Music: Boxer

第21代 雄略天皇
2001.Feb.10 大阪府羽曳野市島泉 丹比高鷲原陵






 


	<第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇>
	異称:   大長谷若建命(古事記)、大泊瀬幼武命(日本書紀):(おおはつせわかたけのみこと)
	生没年: ?年 〜 雄略天皇23年 124歳(古事記)
	在位期間  安康天皇3年(雄略元年) 〜 雄略天皇23年
	父:  允恭天皇 第五皇子
	母:  忍坂大中姫命( おしさかおおなかつひめ:稚渟毛二岐(わかぬけふたまた)皇子の娘)
	皇后: 幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)
	皇妃: 葛城円大臣の娘、韓媛(からひめ)。吉備上道臣の娘、稚媛(わかひめ)。
	       春日の和珥臣深目の娘、童女君(おみなぎみ)
	皇子皇女: 白髪武広押国稚日本根子天皇
		  (しらかのたけひろおしわかやまとねこのすめらみこと:清寧天皇)。
		  稚足姫皇女(わかたらしひめ)。磐城(いわき)皇子。星川稚宮(ほしかわのわかみや)皇子。
		  春日大娘(かすがのおおいらつめ)皇女。
	宮:  三輪山麓・泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや:奈良県櫻井市黒崎)
	陵墓: 丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
		(大阪府羽曳野市島泉:近鉄南大阪線「高鷲(たかわし)」駅)

 


	近鉄南大阪線「たかわし」駅で降りて北側へ500m、徒歩5,6分だが、住宅街と畑の中を通っていくので少しわかり
	にくい。住宅街の中は行き止まりになった道が幾つか在る。

	どうしてこんなところに、と思うような所だ。たんぼの中にぽつねんと御陵がある。残虐・勇武でならした「雄
	略天皇」の墓にしては何か物足らない気がする。

 


	安康3年(457?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略
	は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者である坂合黒彦皇子を攻め、更に履中天皇の第一皇
	子であった政敵の市邊押磐皇子らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。大伴・物部を中
	心とした伴造系氏族の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であっ
	た。それはその後、「大伴・物部系」の平群真鳥が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当
	時の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。
	雄略23年8月崩御。陵墓は、明治政府によってここ丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉)とされたが、現在の学説に
	よれば、大阪府松原市西大塚にある大塚山古墳説が有力視されているようである。

 




	雄略9年3月、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを新羅に派遣する。雄
	略21年(477)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。日本書紀には、他にも
	小さな闘いを全て武力で鎮圧した記事が見える。
	これらから、雄略は武力に長じた強力な大王だったと思われ、その為、宋に上表文を送った「倭の五王」の一人
	「武」に比定される。478年、倭王「武」が宋に送った上表文には、「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋
	渉し戦を続け、東は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定した。」とある。
	その後有名な文言、「寧所(ねいしょ)に暇(いとま)あらず。」と続くのである。そして宋から「武」は、
	「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任ぜられている。

 


	日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。市邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)
	を殺した時のやり方は残虐で、体を切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。雄略2年、妃
	に望んだ百済の池津姫(いけつひめ)が石川楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。天皇は激怒
	して大伴室屋(おおとものむろや)大連に命じて来目部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。
	また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。天皇はまもなく還幸したが
	群衆は恐れおののいた。心を痛めた皇后等は、宍人部(ししひとべ)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇
	もこれに従った。しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまし
	ます天皇なり」という評価を後世に残す。








	雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられて
	いる。日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。勢力拡大の範囲は北から南に及
	び、以下の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

以下3枚の写真は「東京国立博物館」(台東区上野)にある、埼玉県稲荷山古墳から出土した太刀。


	発掘から20年を経て、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」と
	あった。雄略天皇を指すとする説が有力である。これにより熊本県江田山古墳から出土していた鉄刀銘文もワカ
	タケルと解読でき、五世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。
	(一部には反論もあるが今日ほぼ定説。)



【銘文の大意】

	「辛亥の年、私、ヲワケの一番の祖先の名はオホヒコ、その子の名はタカリノスクネ、その子の名はテヨカリワ
	ケ、その子の名はタカヒシワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨ、その子の名はヲワケノオミ。先
	祖代々の(大王の親衛隊長)として大王に仕え、今にいたっている。ワカタケル大王(雄略天皇)がシキの宮に
	あるとき、私は大王が天下を治めるのを補佐した。この何回も鍛えよく切れる刀をつくらせ、私が大王に仕えて
	きた根原を記すものである」	= 県立さきたま資料館資料参照 =






	以下は「遺跡・旧蹟案内」の「雨の葛城古道を行く」に記載した「一言主神社」(ひとことぬしじんじゃ)につい
	ての文章である。雄略天皇についての記事なので再度掲示しておきたい。

	雄略天皇と一言主神のエピソードはおもしろい。
	葛城山の東麓、御所市森脇に一言主神社がある。石積みの参道が美しく、境内は神々Lい雰囲気をとどめている。
	名神大社のひとつ。
	地元では「一言さん」と呼び、「一言の願いならば何でもかなえられる神」とされる一言主神を祭神としている。
	「一言主神」(ひとことぬしのかみ)とは又変わった名前の神様だが、この一言主神にまつわる次のようなエピソ
	ードが、『日本書紀』雄略天皇の段に載っている。

	(雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。
	天皇は「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。
	お前から先に名のれ。その後私が名のろう。」と答えた。天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」
	と名のると、背の高い人は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つ
	ことも互いに譲りあった。日が暮れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。

	『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。例えば、雄略天皇は一
	言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに
	弓を構えて一触即発の状況となった。そこで、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言
	主神だぞ。」と答えた。「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。しかし、これを聞いた天皇は
	「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じる
	と、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。まるで、山賊に出会って、丸剥ぎにされたような記
	述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は、『日本書紀』と同じである。
	雄略天皇と言えば、古代史にひとつの画期を成した天皇だ。猛々しい英雄として「記紀」にも描かれ、熊本の江田
	船山古墳、埼玉の稲荷山古墳から出土した刀剣に「ワカタケル大王」の文字があった事から、日本統一がなったの
	はこの天皇の御代の頃とする説もあるほどだ。それほどの天皇を恐れさせ、衣服まで献上させるとはこの「一言主
	神」というのは一体どういう存在だったのだろう。葛城に、古代何か大きな勢力があった事を想起させる。







	下は2002.2.26、福岡出張からの帰り、
	伊丹に近づいたとき上空から撮った高鷲丸山古墳(丹比高鷲原陵)。ANA214便。





	【大長谷若建命】雄略天皇 (古事記)

	大長谷若建命、坐、長谷朝倉宮、治天下也。
	大日下王之妹、若日下部王。【无子】又娶都夫良意富美之女、韓比賣、生御子、白髮命、次妹若帶比賣命。【二柱】
	故、爲白髮太子之御名代、定白髮部。又定長谷部舍人 又定河瀬舍人也。此時、呉人參渡來。其呉人安置於呉原、
	故、號其地謂呉原也。
	初大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河内。爾登山上望國内者、有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云、「其
	上堅魚作舍者誰家。」答白、「志幾之大縣主家。」爾天皇詔者、「奴乎。己家似天皇之御舍而造。」即遣人、令燒
	其家之時、其大縣主懼畏、稽首白、「奴有者、隨奴不覺而過作甚畏。故、獻能美之御幣物。」【能美二字以音。】
	布■[冠執脚糸]白犬、著鈴而、己族名謂腰佩人、令取犬繩以獻上。故、令止其著火。即幸行其若日下部王之許、賜
	入其犬、令詔、「是物者、今日得道之奇物。故、都摩杼比【此四字以音】之物。」云而賜入也。於是若日下部王、
	令奏天皇、「背日幸行之事、甚恐。故、己直參上而仕奉。」是以還上坐於宮之時、行立其山之坂上歌曰、

		久佐加辨能 許知能夜麻登
		多多美許母 幣具理能夜麻能
		許知碁知能 夜麻能賀比爾
		多知邪加由流 波毘呂久麻加斯
		母登爾波 伊久美陀氣淤斐
		須惠幣爾波 多斯美陀氣淤斐
		伊久美陀氣 伊久美波泥受
		多斯美陀氣 多斯爾波韋泥受
		能知母久美泥牟 曾能淤母比豆麻
		阿波禮

	即令持此歌而返使也。

	亦一時、天皇遊行到於美和河之時、河邊有洗衣童女。其容姿甚麗。天皇問其童女、「汝者誰子。」答白、「己名謂
	引田部赤猪子。」爾令詔者、「汝不嫁夫。今將喚」而、還坐於宮。故、其赤猪子仰待天皇之命、既經八十歳。於是
	赤猪子以爲、望命之間、已經多年、姿體痩萎、更無所恃。然非顯待情、不忍於■[扁心旁邑]而、令持百取之机代物、
	參出貢獻。然天皇、既忘先所命之事、問其赤猪子
	曰、「汝者誰老女。何由以參來。」爾赤猪子答白、「其年其月、被天皇之命、仰待大命、至于今日經八十歳。今容
	姿既耆、更無所恃。然顯白己志以參出耳。」於是天皇、大驚、「吾既忘先事。然汝守志待命、徒過盛年、是甚愛悲。」
	心裏欲婚、憚其極老、不得成婚而、賜御歌。其歌曰、

		美母呂能 伊都加斯賀母登
		賀斯賀母登 由由斯伎加母

	又歌曰、

		比氣多能 和加久流須婆良
		和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能
		淤伊爾祁流加母

	爾赤猪子之泣涙、悉濕其所服之丹摺袖。答其大御歌而歌曰、

		美母呂爾 都久夜多麻加岐
		都岐阿麻斯 多爾加母余良牟
		加微能美夜比登

	又歌曰、

		久佐迦延能 伊理延能波知須
		波那婆知須 微能佐加理毘登
		登母志岐呂加母

	爾多祿給其老女以返遣也。故、此四歌、志都歌也。

	天皇幸行吉野宮之時、吉野川之濱、有童女。其形姿美麗。故、婚是童女而、還坐於宮。後吏亦幸行吉野之時、留其童
	女之所遇、
	於其處立大御呉床而、坐其御呉床、彈御琴、令爲■[イ舞]其孃子。爾因其孃子之好[イ舞]、作御歌。其歌曰、

		阿具良韋能 加微能美弖母知
		比久許登爾 麻比須流袁美那
		登許余爾母加母

	即幸阿岐豆野而、御■[扁狩旁葛]之時、天皇坐御呉床。爾■[扁虫旁囗構中又]咋御腕、即蜻蛉來、咋其■[扁虫旁囗
	構中又]	而飛【訓蜻蛉云阿岐豆】於是作御歌。其歌曰、

		美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾
		志斯布須登
		多禮曾 意富麻幣爾麻袁須
		夜須美斯志 和賀淤富岐美能
		斯志麻都登 阿具良爾伊麻志
		斯漏多閇能 蘇弖岐蘇那布
		多古牟良爾 阿牟加岐都岐
		曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
		加久能碁登 那爾於波牟登
		蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布

	故、自其時、號其野謂阿岐豆野也。

	又一時、天皇登幸葛城之山上。爾大猪出。即天皇以鳴鏑射其猪之時、其猪怒而、宇多岐依來【宇多岐三字以音。】
	故、天皇畏其宇多岐、登坐榛上。爾歌曰、

		夜須美斯志 和賀意富岐美能
		阿蘇婆志斯 志斯能
		夜美斯志能 宇多岐加斯古美
		和賀爾宜能煩理斯 阿理袁能
		波理能紀能延陀

	又一時、天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。彼時有其自所向之山尾、登山上人。既等天皇之鹵
	簿、亦其裝束之状、及人衆、相似不傾。爾天皇望、令問曰、「於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。」即答曰之
	状、亦如天皇之命。於是天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。故、天皇亦問曰、「然告其名。爾各
	告名而彈矢。」於是答曰、「吾先見問。
	故、吾先爲名告。吾者雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城一言主之大神者也。」天皇於是惶畏而白、「恐
	我大神、有宇都志意美者【自宇下五字以音。】不覺白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服以拜獻。爾其一言
	主大神、手打受其捧物。故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。故、是一言主之大神者、彼時所顯也。

	又天皇、婚丸邇之佐都紀臣之女、袁杼比賣、幸行于春日之時、媛女逢道。即見幸行而、逃隱岡邊。
	故、作御歌。其歌曰、

		袁登賣能 伊加久流袁加袁
		加那須岐母 伊本知母賀母
		須岐波奴流母能

	故、號其岡謂金[金且]岡也。

	又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重[女采]、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其
	[女采]不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其[女采]、以刀刺充其頚、將斬之時、其[女采]白天
	皇曰、「莫殺吾身。有應白事。」即歌曰、

		麻岐牟久能 比志呂乃美夜波
		阿佐比能 比傳流美夜
		由布比能 比賀氣流美夜
		多氣能泥能 泥陀流美夜
		許能泥能 泥婆布美夜
		夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜
		麻紀佐久 比能美加度
		爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流
		毛毛陀流 都紀賀延波
		本都延波 阿米袁淤幣理
		那加都延波 阿豆麻袁淤幣理
		志豆延波 比那袁於幣理
		本都延能 延能宇良婆波
		那加都延爾 淤知布良婆閇
		那加都延能 延能宇良婆波
		斯毛都延爾 淤知布良婆閇
		斯豆延能 延能宇良婆波
		阿理岐奴能 美幣能古賀
		佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾
		宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比
		美那許袁呂許袁呂爾 許斯母
		阿夜爾加志古志 多加比加流
		比能美古 許登能
		加多理碁登母 許袁婆

	故獻此歌者、赦其罪也。爾大后歌。其歌曰、

		夜麻登能 許能多氣知爾
		古陀加流 伊知能都加佐
		爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流
		波毘呂 由都麻都婆岐
		曾賀波能 比呂理伊麻志
		曾能波那能 弖理伊麻須
		多加比加流 比能美古爾
		登余美岐 多弖麻都良勢
		許登能 加多理碁登母

	即天皇歌曰、

		毛毛志記能 淤富美夜比登波
		宇豆良登理 比禮登理加氣弖
		麻那婆志良 袁由岐阿閇
		爾波須受米 宇受須麻理韋弖
		祁布母加母 佐加美豆久良斯
		多加比加流 比能美夜比登
		許登能 加多理碁登母
		許袁婆

	此三歌者、天語歌也。故、於此豐樂、擧其三重[女采]而、給多祿也。是豐樂之日、亦春日之袁杼比賣、獻大御酒之時、
	天皇歌曰、
	
		美那曾曾久 淤美能袁登賣
		本陀理登良須母 本陀理斗理
		加多久斗良勢 斯多賀多久
		夜賀多久斗良勢 本陀理斗良須古

	此者宇岐歌也。爾袁杼比賣獻歌。其歌曰、

		夜須美斯志 和賀淤富岐美能
		阿佐斗爾波 伊余理陀多志
		由布斗爾波 伊余理陀多須
		和岐豆岐賀 斯多能
		伊多爾母賀 阿世袁

	此者志都歌也。
	天皇御年壹佰貳拾肆歳。御【己巳八月九日崩也。】陵在河内之多治比高[亶鳥]也。




	【大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)】雄略天皇

	大長谷の若建の命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
	天皇、大日下の王の妹、若日下部の王を娶りき【子无し】。また都夫良意富美(つぶらおほみ)の女、韓比賣(から
	ひめ)を娶りて生みし御子は白髮(しらか)の命。次に妹(いも)若帶比賣(わかたらしひめ)の命【二柱】。
	故、白髮の太子の御名代と爲して白髮部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬(かわせ)の舎人を定めき。
	此の時に、呉人(くれひと)參い渡り來たり。其の呉人を呉原(くれはら)に安置(お)きき。故、其の地を號けて
	呉原(くれはら)と謂う。
	初め大后の日下に坐します時に、日下の直越(ただこえ)の道より河内に幸行(いでま)しき。爾くして山の上に登
	りて國の内を望めば、堅魚(かつお)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇、其の家を問わさしめて云いしく、
	「其の堅魚を上げて作れる舎(や)は誰が家ぞ」。答えて白さく、「志幾(しき)の大縣主(おおあがたぬし)の家
	ぞ」。 爾くして天皇、詔らさくは、「奴(やっこ)や、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり」。
	即ち人を遣りて、其の家を燒かしめる時に、其の大縣主、懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく、
	「奴(やっこ)に有れば、奴(やっこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かしこ)こし。
	故、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん【能(の)美(み)の二字は音を以ちてす】」。
	布を白き犬に(か)け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめ
	て以ちて獻上りき。故、其の火を著くるを止めしめき。即ち其の若日下部(わかくさかべ)の王の許に幸行して、其
	の犬を賜い入れ詔らさしめく、「是の物は、今日、道に得たる奇(あや)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまどひ)【此
	の四字音を以ちてす】の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏さしめしく、「日に背きて幸行
	す事、甚(いと)恐し。 故、己、直(ただ)に參い上りて仕え奉らん」。是を以ちて宮に還り上り坐す時に其の山
	の坂の上に行き立ちて歌いて曰く、

		久(く)佐(さ)加(か)辨(べ)能(の)
 		許(こ)知(ち)能(の)夜(や)麻(ま)登(と)
 		多(た)多(た)美(み)許(こ)母(も)
 		幣(へ)具(ぐ)理(り)能(の)夜(や)麻(ま)能(の)
 		許(こ)知(ち)碁(ご)知(ち)能(の)
 		夜(や)麻(ま)能(の)賀(か)比(ひ)爾(に)
 		多(た)知(ち)邪(ざ)加(か)由(ゆ)流(る)
 		波(は)毘(び)呂(ろ)久(く)麻(ま)加(か)斯(し)
 		母(も)登(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)久(く)美(み)陀(だ)氣(け)淤(お)斐(ひ)
 		須(す)惠(え)幣(へ)爾(に)波(は)
 		多(た)斯(し)美(み)陀(だ)氣(け)淤(お)斐(ひ)
 		伊(い)久(く)美(み)陀(だ)氣(け)
 		伊(い)久(く)美(み)波(は)泥(ね)受(ず)
 		多(た)斯(し)美(み)陀(だ)氣(け)
 		多(た)斯(し)爾(に)波(は)韋(い)泥(ね)受(ず)
 		能(の)知(ち)母(も)久(く)美(み)泥(ね)牟(む)
 		曾(そ)能(の)淤(お)母(も)比(ひ)豆(づ)麻(ま)
 		阿(あ)波(は)禮(れ)

		日下部の
 		此方の山と
 		畳薦
 		平群の山の
 		此方此方の
 		山の峡に
 		立ち栄ゆる
 		葉広熊白檮
 		本には
 		い茂み竹生ひ
 		末辺には
 		た繁竹生ひ
 		い茂み竹
 		い隠みは寝ず
 		た繁竹
 		確には率寝ず
 		後も隠み寝む
 		其の思ひ妻
 		あはれ 
 
 	即ち此の歌を持たしめて使を返しき。
	また一時(あるとき)に天皇遊び行きて美和河(みわがわ)に到りし時に、河の邊に衣を洗う童女有り。其の容姿甚
	(いと)麗(うるわ)し。天皇、其の童女(おとめ)に問いしく、「汝は誰が子ぞ」。 答えて白さく、「己が名は
	引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)と謂う」。爾くして詔らさしめくは、「汝は夫(お)に嫁(あ)わずあれ。
	今、喚(め)してん」とのらさしめて宮に還り坐しき。故、其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて既に八十歳(やそと
	せ)を經たり。 ここに赤猪子、以爲(おも)えらく、「命(みことのり)を望(ねが)う間に、已に多(あまた)
	の年を經ぬ。姿體(かたち)痩(や)せ萎(しな)えて更に恃む所無し。然れども待ちつる情(こころ)を顯(あら)
	わすに非ずは(いぶせ)きに忍えず」。百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物を持たしめて、參い出でて貢獻
	(たてまつ)りき。 然れども天皇、既に先の命(みことのり)の事を忘れて其の赤猪子(あかいこ)に問いて曰く、
	「汝は誰が老女(おうな)ぞ。何の由以(ゆえ)に參い來つる」。爾くして赤猪子(あかいこ)、答えて白さく、
	「其の年の其の月に天皇の命(みことのり)を被(こうむ)りて、大命(おおみことのり)を仰ぎ待ちて今日に至る
	まで八十歳(やそとせ)を經たり。今は容姿(かたち)既に耆(お)いて更に恃む所無し。然れども己が志を顯(あ
	らわ)し白さんとて以ちて參い出でつるのみ」。ここに天皇、大きに驚らきて、「吾は既に先の事を忘れたり。
	然れども汝が志を守りて命(みことのり)を待ちて徒に盛りの年を過しつるは、是、甚(いと)愛(うつく)し悲し」。	
	心の裏(うち)には婚(あ)わんと欲えど、其の極めて老いて婚(あ)い成すを得ざるを悼(いた)みて御歌を賜い
	き。其の歌に曰く、

		美(み)母(も)呂(ろ)能(の)
 		伊(い)都(つ)加(か)斯(し)賀(が)母(も)登(と)
 		賀(が)斯(し)賀(が)母(も)登(と)
 		由(ゆ)由(ゆ)斯(し)伎(き)加(か)母(も)
 		加(か)志(し)波(は)良(ら)袁(を)登(と)賣(め)

		御諸の
 		厳白檮が下
 		白檮が下
 		忌々しきかも
 		白檮原乙女 
 
	また歌いて曰く、

		比(ひ)氣(け)多(た)能(の)
 		和(わ)加(か)久(く)流(る)須(す)婆(ば)良(ら)
 		和(わ)加(か)久(く)閇(へ)爾(に)
 		韋(い)泥(ね)弖(て)麻(ま)斯(し)母(も)能(の)
 		淤(お)伊(い)爾(に)祁(け)流(る)加(か)母(も)

		引田の
 		若栗栖原
 		若くへに
 		い寝てましもの
 		老いにけるかも 
 
	爾くして赤猪子(あかいこ)の泣く涙、悉く其の服(け)せる丹摺(にずり)の袖を濕(ぬら)しき。 其の大御歌
	(おおみうた)に答えて歌いて曰く、

		美(み)母(も)呂(ろ)爾(に)
 		都(つ)久(く)夜(や)多(た)麻(ま)加(か)岐(き)
 		都(つ)岐(き)阿(あ)麻(ま)斯(し)
 		多(た)爾(に)加(か)母(も)余(よ)良(ら)牟(む)
 		加(か)微(み)能(の)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)

		御諸に
 		築くや玉垣
 		つき余し
 		誰にかも依らむ
 		~の宮人 
 
	また歌いて曰く、

 		久(く)佐(さ)加(か)延(え)能(の)
 		伊(い)理(り)延(え)能(の)波(は)知(ち)須(す)
 		波(は)那(な)婆(ば)知(ち)須(す)
		微(み)能(の)佐(さ)加(か)理(り)毘(び)登(と)
 		登(と)母(も)志(し)岐(き)呂(ろ)加(か)母(も)

		日下江の
 		入江の蓮
 		花蓮
 		身の盛り人
 		羨しきろかも 
 
	爾くして多(あま)たの祿(たまいもの)を其の老女(おうな)に給いて、以ちて返えし遣りき。 故、此の四つ
	の歌は志都歌(しつうた)也。
	天皇、吉野の宮に幸行(いでま)す時に吉野の川の濱(ほとり)に童女有り。其の形姿、美麗(うるわ)し。故、
	是の童女に婚(あ)いて、宮に還り坐しき。後に更にまた吉野に幸行(いでま)す時に、其の童女(おとめ)の其
	處(そこ)に遇えるを留めて大御呉床(おおみあぐら)を立てて、其の御呉床(みあぐら)に坐して御琴を彈きて
	其の孃子(おとめ)に(まい)を爲せしめき。爾くして其の孃子(おとめ)の好くいしに因りて、御歌を作りき。
	其の歌に曰く、

		阿(あ)具(ぐ)良(ら)韋(い)能(の)
 		加(か)微(み)能(の)美(み)弖(て)母(も)知(ち)
 		比(ひ)久(く)許(こ)登(と)爾(に)
 		麻(ま)比(ひ)須(す)流(る)袁(を)美(み)那(な)
 		登(と)許(こ)余(よ)爾(に)母(も)加(か)母(も)

		呉床居の
 		~の御手もち
 		弾く琴に
 		する女
 		常世にもがも 
 
	即ち阿岐豆野(あきづの)に幸して御(みかり)せし時に、天皇、御呉床(みあぐら)に坐しき。爾くして(あぶ)
	御腕(みただむき)を咋いしに即ち蜻蛉(あきづ)來て其の(あぶ)を咋いて飛びき【蜻蛉を訓みて阿(あ)岐
	(き)豆(づ)と云う】。 ここに御歌を作りき。 其の歌に曰く、

		美(み)延(え)斯(し)怒(の)能(の)
 		袁(を)牟(む)漏(ろ)賀(が)多(た)氣(け)爾(に)
 		志(し)斯(し)布(ふ)須(す)登(と)
 		多(た)禮(れ)曾(そ)
 		意(お)富(ほ)麻(ま)幣(へ)爾(に)麻(ま)袁(を)須(す)
 		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)淤(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		斯(し)志(し)麻(ま)都(つ)登(と)
 		阿(あ)具(ぐ)良(ら)爾(に)伊(い)麻(ま)志(し)
 		斯(し)漏(ろ)多(た)閇(へ)能(の)
 		蘇(そ)弖(て)岐(き)蘇(そ)那(な)布(ふ)
 		多(た)古(こ)牟(む)良(ら)爾(に)
 		阿(あ)牟(む)加(か)岐(き)都(つ)岐(き)
 		曾(そ)能(の)阿(あ)牟(む)袁(を)
 		阿(あ)岐(き)豆(づ)波(は)夜(や)具(ぐ)比(ひ)
 		加(か)久(く)能(の)碁(ご)登(と)
 		那(な)爾(に)於(お)波(は)牟(む)登(と)
 		蘇(そ)良(ら)美(み)都(つ)
 		夜(や)麻(ま)登(と)能(の)久(く)爾(に)袁(を)
 		阿(あ)岐(き)豆(づ)志(し)麻(ま)登(と)布(ふ)

		み吉野の
 		小室が岳に
 		猪鹿伏すと
 		誰そ
 		大前に奏す
		やすみしし
 		わが大君の
 		猪鹿待つと
 		呉床に坐し
 		白栲の
 		袖着そなふ
 		手腓に
 		掻き着き
 		其のを
 		蜻蛉早咋い
 		斯くの如
 		名に負はむと
 		そらみつ
 		倭の國を
 		蜻蛉島とふ
 
 
	故、其の時より其の野を號けて阿岐豆野(あきづの)と謂う。
	また一時、天皇、葛城の山の上に登り幸しき。爾くして大き猪出でき。即ち、天皇、鳴鏑(なりかぶら)を以ちて其
	の猪を射し時に、其の猪、怒りて宇多岐(うたき)依り來たり【宇(う)多(た)岐(き)の三字は音を以ちてす】。
	故、天皇、其の宇多岐(うたき)を畏(かしこ)みて、榛(はり)の上に登り坐しき。爾くして歌いて曰く、

		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)意(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		阿(あ)蘇(そ)婆(ば)志(し)斯(し)
 		志(し)斯(し)能(の)
 		夜(や)美(み)斯(し)志(し)能(の)
 		宇(う)多(た)岐(き)加(か)斯(し)古(こ)美(み)
 		和(わ)賀(が)爾(に)宜(げ)能(の)煩(ぼ)理(り)斯(し)
 		阿(あ)理(り)袁(を)能(の)
 		波(は)理(り)能(の)紀(き)能(の)延(え)陀(だ)

		やすみしし
 		我が大君の
 		遊ばしし
 		猪の
 		病み猪の
 		うたき畏み
 		我が逃げ登りし
 		在り丘の
 		榛の木の枝 
 
	また一時(あるとき)、天皇、葛城)の山に登り幸しし時に、百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)、悉く紅き紐
	を著けたる青摺(あおずり)の衣を給いて服(き)たり。彼の時に、其の向える山の尾より山の上に登る人有り。既に
	天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、また其の裝束(よそおい)の状(かたち)、及び人衆(ひとかず)、相似て傾
	かず。 爾くして天皇、望みて問わしめて曰く、「茲(こ)の倭(やまと)の國に吾を除きて王(きみ)無きに、今、
	誰人(たれ)ぞ如此(かく)て行く」。即ち答えて曰う状(かたち)また天皇の命(みことのり)の如し。ここに天皇、
	大きに忿(いか)りて矢刺し、百官(もものつかさ)人等悉く矢刺(やざ)しき。爾くして其の人等もまた皆矢刺しき。
	故、天皇また問いて曰く、「然らば其の名を告(の)れ。爾くして各(おのおの)名を告(の)りて矢を彈(はな)た
	ん」。ここに答えて曰く「吾(あれ)先に問われつ。故に、吾、先(ま)ず名告(なのり)爲さん。吾は惡事(まがご
	と)と雖ども一言、善事(よごと)と雖ども一言、言(こと)離つ~、葛城の一言主(ひとことぬし)の大~ぞ」。
	天皇ここに惶(おそ)れ畏(かしこ)みて白さく、「恐(かしこ)し、我が大~。宇都志意美(うつしおみ)に有れば
	【宇より下の五字は音を以ちてす】覺らず」と白して、大御刀(おおみたち)及び弓矢を始めて百官(もものつかさ)
	の人等の服(け)せる衣服(ころも)を脱がしめて以ちて拜(おろが)み獻(たてまつ)りき。爾くして其の一言主の
	大~、手を打ちて其の捧物(ささげもの)を受けき。故、天皇の還り幸す時に、其の大~、山末(やますえ)に滿ちて
	長谷の山口(やまぐち)に送り奉りき。故、是の一言主の大~は彼の時に顯(あらわ)れたるぞ。

	また天皇、丸邇(わに)の佐都紀(さつき)の臣の女(むすめ)、袁杼比賣(をどひめ)に婚(あ)わんとして春日に
	幸行(いでま)しし時に、媛女(おとめ)、道に逢いき。 即ち幸行すを見て岡の邊に逃げ隱りき。故、御歌を作りき。
	其の歌に曰く、

		袁(を)登(と)賣(め)能(の)
 		伊(い)加(か)久(く)流(る)袁(を)加(か)袁(を)
 		加(か)那(な)須(す)岐(き)母(も)
 		伊(い)本(ほ)知(ち)母(も)賀(が)母(も)
 		須(す)岐(き)波(は)奴(ぬ)流(る)母(も)能(の)

		乙女の
 		い隠る岡を
 		金も
 		五百箇もがも
 		き撥ぬるもの 
 
	故、其の岡を號けて金(かなすき)の岡と謂う。
	また天皇、長谷の百枝槻(ももえつき)の下に坐して豐樂(とよのあかり)爲し時に、伊勢の國の三重の(うねめ)、
	大御盞(おおみさかづき)を指し擧げて以ちて獻(たてまつ)りき。爾くして其の百枝槻の葉落ちて大御盞(おおみさ
	かづき)に浮きき。其の、落葉の盞(さかづき)に浮けるを知らずて、猶、大御酒(おおみき)を獻(たてまつ)りき。
	天皇、其の浮ける盞(さかづき)の葉を看行(みそなわ)して、其のを打ち伏せ、刀を以ちて其の頚に刺し充(あ)て、
	將に斬らんとする時に、其の、天皇に白して曰く、「吾が身を殺すこと莫(なか)れ。 白すべき事有り」。
	即ち歌いて曰く、

		麻(ま)岐(き)牟(む)久(く)能(の)
 		比(ひ)志(し)呂(ろ)乃(の)美(み)夜(や)波(は)
 		阿(あ)佐(さ)比(ひ)能(の)
 		比(ひ)傳(で)流(る)美(み)夜(や)
 		由(ゆ)布(ふ)比(ひ)能(の)
 		比(ひ)賀(が)氣(け)流(る)美(み)夜(や)
 		多(た)氣(け)能(の)泥(ね)能(の)
 		泥(ね)陀(だ)流(る)美(み)夜(や)
 		許(こ)能(の)泥(ね)能(の)
 		泥(ね)婆(ば)布(ふ)美(み)夜(や)
 		夜(や)本(ほ)爾(に)余(よ)志(し)
 		伊(い)岐(き)豆(づ)岐(き)能(の)美(み)夜(や)
 		麻(ま)紀(き)佐(さ)久(く)
 		比(ひ)能(の)美(み)加(か)度(ど)
 		爾(に)比(ひ)那(な)閇(へ)夜(や)爾(に)
 		淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
 		毛(も)毛(も)陀(だ)流(る)
 		都(つ)紀(き)賀(が)延(え)波(は)
 		本(ほ)都(つ)延(え)波(は)
 		阿(あ)米(め)袁(を)淤(お)幣(へ)理(り)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)波(は)
 		阿(あ)豆(づ)麻(ま)袁(を)淤(お)幣(へ)理(り)
 		志(し)豆(づ)延(え)波(は)
 		比(ひ)那(な)袁(を)於(お)幣(へ)理(り)
 		本(ほ)都(つ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)爾(に)
 		淤(お)知(ち)布(ふ)良(ら)婆(ば)閇(へ)
 		那(な)加(か)都(つ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		斯(し)毛(も)都(つ)延(え)爾(に)
 		淤(お)知(ち)布(ふ)良(ら)婆(ば)閇(へ)
 		斯(し)豆(づ)延(え)能(の)
 		延(え)能(の)宇(う)良(ら)婆(ば)波(は)
 		阿(あ)理(り)岐(き)奴(ぬ)能(の)
 		美(み)幣(へ)能(の)古(こ)賀(が)
 		佐(さ)佐(さ)賀(が)世(せ)流(る)
 		美(み)豆(づ)多(た)麻(ま)宇(う)岐(き)爾(に)
 		宇(う)岐(き)志(し)阿(あ)夫(ぶ)良(ら)
 		淤(お)知(ち)那(な)豆(づ)佐(さ)比(ひ)
		美(み)那(な)
 		許(こ)袁(を)呂(ろ)許(こ)袁(を)呂(ろ)爾(に)
 		許(こ)斯(し)母(も)
 		阿(あ)夜(や)爾(に)加(か)志(し)古(こ)志(し)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)古(こ)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば) 

		纏向の
 		日代の宮は
 		朝日の
 		日照る宮
 		夕日の
 		日光る宮
 		竹の根の
		根足る宮
 		木の根の
 		根延ふ宮
 		八百土よし
 		い杵築きの宮
 		真木栄く
 		檜の御門
 		新嘗屋に
 		生ひ立てる
 		百足る
 		槻が枝は
 		上つ枝は
 		天を覆へり
 		中つ枝は
 		東を覆へり
 		下づ枝は
 		鄙を覆へり
 		上つ枝の
 		枝の末葉は
 		中つ枝に
 		落ち触らばへ
 		中つ枝の
 		枝の末葉は
 		下つ枝に
 		落ち触らばへ
 		下づ枝の
 		枝の末葉は
		在り衣の
 		三重の子が
 		捧がせる
 		瑞玉盞に
 		浮きし脂
 		落ちなづさひ
 		水
 		こおろこおろに
 		是しも
 		あやに畏し
 		高光る
 		日の御子
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	故、此の歌を獻(たてまつ)りしかば、其の罪を赦しき。 爾くして大后、歌いき。 其の歌に曰く、

		夜(や)麻(ま)登(と)能(の)
 		許(こ)能(の)多(た)氣(け)知(ち)爾(に)
 		古(こ)陀(だ)加(か)流(る)
 		伊(い)知(ち)能(の)都(つ)加(か)佐(さ)
 		爾(に)比(ひ)那(な)閇(へ)夜(や)爾(に)
 		淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
		波(は)毘(び)呂(ろ)
 		由(ゆ)都(つ)麻(ま)都(つ)婆(ば)岐(き)
 		曾(そ)賀(が)波(は)能(の)
 		比(ひ)呂(ろ)理(り)伊(い)麻(ま)志(し)
 		曾(そ)能(の)波(は)那(な)能(の)
 		弖(て)理(り)伊(い)麻(ま)須(す)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)古(こ)爾(に)
 		登(と)余(よ)美(み)岐(き)
 		多(た)弖(て)麻(ま)都(つ)良(ら)勢(せ)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば)

		倭の
 		此の高市に
 		小高る
 		市の高処
 		新嘗屋に
 		生ひ立てる
 		葉広
 		斎つ真椿
 		其が葉の
 		広り坐し
 		其の花の
 		照り坐す
 		高光る
 		日の御子に
 		豊御酒
 		奉らせ
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	即ち、天皇、歌いて曰く、

		毛(も)毛(も)志(し)記(き)能(の)
 		淤(お)富(ほ)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)波(は)
 		宇(う)豆(づ)良(ら)登(と)理(り)
 		比(ひ)禮(れ)登(と)理(り)加(か)氣(け)弖(て)
 		麻(ま)那(な)婆(ば)志(し)良(ら)
 		袁(を)由(ゆ)岐(き)阿(あ)閇(へ)
 		爾(に)波(は)須(す)受(ず)米(め)
 		宇(う)受(ず)須(す)麻(ま)理(り)韋(い)弖(て)
 		祁(け)布(ふ)母(も)加(か)母(も)
 		佐(さ)加(か)美(み)豆(づ)久(く)良(ら)斯(し)
 		多(た)加(か)比(ひ)加(か)流(る)
 		比(ひ)能(の)美(み)夜(や)比(ひ)登(と)
 		許(こ)登(と)能(の)
 		加(か)多(た)理(り)碁(ご)登(と)母(も)
 		許(こ)袁(を)婆(ば)

		百石城の
 		大宮人は
 		鶉鳥
 		領布取り懸けて
 		鶺鴒
 		尾行き合へ
 		庭雀
		群集り居て
 		今日もかも
 		酒水漬くらし
 		高光る
 		日の宮人
 		事の
 		語り言も
 		是をば 
 
	此の三つの歌は天語歌(あまがたりうた)也。故、此の豐樂(とよのあかり)に其の三重のを譽(ほ)めて多(あま
	た)の祿(たまいもの)を給いき。
	是の豐樂(とよのあかり)の日に、また春日の袁杼比賣(をどひめ)、大御酒(おおみき)を獻(たてまつ)る時に、
	天皇、歌いて曰く、

		美(み)那(な)曾(そ)曾(そ)久(く)
 		淤(お)美(み)能(の)袁(を)登(と)賣(め)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)登(と)良(ら)須(す)母(も)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)斗(と)理(り)
 		加(か)多(た)久(く)斗(と)良(ら)勢(せ)
 		斯(し)多(た)賀(が)多(た)久(く)
 		夜(や)賀(が)多(た)久(く)斗(と)良(ら)勢(せ)
 		本(ほ)陀(だ)理(り)斗(と)良(ら)須(す)古(こ)

		水潅ぐ
 		臣の乙女
 		秀樽取らすも
 		秀樽取り
 		堅く取らせ
 		確堅く
 		弥堅く取らせ
 		秀樽取らす子 
 
	此は宇岐歌(うきうた)也。爾くして袁杼比賣(をどひめ)、歌を獻(たてまつ)りき。 其の歌に曰く、

		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
 		和(わ)賀(が)淤(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 		阿(あ)佐(さ)斗(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)余(よ)理(り)陀(だ)多(た)志(し)
 		由(ゆ)布(ふ)斗(と)爾(に)波(は)
 		伊(い)余(よ)理(り)陀(だ)多(た)須(す)
 		和(わ)岐(き)豆(づ)岐(き)賀(が)斯(し)多(た)能(の)
 		伊(い)多(た)爾(に)母(も)賀(が)
 		阿(あ)世(せ)袁(を) 

		やすみしし
 		我が大君の
 		朝とには
 		い倚り立たし
 		夕とには
 		い倚り立たす
 		脇机が下の
 		板にもが
 		吾兄を
 
 	此は志都歌(しつうた)也。天皇の御年は壹佰貳拾肆歳(ももとせあまりはたとせあまりよとせ)【己巳(つちのと
	み)の年の八月の(はづき)九日に崩(かむざ)りき】。御陵(みささぎ)は河内の多治比(たぢひ)の高(たかわ
	し)に在り。



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