Music: 離宮にて

第38代 天智天皇陵 2000.1.31 山科陵(やましなのみささぎ)





		【第38代天智(てんち/てんじ)天皇】

		異名: 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)、近江大津宮天皇(おうみおおつのみやのすめらみこと)、
		    葛城皇子(かつらぎのおうじ)、開別(ひらかすわけ)皇子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
		生没年: 推古34年(626)〜 天智天皇10年(671)(46歳)
		在位: 天智7年(668) 〜 天智天皇10年(671)
		父:  舒明天皇(田村皇子)第1皇子
		母:  皇極天皇、斉明天皇(宝皇女)
		皇后: 倭姫(やまとのひめ:古人大兄皇子の娘)
		皇妃: 遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)、
			色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、
			伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)
		皇女子: 建皇子(たけるのみこ)、大田(おおt)皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)、・・・ 以上母は遠智娘
			御名部(みなべ)皇女、阿閉(あへ)皇女(元明天皇) ・・・ 以上母は姪娘
			飛鳥(あすか)皇女、新田部(にいたべ)皇女 ・・・ 以上母は橘娘
			山辺(やまのべ)皇女 ・・・ 母は常陸娘
			川島(かわしま)皇子、大江(おおえ)皇女、泉(いずみ)皇女 ・・・ 以上は母は色夫古娘
			施基(しき)皇子 ・・・ 母は道君伊羅都売
			伊賀(いがの)皇子(大友皇子:弘文天皇) ・・・ 母は伊賀采女宅子娘
		宮居:  志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町)  
		御陵: 山科陵(やましなのみささぎ:京都市東山区山科御陵上)





  京都市内からだと、京都市営地下鉄東西線で「醍醐」行きに乗り「御陵(みささぎ)」駅下車、もしくは京阪電鉄京津線「浜大津」行きで「山科」下車。徒歩10〜15分。こんもりとした森の中にこの御陵はある。交差点も「みささぎ」である。
御陵の前に石の「日時計」があった。古くてなんかいわれのありそうな日時計だったが何も案内がないので由来は不明。影で時間を計るようになっているようだった。




		この天皇は有名人である。エピソードには事欠かない。大海人皇子は同母弟、間人皇女(孝徳天皇皇后)は同母妹。中大兄皇子(なかのお
		おえのおうじ)時代には中臣鎌子(藤原鎌足)と謀って有名な「大化の改新」を断行し、蘇我一族による政権を打倒した。日本最初の全
		国的な戸籍を作り(庚午年籍:こうごねんじゃく)、班田収受の法を実施するなど、朝廷による中央集権の体制を確立した事でも有名。
		弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のち天武天皇)と額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐっての恋の駆け引きもなかなか味わい深いも
		のがある。

 

入り口から陵までは大分歩く。両側は高い木々が立ち並び、歩くうちに廻りの喧噪がかき消えてしまい静かな空間になっていく。

 


		中大兄皇子は、「大化改新」後もなかなか即位しない。父の舒明天皇時代は蘇我蝦夷・入鹿全盛時代であったから皇子の意見など通るべ
		くもないが、父の死後まだ16才だったので、母の宝姫皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位する。しかし入鹿がいる限り、蘇
		我氏の血を引いていない皇子は永久に天皇にはなれない。そこで入鹿暗殺という事になるのだが、「大化改新」を起こした後皇極天皇は
		中大兄皇子に即位を促すが、皇子らは叔父(皇極帝の弟)の軽皇子(かるのみこ)を孝徳天皇として即位させる。しかし孝徳帝は結局、
		中大兄皇子、中臣鎌子らの傀儡でしかなかった。




		政変後即位した孝徳天皇の御代、次代の斉明天皇の御代それぞれ皇太子となり、国政に携わる。大化元年9月、吉野に出家していた古人
		大兄皇子(舒明天皇の第1皇子)謀反の密告をもとに、中大兄皇子は兵を差し向け古人大兄皇子を殺害する。
		孝徳帝崩御後もまだ中大兄皇子は即位しない。しかたなく母の皇極女帝が再び即位する。重祚(ちょうそ)である。皇極女帝は斉明天皇
		となる。歴史上始めての重祚であった。孝徳天皇崩御後、孝徳天皇の遺児有間皇子を謀反のかどで処刑するなど、皇太子のまま実権を握
		っていた。その後朝鮮半島では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・中大兄皇子らは飛鳥を離れ九州に赴く。筑紫(福岡県)の
		朝倉の地に、橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を仮宮として建設し、ここで百済救済の陣頭指揮にあたるが斉明天皇はここで崩御
		する。急死であったため朝倉の地に葬られたが、入鹿の怨霊が大鬼となって女帝の葬列を山の端から眺めたとか、鬼火が宮廷の廻りを飛
		び交ったとかいう伝説が残っている。推定地はあるが、この橘広庭宮の跡も斉明天皇の墓も未だ確定してはいない。

 


		斉明天皇の崩御(660年)直後、白村江(はくすきのえ)で日本軍は唐・新羅連合軍に敗退し、ここに百済は滅亡した。中大兄皇子は敗戦
		の将兵・百済からの亡命者等々を引き連れて飛鳥へ引き上げるが、百済からの逃亡者はその後も大挙して日本に亡命し、大量の帰化人を
		生んだ。朝廷はその後連合軍の上陸を恐れ、筑紫に防人を配置し、太宰府を守るため1キロに渡る水城(みずき)を築く。
		母斉明天皇の死に伴い、中大兄皇子は称制(天皇に代わって臨時に国政を行う事)し、6年間天皇不在の時代が続く。
		天智6年(668)正式に即位し、その後住み慣れた飛鳥をでて近江に遷都する。ここでやっと「天智天皇」となるのである。斉明天皇が朝
		倉で崩御して6年後の事であった。皇子はすでに43才になっていた。近江国大津(滋賀県)で、近江令(おうみりょう 法令)の制定等
		を行った。
	
 


		同母弟で、皇位継承の最有力候補で、一旦立太子されていた大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀殺して行く天智天皇
		を怖れ、天智天皇から皇位の打診があった際これを断り、自ら剃髪して吉野に出家する。そこで天智天皇は、長子の大友皇子(後の弘文
		天皇)を後継に擁立して、大海人皇子の出家から2ケ月後、即位から3年で近江に崩御した。46才。

 


		平安時代末期、僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、「一云」として、天智天皇が馬に乗って山科の里へ遠出し帰ってこず、数日
		後履(は)いていた沓が見つかった。その沓の落ちていた所を御陵としたという。この記事を持って、天智天皇の死は暗殺ではないかと
		いうような説もあるようだ。近年、乙巳の変(大化改新)の主導者を、中大兄でなく軽皇子(孝徳天皇)だったとする説が提出され、注
		目された。中臣鎌足は軽皇子と結びついていたというが、例によって「真相は闇の中」である(遠山美都男『大化改新』など)。
		日本書紀には、「天智陵」について記載はない。しかし万葉集に「山科の鏡の山」に御陵を築いた記述が見える。また「延喜諸陵式」に
		「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、山科山陵を墓所とするとある。
		また天平九年成立の「大安寺伽藍縁起併流記資財帳」によれば、倭姫大后が「仲天皇」と称されており、天智崩後、倭姫大后が中継天皇
		として即位した可能性もある。

 


		以下の天智陵は、考古学的には「御廟野古墳」と呼ばれている。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置し、古墳時代終末期。
		上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしている。下方部は二段築成で、上段は一辺46m、下段は一辺70m。但し下段は
		南側のみが造成されている。また上段、下段とも石列がある。正面には「沓石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石がある。宮内庁比定
		の天皇陵の中でも、ここは衆目が一致する「天智天皇陵」である。




		現滋賀県大津市には、天智天皇の「近江大津宮」の跡地と見られる「錦織遺跡」がある。奈良・飛鳥から遷都された大津京跡とされてい
		る。 昭和58年、宮の中心となる内裏正殿の建物跡が検出され、長い間謎だった幻の大津宮の位置が明らかになった。宮に関する遺構と
		しては、巨大な柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっている。



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