【第40代天武(てんむ)天皇】 異名: 大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 生没年: ?年〜 朱鳥(しゅちょう)元年(686)(?歳) 在位: 年(673) 〜 朱鳥元年(686) 父: 舒明天皇(田村皇子) 母: 皇極天皇、斉明天皇(宝皇女) 皇后: 鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇) 皇妃: 大田(おおた)皇女、大江(おおえ)皇女、新田部(にいたべ)皇女、氷上娘(ひかみのいらつめ:中臣鎌足の娘)、 五百重娘(いおえのいらつめ:氷上娘の妹)、額田王(ぬかたのおおきみ)、尼子娘(あまこのいらつめ) 皇女子: 大来(おおく)皇女、大津皇子(おうつのみこ)・・・ 以上母は大田皇女 草壁皇子(くさかべのおうじ)・・・ 母は鵜野讃良皇女 長皇子(ながおうじ)、弓削皇子(ゆげおうじ)・・・母は大江皇女 舎人親王(とめりしんのう)・・・ 母は新田部皇女 但馬皇女(たじまのこうじょ) ・・・ 母は氷上娘 新田部親王(にいたべのしんのう) ・・・ 母は五百重娘 十市(とおち)皇女 ・・・母は額田王。大友皇子皇后。 武市(たけち)皇子 ・・・母は尼子娘。 忍壁(おさかべ)皇子、磯城(しき)皇子、泊瀬部(はつせべ)皇女、託基(たき)皇女 宮居: 飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや:奈良県高市郡明日香村) 御陵: 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ: 同上 ) 【第41代持統(じとう)天皇】 異名: 鵜野讃良皇女(うのささら)、大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめ)、 高天原広野姫(たかまがはらひろの) 生没年: 大化元年(645)〜 大宝2年(702)(58歳) 称制: 朱鳥元年(686)〜 持統4年(690) 在位: 持統4年(690)〜 持統11年(697) 父: 天智天皇 第2皇女 母: 蘇我遠智娘(そがのおちひめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘) 夫: 天武天皇(大海人皇子) 皇女子: 草壁皇子(くさかべのおうじ) 宮居: 飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや:奈良県高市郡明日香村)、藤原宮(ふじわらのみや:奈良県橿原市) 御陵: 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ:奈良県高市郡明日香村)
兄天智天皇(中大兄皇子:なかおおえのおうじ)の子弘文天皇(大友皇子:おおとものみこ)を、壬申の乱を起こして滅ぼした後、 大海人皇子(おおあまのおうじ)は、近江朝を廃し飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位し天武天皇となった。多く の妃・皇子女があり、その大半が後代の天皇となっている。皇女の一人大伯(おおく)皇女を、長らく途絶えたままになっていた 伊勢の斎宮(いつきのみや)に定めて神祇(じんぎ)の復興につとめた。伊勢神宮を祀る集団は、壬申の乱で大海人皇子に味方し ため天武天皇はその恩義に報い、伊勢神宮を天皇家の守護宮と定めた。そのために斎の宮を再興したのである。これ以後、今に 至るまで伊勢神宮は天皇家の守護社となっている。天武は兄天智天皇の押し進めた中央集権国家体制を更に進め、生涯大臣をおか ず自ら政治を行い、飛鳥浄御原令、八色姓(やくさのかばね)の制定など、中央集権の国家の体制づくりに多くの業績を残した。 又、国史編纂をすすめ記紀成立の基礎を作った。大和朝廷がそれまでの倭に替えて「日本」という国号を使いはじめたのもこの御 代であろうとされる。天皇は、道教や陰陽道に傾倒していた事も有名である。
鵜野讃良(うののさらら)は斉明天皇3年(657)、13歳で叔父の大海人皇子に嫁いだ。斉明7年(661)、斉明天皇の新羅遠征の 際、夫と共に九州へ随行し、翌年筑紫の「那の津」で草壁皇子を産む。同年、父中大兄皇子が皇位を継承し(天智天皇)、夫の大海 人は皇太子となる。天智称制6年頃までには、姉の大田皇女の後、鵜野讃良が大海人皇子の正妻になったものと思われる。 やがて天智天皇は弟ではなく、実子の大友皇子を後継者に望み、大海人皇子は身の危険を察して、天智10年(671)吉野に隠遁。 鵜野讃良も草壁を伴いこれに従った。天智11年壬申の乱勃発。大海人皇子は大友皇子を破り、天武元年(672)、飛鳥浄御原宮で 即位し鵜野讃良も皇后となる。以後夫を輔佐し、ともに律令国家建設に尽力した。吉野宮での六皇子の盟約を経て、天武6(680) 年、我が子「草壁皇子の立太子」を実現する。
朱鳥元年(686)天武天皇が没すると皇后は、即位の式をあげないままその地位を継承して実権を掌握した。そして、まだ喪も明け 切らぬうち天武の子で甥の大津皇子(おおつのみこ)を謀反のかどで処刑した。皇后は我が子草壁皇子の即位を熱望するが、持統 称制3年草壁皇子に先立たれ、以後は孫の珂瑠皇子(かるのみこ)の成長に望みをかけた。同年『飛鳥浄御原令』を施行し、翌年持 統天皇として即位する、持統8年(694)藤原京に遷都し、日本最初の都城制に基づく都を造営した。また仏教を保護し,薬師寺をた てた。 持統10年(696)、孫で草壁の遺児、珂瑠皇子に譲位して、史上最初の太上天皇となった。珂瑠皇子が文武天皇となって後も、太上 天皇として政治を行い、藤原不比等を用いて大宝元年(701)『大宝律令』を完成させた後、翌2年(702)、58才の生涯を閉じた。 夫である天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。在位中に31回の行幸記録も残っている。
歌人柿本人麻呂は、天武・持統・文武と三代にわたる帝に仕え、天武王朝の盛衰を、時代の生き証人としてつぶさに見聞きしたに違 いない。天武王朝とともに歩んでいる。藤原宮と持統天皇ををたたえた柿本人麻呂の歌が残る。 天皇(すめらみこと)の雷岳(いかつ゛ちのをか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかつち)の上(うへ)に 廬(いほ)りせるかも (巻三、二三五) 持統天皇が雷岳(いかづちのおか)においでになるとき柿本人麻呂の作る歌 大君は神にあらせられるので 天雲の雷の上に仮宮を造られている
持統天皇に対する評価は様々である。我が子草壁皇子を皇位につけるため、甥である(実姉の子)大津皇子を謀反人にしたてあげて 殺害してしまうやり方は、おそらく父天智天皇が政敵をかたづけていくやり方をつぶさに見てきた事に起因しているのだろう。 最愛の息子草壁皇子が皇位に就くこと無く病死すると、更に孫の文武天皇の成人まで自分が皇位に就くという、権力志向の塊のよう な人物という見方が一般的かもしれない。病弱な草壁皇子に比べ、大津皇子は懐風藻によると、「幼年にして学を好み、博覧にして 能く文をつづる。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣を撃つ」とあり、これではとても我が子は皇位どころか、やがて大津皇子 の沓前に屈してしまうと持統天皇でなくとも考えるのではなかろうか。我が子を大王にしたいがための母の一念が、大津皇子殺害に 彼女を走らせたとも言える。 多くの権謀や情念が渦巻いた明日香の地に、今は夫婦の合同陵として、天武・持統天皇陵は静かに佇んでいる。
【檜隅大内陵(野口王墓古墳)】 天武天皇と皇后持統天皇の夫婦合葬陵。持統天皇元年(687)に築造され、翌年に天武天皇を埋葬した。8角形の5段築造で、東西45m、 南北50m、高さ9m、墳丘の周囲全長約120m。周囲に石壇をめぐらす。大化薄葬令により天皇としては初めて火葬された持統天 皇を、大宝3年(703)に合葬した記録が日本書紀に残っている。切石積の石室は2室からなり、玄室内には、天武天皇の夾紵棺と持統 天皇の火葬骨を納める金銅製の蔵骨器が棺台の上に置かれている。鎌倉時代に盗掘に会い、その記録が「阿不幾乃山稜記」「明月記」 などに残り、「阿不幾及山陵記」には、墳丘、墓室、墓室内の様子の記載がある。高市郡明日香村野口にあり、近鉄飛鳥駅から北東へ 徒歩約15分〜20分。
【藤原宮】 大和三山(奈良盆地の南にあり、畝傍山、天香具山、耳成山の三山)にかこまれたほぼ真ん中の地に、天武天皇が計画・造営した都。 持統、文武、元明天皇と3代16年間の宮城跡で、唐の都城制度を模倣し長安をモデルにした、我が国で初の本格的都城。有名な、 「春すぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山」という持統天皇の歌はここで詠まれた。持統天皇はここで大宝律令を発 し、律令国家の体制を確立した。
壬申の乱(672年)の翌年、天武天皇は都を守るためこの地に「不破関」を置き、越前の「愛発」、伊勢の「鈴鹿」とともに日本に三 つの関所を作った。関ヶ原は大友皇子(弘文天皇)の軍と戦った場所である。今回関ヶ原を巡って、この他にも「歴史民俗資料館」 や、弘文天皇の首が葬られているという「自害ケ峯」も廻ったがそれらは別コーナーにある。(博物館めぐり、天皇陵めぐり)。 当然「関ヶ原の戦い」も「日本の城と城下町」のコーナーに収録してあるが、時間があれば小早川秀秋が布陣したという松尾山など にも登ってみたかったが、大阪で人と会う時間が迫っていたので断念した。もし次回があれば、今度は気候のいい時期に、弁当を持 って自転車あたりでのんびりと巡ってみたいものだ。ちなみに、私の親戚にも小早川がいる。従兄弟達とは今も時々呑んでいるが、 もともとの本籍地は広島地方なので、小早川秀秋の一族に繋がる家系なのだろうと思われる。子供の頃はよく「裏切り者!」とから かわれたそうだ。