【第38代天智(てんち/てんじ)天皇】 異名: 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)、近江大津宮天皇(おうみおおつのみやのすめらみこと)、 葛城皇子(かつらぎのおうじ)、開別(ひらかすわけ)皇子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) 生没年: 推古34年(626)〜 天智天皇10年(671)(46歳) 在位: 天智7年(668) 〜 天智天皇10年(671) 父: 舒明天皇(田村皇子)第1皇子 母: 皇極天皇、斉明天皇(宝皇女) 皇后: 倭姫(やまとのひめ:古人大兄皇子の娘) 皇妃: 遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)、 色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、 伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ) 皇女子: 建皇子(たけるのみこ)、大田(おおt)皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)、・・・ 以上母は遠智娘 御名部(みなべ)皇女、阿閉(あへ)皇女(元明天皇) ・・・ 以上母は姪娘 飛鳥(あすか)皇女、新田部(にいたべ)皇女 ・・・ 以上母は橘娘 山辺(やまのべ)皇女 ・・・ 母は常陸娘 川島(かわしま)皇子、大江(おおえ)皇女、泉(いずみ)皇女 ・・・ 以上は母は色夫古娘 施基(しき)皇子 ・・・ 母は道君伊羅都売 伊賀(いがの)皇子(大友皇子:弘文天皇) ・・・ 母は伊賀采女宅子娘 宮居: 志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町) 御陵: 山科陵(やましなのみささぎ:京都市東山区山科御陵上)
この天皇は有名人である。エピソードには事欠かない。大海人皇子は同母弟、間人皇女(孝徳天皇皇后)は同母妹。中大兄皇子(なかのお おえのおうじ)時代には中臣鎌子(藤原鎌足)と謀って有名な「大化の改新」を断行し、蘇我一族による政権を打倒した。日本最初の全 国的な戸籍を作り(庚午年籍:こうごねんじゃく)、班田収受の法を実施するなど、朝廷による中央集権の体制を確立した事でも有名。 弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のち天武天皇)と額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐっての恋の駆け引きもなかなか味わい深いも のがある。
中大兄皇子は、「大化改新」後もなかなか即位しない。父の舒明天皇時代は蘇我蝦夷・入鹿全盛時代であったから皇子の意見など通るべ くもないが、父の死後まだ16才だったので、母の宝姫皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位する。しかし入鹿がいる限り、蘇 我氏の血を引いていない皇子は永久に天皇にはなれない。そこで入鹿暗殺という事になるのだが、「大化改新」を起こした後皇極天皇は 中大兄皇子に即位を促すが、皇子らは叔父(皇極帝の弟)の軽皇子(かるのみこ)を孝徳天皇として即位させる。しかし孝徳帝は結局、 中大兄皇子、中臣鎌子らの傀儡でしかなかった。
政変後即位した孝徳天皇の御代、次代の斉明天皇の御代それぞれ皇太子となり、国政に携わる。大化元年9月、吉野に出家していた古人 大兄皇子(舒明天皇の第1皇子)謀反の密告をもとに、中大兄皇子は兵を差し向け古人大兄皇子を殺害する。 孝徳帝崩御後もまだ中大兄皇子は即位しない。しかたなく母の皇極女帝が再び即位する。重祚(ちょうそ)である。皇極女帝は斉明天皇 となる。歴史上始めての重祚であった。孝徳天皇崩御後、孝徳天皇の遺児有間皇子を謀反のかどで処刑するなど、皇太子のまま実権を握 っていた。その後朝鮮半島では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・中大兄皇子らは飛鳥を離れ九州に赴く。筑紫(福岡県)の 朝倉の地に、橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を仮宮として建設し、ここで百済救済の陣頭指揮にあたるが斉明天皇はここで崩御 する。急死であったため朝倉の地に葬られたが、入鹿の怨霊が大鬼となって女帝の葬列を山の端から眺めたとか、鬼火が宮廷の廻りを飛 び交ったとかいう伝説が残っている。推定地はあるが、この橘広庭宮の跡も斉明天皇の墓も未だ確定してはいない。
斉明天皇の崩御(660年)直後、白村江(はくすきのえ)で日本軍は唐・新羅連合軍に敗退し、ここに百済は滅亡した。中大兄皇子は敗戦 の将兵・百済からの亡命者等々を引き連れて飛鳥へ引き上げるが、百済からの逃亡者はその後も大挙して日本に亡命し、大量の帰化人を 生んだ。朝廷はその後連合軍の上陸を恐れ、筑紫に防人を配置し、太宰府を守るため1キロに渡る水城(みずき)を築く。 母斉明天皇の死に伴い、中大兄皇子は称制(天皇に代わって臨時に国政を行う事)し、6年間天皇不在の時代が続く。 天智6年(668)正式に即位し、その後住み慣れた飛鳥をでて近江に遷都する。ここでやっと「天智天皇」となるのである。斉明天皇が朝 倉で崩御して6年後の事であった。皇子はすでに43才になっていた。近江国大津(滋賀県)で、近江令(おうみりょう 法令)の制定等 を行った。
同母弟で、皇位継承の最有力候補で、一旦立太子されていた大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀殺して行く天智天皇 を怖れ、天智天皇から皇位の打診があった際これを断り、自ら剃髪して吉野に出家する。そこで天智天皇は、長子の大友皇子(後の弘文 天皇)を後継に擁立して、大海人皇子の出家から2ケ月後、即位から3年で近江に崩御した。46才。
平安時代末期、僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、「一云」として、天智天皇が馬に乗って山科の里へ遠出し帰ってこず、数日 後履(は)いていた沓が見つかった。その沓の落ちていた所を御陵としたという。この記事を持って、天智天皇の死は暗殺ではないかと いうような説もあるようだ。近年、乙巳の変(大化改新)の主導者を、中大兄でなく軽皇子(孝徳天皇)だったとする説が提出され、注 目された。中臣鎌足は軽皇子と結びついていたというが、例によって「真相は闇の中」である(遠山美都男『大化改新』など)。 日本書紀には、「天智陵」について記載はない。しかし万葉集に「山科の鏡の山」に御陵を築いた記述が見える。また「延喜諸陵式」に 「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、山科山陵を墓所とするとある。 また天平九年成立の「大安寺伽藍縁起併流記資財帳」によれば、倭姫大后が「仲天皇」と称されており、天智崩後、倭姫大后が中継天皇 として即位した可能性もある。
以下の天智陵は、考古学的には「御廟野古墳」と呼ばれている。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置し、古墳時代終末期。 上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしている。下方部は二段築成で、上段は一辺46m、下段は一辺70m。但し下段は 南側のみが造成されている。また上段、下段とも石列がある。正面には「沓石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石がある。宮内庁比定 の天皇陵の中でも、ここは衆目が一致する「天智天皇陵」である。
現滋賀県大津市には、天智天皇の「近江大津宮」の跡地と見られる「錦織遺跡」がある。奈良・飛鳥から遷都された大津京跡とされてい る。 昭和58年、宮の中心となる内裏正殿の建物跡が検出され、長い間謎だった幻の大津宮の位置が明らかになった。宮に関する遺構と しては、巨大な柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっている。