【第32代 崇峻(すしゅん)天皇 】 異名: 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと:日本書紀)・長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと:古事記) 生没年: (?)〜 崇峻天皇5年(592)(?才) 在位: 用明天皇2年(587) 〜 崇峻天皇5年(592) 時代: 飛鳥時代 父: 欽明天皇(第12皇子) 母: 蘇我小姉君(そがのおあねのきみ:蘇我稲目の娘) 皇后: 大伴小手子(おおとものこてこ:大伴連糠手の娘) 皇妃: 蘇我河上娘 皇女子: 蜂子皇子、錦代皇女 宮居: 倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや:奈良県桜井市倉橋) 御陵: 倉梯岡陵(くらはしのおかのえのみささぎ:奈良県桜井市大字倉橋)
異母兄の用明天皇(聖徳太子の父)の死後、同母兄の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す大連・物部守屋と、泊瀬部皇子を擁立した 大臣・蘇我馬子が対立する。用明天皇が崩じたことによって崇仏排仏の争いは一転して皇位継承をめぐる抗争となったのである。 そもそも、聖徳太子の母穴穂部間人皇后(用明天皇の皇后)と穴穂部皇子と泊瀬部皇子は同母姉弟であったが、穴穂部皇子は蘇我氏の 皇子でありながら物部派についていた。だが、物部氏の形勢不利になると穴穂部間人皇后の説得により蘇我氏に寝返ろうとしたりする。 かつて穴穂部皇子は、敏達天皇の殯(もがり)宮で炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとし、その際炊屋姫を守った三輪逆を殺害してい るのである。炊屋姫の馬子への断罪もあり、馬子は直ちに兵を動かし穴穂部皇子らを殺害する。続けて、蘇我一族はこれを契機に、物 部一族の殲滅に向かう。物部守屋は一族を集結し、稲城(いなぎ)をきずいて防備を固めた。やがて蘇我一族はこの稲城を攻め、厩戸 皇子(聖徳太子)もこの軍勢に加わった。太子は、白膠(ぬるで)の木で四天王の像を刻み、「勝利を得れば、四天王寺に建立して恩 を無窮に報じよう」と祈願し、馬子もまた寺塔を建立することを誓って猛攻に転じた。戦後、太子はこのときの誓願を果たすため大阪 難波に四天王を勧請した。これが現在の大阪市にある四天王寺である。馬子も法興寺(飛鳥寺)を建立している。
泊瀬部皇子は、馬子が穴穂部皇子と守屋を討った直後、即位して崇峻天皇となる。母は蘇我馬子の妹小姉君だった。しかし蘇我勢力に 支援されて天皇になったわりには、蘇我馬子との関係は悪化していったようである。帝は蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠 手の娘「小手子」を妃として、間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女をもうけるが、蘇我馬子の娘河上娘を正妃として迎え たという説もあり、崇峻天皇の寵愛を受けるようになったのは誰かという事を巡って、これに対する妃大伴小手子の嫉妬が、崇峻天皇 暗殺を招いたとの説も根強い。日本書紀は「或本」に曰く、これは天皇の寵が衰えたことを怨んだ小手子が馬子のもとに遣った密告に 端を発するという。
物部氏は滅亡し、馬子の権勢はこの時点で盤石のものとなっていた。そのことは仏教の興隆を意味していた。馬子は、四天王寺、法興 寺をはじめとする、それまでにはなかった壮大な寺院の建設を各地で進めた。また、大陸からの渡来者を指導者として僧、尼といった 専門家の育成を急ピッチで進めた。百済から仏舎利が送られたのもこのころである。だがこれらの国家的大事業はすべて、実質的な最 高権力者である馬子の独断で行われた。そこに帝の意志が反映されることはなかったのである。 そして即位から5年後、592年の10月4日、帝は献上された猪を見ながら、専横を極める馬子の暗殺を口にした。「何の時かこの猪の 頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」と独り言を漏らしたのである。この独り言を馬子に密告したのが大伴小手子 だったと、日本書紀は「寵(めぐみ)の衰えしを恨みて」と記録している。 この事が馬子の耳に届くや、間髪を入れず馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を刺客に差し向け、逆に帝を暗殺する。そし てその日の内にあわただしく埋葬してしまう。平安期に編まれた「令集解」(りょうのしゅうげ)によれば、帝が亡くなった時、7日 7夜の間、誰一人葬送の儀を行わなかったという。馬子の報復を恐れての事だろうと考えられる。 日本史上、暗殺されたと推測できる天皇は何人かいるが、これほど明確に諸文献に記録されているのは崇峻天皇のみである。
蘇我馬子と確執を醸し出した頃、崇峻天皇は密かに軍備を揃えようとしていたようだが、朝廷軍の殆どは任那復興のため筑紫に派遣さ れていたので思うようにはいかなかったようである。また、暗殺者の東漢直駒は、その後蘇我馬子の娘河上娘を掠奪したとして馬子に よって殺されるが、崇峻天皇弑逆事件の口封じのためと言われる。崇峻天皇の皇子の蜂子皇子(はちすのみこ)は、聖徳太子に助けら れ都を脱出し、東北まで逃れて、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の開祖になったと言われており、大阪市天王寺区茶臼山町には、 聖徳太子が崇峻天皇を偲んで建てたという「堀越神社」が残っており、祭神は、「崇峻天皇・小手姫皇后・蜂子皇子・錦代皇女」とな っている。崇峻天皇亡き後は、額田部皇女が「推古天皇」として数十年ぶりの女帝として即位し、聖徳太子を摂政、馬子を大臣として、 仏教を基盤とした官位政治が始まる。
崇峻天皇が宮を営んだのは倉梯(くらはし)の地であった。御陵の手前の左手に民家のような金福寺という寺があり、その寺が倉梯柴垣 宮跡だとも伝えられる。陵と宮跡は隣りあわせにある。『山陵志』には「倉梯宮御宇崇峻天皇大和国十市郡にあり、陵地及び陵戸なし」 と書かれたこの倉梯岡陵は、明治になって宮内省により崇峻天皇陵として比定されるのだが、例によって異説もあり、近くにある「赤坂 山天王山古墳」を崇峻天皇陵と比定する説や、以下のように藤ノ木古墳説を唱える人もいる。 89/03/11 東京夕刊 社会面 05段 法隆寺は「藤ノ木古墳」供養の造営? 高田執事長が大胆な新説=図付き ================================= ◆正確な距離 「高麗尺」で1800尺◆ 奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳が法隆寺西院伽藍(がらん)の西五百メートルという近い場所に位置していることから、法隆寺の高田良信 執事長は、聖徳太子が、叔父の崇峻天皇(五九二年没)の遺骨を倉橋陵(桜井市)から藤ノ木古墳に移して追葬、同古墳の位置を基準に 墓とセットにした陵寺として法隆寺を造営したのではないか、という大胆な新説を打ち出した。あす十二日、同町中央公民館で開かれる 古墳シンポジウムで明らかにする。 高田執事長は、法隆寺に残る古文書「嘉元記」(室町時代)に「陵堂で供養」との記述があり、藤ノ木古墳前のお堂を陵堂と呼んでいる ことに着目した。 さらに、同寺の創建遺構とされる若草伽藍の寺域の北限線を西へ延長すると、ちょうど墳丘の真上を通ることがわかった。同伽藍の中心 線と同古墳の間の距離が、古代高句麗から伝来し、同伽藍造営にも使われた高麗尺(こまじゃく=一尺は三十五・三センチ)でほぼ千八 百尺に相当することを突きとめた。古代斑鳩地方の地割はこの高麗尺三百尺を一区画の単位としているとされ、千八百尺はちょうど六区 画分に当たる。 同古墳築造は若草伽藍より数十年古く、法隆寺造営の際には格好の目印になっていた。 これらの史料を分析し、高田執事長は「太子が斑鳩の地で新しい政治を進めるに当たり、その十数年前に非業の死を遂げた叔父の崇峻天 皇の霊を鎮めるため、墓とセットにした陵寺として法隆寺を造営したのではないか。歴史に残っていないのは、当時、まだ崇峻天皇を殺 した蘇我氏の勢力が強かったためと考えられる」と推理している。
【長谷部若雀天皇】崇峻天皇 (古事記) 弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歳。 【壬子年十一月十三日崩也。】御陵在倉椅岡上也。 【長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)】崇峻天皇 弟、長谷部の若雀)の天皇、倉椅の柴垣(しばがき)の宮に坐しまして天の下治しめすこと肆歳(よとせ) 【壬子(みづのえね)の年の十一月(しもつき)十三日(とおあまりみか)に崩(かむざ)りき】。 御陵(みささぎ)は倉椅の岡の上に在り。