Music: Fool hill

第83代 土御門天皇 京都府長岡京市金原陵 2001.9.9(日)




		【土御門(つちみかど)天皇】
		別名: 為仁(ためひと)、阿波院、行源
		誕生崩御: 建久6年(1195) 〜 寛喜3年(1231)(37歳)  
		在位期間:  建久9年(1198)〜 承元4(1210)年
		時代: 鎌倉時代
		父:  後鳥羽天皇 
		母:  源在子(中納言源通親(みちちか)の娘:承明門院)
		皇后: 大炊御門麗子
		皇妃: 土御門通子、高階氏、源氏、藤原氏、藤原氏、藤原氏、藤原氏、源氏、源氏、源氏、尾張局、丹波局
		皇子女:尊守親王、道仁親王、春子女王、覚子内親王、仁助親王、静仁親王、尊助親王、邦仁親王(後嵯峨天皇)、
		    道円親王、曦子内親王、最仁親王、諄子内親王、増仁、秀子女王、知子女王、信子女王、是子女王、
		    懐尊、寂恵  
		宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
		御陵: 金原陵 (かねがはらのみささぎ:京都府長岡京市金ケ原金原寺)
		    (阪急電車「長岡京市」から徒歩40分:火葬塚が徳島県鳴門市大麻町にあり。) 



 


	徒歩の場合は、阪急電車「長岡京駅」を出て西方向へ歩き出す。長岡天満宮の前の車道を少し南へ向かうと、途中に「御陵道」
	の看板がある。昔からの石塔も建っている。ここからさらに西へ歩くこと約20分で御陵に着く。

 


	金ヶ原の集落へ入った所に石塔の案内があってその脇に道があった。しかし石碑には「左へ」とあるのでおかしいなと思い、歩
	いてきた近所の婆さんに聞くと、「こっちからも行けるで。」と言うので歩き出したが一向に分からない。下のような竹藪の中
	を進むが、それらしき森はない。竹藪を登り切った所に手書きの紙が木に貼ってあり、「土御門御陵通」と書いてあって、今来
	た道の方に矢印がある。「なんじゃあ」と思いながら、又引き返して見ると、竹藪の入り口左側に、
 


	こんもりとしたそれらしき森があった。「あれだ!」と分かったがここからだと畑や田圃の中を突っ切らなければならず、しか
	たなく、最初の石碑の所まで引き返す。「くそー、あの婆さんめ。」



石碑からほんの100mの所に駐車場と案内板がたっていた。道の際に、宮内庁の看板が立っていた。30分は探し歩いた勘定だ。

 






	建久3年(1192)後白河崩じて後鳥羽天皇の親政となったが、頼朝は娘大姫(おおひめ)の入内を画策して丹後局や源通親に接近
	した。その為、後鳥羽天皇に近かった、九条兼家や妹婿の一条能保が失脚し、朝廷との関係は安定を欠く事になり、やがて「承久
	の乱」へ至ることになる。一条家は頼朝に見放されて、後鳥羽天皇に取り入らざるを得なくなり、能保の子、信能・酋長・長能・
	孫能らが「承久の乱」に参画する事になった。



 


	建久9年(1198)、後鳥羽天皇は長子為仁(ためひと)に譲位し院政をしいた。しかし為仁の母は、中納言源通親の娘とは言うもの
	の養女であり、実は僧能円(のうえん)の娘で出自極めて低く、やがて承元4年(1210)次子の守成が即位して順徳天皇となった。
	為仁もまたト(ぼく)ぜいによって選出された天皇であったが、上皇をもしのぐ実力者で外祖父でもあった源通親が没すると同時
	に、後鳥羽上皇により退位させられたのである。




	「承久討幕の議」(承久の乱:1221承久3年)は、後鳥羽上皇と順徳天皇の共同謀議であり、土御門上皇は関与していなかったが、
	父や兄弟が流刑される中、一人都にとどまるのを潔しとせず、幕府に申し入れて自ら土佐へ流刑と言う形をとった。その後幕府に
	より、「少しでも都に近い方へ」という配慮で阿波へ転出するが、没するまでここですごす事になった。今も阿波には火葬墓が残
	っている。没後、ここ金原に御陵が築造されるが、どうしてこの地なのかは不明である。書や文芸にも造詣深く、「土御門院御集」
	が残る。



 


	承久の乱

	後鳥羽上皇は、度重なる熊野詣や寺社造営に乱費を繰り返して財政を圧迫し、専制指向を強めていたが、将軍源実朝が緩衝勢力と
	なっ幕府との全面対立には至っていなかった。しかし実朝が甥の公暁(くぎょう)に鎌倉で暗殺されると、後鳥羽は幕府との協調
	に意欲を失い、急速に幕府との関係は悪化していく。上皇は反幕府勢力を引き寄せ、幕府の宮将軍東下(鎌倉詣)要請も蹴ってし
	まう。息子の順徳天皇も反鎌倉で父後鳥羽と決起することを決め、承久3年4月、嫡男懐成(かねなり:85代仲恭天皇)に譲位し
	てしまう。そして5月15日後鳥羽上皇は京都守護職を滅ぼし、ここに「承久の乱」が開始された。
	結果は後鳥羽上皇側の大敗で、参謀の宮廷臣下達は処刑され、後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ、その他の重臣も但馬・備前などへ
	流刑となった。



	2004年2月、京都嵯峨野の二尊院を訪ねたとき、境内に土御門天皇・後嵯峨天皇・亀山天皇の「三帝陵」というのがあった。
	後嵯峨天皇は土御門天皇の第3皇子で、亀山天皇はその後嵯峨天皇の第3皇子である。後嵯峨天皇・亀山天皇の陵墓はそれぞれ
	「嵯峨南陵」「亀山陵」として、右京区の嵯峨天竜寺にあるのだが、この陵墓がどうしてここにあるのかはわからない。土御門
	天皇は子、孫と一緒にここにも祀られている。














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