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第31代 用命天皇陵
河内磯長原陵 2000.7.20



 


		【第31代 用明((ようめい)天皇】

		異名: 橘豊日命(たちばなのとよひのみこと:古事記)、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと:日本書紀)
		誕生: 欽明元年(540)〜 用明2年(587)48歳
		在位: 敏達14年(585)〜 用明2年(587)
		父:  欽明天皇 第4皇子
		母:  蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)
		皇后: 泥部穴穂部間人(はしひとのあなほべ)皇女
		皇妃: 蘇我石寸名、葛城広子  
		皇子女:厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ:聖徳太子)、
		    来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子・・・・以上母は、泥部穴穂部間人皇女
		    麻呂古皇子、田目皇子、酢香手姫皇女  
		宮居:  磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや:良県桜井市阿部磐余池)  
		御陵: 河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ:大阪府南河内郡太子町:春日向山古墳)




		敏達天皇が崩じたのち、皇位は皇子の押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子にはまわらず、敏達天皇の弟で、欽明天皇の第
		四皇子・橘豊日尊が即位した。用明天皇である。押坂彦人大兄は皇后の生んだ正嫡でありながら、蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)
		を母に持つ叔父に皇位をさらわれた。蘇我馬子にとって用明天皇は甥に当たる。即位にあたって馬子が強力に推したことがうかがえる。
		用明天皇は異母妹の穴穂部間人皇女を皇后とした。二人の間には四人の皇子が生まれているが、その長子が厩戸皇子、つまり聖徳太子
		である。




		用明天皇は仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の篤い人物だったが、病床に伏せると群臣に仏法に帰依することを諮問した。やがて、
		廃仏派の物部・中臣氏と崇仏派の蘇我氏との対立が激化し、一触即発の危機を迎えることになる。




		欽明朝から敏達朝まで50年にも及んだ物部・蘇我氏の対立はこの時代に決着する。病弱だった用命天皇は、長子であった厩戸皇子(う
		まやどのおうじ:聖徳太子)の勧めもあって、病気平癒祈願をきっかけに仏法に帰依、諸臣にも崇仏をうながし、仏教展開の推進派と
		なった。物部氏の権勢は、この帝の意向により決定的に傾き、用命帝が崩じると同時に、物部・蘇我両者の武力衝突が現実のものとな
		る。
		即位後二年目にして病を得ていた用命帝は、物情騒然たるさなか病いがますます重くなり、ついに雙槻宮で崩御した。そして蘇我・物
		部の決戦はその直後に起こった。
		戦いは一進一退の攻防があったが、物部大連家は最後には厩戸皇子を盟主とあおぐ蘇我討伐軍に追いつめられ滅亡した。

		用明天皇は、古事記では最初磐余池上陵(いわれのいけのうえのみささぎ)に葬られ、その後河内磯長原陵(かうちのしながのはらの
		みささぎ)に改葬されたと記録されている。用明天皇の死は、皇位を狙った穴穂部皇子(皇后の弟)が物部氏を使って葬ったのだとい
		う説もある。





		皇子の聖徳太子は後に、仏教興隆の祖として信仰の対象となっていったが、この用命帝もまた太子とともに尊崇され、各地に多くの伝
		説を生んだ。帝が牛飼いとなって豊後に下り、そこで太子の母となる玉世姫(たまよひめ)を妃としたという言い伝えもその一つだが、
		この話では妃は聖観世音菩薩、帝は阿弥陀如来の化身という事になっている。









		【橘豐日命】用明天皇
		弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參歳。
		此天皇、娶稻目宿禰大臣之女、意富藝多志比賣、生御子、多米王。【一柱】
		又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命。次久米王。次植栗王。次茨田王。【四柱】
		又娶當麻之倉首比呂之女、飯女之子、生御子、當麻王。次妹須加志呂古郎女。
		此天皇、【乙未年四月十五日崩。】御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。


		【橘豐日命(たちばなのとよひのみこと)】用明天皇
		弟、橘の豐日の命、池邊(いけのへ)の宮に坐しまして天の下治しめすこと參歳(みとせ)。
		此の天皇、稻目宿禰(いなめのすくね)の大臣(おおおみ)の女(むすめ)、意富藝多志比賣(おおぎたしひめ)を娶りて生みし御子
		は、多米(ため)の王【一柱】。
		また庶妹(ままいも)間人(はしひと)の穴太部(あなほべ)の王を娶りて生みし御子は、上宮(かみつみや)の厩戸(うまやと)の
		豐聰耳(とよとみみ)の命。次に久米(くめ)の王。次に植栗(うえくり)の王。次に茨田(うまらた)の王【四柱】。
		また當麻(たぎま)の倉の首(おびと)、比呂(ひろ)の女(むすめ)、飯(いい)の子を娶りて生みし御子は、當麻(たぎま)の王。
		次に妹(いも)須加志呂古(すかしろこ)の郎女。
		此の天皇は【丁未(ひのとひつじ)の年の四月(うづき)十五日(とおあまりいつか)に崩(かむざ)りき】、
		御陵(みささぎ)は石寸(いはれ)の掖上(わきがみ)に在りしに、後に科長(しなが)の中の陵(みささぎ)に遷(うつ)しき。


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