Music: Watching the Wheals
番外編・日本武尊陵
2000.Sep.3 奈良県御所市玉手 琴引原白鳥陵

青木繁「日本武尊」(東京国立博物蔵)
古事記には「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と表記されている。ヤマトタケルの尊(みこと)。第12代景行天皇の子で名は
「小碓」(おうす)という。「大碓」という兄が居て、これを殺してしまった事から父景行天皇に熊曽征伐を命ぜられ、果たすとす
ぐさま東国遠征を命じられる。「父は私に死ねと言うのか」と叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に泣きつくが、叔母は素戔嗚尊
が大蛇の尾から取り出したという「草薙の剣」と火打ち石を与え、万一の時に使用するよう諭した。相模の国で火攻めに会い、草を
なぎ倒して難を逃れるが「草薙」というのはここから来ている。
尾張から伊吹山の神を退治に出かけるとき「草薙の剣」を忘れ、伊吹山の神々に敗退する。その時の傷が元で、能煩野(のぼの:三
重県鈴鹿郡)まで来て命を落とす。「飛鳥へ還りたい」と望み、白鳥になってそれを果たしたという。その白鳥の飛んできたところ、
というので御陵にも白鳥陵と命名されている。「草薙の剣」はそのまま尾張に祭られ「熱田神宮」のご神体となった。
市川猿之助の「ヤマトタケル」はこれを題材にしたス−パ−歌舞伎でなかなか面白い。白鳥が飛んでいくところが有名な猿之助の
「宙づり」である。(熱田神宮の項参照)

11月何日かにここで祭典があるそうで、3人のおじさん達が、それに会わせて階段造成工事をやっていた。「地元の者ンでもしらん
のによう探して来るのう。時々あんたみたいなんが来るなぁ。」

記紀ではヤマトタケルは天皇とは書かれていないが、幾つかの風土記にはヤマトタケルが「天皇」と書かれているものがある。
「常陸国風土記」、「阿波国風土記」などは「倭武天皇」とか「倭健天皇」としている。また「住吉大社神代記」では「父天皇」と
表記されている。そのため時々、ヤマトタケルは天皇だったのではないかという議論が歴史雑誌等で見られる事があるが、これは
可能性は薄いと思われる。伝承が形を変えてそう表記されるに至ったものだろう。神功皇后なども「天皇」と表記されている例もある。

奈良県御所(ごせ)市玉手。孝安天皇陵を見に来てここにヤマトタケル陵があるのを知った。入り口に看板が一つあるだけで、道も
狭い。廻りは住宅に囲まれていて、御陵があるのもなかなか分からない。登ってみて初めて分かる。これでは確かに地元のモンでも
分かるまいと思われる。
以下は、2003.3.2(日)に歴史倶楽部の例会で再びここを訪れた時のもの。重複するがそのままここにも収録する。
2003.3.2(日) 日本武尊琴弾原陵
【日本武尊・琴弾原陵(やまとたけるのみこと・ことひきはらりょう)】
「巨勢の道」は一応全部終了したのだが、どうせ近鉄御所駅へ戻るのだし、途中にある日本武尊陵と孝安天皇陵に寄っていく事
にした。私はどちらも一度来たことがあるが、皆さんはじめてだそうで、私も以前来たときは整備中だった日本武尊陵が、その
後どうなったか見たかった。


<白 鳥 伝 説>
日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国
を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦夷を征討せよと命じられる。その命令を受けた日
本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えている。幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹
山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとする。能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、つい
に力尽きその地で死んでしまう。死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、「大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる
大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、この琴弾原を経て、旧市邑(ふ
るいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えている。


御所市の琴弾原は、その昔旅人が休憩し居眠りをしていると、どこからともなく美しい琴の音色が聞こえてきて、辺りを見回す
と、水たまりに水の雫が落ち、岩に響く音であった。その音色は、琴を弾いているような音であったことから、琴弾原と呼ばれ
るようになったという。伝説に基づいて、日本武尊の墓は三重県亀岡市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市の三市にあり、一般に
「白鳥三陵」と呼ばれ、そのゆかりから、3市間で歴史・文化を契機とした友好を図りまちづくりのための交流を行っている。

琴弾原陵の全景
2000.Oct.15 大阪府羽曳野市軽里 白鳥陵

陵印提供:奈良・今崎氏
左、下は河内の国旧市邑(ふるいちむら:現、大阪府羽曳野市軽里)にある白鳥陵である。考古学的には古市前山古墳と呼ばれる。能煩野から飛んできた白鳥は、大和の国琴引原に降りた後再び飛び立ってここに降りたとされる。それ故ここも「日本武尊白鳥陵」である。これに能煩野の墓も合わせて3つを「白鳥陵」と呼ぶ。

別名、軽里大塚古墳とも言い墳丘190mの前方後円墳で、琴引原の白鳥陵に比べると堂々たる古墳である。円筒埴輪、朝顔形埴輪、
衣笠埴輪、家型埴輪などが出土しており、5世紀後半の古墳と考えられている。濠と言い、堤と言い、実に立派な古墳だが、「日本
武尊陵」としては立派すぎて、悲劇の主人公の墓にしては似つかわしくない気がする。「琴引原白鳥陵」の方がそれらしく見える。
日本書紀では、白鳥はここに(旧市)降りたが、他の文献には更に飛び立っていったという記述もある。








2003.4.19 日本武尊能褒野陵

JR関西線の「井田川駅」から30分ほど歩く。タクシーがあったら乗ろうと思っていたが、タクシ−などがあるような町ではなか
った。駅も無人である。しかもここから大阪方面への電車は1時間に1本しかない。さらに来た電車は次の「亀山駅」まで。ここで
2.30分待って、ここから1時間程掛けて「加茂」まで来る。ここで「大和路快速・大阪行」に乗ってやっと大阪へ戻れる。大阪
からも名古屋からも、電車利用は大体3時間コースである。


駅前から国道1号線を横切って住宅街の中を抜けて30分ほど歩く。春先とは思えない、初夏のような暑さで汗びっしょりになった。

能褒野(のぼの)陵は、安楽川にかかる能褒野橋の北側にある。古墳一帯は駐車場・案内板も整備された「のぼのの森公園」になっ
ており、陵自体は、全長90m、前方部経44m、高さ6.1m、後円部56m、高さ9.1mの、空掘りをめぐらした前方後円墳である。
周辺に円墳もいくつかある。5世紀初の鰭付朝顔形円筒埴輪が出土しており、もとは丁字塚と呼ばれていた。丁子塚の他にも「田村
王塚」「能褒野王塚古墳」「日本武尊能褒野陵」等の名称がある。公園にはその朝顔形円筒埴輪を模した噴水が池の中に立ててあり、
水飲み台も埴輪である。隣には、明治になってから作られた能褒野神社がある。






能褒野神社。日本武尊、弟橘姫命を祀る。周辺は木立立ちこめる森で、「のぼのの森」公園として整備されている。



森の途中から、神社本殿へ行く道と御陵へ行く道とに別れている。まず御陵を見に行く事にする。
ヤマトタケルは「古事記」によれば倭建命と言う字を当てているが、「日本書紀」では日本武尊と表記する。記紀によれば、日本武
尊は東征の帰路、ここ「能褒野」で死亡し、この地に墓が営まれたと言う。この古墳は4世紀末の築造と考えられ、日本武尊の英雄
伝説にまつわる北伊勢地域に存在する古墳群中最大のもので、主墳を中心に大小16の陪塚があり、いわゆる能褒野古墳群を構成す
る。その中核をなしているのがこの御陵である。10世紀の初めに編纂された「延喜式」の「諸陵寮」は、この陵の事を「能褒野稜
日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡 兆域東西二町 守戸三烟」と記しており、平安初期には日本武尊の墓は鈴鹿郡のどこかに実在していた
のであり、それは約220m四方の墓域をもち、墓守の家も三軒ある相当の規模であったことが窺える。


江戸時代、尊皇論の台頭に従って陵墓の探索・裁定作業が進められ、日本武尊墓の探索も行われたが、加佐登の白鳥塚、長沢の武備
塚、双児塚、国府の王塚などを日本武尊陵に比定する論が出現し、なかなか決着は着かなかった。候補地とされた主な古墳の所在は
以下のようなものである。
@、白鳥塚(鈴鹿市加佐登)A、武備塚(鈴鹿市長沢)B、双児塚(鈴鹿市長沢)C、王塚(鈴鹿市国府)D、丁子塚(亀山市川崎)
@の白鳥塚を強く主張したのは本居宣長や平田篤胤ら江戸後期の国学者達である。幕末には本居ら国学者の権威はそうとうなものに
達していたので、付近の地名に日本武尊に関係するのものが多いことなどの傍証も加わって、候補地の中でも最も有力視されてきた。
しかし同じ江戸後期の国学者、建部綾足はAの武備塚を支持し、車塚の上には歌碑を建立したりしている。武備塚は現在では、日本
武尊の墓を守っていた墓守の建部(たけべ)氏の祖先の墓とする見方が一般的で、B、C、の説もさほど強い信憑性はなかったよう
である。Dの丁子塚は、明治にはいっても日本武尊の陵墓候補には登っておらず、明治5年には教部省も一時は白鳥塚を能褒野陵に
しようとしていたらしいが、明治12年に内務省は突然、これまで候補地にも挙げられてこなかった丁子塚を、日本武尊能褒野陵と
決定したのである。丁子塚が北伊勢地方では最大の前方後円墳である事、周濠をめぐらし墳丘形式も古型式だった事、などがその理
由と思われ、より日本武尊陵墓にふさわしいと考えたからだと思われる。明治12年11月10日、旧内務省はこの地を以って日本
武尊の墓として治定し、周囲に土柵、鳥居、石階などを設けて守部を置いた。



私見では、「日本武尊」という名は固有名詞ではなく機関名だろうと思う。ヤマトタケルという一人の人物が実在したのではなく、
景行天皇配下の「全国制覇軍」全体を指す名で、その最高司令長官は実際に景行天皇の実子「小碓(オウス)」であった可能性はあ
る。しかし各地に転戦した将軍達は大和朝廷屈指の猛者で、それぞれヤマトタケルを名乗ることを許されていたのだろう。或いは、
帝の子を名乗ることも許されていたかもしれない。そして各地を平定し、幾つかの国での故事が集大成されて記紀に記録されたので
はないかと思う。ここ能褒野にも陵があり、御所、羽曳野にも陵があるし、その他「こここそ日本武尊陵だ」という場所が各地にあ
る事がそれを証明しているような気がする。日本武尊陵の一つが、平安時代初期には鈴鹿郡のどこかに実在していた事は事実であろ
うし、日本武尊伝承がこの地方に多いということは、鈴鹿川周辺が、当時の大和朝廷の東国経営上、重要な要衝にあたっていたとい
う背景があったからであろうし、それは御所や羽曳野にもついても言えることだろう。

御陵の前の光景。田んぼの向こう側の土手が安楽川の土手である。


能褒野神社へ行く。うっそうとした森であるが暗くはない。明るく気持ちの良い森だ。







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