【第59代 宇多(うだ)天皇】 別名: 定省(さだみ)・空理(くうり)・朱雀太上天皇 生誕−崩御: 貞観9年(867)〜承平元年(931) 65才 在位期間: 仁和3年(887)〜寛平9年(897) 父: 光孝天皇(58代)第七子 母: 班子(はんし)女王(桓武天皇の皇子「仲野親王」の娘で女御) 皇后: 藤原胤子 皇妃: 藤原温子、橘義子、菅原衍子、橘房子、源貞子、藤原褒子、他 皇子女: 敦仁親王(醍醐天皇)、斉中親王、斉世親王、斉邦親王、敦慶親王、敦固親王、 敦実親王、行中親王、雅明親王、載明親王、行明親王、均子内親王、柔子内親王、 君子内親王、孚子内親王、成子内親王、若子、依子内親王、誨子内親王、季子内親王 皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵墓: 大内山陵(おおうちやまのみささぎ:京都市右京区鳴滝宇多野谷)
仁和寺の東の脇道を登っていく。20分ほど歩いただろうか、こんなに登ってきて大丈夫かなと心配になって来た頃、宮内庁の 案内標識が目に入る。ここからは車では入れない。歩くのも難儀するような山道である。
21才で即位した帝は、それまで皇族とは無縁の臣籍(しんせき:元々は天皇家から派生した分家で、皇族から臣下の位置に 下ったもの。)にあったが、父光孝帝の意向を汲んだ藤原基経によって皇位を得、天皇となった。摂政基経の支配下にあるの は父帝と何ら代わりは無かったが、その基経があっけなく死ぬと、宇多帝による天皇親政が復活する。 帝は、受領(ずりょう:諸国司の長官)の中から菅原道真らを中央に呼び戻し、諸制度の改革を進めた。基経の子時平(とき ひら)と道真との対立が本格化するのは、この後のことである。 宇多帝は、事後を道真に託し31才で譲位、その翌年には髪を剃り、以後30年間各地の山岳に分け入り仏道修行に明け暮れた。 最後は、父光孝帝の意志を継いで完成させた仁和寺を住坊にし、ここの御室(御在所)で崩御している。以後、歴代の皇子皇 孫が門跡となり、仁和寺は今でも御室(おむろ)と呼ばれている。ここに開業した立石電機は、そのブランド名に御室を用い、 現在では会社の名前にまでしてしまった(オムロン株式会社)。
雨が振ったら忽ちヌカるみになりそうな砂と泥の道を登りだしてすぐ、男性二人連れが降りてきたので、「御陵はまだ大分先 ですか?」と聞くと、「あんまり遠いんで引き返してきたよ。」と言う。「えぇ〜、ほんまでっか?」と返事したが、今まで さんざん御陵を巡って来た私としては内心、大したことは無かろうという気がした。
実際大したことは無かったが、山歩きとかに馴れていない一般の人では確かにしんどいかもしれない。全くの山道である。 竜安寺(りょうあんじ)の朱山にある天皇陵を訪ねた折、山伝いにここへ来ようとしたが、あの時は夕方でさすがに途中で断念 した。その山稜道からの道とぶつかった所がT字型の分岐になっている。
「参稜道」という道標が立っていて、はてどっちに行ったものかと思ったが、一寸左を見ると、木の陰に宮内庁の看板が見えて いた。道から一段下がった所に御陵がある。なんでこんな谷底のような所に、と思ってしまった。
宇多天皇に重用された菅原道真の栄華盛衰は、まさしくこの天皇とともにあった。宇多天皇の即位は道真が讃岐守として赴任中 だったが、呼び戻されてからの道真は、それまでの学者としての宮廷人から、政治家菅原道真へと変貌する。したたかな藤原一 族が相手では、優雅で才知に富む学者然とした生活など望むべくもなかったのだろうと思われる。 道真は、宇多天皇から寵用されるが、道真もまたこの天皇を慕っていたようだ。どうして宇多天皇が道真を重用したのかはよく はわからないが、少なくとも藤原一族の暴走をくい止める歯止めとして意識していたのは確かだろう。讃岐から戻った道真を宇 多天皇に紹介したのは、藤原基経であるが、その子時平がやがて道真を左遷に追いやる事になる。
寛平3年(891)、宇多天皇の抜擢により道真は「式部小輔」となる。翌月には「左中弁」となるが、相次ぐ昇進に対する怨嗟の 声が聞こえるようになる。時代は藤原氏中心の貴族社会であり、彼の存在は藤原氏にとって煙たい存在であることは間違いなか った。宇多天皇が譲位の相談を持ちかけるにおよんで、周囲の反発が頂点に達する。寛平6年(894)には、道真に遣唐使の任が 下る。明らかに反道真派の罠であった。 しかし、道真は天皇に「遣唐使停止審議請願書」を提出し、遣唐使の派遣そのものを取りやめさせてしまったのである。これを 期に道真は出世を重ね、寛平7年(895)には中納言従3位に任命され時平と同列になる。同年娘も入内し、寛平9年(897)に は権大納言となり、道真は最盛期を迎える。しかし昌泰2年(899)、宇多天皇は譲位を決行する。仁和寺で出家し初の法王とな るのである。道真と相談の上とは言え、やがてこの事が道真を没落へと導く一役を担う。
醍醐天皇の御代でも道真は時平とともに正三位に叙せられ、昌泰2年(899)55歳にして右大臣となり、時平も左大臣となる。 これは、学者としてはあまりに異例な出世で、道真はさすがに恐れを抱き再三辞意を洩らしたようだ。反道真派の工作が実り、 昌泰4年(901)正月、突然道真に太宰府への左遷の命が下る。道真は宇多上皇に望みを掛けこれを覆そうとするが、醍醐天皇は もはや上皇の意見は聞かなかった。上皇への訴えも、道真の内弟子であった「菅根」によって阻まれ、泣く泣く西の果てへ流さ れていくのである。
何枚か写真を撮って佇んでいると、「そうか、ここは墓なんだ。」と気づき、急に薄気味悪くなってきた。
人っこ一人いず、鬱蒼とした林に囲まれて、墓の前に唯一人。状況からすると一寸気味悪い場面だが、「えぇーぃ、幽霊でも いいか、天皇に会えるなら、出てきて頂戴。」と思い直して、陵墓の廻りをぐるっと廻ってみる。陵墓はさらに一段低い窪地 になっていた。
ほんとにどうしてこんな低い窪地に葬ったのだろう。もっと小高いところが廻りに幾らでもあるのに、 わざわざ窪地を選んで葬っている。不思議だ。