この寺は長らく「天皇家」の菩提寺であった。中世にはいると天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。古代の古墳や 孝明天皇以来の復古調の陵墓を見慣れた我々は、歴代全ての天皇があのような墓に埋葬されていると思いがちだが実はそうではない。 火葬され仏式の石塔だけの墓は結構多い。時には骨壺だけの天皇もある。この寺は、いわば「天皇家」の私家版菩提寺であり、納骨堂 なのだ。
【第87代 四条(しじょう)天皇】 異名異称: 秀仁(みつひと) 生誕没年: 寛喜3年(1231) 〜 仁治3年(1242)(12歳) 在位期間: 貞永元年(1232) 〜 仁治3年(1242) 父: 後堀河天皇 第1皇子 母: 九条■子 女御: 九条彦子 在位12年23才の若さで崩じた先帝(第86代後堀河天皇)に代わり天皇となったのが、四条帝である。だが2才で即位したこの天皇 も極めて短命で、わずか12才で崩御した。北条泰時により武家法が制定されたその年の事である。四条天皇が若干12歳で亡くなっ たことにより、承久の乱後、幕府により治天の君に立てられた後高倉院の系統は断絶した。 「増鏡」によれば、四条天皇の死については病気とも幼椎な遊びから体を害したとも曖昧に表現されているが、「五代帝王物語」とい う書物では、四条天皇は人を滑らせて笑ってやろうとロウを石に塗っていたところ、自分が滑って転倒し、打ちどころが悪くて数日寝 込んだあとに逝ってしまったという。12歳の子供の無邪気な遊びが、その命を奪ってしまったのだ。
【第108代 後水尾(ごみずのお)天皇】 異名異称: 政仁(ただひと) 生誕没年: 文禄5年(1596) 〜 延宝8年(1680)(89歳) 在位期間: 慶長16年(1611)〜 寛永6年(1629) 父: 後陽成天皇 第3皇子 母: 近衛前子 皇后: 徳川和子 皇妃: 藤原某、藤原某、櫛笥隆子、園光子、園国子、藤原氏子、藤原継子 皇子女: 文智女王、興子内親王(明正天皇)、高仁親王、昭子内親王、理昌女王、賀子内親王、 紹仁親王(後光明天皇)、光子内親王、守澄親王、性承親王、元昌女王、良仁親王(後西天皇)、 宗澄、性真親王、堯恕親王、理忠女王、常子内親王、穏仁親王、尊光親王、道寛親王、真敬親王、 尊証親王、盛胤親王、識仁親王(霊元天皇)、文察女王、永亨女王 この天皇と徳川秀忠の時期に、徳川幕府の朝廷支配が完成したというのが通説である。徳川家康と秀忠は、形式上は朝廷を補佐する形 で、天下を支配した。ところが、三代家光の代になると、ほとんど江戸から幕府の命令として天下に号令しているのだ。徳川幕府の支 配体制は、家康、秀忠、家光の三代で完成を見るが、朝廷との関係はとくに、秀忠時代の後半に完成したと見られる。 徳川将軍秀忠は、娘「和子」をこの天皇に嫁がせ幕府による皇室管理の強化を図った。後陽成天皇の第3子にあたる後水尾天皇は、生 涯幕府に対する抵抗の姿勢を崩さず、和子の産んだ興子内親王(おきこないしんのう)に独断で皇位をゆずり、自らは明正、後光明、 後西、霊元と51年に渡る院政を引き、皇室に大きな影響力を及ぼした。学問を好み、55才で出家してのちも30年を生き天皇とし ては異例の長寿を全うした。 【第109代 明正(めいしょう)天皇】 異名異称: 興子(おきこ) 生誕没年: 元和9年(1623) 〜 元禄9年(1696)(74歳) 在位期間: 寛永7年(1630) 〜 寛永20年(1643) 父: 後水尾天皇 母: 徳川和子(徳川秀忠の娘:東福門院) 皇子女: なし 後水尾天皇は、秀忠の娘和子を皇后に迎えるまでにすでに配偶者がいた。しかし秀忠はごういんに娘を帝に押しつける。父の後水尾天 皇は執拗な徳川幕府の圧迫をそらすため、幕府には告げず独断で徳川の血を引く興子に譲位した。興子はわずか7歳であった。ここに 平安以来絶えていた女帝が復活するが、帝は、後水尾天皇の第3子紹仁(つぐひと:後光明天皇)に皇位を譲るまで、14年間天皇の地 位にあった。後水尾上皇は退位して修学院離宮を建立し、書や歌の道に没頭する。母の東福門院(かずこ)は年間20万石に及ぶ化粧 代を消費し、「御所染め」をはじめ着物の意匠開発に腐心した。強烈な個性を持つ両親と、それを取り巻く多くの謀略と確執のうずまく 中で、政略の道具として翻弄された続けた娘、興子(明正天皇)は、配偶者もなく子供もなく、74歳で寂しい生涯を閉じた。 【第110代 後光明(ごこうみょう)天皇】 異名異称: 紹仁(つぐひと) 生誕没年: 寛永10年(1633) 〜 承応3年(1654)(22歳) 在位期間: 寛永20年(1643) 〜 承応3年(1654) 父: 後水尾天皇 母: 園光子 皇后: 庭田季子 皇子女: 孝子内親王 10才年上の異母姉明正天皇から11才で譲位を受ける。父譲りの「幕府嫌い」は徹底しており、事あるごとに幕府と衝突した。その 為22才で崩御したのも幕府による毒殺ではないかとの見方がある。今で言う「硬派」で、「源氏物語」や「伊勢物語」などは「頽廃 の文学」であるとして遠ざけた。しかしながら後水尾天皇は、退位後84歳で崩御するまで、明正天皇、後光明天皇、後西天皇と自分 の娘や息子の在位期間を生き抜き、大往生を遂げるのだが、息子である後光明天皇が、幕府と対立しようとしたとき、朝廷と幕府との 融和を説き、決して幕府と対立しないように働きかけたとも言われている。 【第111代 後西(ごさい)天皇】 異名異称: 長仁(ながひと) 生誕没年: 寛永14年(1637) 〜 貞享2年(1685)(49歳) 在位期間: 明暦2年(1654) 〜 寛文3年(1663) 父: 後水尾天皇 母: 櫛笥隆子 皇妃: 明子女王、清閑寺共子、源氏、藤原氏、藤原定子、藤原条子、菅原氏 皇子女: 誠子内親王、長仁親王、幸仁親王、宗栄、永悟親王、高栄、義延親王、天真親王、聖安、益子内親王、 公弁親王、道祐親王、尚仁親王、理豊女王、瑞光、尊杲、道尊親王、尊勝女王、良応親王 後水尾天皇の第6子で在位10年で弟の識仁(さとひと)親王に譲位した。この天皇の御代に天災・火災が続出し、それを理由に幕府 は退位を迫った。
第112代 霊元天皇(れいげんてんのう) 異名異称: 識仁(さとひと) 生誕没年: 承応3年(1654) 〜 享保17年(1732)(79歳) 在位期間: 寛文3年(1663) 〜 貞享4年(1687) 父: 後水尾天皇 母: 園国子 皇后: 鷹司房子 皇妃: 明子女王、清閑寺共子、源氏、藤原氏、藤原定子、藤原条子、菅原氏 皇子女: 憲子内親王、済深親王、寛隆親王、栄子内親王、朝仁親王(東山天皇)、福子内親王、 堯延親王、永秀女王、文仁親王、勝子内親王、性応親王、文喜、元秀、尊賞親王、永応女王、 職仁親王、吉子内親王、尊胤親王、堯恭親王、他皇女某・皇子某 聡明ゆえに、後水尾天皇はこの親王をとくに可愛がった。深い教養を持ち文学管弦にも通じていたが、その聡明さゆえに幕府の監視は 強化された。 当時の朝廷中枢では、朝廷運営について、天皇親政を理想とする霊元天皇と、天皇の意向を受けつつ関白ら臣下の者たちの合議体制に よって行うのが基本という近衛基熈らの、二つの相反する考え方が存在していた。上皇となっても霊元帝と近衛基熈は、たびたび衝突 し、対幕府についても、自己主張を強引に進める上皇に対し、近衛は幕府との対立を避けて朝廷の繁栄の道を模索していた。全体的に は、近衛基熈・家熈父子優位の形で朝廷運営がなされたが、家熈が摂政を辞任し、基熈の娘婿である将軍家宣が死去すると、霊元上皇 の意向を受けた朝幕関係が進められた。霊元天皇の在世中に高まった朝儀の再興・充実への機運は、桜町天皇の在世中までは引き継が れたが、桜町上皇の没後、天皇の早世が続くという皇統の危機を迎え、「朝廷復古」に向けて主導権を発揮する者が現れにくい状況と なり、朝儀再興の実現は事実上頓挫した。 第113代 東山天皇(ひがしやまてんのう) 異名異称: 朝仁(あさひと) 生誕没年: 延宝3年(1675) 〜 宝永6年(1709)(35歳) 在位期間: 貞享4年(1687) 〜 宝永6年(1709) 父: 霊元天皇 母: 松木宗子 皇后: 幸子 皇妃: 櫛笥賀子、藤原経子、菅原氏 皇子女: 公寛親王、秋子内親王、慶仁親王(中御門天皇)、直仁親王、聖祝 霊元天皇の第4皇子。13才で即位し、在位期間は23年にわたった。父霊元天皇と幕府の間に立って仲介役をこなしたが、帝自身も幕府 には強い不信感を抱いていた。この天皇の御代に、新井白石の建白によって宮家の新設が始まった。それまでは、退位した天皇は僧か 尼になるのが普通であった。
第114代 中御門天皇(なかみかどてんのう) 異名異称: 慶仁(やすひと) 生誕没年: 元禄14年(1701) 〜 元文2年(1737)(37歳) 在位期間: 宝永7年(1710) 〜 享保20年(1735) 父: 東山天皇 母: 櫛笥賀子 皇后: 近衛尚子 皇妃: 藤原石子、藤原常子、源夏子、菅原寛子、丹波某 皇子女: 照仁親王(桜町天皇)、聖珊女王、公遵親王、忠誉親王、慈仁親王、 理秀女王、成子内親王、尊乗女王、永皎女王、遵仁親王 東山帝の第5皇子で、10才で即位後、27年間在位した。音律雅楽に造詣が深く、宮中における大床御膳(だいしょうおもの)の儀、 白馬節句(あおうまのせちえ)、晴出御(はれのしゅつぎょ)の儀、胡飲酒舞(こんじゅのまい)などの諸儀舞楽を復興させた。 35歳迄の在位期間中霊元天皇の院政が続いた。即位と同じ時期に、新井白石が徳川幕府に登用され、吉宗が8代将軍になった。 第115代 桜町天皇(さくらまちてんのう) 異名異称: 照仁(てるひと) 生誕没年: 享保5年(1720) 〜 寛延3年(1750)(31歳) 在位期間: 享保20年(1735)〜 延享4年(1747) 父: 中御門天皇 第一皇子 母: 近衛尚子 皇后: 二条舎子 皇妃: 姉小路定子、藤原資子 皇子女: 盛子内親王、智子内親王(後桜町天皇)、遐仁親王(桃園天皇) この帝の御代には、ながらく途絶えていた大嘗祭(だいじょうさい)が復興されている。また、宇佐神宮、香椎宮、春日大社などへの 奉幣使(ほうへいし)の派遣も同様に復興した。時代は、8代将軍吉宗、9代家茂の時代である。16歳から28歳迄在位したが、 幕府の圧力で我が子桃園天皇へ譲位し、3年後31歳で崩御した。 第116代 桃園天皇(ももぞのてんのう) 異名異称: 遐仁(とおひと) 生誕没年: 寛保元年(1741) 〜 宝暦12年(1762)(22歳) 在位期間: 延享4年(1747) 〜 宝暦12年(1762) 父: 桜町天皇 第一皇子 母: 藤原定子 皇后: 一条富子 皇妃: 姉小路定子、藤原資子 皇子女: 英仁親王(後桃園天皇)、貞行親王 桜町天皇の第一皇子。7才で即位、16年在位した。聡明で学問を好んだが、22才の若さで崩御している。18歳の時、「宝暦事件」 が発生した。京都の竹内式部が、桃園天皇・公家達を相手に尊王論を説いて宝暦8年(1758)幕府に処罰された。この事件は京都の尊皇 論者らが江戸幕府によって処罰された最初の事件となった。やがて明和事件等を経て、百年後の明治維新へ繋がっていく尊皇思想の萌 芽である。一方では西洋の情報も次第に我が国へ移入されるようになり、この頃、杉田玄白が西洋外科医術を唱えた。 第117代 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう) 異名異称: 智子(さとこ) 生誕没年: 元文5年(1740) 〜 文化10年(1813)(74歳) 在位期間: 宝暦13年(1763)〜 明和7年(1770) 父: 桜町天皇 母: 二条舎子 皇后: − 皇妃: − 皇子女: なし 最後の女帝である後桜町天皇は、桜町帝の第二皇女で24才で即位、8年間の在位だった。先帝が崩じると、皇太子の英仁(ひでひと)親王 が帝位につくはずだったが、まだ5才と幼かったため、親王が長じるまでの数年という期日を区切った就任だった。幕府にとって、この帝 の御代は御しやすかった。だが、先帝の御代に起きた「宝暦事件」の火種は相変わらず燻り続けていた。 「宝暦事件」とは、先帝の近臣20数名が、国学者で神道家であった竹内式部の講義を英邁な桃園天皇に受講させようと目論んだ事に対す る幕府の報復であった。講義内容は、天子こそが本来の最高者であり、幕府と言えども支配できるものではないという尊皇の思想に満ち あふれていた。幕府にとって、これは大変な危険思想だった。結果、多くの近臣が流罪となっている。だが、この思想はとぎれる事はな く、地下に潜って多くの勤王の士を育んでいった。しかし後桜町天皇は、女帝という事もあってか、こうした思想の波とは無縁であった ようである。
第118代 後桃園天皇(ごももぞのてんのう) 異名異称: 英仁(ひでひと) 生誕没年: 宝暦8年(1758) 〜 安永8年(1779)(22歳) 在位期間: 明和5年(1768) 〜 安永8年(1779) 父: 桃園天皇 第一皇子 母: 一条富子 皇后: 近衛維子 皇妃: 皇子女: 欣子内親王 13才で元服すると、かねてよりの取り決めの通り、叔母である後桜町帝より譲位された。時は将軍家治(いえはる)・田沼意次の時代で、 綱紀はゆるみ、勤王思想はますます大きくなっていった。この帝は廃絶していた稲荷祭を復興した。この天皇も、父と同じく22歳で 崩御している。 第119代 光格天皇(こうかくてんのう) 異名異称: 師仁(もろひと) 生誕没年: 明和8年(1771) 〜 天保11年(1840)(70歳) 在位期間: 安永9年(1780) 〜 文化14年(1817) 父: 閑院宮典仁親王 母: 大江磐代 皇后: 欣子内親王 皇妃: 勧修寺■子、藤原聡子、藤原正子、藤原頼子、藤原明子、菅原和子、長橋局 皇子女: 礼仁親王、温仁親王、恵仁親王(仁孝天皇)、盛仁親王、悦仁親王、永潤、蓁子内親王、聖清 閑院宮家から即位した光格天皇はわずか8才であった。以後在位は39年間におよんだ。帝は無冠の父君に「太上(だじょう)天皇」 の追尊を幕府に願い出たが、老中松平定信に拒絶された。「尊号事件」である。 光格天皇は、天皇が神武天皇以来の皇統であり日本国の君主であるとの強い意識の下に、朝廷儀式の復興など朝権の回復に努力した。 この帝は修験道にも理解を示し、京都聖護院に対して、役行者に「神変大菩薩」という諡号をおくっている。
第120代 仁孝(にんこう)天皇 異名異称: 恵仁(あやひと) 生誕没年: 寛政12年(1800)〜 弘化3年(1846)(47歳) 在位期間: 文化14年(1817)〜 父: 光格天皇 第四皇子 母: 勧修寺■子 皇后: 鷹司繋子 皇妃: 正親町雅子、藤原妍子、藤原績子、藤原常子 皇子女: 安仁親王、淑子内親王、統仁親王(孝明天皇)、節仁親王、親子内親王 18才で即位した仁孝天皇は、先帝の意志を継ぎ、公家の師弟の教育機関である学習所の創設を決意。三条実万(さんじょうさねつむ)ら を起用して、建春門外に講堂を建設する事を計画、工事が着工された。現在の学習院大学の前身である。 仁孝天皇のあと孝明天皇・明治天皇と続くのであるが、仁孝天皇は父光格天皇の院政のもと、親子一体となって尊皇思想を軸に幕末の 難局に立ち向かった。
一画に、織田信長が立てたと言われる「楊貴妃観音堂」がある。月輪が留学僧として宋に渡ったとき買い求めてきた物とされている が、実に見事なできばえで立像の名作とされ、つい最近まで100年に1回しか公開されておらず、しかも天皇皇族と泉涌寺関係者 しか見学を許されていなかった逸品である。楊貴妃も観音様になるんだ。