Music: 将門のテーマ

第75代 崇徳天皇陵

平成15年8月13日 白峯陵

字の大きさは、「小」か「最小」で御覧下さい。

 


				【第75代 崇徳(すとく)天皇】
				別名: 顕仁(あきひと)、崇徳院、讃岐院
				生没年:元永2年(1119) 〜 長寛2年(1164)(46歳)  
				在位: 保安4年(1123) 〜 永治元年(1141)
				父:  鳥羽天皇  第1子
				母:  藤原璋子(待賢門院)
				皇后:  藤原聖子
				皇妃: 源氏某
				皇子女:重仁親王、覚恵
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				陵:  白峯陵(しらみねのみささぎ:香川県坂出市青海町)
					五色台白峰山中、稚児ヶ嶽の上、白峯寺(第81番札所)にある。


		奈良の赤土(シャクド)さんという方からmailを頂いて、「天皇陵めぐり」に「75代が欠けているよう
		ですが。」とご指摘があった。mailには返答したのだが、今まで何度か行きかけてドタキャンになり、そ
		の内、この天皇の憤怒の凄まじさに気後れがして、何となく足が遠のいていたのである。讃岐に一泊して、
		さぬきうどんを食べながらの讃岐行脚も計画したことがあるのだが、何か用事でダメになり、「まぁいい
		か、その内行けるだろう。」とほったらかしていたのである。赤土さんは、「殿に代わって私がこの夏廻
		ってきましょう。」とまで仰ったので、「しかたない、行ってみるか。」と腰を上げた。赤土さんもこの
		夏の終わりにご訪問される予定だそうだ。

		幸い、今年の帰省は車で帰ろうという事になったので、瀬戸大橋から讃岐に入り、そこから八幡浜へ行っ
		てフェリーに乗り、アジ・サバで有名な大分の佐賀関へ上陸して、大分街道を走って郷里の福岡県・秋月
		へ、というプランを立てた。朝7:00に大阪吹田の自宅を出て、さぬきうどんを食べたりして天皇陵とその
		ゆかりの地を巡り、実家に帰り着いたのは真夜中の0:00だった。

 
上左の写真で、岩肌がむき出しになった崖のような所が「稚児ヶ嶽」で、あの右手に御陵がある。

 

十三重の石塔。白峰寺へ向う途中の右手にあり、源頼朝が崇徳上皇の菩提の為に建立したと伝えられる。

 




		ほんとはさぬきうどんを食べた後、最後尾の「崇徳天皇ゆかりの地」を先に尋ね、それから最後にこの陵
		を訪ねたのだが、構成上、御陵を最初に持ってきた。
		雲井御所で車が上がらなかったら今日はここにはこれないかなと心配したが、何とか白峯寺(陵)へたど
		り着いた。白峰山の上頂である。見晴らしはいいが、こんな所まで遺体を運び上げるのはさぞ大変だった
		ろう。



 


		鳥羽天皇の第1皇子で、白河法皇の圧力による鳥羽天皇の譲位により5歳にして即位。雅仁親王(後白河
		天皇)が同母弟、躰仁親王(近衛天皇)は異母弟。父の鳥羽天皇は上皇となったが、皇室の権限は依然曾祖
		父の白河法皇が一手に握っていた。しかし、大治4年(1129)白河法皇が崩じると情勢は一変し、鳥羽上
		皇が実権を掌握し、異母弟にあたる鳥羽上皇の第8皇子体仁親王(近衛天皇)が皇太子(弟)となった。
		崇徳天皇は、2年後には鳥羽上皇から譲位を強要されてわずか2歳の近衛天皇に譲位した。久寿2年(11
		55)、近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳院は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によ
		って阻まれ、同母弟雅仁親王(後白河天皇)が即位した。翌保元元年(1156)鳥羽法皇が崩御すると崇徳院
		は、源為義、平忠正らと蜂起するが(保元の乱)、敗北して讃岐に流され、この地で失意の内に崩御した。




		この辺りの経緯については、先代までの帝の欄に記述したので繰り返さないが、鳥羽上皇が崇徳天皇を実
		子ではなく、白河法皇の子だと信じ「叔父子」と呼んだという話は、「古事談」という書物に書き記され
		ていて、その真偽を巡っては現在でも論議が続いている。しかし、鳥羽法王の崇徳上皇に対する仕打ちや、
		保元の乱へ至る経緯を考えると、この話はおおむね真実ではないかと思える。
		「古事談」鎌倉時代の説話集、源顕兼編。



		
		鳥羽上皇と崇徳天皇の確執は事実である。鳥羽上皇はあらゆる局面において崇徳天皇を嫌う。そしてその
		一番の根は「崇徳天皇が白河法王の子」という点を事実と考えなければ理解できないような凄まじさであ
		る。多くの本が、二人の関係を確執という言葉で表現しているが、どちらかと言えば、完璧に鳥羽上皇に
		よる「崇徳いじめ」であろう。崇徳天皇自身には殆ど非がないのではないか。

 

門を入ると正面に案内所があり、各種グッズを売っている。その右手に客殿がある。

 

		
		白河上皇により20歳で鳥羽天皇は退位させられ、わずか5歳の崇徳天皇が即位した。譲位させられた鳥
		羽上皇は、白河上皇存命のうちは何の権限ももてず、天皇でもなく「治天の君」(院政の主)として権力
		を振るうこともできない。そして我が子を「叔父子」と呼ぶのである。崇徳帝にしてみれば、みんなあず
		かり知らぬ所である。前にも書いたが、もしこの話で一番の悪玉を挙げるとすれば、それは白河法王であ
		ろうと思われる。

 


		鳥羽法王重体の報に崇徳上皇は鳥羽殿へ赴くが、側近たちにさえぎられ父への別れも出来ないまま、引き
		返す。法皇死後の大蔡にも、崇徳上皇の参列は許されなかった。ここに至って怒り心頭に達した崇徳帝は
		「保元の乱」を引き起こし、武力により弟後白河天皇からの覇権奪還を試みるが、敗れて讃岐へ流される。

 


		崇徳院は8年間を讃岐で過ごし、長寛2年(1164)、46歳で崩じた。崇徳帝の死については、二条天皇
		の命による暗殺説もある。(讃州府誌によれば、二条天皇の命を受けた讃岐の武士、三木近保が暗殺した
		という。)地元では長らく暗殺説が信じられていたと言うが、病死説もある。晩年をこの地で過ごした崇
		徳帝の旧跡は、現在香川県下に数多く残っている。(後段の「ゆかりの地」参照)


西行法師像(頓証寺殿:すぐ左にイチョウの大木あり。)

		中世に至って怨霊としての姿が定着した崇徳上皇は、近世になっても恐怖の対象とされたようで、上田秋成
		の著した「雨月物語」の冒頭「白峯」の章では、ここへやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるた
		めに和歌を詠むと、崇徳の霊が現れて西行に怨みを語る場面がある。つらつらと重なる恨みを語る崇徳に対
		して西行は仏法を説くが、会話は噛み合わないまま夜が更けて往くのである。

 

 


		前面にある石灯籠は、源頼朝が為義・為朝の菩提のために奉納したものといわれ、下壇の灯籠には宮内省奉献
		のもの二基、高松藩主松平頼重・頼恭奉献のものが二基ある。

 


		讃岐で祟徳上皇は、3年の歳月をかけて5部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)
		を写経し、これを父鳥羽帝の墓前に供えてほしいと都へ送ったが、同母弟・後白河天皇の近臣・藤原信西
		(しんぜい)に受け取りを拒否され、5部の大乗経は突き返される。祟徳上皇帝はこれを聞いて激怒し、
		「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って、日本国の大悪魔とならん」と、舌を噛み
		切り、流れる血で、突き返された五部の大乗経に呪詛の誓いの言葉を書きつけた。それ以来、髪も爪も切
		らず伸ばし放題にし、凄まじい形相になっていく。状況視察に都から派遣された平康頼は、「院は生きな
		がら天狗となられた」と報告している。(保元物語・平家物語)

 




		帝の陵墓は白峰山(しらみねさん。香川県坂出市)に造られたが、遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を
		待つ間、木の下の泉に20日間塩漬けにされた。その間、全く様子が変わらず生きているかのようであっ
		たといい、死骸を焼く煙は都の方にたなびいていったとも伝えられる。また、遺体運搬中、白峰山裾で夕
		立に見舞われたため石の上に棺をおろしたところ、その柩からは血が流れ出し、柩を置いた台も真っ赤に
		染まり、「20日経っても死にきっていない」と人々が驚愕したという話も残っている。

 

 


		たなびいて行った煙のせいかどうかは解らないが、崇徳院の死後都では凶事が相次ぐ。二条上皇の夭折、
		天然痘の流行、都の大火、平治の乱による藤原信西の死(五部の大乗経の受け取りを拒否した)、源義
		朝(保元の乱で後白河側に付いた)の死。都の人々は、崇徳上皇の怨霊のせいだと怖れおののき、朝廷
		も怨霊を鎮めるため、死後3年目に「崇徳院」の諡号を贈るが、異変は続いた。




		崩御した崇徳上皇はここで荼毘に附され、御陵が築かれた。陵は、積み石の方墳であったと云われる。
		初代高松藩主頼重、5代頼恭、11代頼聡らにより修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど、
		今日見るよう姿に整備された。



憤怒の大魔王「崇徳上皇」はここに眠っている。





御陵から降りてきたが、こっちが御陵の表側である。

		皇室における怨霊物語の内で、一番強烈なのはこの崇徳帝の怨霊である。以後、天災や飢饉のような、
		都における大きな凶事は多くが崇徳帝の怨霊のせいにされ、ことあるごとに、崇徳院の祟りではないか
		と噂された。江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っている。

 

白峯寺の入り口門へ戻っていく途中に、まだアジサイが咲き誇っていた。

 


		怨霊に対する恐怖は近代の皇室においても同様で、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、まだ江戸へ遷都
		する前の明治天皇は、崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって貰うため、皇宮近くに白峰神宮を造
		営し、崇徳上皇の命日に讃岐の白峰から崇徳上皇の神霊を迎え入れた。
		崇徳天皇は、死後700年を経て、ようやく京都に帰ることが出来たのである。 



白峰山から下りる途中で見る坂出湾と瀬戸内海(上)。下は讃岐富士と呼ばれる雄山。




		崇徳帝は幼時から和歌を好み、歌会・歌合を頻繁に催した事が記録に残っており、在位中、いくつかの歌
		集を撰進させている。譲位後もそれは続き、「久安百首」、「詞花和歌集」などが残る。小倉百人一首に
		選ばれている有名な歌、

		「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
		
		はこの帝の歌であり、思うようにならない激しい恋の歌として、広く知られている。






 

20:30分ギリギリにフェリ−乗り場に着いて、何とか我々まで20:30発の佐賀関(さがのせき)行
きに間に合った。後続の車は「はい、後は21:30分です。」と言われていた。めちゃ、ラッキー。



邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/chikuzen@inoues.net