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有智子内親王墓
第52代嵯峨天皇皇女 2003.11.29 雨

		
	【有智子内親王(うちこないしんのう)】
	生没年:平安時代 大同2年(807) 〜 承知14年(847)(41歳)  
	父:  嵯峨天皇 第八皇女
	母:  交野(かたの)女王
	別名: 賀茂斎院
	陵墓: 京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町


京都嵯峨野、落柿舎のとなりで雨にけぶる有智子内親王墓。
	
	有智子の父、第52代嵯峨天皇には多くの皇妃がいた。従って皇子女もまた多くの数に上る。

	皇妃: 高津内親王、多治比高子、藤原産子、藤原緒夏、大原浄子、百済貴命、山田近子、飯高宅刀自、秋篠高子、
	    交野女王、
		百済慶命、笠継子、大原全子、高階河子、文室文子、広井氏、布勢氏、当麻氏、上毛野氏、安倍楊津、
		粟田氏、惟良氏、長岡氏、田中氏、紀氏、内蔵氏、甘南備氏、橘春子

	皇子女:業良親王、正良親王(仁明天皇)、基良親王、秀良親王、忠良親王、業子内親王、仁子内親王、
		有智子内親王、
	    正子内親王(淳和后)、俊子内親王、繁子内親王、秀子内親王、芳子内親王、宗子内親王、純子内親王、
		済子内親王、基子内親王、源信(正二位左大臣)、源貞姫、源潔姫(藤原良房室)、源弘(正三位大納言)、
		源常(正二位左大臣)、淳王、
	    <以下もすべて源>
	    全姫、寛、明、善姫、定(正三位大納言)、鎮、生、融、安、勤、勝、啓、更姫、声姫、良姫、盈姫、
		端姫、吾姫、年姫、賢、澄、清、継、若姫、神姫、容姫、密姫、


	有智子は交野(かたの)女王を母として、平安時代初期の大同2年に生まれる。嵯峨天皇の第八皇女である。弘仁元年
	(810)4歳で賀茂の齋院となり、同14年(823)三品に叙せられ、のち、さらに二品に上り、封百戸を賜った。
	承知14年に41歳で崩じた。平安朝随一の女流詩人として有名であるが、歴史の側面から見れば「賀茂斎王の初ま
	り」としてのほうが有名である。

 
	
	弘仁元年(810)、薬子の変を平定し、その帝位を確固たるものにした嵯峨帝は、戦勝の礼と、平安京の安泰を願って、
	京の地に元々鎮座していた賀茂社に、4才の皇女、有智子内親王を捧げた。賀茂神社は山城国の総鎮守なので、天皇の
	代理として父桓武天皇の願いでもあった「京都の平安」を祈らせたのである。そして伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎
	院を設立した。伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」(ののみや)と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年
	間の潔斎を経て斎院へ移る。

	「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院に入る。そこで1年間を過ごし、
	その間に宮城外の浄野に野宮が造られる。そして翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9
	月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎する。天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住した。退くの
	は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊
	勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけで
	はないようである。
	賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称して
	いた。今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所
	があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていた。




	毎年の賀茂祭(のち葵祭)には斎院御禊、祭りの当日の渡御、翌日の還立(かえりだち)といった任務を帯びていた。
	「斎宮記」による伊勢斎宮は、制度上の斎宮、天武天皇皇女・大伯内親王から始まり、崇神天皇皇女・豊鋤入姫命から
	後醍醐天皇皇女・祥子内親王までの75代、賀茂斎院は、有智子内親王から始まり、鎌倉時代初頭の、後鳥羽天皇皇女
	・礼子内親王まで約4百年、34代にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶えてしまう。
	以後、葵祭へは勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。

	天皇家がこうした神に奉仕する「いつきのみや」制度を創出したのに触発されてか、藤原氏も氏神を祀る大原野神社な
	どに一族の娘を「斎女」として差し出すことを始めたが、長くは続かなかった。



	
	母の交野女王と呼ばれる女性の出自は不明である。現在大阪府には交野(かたの)市という名前の場所があるが、ここが
	出自なのかもしれない。彼女は嵯峨天皇の妃の一人であるが、嵯峨天皇には十指を越える数の后妃がいた。彼女もそう
	した中の一人で、天武天皇の皇子の一人、舎人(とねり)親王の曾孫に当たる。すなわち、親王の子の一人、三原王の子、
	山口王の子であると云う。有智子内親王の有智子(うちこ)という名は、河内国交野郡からほど近い山城国綴喜郡にあ
	った有智郷と云う地名と何か関係があるような気もする。

	有智子内親王には同母の兄弟はいない。大同2年の生まれとされるので、嵯峨天皇がまだ神野(賀美能)皇子と呼ばれ
	て、皇太弟であった時の生まれである。4才で賀茂斎院となり、天長8年(831)25才で斎院を退くまでの約20年間、
	神に仕える生活を送った。有智子内親王について続日本後記は「すこぶる史・漢に渉(わた)り、兼ねてよく文に属(し
	ょく)す」と記録する。

	弘仁14年(823)春2月18日、有智子17才の時、嵯峨天皇は賀茂に行幸し、詩会を催した。この時、春日山荘の
	題に対して有智子が作った七言律詩を「経国集」はとどめている。

	「寂寂(じゃくじゃく)たる幽荘(ゆうそう) 水樹の裏、仙輿(せんよ)は一とたび降(くだ)る一池塘(ちとう)、
	林に栖(す)む孤鳥は春沢を識(し)り、澗(たに)に隠れし寒花も日光を見る。泉声は近く報ず初雷の響、山色は
	高く晴れ暮雨(ぼう)行く。此より更に知れり恩顧(おんこ)の渥(あつ)きを。生涯何を以ってか穹蒼(そうきゅ
	う)に答えん」

	韻を見事に踏み、うららかな春の日の山荘の詩情をのびやかに歌いあげたもので、嵯峨天皇はこの詩を激賞し、その
	場で三品の位を授け、さらに「文人を召す料」として封戸百戸を授けたと云う。有智子内親王が女流吟詠家の祖とい
	われる所以でもある。



	
	有智子は斎院を退いた後は、嵯峨西荘に住み、生涯を通して独身のまま、承和14年(847)41才で没した。有智子
	の墓は京都嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣にあるが、そこは彼女の春日山荘の跡である。いま、その地名を嵯峨小倉山緋
	明神町(ひのみょうじんちょう)というが、これは以前、墓の上に小祠が建てられ姫明神(ひめみょうじん)と呼ば
	れていたことに由来する。

 

	
	斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで4百年ばかり続いたが、それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠く
	ことのできない役割を果たした。初代斎王の有智子内親王にはじまり、その後、累代の斎王の中では、選子(のぶこ)
	内親王、_子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。式子内親王彼女は、「新古今
	和歌集」随一の女流歌人である。

 
	紫野の斎院 上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内) 
	文徳天皇の皇后が、奈良三笠山の春日大明神に懐胎を祈願して生まれたのが清和天皇で、同帝の勅願で860年代に
	左京の内野檪(くぬぎ)谷に春日大神を奉祀したのがこの神社の始まり。社名は伊勢・賀茂・石清水・平野・松尾・
	稲荷の六社を合祀されたところから「七ノ社』と唱えたとも、内野・北野・平野・神明野・紫野・上野・蓮台野の氏
	神を合祀したことから「七野社」というとか諸説があるが定かではない。
	鳥居をくぐると小高い台地に社があり、苔むした石垣に秀吉の命で修復に参加した諸大名の寄進印である刻印が多数
	残っている。境内には賀茂斎院跡の顕彰碑と解説板がある。「斎王」といえば伊勢の斎宮も、賀茂の斎院もともに
	「斎王」と言うが、両者を区別するのに伊勢の斎王を斎宮、賀茂の斎王を斎院と呼ぶ。往時、斎院に隣接して「廬山
	寺」があり、斎院が廃絶したときに敷地を寺に譲ったと伝えられているが、応仁の乱後の荒廃で寺町に移り、今は地
	名のみが残っている。
	元来この紫野は大徳寺周辺の広大な地域を指し、平安前期には天皇の遊猟地となり、北につづく栗栖野(くりすの)
	とともに禁野に指定されていた。角田文衛博士の研究によれば、この紫野斎院の遺址は、京都市上京区大宮通の西で、
	廬山寺通の北の地域に当るという。いま其処に鎮座する七野神社は、いにしえの斎院の諸殿舎に祀られた守護神を合
	祀した社だといわれる。斎院は内院と外院とからなり、内院には、賀茂の斎王の寝殿及び賀茂両社の祭神をまつる神
	殿があり、その後方に客殿、大炊殿を配する。外院には、斎院司(さいいんのつかさ)や警護の武士達が詰める武者
	所などがあった。



	
	この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)
	のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。この斎院の敷地は、大
	宮通りと廬山寺通りを東南の角としており、約一五〇メートル四方を占めていた。斎王は嵯峨天皇皇女・有智子
	(うちこ)内親王を初代とし、累代未婚の皇女が卜定され、約四〇〇年続き後鳥羽天皇の皇女三十五代礼子(いやこ)
	内親王をもって廃絶した。斎王の中には選子(のぶこ)内親王や式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、
	斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院にはほぼ五〇〇人の官女や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少
	なくなかった。私達は、この文化遺産 斎院跡 を顕彰し、後世に伝えるものである。
										平成十三年十一月吉日
										賀茂(紫野)斎院跡顕彰会









	<葵祭> 
	毎年5月15日に行われる葵祭は、上下賀茂社の例祭である。古くは賀茂祭といわれ、平安遷都以前より賀茂郷民の
	祭りとして始まった。嵯峨天皇が西暦806年に勅祭とし、皇女有智子内親王を初代斎王として盛大に行われるよう
	になった。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになるのは江戸時代のころからで、祭りの参列者の衣冠や車に葵の葉をつけ
	ることからである。

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	葵祭51代斉王代は国際派 今熊野観音寺住職の三女
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	 京都3大祭のトップを切り5月15日に行われる葵祭のヒロイン、第51代「斎王代(さいおうだい)」に12日、
	京都市東山区の派遣社員、藤田菜奈子さん(24)が選ばれた。高校時代の2年半をフランスで過ごし、ヒロインに
	決まった心境を「伝統的な祭りに参加できてうれしい」とフランス語で話す“国際派”。祭りの当日には、もっとも
	注目を集める主役として、十二単(ひとえ)を身にまとって輿(こし)に乗る。
	 藤田さんは、同区内の今熊野観音寺住職の三女で、趣味は6歳から続けている日本舞踊。5年前には同祭の女人列
	に参加、2代前の斎王代、加納麻里さんとは中学時代からの親友という。母の嫁入り衣装だったという淡いオレンジ
	色の着物姿で記者会見した藤田さんは「(加納さんから)アドバイスをいただいたりしながら、心穏やかに過ごした
	い」と笑顔で話した。斎王代はかつて賀茂神社に仕えた未婚の内親王「斎王」の代理。毎年一般の女性から推薦で選
	ばれる。  (2006/4/13) −関西産経WEB−



雨の嵐山渡月橋(上)と阪急電車嵐山駅のホーム(下)。





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