなお騒がしいという。お前は
	出かけていって、これを討つように」武甕槌神は答えて、「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、
	自然に平定されるでしょう」と述べた。そうして高倉下命に語って言った。「私の剣のフツノミタマの剣を、お前の家の庫
	(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に奉るように」高倉下命は、このように夢をみて覚めた。翌日、庫を開けて
	みると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。それをとって天孫に奉った。そのとき天孫はよく眠っていた
	が、にわかに目覚めて言った。「私はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」次いで毒気に当たっていた兵士達も、みな目
	覚めて起き上がった。皇軍は内つ国に赴いた。天孫は剣を得て、威光と軍の勢いは増した。高倉下にみことのりして褒め、
	侍臣とした。

	神武即位前紀に現れる高倉下は、「饒速日=天火明」の子・天香語山命と同一人物だとされる。




	12.先代旧事本紀巻第五・天孫本紀  <尾張氏の系譜>

	天香語山命は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として一男を生んだ。饒速日尊の孫・天村雲命(あまのむらくものみこ
	と)【またの名を天五多手(あまのいたて)】。
	この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生んだ。
	三世孫・天忍人命(あまのおしひとのみこと)。この命は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かつらき)の
	出石姫(いずしひめ)を妻として、二男を生んだ。次に天忍男命(あまのおしおのみこと)。この命は葛木の土神の剣根命
	(つるぎねのみこと)の娘・賀奈良知姫(がならちひめ)を妻として二男一女を生んだ。妹に忍日女命(おしひめのみこと)。

	四世孫・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)【または葛木彦命(かつらきひこのみこと)という、尾張連らの祖】。天忍男命の
	子である。この命は池心朝の御世、大連となって仕えた。次に建額赤命(たけぬかあかのみこと)。この命は葛城の尾治置
	姫(おわりのおきひめ)を妻として、一男を生んだ。妹に世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)【またの名を日置日女命
	(ひおきひめのみこと)】。この命は腋上池心宮に天下を治めた観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
	に、立って皇后となり、二人の皇子を生んだ。すなわち、大足彦国押人命(おおたらしひこくにおしひとのみこと)と、次
	に日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)である。同じく四世孫・天戸目命(あまとめのみ
	こと)。天忍人命の子である。この命は葛城の避姫(さくひめ)を妻として二男を生んだ。次に天忍男命(あまのおしおの
	みこと)。大蝮壬生連(おおたじひみぶべのむらじ)らの祖である。

	五世孫・建箇草命(たけかくさのみこと)。【建額赤命の子で、多治比連(たじひのむらじ)、津守連(つもりのむらじ)、
	若倭部連(わかやまとべのむらじ)、葛木厨直(かつらきのみつしのむらじ)の祖である。】同じく五世孫・建斗米命(た
	けとめのみこと)。天戸目命の子である。この命は、紀伊国造の智名曾(ちなそ)の妹の中名草姫(なかつなくさひめ)を
	妻として、六男一女を生んだ。次に妙斗米命(たえとめのみこと)。六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。

	六世孫・建田背命(たけたせのみこと)。神服連(かむはとりのむらじ)、海部直(あまべのあたい)、丹波国造(たには
	のくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)らの祖である。次に建宇那比命(たけうなひのみこと)。この
	命は、城嶋連(しきしまのむらじ)の祖の節名草姫(ふしなくさひめ)を妻として、二男一女を生んだ。次に建多乎利命(たけ
	たおりのみこと)。笛吹連(ふえふきのむらじ)、若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)らの祖である。 次に建弥阿久良命
	(たけみあぐらのみこと)。【高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖である。】次に建麻利尼命(たけ
	まりねのみこと)。【石作連(いしつくりのむらじ)、桑内連(くわうちのむらじ)、山辺県主(やまのべのあがたぬし)
	らの祖である。】次に建手和邇命(たけたわにのみこと)。【身人部連(みとべのむらじ)らの祖である。】妹に宇那比姫
	命(うなひひめのみこと)。

	七世孫・建諸偶命(たけもろくまのみこと)。この命は、腋上池心宮で天下を治めた天皇の御世に、大臣となって仕えた。葛
	木直の祖の大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘の諸見己姫(もろみこひめ)を妻として、一男を生んだ。妹に大海姫命(お
	おあまひめ)。【またの名は葛木高名姫命(かつらきのたかなひめのみこと)】この命は、磯城瑞垣宮で天下を治めた天皇
	に、立って皇妃となり、一男二女を生んだ。すなわち、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬな
	きいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)である。

	八世孫・倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)。【または市大稲日命(いちのおおいなひのみこと)という。】この命は、
	淡海国の谷上刀婢(たにかみとべ)を妻として、一男を生んだ。また、伊我臣の祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊
	賀姫(おおいがひめ)を妻として、四男を生んだ。

	九世孫・弟彦命(おとひこのみこと)。妹に日女命(ひめのみこと)。次に玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこ
	と)。【山代水主の雀部連(さざきべのむらじ)、軽部造(かるべのみやつこ)、蘇&博(そきべのおびと)らの祖。】
	次に若都保命(わかつほのみこと)。【五百木部連(いほきべのむらじ)の祖。】次に置部與曾命(おきべよそのみこと)。
	次に彦與曾命(ひこよそのみこと)。

	十世孫・淡夜別命(あわやわけのみこと)。【大海部直(おおあまべのあたい)らの祖で、弟彦命の子である。】次に大原足
	尼命(おおはらのすくねのみこと)。【筑紫豊国(つくしのとよのくに)の国造らの祖で、置津與曾命の子である。】次に
	大八椅命(おおやつきのみこと)。【甲斐国造らの祖で、彦與曾命の子である。】次に大縫命(おおぬいのみこと)。次に小
	縫命(おぬいのみこと)。

	十一世孫・乎止與命(おとよのみこと)。この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀婢(ましきとべ)を妻とし
	て、一男を生んだ。

	十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと)。この命は、邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖の大荒田(おおあらた)の娘の
	玉姫(たまひめ)を妻として、二男四女を生んだ。

	十三世孫・尾綱根命(おづなねのみこと)。この命は、誉田天皇の御世に大臣となって仕えた。妹に尾綱真若刀婢命(おづな
	まわかとべのみこと)。この命は、五百城入彦命(いほきいりひこのみこと)に嫁いで、品陀真若王(ほんだまわかのきみ)
	を生んだ。次の妹に金田屋野姫命(かなだやぬひめのみこと)。この命は、甥の品陀真若王に嫁いで、三人の王女を生んだ。
	すなわち、高城入姫命(たかきいりひめのみこと)、次に仲姫命(なかひめのみこと)、次に弟姫命(おとひめのみこと)である。
	この三王女は、誉田天皇のもとへ共に后妃になり、合わせて十三人の御子を生んだ。姉の高城入姫命は立って皇妃となり、
	三人の皇子を生んだ。額田部大中彦皇子(ぬかたべのおおなかひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去
	来真稚皇子(いざまわかのみこ)である。妹の仲姫命は立って皇后となり、二男一女の御子を生んだ。荒田皇女(あらたのひ
	めみこ)、次に大雀天皇(おおさざきのすめらみこと)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)である。妹の弟姫命は立って皇妃とな
	り、五人の皇女を生んだ。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわぢのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(う
	ののひめみこ)、次に大原皇女(おおはらのひめみこ)、次に滋原皇女(しげはらのひめみこ)である。品太天皇(ほむだのすめ
	らみこと)の御世に尾治連(おわりのむらじ)の姓を賜り、大臣大連となった。
	尾綱根連に詔して、「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」といった。このと
	き尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連(わかひこのむらじ)と、従兄妹の毛良姫(けらひめ)の二人を壬生部の管理
	者に定めて仕えさせることにした。そして、ただちに皇子達の世話をする人を三人を奉った。連の名は請。もうひとりの連
	の名は談である。二人の字の辰技中から、今この民部の三人の子孫を考えると、現在は伊與国にいる云々という。

	十四世孫・尾治弟彦連(おわりのおとひこのむらじ)。次に尾治名根連(なねのむらじ)。次に意乎巳連(おおみのむらじ)。
	この連は、大雀朝の御世に大臣となって仕えた。

	十五世孫・尾治金連(かねのむらじ)。次に尾治岐閉連(きへのむらじ)。【即連(つくのむらじ)らの祖。】次に尾治知々古連
	(ちちこのむらじ)。【久努連(くぬのむらじ)の祖。】この連は、去来穂別朝の御世に功能の臣として仕えた。

	十六世孫・尾治坂合連(さかあいのむらじ)。金連の子である。この連は、允恭天皇の御世に寵臣としてお仕えした。次に尾
	治古利連(こりのむらじ)。次に尾治阿古連(あこのむらじ)。【太刀西連(おおとせのむらじ)らの祖である。】次に尾治中天
	連(なかぞらのむらじ)。次に尾治多々村連(たたむらのむらじ)。次に尾治弟鹿連(おとかのむらじ)。【日村(ひむら)の尾治
	連らの祖である。】次に尾治多與志連(たよしのむらじ)。【大海部直らの祖。】

	十七世孫・尾治佐迷連(さめのむらじ)。坂合連の子である。妹に尾治兄日女連(えひめのむらじ)。
	十八世孫・尾治乙訓與止連(おとくによどのむらじ)。佐迷連の子である。次に尾治粟原連(あわはらのむらじ)。次に尾治間
	古連(まふりのむらじ)。次に尾治枚夫連(ひらふのむらじ)。【紀伊尾張連らの祖である。】







	13.先代旧事本紀巻第五・天孫本紀  <宇摩志麻治命>

	天香語山命の弟、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)。またの名を味間見命(うましまみのみこと)、または可美真手命(う
	ましまでのみこと)という。	
	天孫・天津彦火瓊々杵(あまつひこほのににぎのみこと)尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)は天下を治めようと、軍
	をおこして東征したが、所々に命令に従わない者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中州(なかつくに)の豪族・長
	髄彦(ながすねひこ)は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴して、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神
	の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない。」といい、兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍
	は連戦したが、勝つ事ができなかった。このとき、宇摩志麻治命は舅の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。
	そうして衆を率いて帰順した。
	天孫は、宇摩志麻治命に詔して言った。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は
	難しかった。しかるに舅のはかりごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠
	節を喜ぶ。」そして特にほめたたえ、神剣を与えた。この神剣は、フツノミタマの剣、または布都主神魂(ふつぬしのかむ
	たま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神と言う。
	また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊に授けた天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天皇にたてまつった。天皇は
	たいへん喜んでらに寵愛を増した。宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて逆賊を斬り従え、また、軍を率いて
	海内を平定して復命した。磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮処を造った。
	辛酉正月庚辰の日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位についた。この日を元年とする。妃の
	姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。宇摩志麻治命が
	まず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾をたてて斎き祭った。このたくさんの楯を並べることを五十櫛(いそくし)と言う。
	また、霊木を布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。すなわち、天璽瑞宝を納めて、天皇のために
	鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔して、「殿内の近くに侍れよ。」と言った。そのためこれを足尼(す
	くね)と名づけた。足尼と言う名はここから始まった。

	高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率いて天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天
	児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申し上げた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、
	矛・盾をたてて厳かでいかめしい様子を造った。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつ
	かさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なこと
	を伝えた。このとき皇子・大夫は、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。現在まで続く、都を建てて位につく
	ときの賀正はこの様な儀式であり、即位の儀式と並んでこの時に始まったのである。
	宇摩志麻治命は十一月朔庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福た
	ることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこの時に始まった。天皇は宇摩志麻治命に「お前の亡父の饒速日尊が天から授け
	られてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りを行え。」とみことのり
	した。いわゆる「御鎮祭」がこれである。その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一(ひと)・二
	(ふた)・三(み)・四(よ)・五(いつ)・六(むゆ)・七(なな)・八(や)・九(ここの)・十(たり)」と大きな声で言って、神楽を
	歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことを指している。
	二年春二月甲辰朔乙巳の日、天皇は功績を定めて、賞を行った。宇摩志麻治命に詔して、「お前の勲功は思えば大いなる功
	である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神霊の剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に
	副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするよう
	に」と言った。この日、物部連たちの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたく
	しひかたのみこと)は、ともに政事を行う大夫になった。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。政事を行う大夫とは、
	今でいう大連・大臣をいう。

	物部氏が代々大連として執政の地位にあったことの由来と、鎮魂(タマフリ)の祭祀の由来を述べている。





	14.先代旧事本紀巻第五・天孫本紀  <物部氏の系譜〈一世孫 〜 十七世孫〉>

	その天璽瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを宇摩志
	麻治命(うましまちのみこと)の子孫も受け継いで、石上(いそのかみ)の大神を祀った。以下、詳細を述べる。
	饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子・宇摩志麻治命。この命は、橿原宮(かしはらのみや)で天下を治めた天皇の御世の、は
	じめに足尼(すくね)になり、ついで政治を行う大夫となって、大神をお祀りした。活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いく
	るみ)の娘の師長姫(しながひめ)を妻として、二人の子を生んだ。
	饒速日尊の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)。阿刀連(あとのむらじ)らの祖である。弟に、彦湯支命(ひこゆきのみこ
	と)【またの名は木開足尼(きさきのすくね)】。この命は、葛城高丘宮(かつらぎのたかおかのみや)で天下を治めた天皇の
	御世の、はじめに足尼になり、ついで寵を得て政治を行う大夫となって、大神をお祀りした。 日下部(くさかべ)の馬津
	(うまつ)・名は久流久美(くるくみ)の娘の、阿野姫(あぬひめ)を正妻として男を生み、出雲色多利姫(いずものしこたりひ
	め)を妾として一男を生み、淡海(おうみ)の川枯姫(かわかれひめ)を妾として一男を生んだ。

	三世孫・大禰命(おおねのみこと)。この命は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなみや)で天下を治められた天皇の御世に、侍
	臣となって、大神を祀った。弟に、出雲色大臣命(いずものしこおおみのみこと)。この命は、軽の地の曲峡宮(まがりおみ
	や)で天下を治めた天皇の御世の、はじめは政治を行う大夫となり、ついで大臣となって、大神を祀った。その大臣という
	称号は、このとき初めて起こった。倭(やまと)の志紀((しきひこ)の妹の真鳥姫(まとりひめ)を妻として、三人の子を
	生んだ。弟に、出石心大臣命(いずしこころのおおみのみこと)。この命は、掖上池心宮(わきかみのいけこころみや)で天下
	を治めた天皇の御世に、大臣となって、大神を祀った。新河小楯姫(にいかわのおたてひめ)を妻として、二人の子を生ん
	だ。
	四世孫・大木食命(おおきくいのみこと)。【三河国造の祖で、出雲醜大臣の子である。】弟に、六見宿禰命(むつみのす
	くねのみこと)。【小治田連(おはりだのむらじ)らの祖である。】弟に、三見宿禰命(みつみのすくねのみこと)。【漆部連
	(ぬりべのむらじ)らの祖。】この命は、秋津嶋宮(あきつしまみや)で天下を治めた天皇の御世に、共にそば近く仕えたため、
	はじめは足尼となり、ついで宿禰(すくね)となって、大神を祀った。その宿禰の称号は、このとき初めて起こった。
	同じく四世の子孫・大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)。穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖
	で、出石心命の子である。弟に、大矢口宿禰命(おおやくちのすくね)。この命は、盧戸宮(いおどみや)で天下を治めた天皇
	の御世に、共に宿禰となって、大神を祀った。坂戸(さかと)の由良都姫(ゆらつひめ)を妻として、四人の子を生んだ。

	五世孫・欝色雄命(うつしこおのみこと)。この命は、軽境原宮(かるのさかいばらみや)で天下を治め天皇の御世に、授かっ
	て大臣となり、大神を祀った。活馬(いこま)の長砂彦(ながさひこ)の妹の芹田真若姫(せりたのまわかひめ)を妻として、一
	人の子を生んだ。妹に、欝色謎命(うつしこめのみこと)。この命は、軽境原宮で天下を治めた天皇に、立って皇后となり、
	三人の皇子を生んだ。すなわち、大彦命(おおひこのみこと)、つぎに春日宮(かすがみや)で天下を治めた天皇、つぎに倭迹
	迹姫命(やまととひめのみこと)がこれである。春日宮で天下を治めた天皇は、皇后を尊んで皇太后とし、磯城瑞籬宮(しき
	のみずがきみや)で天下を治めた天皇は、皇太后を尊んで太皇大后とした。弟に、大綜杵命(おおへそきのみこと)。この命
	は、軽境原宮で天下を治めた天皇の御世に大禰となり、春日率川宮で天下を治めた天皇の御世に大臣となった。そうして欝
	色謎皇后と大綜杵大臣は、大神を祀った。大綜杵命は高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ)と妻として、二人の子を生んだ。
	弟に、大峯大尼命(おおみねのおおねのみこと)。この命は、春日宮で天下を治めた天皇の御世に、大尼となった。その大尼
	が仕える起源は、このとき初めて起こった。

	六世孫・武建大尼命(たけたつおおねのみこと)。欝色雄大臣の子である。この命は、大峯大尼命と同じく春日宮で天下を治
	めた天皇の御世に、大尼となって仕えた。同じく六世の子孫・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。大綜杵大臣の子である。
	この命は、軽境原宮で天下を治めた天皇の御世に、立って皇妃となり、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生ん
	だ。軽境原宮で天下を治めた天皇が崩じた後、春日宮で天下を治めた天皇は庶母の伊香色謎命を立てて皇后とし、皇子を生
	んだ。すなわち、磯城瑞籬宮で天下を治めた天皇である。磯城瑞籬宮で天下を治めた天皇は、伊香色謎命を尊んで皇太后と
	した。纏向に天下を治めた天皇の御世に追号して、太皇大后を贈った。弟に、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)。この命
	は、春日宮で天下を治めた天皇の御世に、大臣となった。磯城瑞籬宮で天下を治めた天皇の御世、この大臣に詔して、神に
	捧げる物を分かたせ、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定めて、物部が作った神祭りの供物で八十万の神々を祀
	った。このとき、布都大神(ふつのおおかみ)の社を、大倭国山辺郡石上邑に大神を遷して建てた。すなわち、天の祖神が饒
	速日尊に授けた天璽瑞宝も、同じく共に収めて、石上大神と奏上した。これをもって、国家のために、また物部氏の氏神と
	して、石上大神を崇め祀り、鎮祭(しずめまつり)とした。皇后の弟・伊香色雄命は大神の臣として、石上神宮を祀った。
	山代県主(やましろのあがたぬし)の祖・長溝(ながみぞ)の娘の真木姫(まきひめ)を妻として、二人の子を生んだ。また、山
	代県主の祖・長溝の娘の荒姫(あらひめ)と、その妹の玉手姫(たまてひめ)を共に妾として、それぞれ二男を生んだ。また、
	倭志紀彦の娘の真鳥姫を妾として、一男を生んだ。

	七世孫・建胆心大禰命(たけいこころのおおねのみこと)。この命は、磯城瑞籬宮で天下を治めた天皇の御世に、はじめて大
	禰となり仕えた。弟に、多弁宿禰命(たべのすくねのみこと)。【宇治部連(うじべのむらじ)、交野連(かたののむらじ)らの
	祖である。】この命は、同じ天皇の御世に宿禰となって仕えた。弟に、安毛建美命(やすけたけみのみこと)。六人部連(む
	とりべのむらじ)らの祖である。この命は、同じ天皇の御世に侍臣となって仕えた。弟に、大新河命(おおにいかわのみこと)。
	この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治めた天皇の御世、はじめに大臣となり、ついで物部連公(ものの
	べのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮を祀った。大連の称号は、このとき初めて起こった。
	紀伊の荒川戸俾(あらかわとべ)の娘の、中日女(なかひめ)を妻として、四男を生んだ。弟に、十市根命(とおちねのみこと)。
	この命は、纏向珠城宮で天下を治めた天皇の御世に、物部連公の姓を賜った。はじめに五大夫の一人となり、ついで大連と
	なって、神宮を祀った。この物部十市根大連に詔して、「たびたび使者を出雲国に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、
	はっきりとした報告をする者がいない。お前が自ら出雲に行って、調べて来い。」といった。そこで十市根大連は、神宝を
	よく調べてはっきりと報告した。このため、神宝のことを掌らされた。
	同じ天皇の御世に、五十瓊敷入彦皇子(いにしきいりひこのみこ)は、河内国の幸(さい)の河上宮(かわかみみや)で、剣一千
	口を作らせた。これを名づけて、赤花乃伴(あかはなのとも)といい、または裸伴(あかはだかのとも)の剣という。現在は収
	めて、石上神宮にある神宝である。この後、五十瓊敷入彦皇子に詔して、石上神宮の神宝を掌らせた。同じ天皇の御世の八
	十七年、五十瓊敷入彦皇子は、妹の大中姫命(おおなかひめのみこと)に語って、「私は年をとったから、神宝を掌ることが
	できない。これからはお前がやりなさい」といった。大中姫命は辞退して、「私はかよわい女です。どうしてよく神宝を収
	める高い神庫に登れましょうか」といった。五十瓊敷入彦命は、「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、
	庫に登るのが難しいことはない」といった。ことわざにもいう「天の神庫は樹梯(はしだて)のままに」というのは、このこ
	とがもとになっている。その後、大中姫命は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝を掌
	るのは、これがその起源である。十市根命は、物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじのきみ)の娘の時姫を妻と
	して、五男を生んだ。弟に、建新川命(たけにいかわのみこと)。【倭の志紀県主(しきのあがたぬし)らの祖である。】
	弟に、大燈z命(おおめふのみこと)。【若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの祖である。】この命は、同じ天皇の御世、共に侍
	臣となって仕えた。

	八世孫・物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじのきみ)。新河大連(にいかわのおおむらじ)の子である。磯城瑞
	籬宮(しきのみずがきのみや)で天下を治めた天皇の治世六十年、天皇は群臣に詔して「武日照命(たけひなでりのみこと)が
	天から持ってきた神宝が、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」といわれた。そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)
	の遠祖の武諸隅命を遣わせて、はっきりと調査させて復命させた。武諸隅命は大連となって、石上神宮を祀った。物部胆咋
	宿禰(もののべのいくいのすくね)の娘の清姫(きよひめ)を妻として、一男を生んだ。弟に、物部大小市連公(もののべのお
	おこいちのむらじのきみ)。【小市直(おちのあたい)の祖である。】弟に、物部大小木連公(もののべのおおこきのむらじの
	きみ)。【佐夜部直(さやべのあたい)、久奴直(くどのあたい)らの祖である。】弟に、物部大諸隅連公(もののべのおおもろ
	ずみのむらじのきみ)。【矢集連(やつめのむらじ)らの祖である。】以上の三人の連公は、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほ
	のみや)で天下を治めた天皇の御世に、共に侍臣となって仕えた。
	同じく八世孫・物部胆咋宿禰(もののべのいくいのすくね)。十市根大連(とおちねのおおむらじ)の子である。この宿禰は、
	志賀高穴穂宮で天下を治めた天皇の御世に、はじめて大臣となり、神宮を祀った。その宿禰の官号は、このときはじめて起
	こった。市師宿禰(いちしのすくね)の祖の穴太足尼(あなほのすくね)の娘・比東テ命(ひめこのみこと)を妻として、三人の
	子を生んだ。また、阿努(あと)の建部君(たけべのきみ)の祖の太玉(ふとたま)の娘・鴨姫(かもひめ)を妾として、一人の子
	を生んだ。また、三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)の美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫(いさひめ)を妾とし
	て、一人の子を生んだ。また、宇太(うだ)の笠間連(かさまのむらじ)の祖の大幹命(おおとものみこと)の娘・止己呂姫(と
	ころひめ)を妾として、一人の子を生んだ。弟に、物部止志奈連公(もののべのとしなのむらじのきみ)。杭田連(くいだのむ
	らじ)らの祖である。弟に、物部片堅石連公(もののべのかたがたしのむらじのきみ)。駿河国造(するがのくにのみやつこ)
	らの祖である。弟に、物部印岐美連公(もののべのいきみのむらじのきみ)。志紀県主(しきのあがたぬし)、遠江国造(とお
	つうみのくにのみやつこ)、久努直(くぬのあたい)、佐夜直(さやのあたい)らの祖である。弟に、物部金弓連公(もののべの
	かなゆみのむらじのきみ)。田井連(たいのむらじ)、佐比連(さひのむらじ)らの祖である。以上の四人の連公は、同じく志
	賀高穴穂宮で天下を治めた天皇の御世に、共に侍臣となって仕えた。

	九世孫・物部多遅麻連公(もののべのたじまのむらじのきみ)。武諸隅大連の子である。この連公は、纏向日代宮(まきむく
	のひしろのみや)で天下を治めた天皇の御世に、授かって大連となり、神宮を祀った。物部五十琴彦連公(もののべのいこと
	ひこのむらじのきみ)の娘の安媛(やすひめ)を妻として、五人の子を生んだ。物部五十琴宿禰連公(もののべのいことのすく
	ねのむらじのきみ)。胆咋宿禰の子である。この連公は、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)で天下を治めた神功皇后
	の摂政の御世の、はじめ大連となり、ついで宿禰となって、神宮を祀った。物部多遅麻大連の娘の香児媛(かこひめ)を妻と
	して、三人の子を生んだ。妹に、物部五十琴姫連公(もののべのいことひめのむらじのきみ)。この命は、纏向日代宮で天下
	を治めた天皇の御世、立って皇妃となり、一人の子を生んだ。すなわち、五十功彦命(いごとひこのみこと)である。弟に、
	物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじのきみ)。この連公は、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじのきみ)
	の娘の弟媛(おとひめ)を妻として、二人の子を生んだ。弟に、物部竺志連公(もののべのちくしのむらじのきみ)。奄智蘊連
	【あんちのかつらのむらじ)らの祖である。】弟に、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじのきみ)。【藤原恒見君(ふじ
	わらのつねみのきみ)、長田川合君(おさだのかわいのきみ)、三川蘊連(みかわのかつらのむらじ)らの祖である。】
	弟に、物部椋垣連公(もののべのくらがきのむらじのきみ)。【磯城蘊連(しきのかつらのむらじ)、比尼蘊連(ひねのかつら
	のむらじ)らの祖である。】以上の三人は、同じく纏向日代宮で天下を治めた天皇の御世に、共に侍臣となって仕えた。

	十世孫・物部印葉連公(もののべのいにはのむらじのきみ)。多遅麻大連の子である。この連公は、軽嶋豊明宮(かるしまの
	とよあかりのみや)で天下を治めた天皇の御世、授かって大連となり、神宮を祀った。姉に、物部山無媛連公(もののべのや
	まなしひめのむらじのきみ)。この連公は、軽嶋豊明宮で天下を治めた天皇に、立って皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子
	(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めどりのみこ)を生んだ。その矢田皇女は、難波高
	津宮(なにわのたかつのみや)で天下を治めた天皇に、立って皇后となった。弟に、物部伊與連公(もののべのいよのむらじ
	のきみ)。弟に、物部小神連公(もののべのおかみのむらじのきみ)。以上の二人は、同じ難波高津宮の天皇の御世、共に侍
	臣となって仕えた。弟に、物部大別連公(もののべのおおわけのむらじのきみ)。この連は、難波高津宮で天下を治めた天皇
	の御世に、詔をうけて侍臣となり、神宮を祀った。軽嶋豊明宮で天下を治めた天皇の太子である莵道稚郎子の同母妹、矢田
	皇女は、難波高津宮で天下を治めた天皇に立って皇后となったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔
	して、御子代を設けさせた。皇后の名を氏とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公(やたべのむらじのきみ)の姓を
	賜わった。
	同じく十世孫・物部伊コ弗連公(もののべのいこふつのむらじのきみ)。五十琴宿禰の子である。この連公は、稚桜宮(わか
	さくらのみや)と柴垣宮(しばがきのみや)の天皇の御世に大連となって、神宮を祀った。倭国造(やまとのくにのみやつこ)
	の祖の比香賀君(ひかがのきみ)の娘の玉彦媛(たまひこひめ)を妻として、二人の子を生んだ。また、姪の岡陋媛(おかやひ
	め)を妾として、二人の子を生んだ。弟に、物部麦入宿禰連公(もののべのむぎりのむらじのきみ)。この連公は、遠飛鳥宮
	(とおつあすかのみや)で天下を治めた天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿禰となって、神宮を祀った。物部目古連
	公(もののべのめこのむらじのきみ)の娘の全能媛(またのひめ)を妻として、四人の子を生んだ。弟に、物部石持連公(もの
	のべのいわもちのむらじのきみ)。佐為連(さいのむらじ)らの祖である。
	同じく十世孫・物部目古連公(もののべのめこのむらじのきみ)。田井連(たいのむらじ)らの祖で、五十琴彦の子である。弟
	に、物部牧古連公(もののべのまきこのむらじのきみ)。佐比佐連(さひさのむらじ)らの祖である。

	十一世孫・物部真椋連公(もののべのまくらのむらじのきみ)。【巫部連(かんなぎべのむらじ)、文島連(ふみしまのむらじ)、
	須佐連(すさのむらじ)らの祖で、伊コ弗宿禰の子である。】弟に、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじのきみ)。
	この連公は、大長谷朝(おおはつせのみかど)の御世に大連となり、神宮に仕えた。依羅連柴垣(よさみのむらじしばがき)の
	娘の太姫(ふとひめ)を妻として、一人の子を生んだ。弟に、物部目大連公(もののべのめのおおむらじのきみ)。この連公は、
	磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弟に、物部鍛治師連公
	(もののべのかじしのむらじのきみ)。鏡作(かがみつくり)小軽馬連(おかるめのむらじ)らの祖である。弟に、物部竺志連公
	(もののべのつくしのむらじのきみ)。新家連(にいえのむらじ)らの祖である。
	同じく十一世孫・物部大前宿禰連公(もののべのおおまえすくねのむらじのきみ)。[氷連(ひのむらじ)らの祖です]麦入宿禰
	の子である。この連公は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で天下を治めた天皇の御世に、はじめ大連となり、つい
	で宿禰となって、神宮を祀った。弟に、物部小前宿禰連公(もののべのおまえのむらじのきみ)。【田部連((べのむらじ)ら
	の祖である。】この連公は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で天下を治めた天皇の御世に、はじめ大連となり、
	ついで大宿禰となって、神宮を祀った。弟に、物部御辞連公(もののべのみことのむらじのきみ)。【佐為連(さいのむらじ)
	らの祖である。】弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじのきみ)。【刑部垣連(おさかべのかきのむらじ)、刑部
	造(おさかべのみやつこ)らの祖である。】

	十二世孫・物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじのきみ)。布都久留大連の子である。この連公は、石上広高宮(いそ
	のかみのひろたかのみや)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。御大君(みおおのきみ)の祖の娘の
	里媛(さとひめ)を妻として、二人の子を生んだ。弟に、物部小事連公(もののべのおごとのむらじのきみ)。【志陀連(しだ
	のむらじ)、柴垣連(しばがきのむらじ)、田井連(たいのむらじ)らの祖である。】弟に、物部多波連公(もののべのたはのむ
	らじのきみ)。【依網連(よさみのむらじ)らの祖である。】
	同じく十二世孫・物部荒山連公(もののべのあらやまのむらじのきみ)。【目大連の子である。】この連公は、桧前盧入宮
	(ひのくまのいおよりのみや)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弟に、物部麻作連公(もののべ
	のまさのむらじのきみ)。【借馬連(かるまのむらじ)、笑原連(やはらのむらじ)らの祖である。】

	十三世孫・物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじのきみ)。荒山大連の子である。この連公は、磯城嶋金刺宮(しきしま
	のかなさしのみや)で天下を治めら天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弓削連(ゆげのむらじ)の祖の倭古連(やま
	とこのむらじ)の娘の阿佐姫(あさひめ)と加波流姫(かはるひめ)を妻として、それぞれ姉は四人の子を生み、妹は二人の子
	を生んだ。弟に、物部奈洗連公(もののべのなせのむらじのきみ)。
	同じく十三世孫・物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじのきみ)。木蓮子大連の子である。この連公は、泊瀬列城宮
	(はつせのなみきのみや)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。須羽直(すはのあたい)の娘の妹古
	(いもこ)を妻として、二人の子を生んだ。弟に、物部目連公(もののべのめのむらじのきみ)。この連公は、継体天皇の御世
	に、大連となって、神宮を祀った。弟に、物部長目連公(もののべのおさめのむらじのきみ)。【軽馬連(かるまのむらじ)ら
	の祖である。】弟に、物部金連公(もののべのかねのむらじのきみ)。【借馬連(かるまのむらじ)、野馬連(ぬまのむらじ)ら
	の祖である。】弟に、物部呉足尼連公(もののべのくれのすくねのむらじのきみ)。【依羅連らの祖である。】この連公は、
	磯城嶋宮で天下を治めた天皇の御世に、宿禰となった。弟に、物部建彦連公(もののべのたけひこのむらじのきみ)。【高橋
	連(たかはしのむらじ)、立野連(たちののむらじ)、都刀連(つとのむらじ)、横広連(よこひろのむらじ)、勇井連(ゆいのむ
	らじ)、伊勢荒比田連(いせのあらひたのむらじ)、小田連(おだのむらじ)らの祖である。】

	十四世孫・物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじのきみ)。尾輿大連の子である。この連公は、譯語田宮
	(おさだのみや)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弟の贄古大連(にえこのおおむらじ)の娘の宮
	古郎女(みやこのいらつめ)を妻として、二人の子を生んだ。弟に、物部守屋大連(もののべのもりやのおおむらじ)。または
	弓削大連(ゆげのおおむらじ)という。この連公は、池辺雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)で天下を治めた天皇の御世に、
	大連となって、神宮を祀った。弟に、物部今木金弓若子連公(もののべのいまきかなゆみのわかこのむらじのきみ)。今木連
	(いまきのむらじ)らの祖である。妹に、物部連公(もののべのむらじのきみ)布都姫夫人(ふつひめのおおとじ)。字は御井夫
	人(みいのおおとじ)、または石上夫人(いそのかみのおおとじ)という。倉梯宮(くらはしのみや)で天下を治めた天皇の御世
	に、立って夫人となった。また、朝政に参与して、神宮を祀った。弟に、物部石上贄古連公(もののべのいそのかみのにえ
	このむらじのきみ)。この連公は、異母妹の御井夫人を妻として、四人の子を生んだ。小治田豊浦宮(おはりだのとゆらのみ
	や)で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弟に、物部麻伊古連公(もののべのまいこのむらじのきみ)。
	屋形連(やかたのむらじ)らの祖である。弟に、物部多和髪連公(もののべのたわかみのむらじのきみ)。
	同じく十四世孫・物部麁鹿火連公(もののべのあらかひのむらじのきみ)。麻佐良大連の子である。この連公は、勾金橋宮
	(まがりのかなはしのみや)で天下を治められた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。弟に、物部押甲連公(ものの
	べのおしこうのむらじのきみ)。この連公は、檜前盧入宮で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。
	弟に、物部老古連公(もののべのおきなこのむらじのきみ)。【神野入州連(かみぬいりすのむらじ)らの祖である。】同じく
	十四世孫に、物部金連公(もののべのかねのむらじのきみ)。【野間連(ぬまのむらじ)、借馬連らの祖で、目大連である。】
	弟に、物部三楯連公(もののべのみたてのむらじのきみ)。【鳥部連(とりべのむらじ)らの祖である。】弟に、物部臣竹連公
	(もののべのおみたけのむらじのきみ)。【肩野連(かたののむらじ)、宇遅部連(うじべのむらじ)らの祖である。】弟に、物
	部倭古連公(もののべのやまとこのむらじのきみ)。【流羅田部連(ならたべのむらじ)らの祖である。】弟に、物部鹽古連公
	(もののべのしおこのむらじのきみ)。【葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖である。】弟に、物部金古連公(も
	ののべのかねこのむらじのきみ)。【三島韓国連(みしまのからくにのむらじ)らの祖である。】弟に、物部阿遅古連公(もの
	のべのあじこのむらじのきみ)。【水間君(みぬまのきみ)らの祖である。】

	十五世孫・物部大人連公(もののべのうしのむらじのきみ)。【御狩大連の子である。】この連公は、物部雄君連公(ものの
	べのおきみのむらじのきみ)の娘の有利媛(ありひめ)を妻として、一人の子を生んだ。弟に、物部目連公。【大貞連(おおさ
	だのむらじ)らの祖である。】この連公は、磯城嶋宮で天下を治めた天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。
	同じく十五世孫に、内大紫冠位・物部雄君連公(もののべのおきみのむらじのきみ)。守屋大連の子である。この連公は、飛
	鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で天下を治めた天皇の御世に、物部氏の氏上を名のることを許され、内の大紫冠の
	位を賜って、神宮を祀った。物部目大連の娘の豊媛(とよひめ)を妻として、二人の子を生んだ。同じく十五世孫・物部鎌束
	連公(もののべのかまつかのむらじのきみ)。贄古大連の子である。弟に、物部長兄若子連公(もののべのながえのわかこの
	むらじのきみ)。弟に、物部大吉若子連公(もののべのおおよしのわかこのむらじのきみ)。妹に、物部鎌姫大刀自連公(もの
	のべのかまひめのおおとじのむらじのきみ)。この連公は、小治田豊浦宮で天下を治めた天皇の御世に、参政となって、神
	宮を祀った。宗我嶋大臣(そがのしまのおおみ)の妻となって、豊浦大臣(とゆらのおおみ)を生んだ。豊浦大臣の名を、入鹿
	連公(いるかのむらじのきみ)という。
	同じく十五世孫・物部石弓連公(もののべのいわゆみのむらじのきみ)。今木連らの祖で、麁鹿火大連の子である。弟に、物
	部毛等若子連公(もののべのもとのわかこのむらじのきみ)。屋形連(やかたのむらじのきみ)らの祖である。
	同じく十五世孫・物部奈西連公(もののべのなせのむらじのきみ)。葛野連らの祖で、押甲大連の子である。同じく十五世孫
	・物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじのきみ)。麻伊古大連の子である。この連公は、小治田豊浦宮で天下を治めた
	天皇の御世に、大連となって、神宮を祀った。

	十六世孫・物部耳連公(もののべのみみのむらじのきみ)。今木連らの祖で、大人連公の子である。同じく十六世孫・物部忍
	勝連公(もののべのおしかつのむらじのきみ)。雄君連公の子である。弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじの
	きみ)。今木連らの祖である。同じく十六世孫・物部馬古連公(もののべのうまこのむらじのきみ)。目大連の子である。
	この連公は難波朝(なにはのみかど)の御世に、大華上の位と氏のしるしの大刀を授かり、食封千烟を賜って、神宮をお祀り
	した。同じく十六世孫・物部荒猪連公(もののべのあらいのむらじのきみ)。榎井臣(えのいのおみ)らの祖で、恵佐古大連の
	子である。この連公は、同じ難波朝の御世に、大華上の位を賜った。弟に、物部弓梓連公(もののべのあづさのむらじのき
	み)。榎井臣らの祖である。弟に、物部加佐夫連公(もののべのかさふのむらじのきみ)。榎井臣らの祖である。弟に、物部
	多都彦連公(もののべのたつひこのむらじのきみ)。榎井臣らの祖である。この連公は、淡海朝(おうみのみかど)の御世に、
	大連となって、神宮をお祀りした。

	十七世孫・物部連公(もののべのむらじのきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。この連公は、浄御原朝の御世に天下のた
	くさんの姓を八色に改めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)を姓として賜わった。また、同じ御世に改め
	て、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜わった。






	15.石上神宮(いそのかみじんぐう)
 
写真は、昔よく山へ一緒に登っていた、私のマドンナ乾(いぬい)さん。小学校の美術の先生だった。今どうしてるだろう。


	祭神は布都御魂大神(ふつのみたまおおみかみ)で、併祀として布留御魂(ふるみたま)大神・布都斯魂(ふつしみた
	ま)大神・五十瓊敷命(いにしきのみこと)・宇摩志麻治(うましまじ)命・白河天皇・市川臣命を祀る。
	由緒によれば、
	「神武天皇即位元年、宮中に奉祀せられ、崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀られる。祭神・布
	都御魂大神は、またの名を甕布都神、佐士布都神ともいい、国平定の神剣、布都御魂(霊)である。神代の昔、天孫降
	臨に際し、経津主、武甕槌の二神と共に、国土鎮定の大業を成就し、更に神武天皇御東征のみぎり、熊野において御遭
	難の折、天つ神の勅により、再び天降り給い、邪神賊徒を平げ建国の基礎を定めた。神武天皇は即位の後その功績を称
	えて、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じ、永く宮中に奉斎せしめ給うた。」となっている。
	以後物部氏が歴代武器庫管理の任務につき、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治した天羽斬剣(あめのはばきりのつるぎ)も祀
	られ、我が国の霊剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を除き本宮に祀られることになった。ついで五十瓊敷命が剣一千口
	を作り神庫(ほくら)に納め、さらに丹波国桑田村の人甕襲(みかそ)が八尺瓊(やさかにの)勾玉を献じ(「日本書
	記」垂仁天皇87年の条)「釈日本紀」によれば、天日槍(あめのひぼこ)の所来の神宝も納められ、古代史上独特の
	地位をしめている。
	崇神天皇7年に、物部の祖伊香色雄命(いかしこおのみこと)が大臣の職にあった時、勅により現地、石上布留の高庭
	に、天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)を定めて八百万神を祀って、布都御魂神と共にこの地に奉祀し、
	「石上大神」と称して建立したのがこの宮の創生である。爾来、歴代朝廷の崇敬厚く、多くの武器を奉って儀仗に備え、
	物部連に配して、武臣大伴・佐伯等の諸族をして祭祀にあたらせ、天皇も頻繁に行幸し国家鎮定を祈った。

	配祀神・布留御魂大神は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊威にます。瑞宝十種は、謂ゆる瀛津鏡一つ、辺津鏡一つ、八
	握劔一つ、生玉一つ、足玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つ、にして神代の昔
	饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって、「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十と謂い
	て、布瑠部由良由良止布瑠部。此く為さば、死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。

	宇摩志麻治命は饒速日命の御子、当宮祭主の祖神である。父饒速日命は天孫瓊瓊杵尊の兄であり、天照大神より天璽瑞
	宝十種を受け、河内国哮峰に天降り、その後大和の鳥見の白庭山に移り、長髄彦の妹三炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を
	生んだ。宇摩志麻治命は父の薨後、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめたが神武天皇の大和御入国に際
	し、天皇を迎えて忠誠を尽した。
	先代旧事本紀は、この物部氏の由緒とその正統性、さらに、石上神宮が物部氏の管掌するところである根拠を述べたも
	のであろう。物部の遠祖に饒速日命や宇麻志麻治命の名が見えるのは、氏族が発展・連合して行く過程で、その象徴と
	して共通の祖神が構想されていく。特に物部は連合体の色彩の強い氏族であったとみえて、多くの祖神が派生している。
	物部はまたもののふであり、武士である。後世、刀を武士の魂と称したが、武器こそ最高の守護神であり、この神社の
	祭神である、布都御魂、布留御魂、布都斯魂、宇麻志麻治命、五十瓊敷命は、そもそも全て剣であったと思われる。 





	16.先代旧事本紀巻第七・天皇本紀  <神武天皇>

	彦波瀲武鵜草不葺合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。諱(いみな)は神日本磐余彦天皇(かむや
	まといわれひこのすめらみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。年少(わかか)ったときは狭野尊(さ
	ぬのみこと)といった。母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神の下の娘である。天皇は、生まれながらに賢く、気性がしっ
	かりしていた。十五歳で皇太子となった。成長して日向国吾田邑の吾平津媛(あびらつひめ)を娶り妃として、手研耳命(たぎ
	しみみのみこと)を生んだ。太歳甲寅年の冬十二月の丁巳朔辛酉の日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立ち、舟軍で
	東征した。詳細は皇孫本紀にある。

	己未年の春二月の辛卯朔庚辰の日に、道臣命(みちのおみのみこと)は、兵卒を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。
	戊午の日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、兵卒を率いて天下を平定し
	た様子を奏上した。
	三月の辛酉朔丁卯の日、天皇は、令(のり)をくだしていった。「東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒
	は殺された。しかし、周辺の地はまだ治まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ州の地は騒ぐものもない。皇都を
	ひらきひろめて御殿を造ろう。しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に
	住んだりして、未開のならわしが変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。人民の利益となる
	ならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、人
	民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その
	後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝
	傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中である」
	庚辰の日に、役人に命じて都造りに着手した。そこで、天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみ
	こと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて
	山の原材を伐り、正殿を造営した。これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原の千
	木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日である。このため、皇孫のみことのおめ
	でたい御殿を造り、仕えているのである。この手置帆負・彦狭知の末裔の忌部がいるところは、紀伊国の御木(みき)郷と麁
	香(あらか)郷の二郷である。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、皇居の御殿を造る忌部のいるところ
	を麁香という。これが、その由来である。古い語では、御殿(みあらか)のことを麁香という。

	庚申年の秋八月癸丑朔戊辰の日、天皇は正妃を立てようと思われた。改めて、広く貴族の娘を探した。ときに、ある人が奏
	して、「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝杭耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)と結
	婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)といいます。この人は容色すぐれた人
	です」と申し上げた。これを聞いた天皇は喜ばれた。九月の壬午朔乙巳の日、媛蹈鞴五十鈴媛命を召して、正妃とした。
	辛酉を元年とし、春正月の庚辰朔の日に、橿原宮に都をつくり、はじめて皇位についた。正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命を尊んで、
	皇后とした。皇后は大三輪の大神の娘である。宇摩志麻治命は天の瑞宝をたてまつり、神盾をたてて斎き祀った。また、新
	木とたくさんの楯を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に崇め祀った。そして十種の天
	璽瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼(すくね)といわれた。足尼の号は、このときから始まった。
	天富命は、諸々の忌部を率いて天神のしるしの鏡と剣を捧げ、正安殿に安置した。天種子命(あまのたねこのみこと)は、天
	神の寿詞(よごと)を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。宇摩志麻治命は内物部(うちのもののべ)を率
	いて、矛・盾をたてて厳かでいかめしい様子をつくりだした。道臣命は来目部(くめべ)を率いて、宮門の護衛し、その開け
	閉てを司った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さを伝え、天下の民を従わせることで朝廷が重要であると示した。
	このとき諸皇子と大夫は、郡官・臣・連・伴造・国造らを率いて、年のはじめの朝拝をした。現在まで続く、即位・賀正・
	建都・践祚などの儀式は、みなこのときから始まったのである。
	また、このとき高皇産霊尊と天照太神の二柱の祖神の詔に従って、神座として神籬(ひもろぎ)を立てた。高皇産霊神(たか
	みむすびのかみ)、神皇産霊(かみむすび)、魂留産霊(たまるむすび)、生産霊(いくむすび)、足産霊(たるむすび)、大宮売
	神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)の神々は、いま御巫が祀っている。櫛磐間
	戸神(くしいわまどのかみ)、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)の神々は、共にいま御門の御巫が祀っている。生島(いくし
	ま)の神は大八洲(おおやしま)の御魂で、いま生島の御巫が祀っている。坐摩(いかすり)の神は大宮の立つ地の御魂で、い
	ま坐摩の御巫が祀っている。
	また、天富命は斎部(いんべ)の諸氏を率いて、諸々の神宝の鏡・魂・矛・楯・木綿・麻などを作った。櫛明玉命(くしあか
	るだまのみこと)の子孫は、御祈玉(みほぎたま)を作った。古語に美保伎玉(みほきたま)という。ミホキは祈祷を指す。
	天日鷲命の子孫は、木綿と麻、織布をつくった。古語では荒妙(あらたえ)という。また、天富命は天日鷲命の子孫を率いて、
	肥えた土地にそれぞれ遣わし、穀物や麻を栽培させた。また、天富命はさらに肥えた土地を探して、良い麻や綿を分かち植
	えた。このように、永く麻を大嘗祭に奉るようになった。また、天富命は安房の地に太玉命を祀る神社を立てた。安房社と
	いうのがこれである。
	手置帆負命の子孫は、矛竿を作った。いま、讃岐から永くたくさんの矛が奉られるのは、これがその由来である。天児屋命
	の孫の天種子命は、天つ罪・国つ罪を祓い清めた。日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、宮門を守り、その開け閉
	てを掌った。饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命は、内物部を率いて、矛・楯を作り備えた。天富命は、諸
	々の忌部を率いて、天神のしるしの鏡・剣を捧げ、正殿に安置した。さらに玉をかけ、幣物を並べて大殿で祭りを行った。
	次に、宮門で祭りをした。また天富命は、幣物を並べて祝詞をとなえて皇祖の天神を祀り、国つ神たちを祀って、天神地祇
	の恵みに応えた。また、中臣氏と忌部氏の二氏に命じて、ともに祭祀の儀式を掌らせた。また、猿女君に命じて、神楽をも
	って仕えさせた。
	そのほかの諸氏の先祖にも、それぞれの職がある。
	この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた。そのため、
	神の宝と天皇の物は、いまだ分けられていなかった。そこで、宮の中に神宝を収める倉を建てて斎蔵と名づけ、斎部氏に命
	じて永くその管理の職に任じた。
	十一月朔庚寅の日、宇摩志麻治命は、宮中に天璽瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たること
	を祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。およそ天璽瑞宝とは、宇摩志麻治命の亡父・饒速日尊が天神から授けられ
	て来た天神のしるしの十種の瑞宝のことである。十種の瑞宝とは、

	瀛津鏡(おきつかがみ)ひとつ、
	辺都鏡(へつかがみ)ひとつ、
	八握剣(やつかのつるぎ)ひとつ、
	生玉(いくたま)ひとつ、
	足玉(たるたま)ひとつ、
	死反玉(まかるがえしのたま)ひとつ、
	道反玉(ちがえしのたま)ひとつ、
	蛇比礼(へびのひれ)ひとつ、
	蜂比礼(はちのひれ)ひとつ、
	品物比礼(くさぐさのもののひれ)ひとつ、のことである。

	天神は饒速日尊に教えて、「もし痛むところがあれば、この十種の神宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十とい
	ってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせなさい。このようにするならば、死んだ人でも生き返るであろう」といった。こ
	れが「布留(ふる)の言(こと)」の起源である。鎮魂祭はこれがその由来である。その鎮魂祭のときには、猿女君たちは、た
	くさんの歌女を率いてこの布留の言を唱え、神楽を歌い舞う。これがそのいわれである。
	二年の春二月の甲辰朔乙巳の日、天皇は、論功行賞を行った。
	宇摩志麻治命に詔して、
	「お前の勲功は思えば大いなる手柄である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに布都御魂の剣を授けて類いな
	い勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、
	必ずこの職を継ぎ、永遠に鏡とするように」といった。そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたの
	みこと)は共に授けられて、政治を行う大夫になった。この政治を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。
	天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の先祖である。
	道臣命に詔して、
	「お前は忠勇の士で、またよく導いた手柄がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、
	大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、逆語(さかしまごと)をもって、わざわ
	いを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」といった。その逆語の用いら
	れるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの先祖である。また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住
	ませて、特に寵愛した。また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれであ
	る。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖という。
	椎根津彦(しいねつひこ)に詔していった。
	「お前は天皇の船を迎えて導いき、また、功績を天香山の山頂に現した。よって、誉めて倭国造(やまとのくにのみやつこ)
	とする」大和の国造は、このときから始まった。これが大倭連らの先祖である。
	弟磯城(おとしき)・黒速(くろはや)に詔していった。
	「お前は逆賊の長の兄磯城(えしき)のくわだてを告げた勇気があった。よって、子孫を磯城県主(しきのあがたぬし)とする」
	頭八咫烏(やたがらす)に詔していった。
	「お前は皇軍を導いた手柄がある。よって、賞の内に入る」頭八咫烏の子孫は、葛野県主(かどののあがたぬし)らである。

	四年の春二月壬戌朔甲申の日、天皇は正殿で詔した。「わが皇祖の霊が、天から威光を降してわが身を助けてくださった。
	いま、多くの敵はすべて平らげて、天下は何ごともない。そこで、天神をお祀りし、大孝を申し上げたい」そこで、神々の
	祀りの場を、鳥見山(とみやま)の中に設けて、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつおの)の榛原と
	いった。そして、皇祖の天神を祀った。
	ときに、天皇の巡幸があった。腋上(わきかみ)の頬間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望んで見て言った。「なんと素
	晴らしい国を得たことか。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)が交尾(となめ)しているように、山々が連なっている国
	だ」これによって、はじめて秋津州(あきつしま)の名ができた。
	昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけていった。「日本は心安らぐ国、よい武器がたくさんある国、優れてい
	て整った国」また、大己貴(おおなむち)の大神は名づけていった。「玉垣の内つ国」。また、饒速日命は、天の磐船に乗っ
	て大空を飛びめぐり、この国を見て降ったので、名づけて「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」といった。
	四十二年の春正月壬子朔甲寅の日、皇子・神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とし。七十六年の春三
	月甲午朔甲辰の日、天皇は、橿原宮で崩御した。このとき、年百二十七歳だった。翌年秋九月乙卯朔丙寅の日、畝傍山の東
	北の陵に葬った。
	神武天皇には、四人の皇子がいた。手研耳命。子孫はいない。次に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)。意保臣(おおの
	おみ)、島田臣(しまだのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)らの先祖である。次に、神渟名川耳尊。天皇に即位した。
	次に、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)。茨田連(まんだのむらじ)らの先祖である。




	17.先代旧事本紀巻第十・国造本紀 <国造の由来について>



	巻十・国造本紀は、それまでの九巻とは大きく異なっている。それまでのような神話・伝説を全く含まず、大倭(おお
	やまと)以下、全国124の国造(くにのみやっこ)について、その設置時期、初代国造の名前を延々と列記しており、
	膨大な量に及ぶ。古事記・日本書紀では、国造の始祖に関する記事はそれぞれ20ほどであるのに対し、旧事紀の数は
	多く、しかも記紀とその内容が異なっている。たとえば遠江国造(とうとうみくにのみやっこ)の場合、古事記は出雲
	系の「建日良鳥命」(たけひらとりのみこと)をその始祖としているのに対して、旧事紀は物部系の「印岐美命」(い
	きみのみこと)を初代とし、この名前は巻五「天孫本紀」にも出現する。つまり旧事紀は、全編を通じて強く「物部系」
	を主張しているのである。
	定説では、国造本紀は「続日本紀」(しょくにほんぎ)から引用されたとする考えが支配的だが、どうして巻末にこの
	膨大な資料を付与したのかについては定説はない。



	【謝辞】Acknowledgement

	このHPの内容は、その大部分を以下の著作をテキストとして構成しています。先代旧事本紀について、物部氏
	ついて、物部氏と北九州の関係についてもっと知りたいと思われた方には、是非ご一読される事をお薦めします。
	また、安本先生には、ここへの引用・転載を快くご了承頂いて、深く感謝します。

	古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎  
	安本美典著 定価 2940円(本体2800円)勉誠出版(株)2003年6月1日発行
	--------------------------------------------------------------------------------
	内容紹介・解説 『先代旧事本紀』の真実 	はじめて明らかにされた編纂者と成立年代!
	編纂者は明法博士の興原敏久、成立年代は西暦827年〜829年前後だ!  
	--------------------------------------------------------------------------------
	



2008年12月、新宿の淳久堂書店にて安本先生と。「季刊邪馬台国100号記念」ブースの前で。




邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編