邪馬台国大研究 : 資料4
魏志倭人伝訳文(ホームページ製作者訳)
倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。
もともと、百余国に分かれていた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?)
狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。
始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)という。
この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、
道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、 海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州?)にのりだし
交易を行っている。また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。
長官を(対馬と)同じく卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。
少し田畑があるが、これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。
さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、 山際や海岸に沿って
家が建っている。草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所
関係無しに、潜水してこれらを捕らえる。東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。
帯方郡の使者が常駐している所である。
そこから東南の方角へ行くと奴国(今の博多)に至る。距離は百里である。長官をジ馬觚といい、副官を卑奴毋離という。
二万余戸がある。東の方角へ行くと、不弥国に至る。百里である。長官を多模といい、副官を卑奴毋離という。千余戸がある。
南へ行くと、投馬国に至る。水行(一海を渡ると区別している事から、この表現は川を行くものだ、との説がある。)
で二十日かかる。長官を弥弥といい、副官を弥弥那利という。五万余戸ばかりの人口である。
南へ行くと、邪馬台国に到達する。女王の都がある所である、水行十日(と/又はの二説あり。)陸行一月である。
長官を伊支馬といい、次官を弥馬升とい い、次官を弥馬獲支といい、次官を奴佳タイという。七万余戸ばかりの人口である。
女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。
次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴 国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、
次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、
次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。
これが女王の(権力の)尽きる所である。
その南に狗奴国があり(今の熊本か?)、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。
帯方郡より女王国に至るまでは一万二千余里である。男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。
昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜
(こうりゅう:サメの類)の害を避けたと言うが、今倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が大魚・水禽を寄せ付けない
まじないとなっていたが、今では飾りとなってしまっている。国々によって各々入れ墨が異っている。
色々な職種、大人・子供の間で、尊卑の差がある。(倭の)方角・方向を言うならば、ちょうど会稽の東治(とうや)の東にあたる。
その風俗は淫らではない。男子は皆裸同然で、木緜(もめん)を頭にかけ、衣はひもで結んで縛り縫っていない。
婦人は髪を束ね、衣は単被(中国の衣服?)のようで、真ん中の穴をあけ頭から被ってこれを着ている。
禾稲 (かとう:稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)え、蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:絹?)を産出している。
この地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 (カササギ)はいない。兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃
( てつぞく)だったり骨鏃である。
國の様子は、タン耳(たんじ)・朱崖 と同じである。倭の地は温暖、年中生野菜を食べている。皆裸足である。
住居には部屋があり、父母 兄弟、寝室が別である。朱丹をその身体に塗っているのは、中国で粉を(体に)塗るのと同じである。
食事は器を用い手で食べる。人の死は、お棺におさめるが槨(かく)はなく、土に埋めて冢(つか)を作る。人が死ぬと十余日喪に服す、
喪中の間肉を食べず、喪主は哭泣して、他人は歌い舞い踊って飲酒する。
葬った後は、家の者は水中で澡浴(もくよく)し、練沐(れんもく:みそぎ)のようにする。
海を渡って中国に詣でる時は、いつも一人の人間が、頭をとかず、蚤虱をとらず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、
喪中の人のようにする。これを名づけて持衰(じさい)と言う。もし先行きがよければこの者の行いが善であって財物を与える。
もし疾病や暴風雨にでも遭えば、すなわちこれを殺す。その持衰が謹まなかったから、と言うのである。
(この地では)真珠・青玉を生産する。山には丹がある。植物はダン・杼(ちょ) ・予樟(よしょう)・ボウ・櫪・投・橿(きょう)・烏号
(うごう)・楓香がある。竹は篠・カン・桃支がある。薑(きょう)・橘・山椒・茗荷はあるが、食べておいしいのを知らない。大猿・黒雉がいる。
各行事で心配事があれば、 骨を灼いて占いその吉凶を求める。先ず占う事柄を口に出して唱える。そのやり方は令亀の法のようで、
焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。会合の場では父子男女別なし。人々は酒を嗜(たしな)む。
大人を敬う時のやりかたは、柏手をうって踞(うずくま)り拝む。人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である。
大人は皆四人か五人の妻を持ち、下戸も二、三人持っている。婦人は淫行を行わず、嫉妬せず盗みもしないので訴訟は少ない。
法を犯した者は、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族も皆殺してしまう。
高貴な者も一般の者もそれぞれ身分差がある。臣は主に服従している。租税を徴収し、貯蔵庫(邸閣)がある。国々には市が立っている。
色々な物を交易しており、大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方は、
特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させている。諸国では、これを畏れている。常に伊都国にいて統率している。
国中に警備の者達がいる。女王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時、又郡(帯方郡)の使いが倭國を訪問してきた時、
大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて(女王の所へ)届けさせる。
身分が低い者(下戸)が高い人(大人)と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲(うずくま)ったり、あるいは跪(ひざまず)いて、
恭順の意を表す。応対には、噫(あい:はい:おう?)と言う。わかりました、という意味のようである。
この国は元々男性の王がいたが、7〜80年の間に倭国は乱れ、数年間争いを繰り返していた。そこで国々は共同で一女子を王として擁立した。
名づけて卑弥呼という。鬼道(呪術?)にたけており、大衆を幻惑している。(能く衆を惑わす。)齢はとっているか、夫はおらず、
弟がいる。(卑弥呼を)佐(たす)けて国を治めている。王となってからは、その姿を見た者は少なく、婢千人が身の回りの世話をしている。
男が一人いて、(卑弥呼の)給仕をし、言葉を取り次ぐため居処に出入りしている。(ここには)宮室・ 楼観・城柵が設けられていて、
常に警備の者が守っている。女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。
更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。この國は皆身長が三、四尺(90cm〜120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。
またその東南に裸国・黒歯国があるが、船行一 年で到達する。
倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千余里程である。
景初二年(238年)六月に、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献したいと要請した。
太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。
その年(238年?)の12月、以下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし
貴方の大夫難升米・次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した。
貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。
今貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人々に
示し、人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた。今、難升米を率善中郎将とし、
牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。
今、絳地(こうち)、交竜錦五匹〔臣の松之(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そ うい)を著(き)ている、
これを弋テイ(よくてい)と言う、これである。この字(テイ)は、魏朝の失(あやま)ちではなく、おそらく写した者の誤りであろう〕
絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳 (せんこう:茜色の紡ぎ)五十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答える。
また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい:模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、
銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、全て装封して難升米・牛利に託してある。
(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、全てを貴方の国中の人に示して、国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。
だから、(魏は)鄭重に貴方に好物を授けるのである」と。
元始元年(240年)、(魏は)太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、
倭国を訪問し、倭王に拝謁し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。
倭王は、使に答えて上表し謝意を示した。その四年(243年)、倭王も使大夫伊声耆・
掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦(わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・
帛布・丹・木フ・短弓 矢を献上した。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を授かった(壱拝す)。
その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
その八年(247年)、太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかった。
倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。
(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、
檄文を為(つ く)って戦いを激励した(告喩す)。
卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、
国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才を擁立して女王となし、
国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。
壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見送らせた。
そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二枚・
異文雑錦二十匹を献上した。
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