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第10代 崇神天皇
山辺道勾岡上陵 2002.3.23 奈良県天理市柳本町






	<第10代崇神(すじん)天皇>
	異称: 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと:日本書紀)、
	    御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと:古事記)、御眞木天皇(みまきのすめらみこと:古事記)、
	    御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと:日本書紀)、所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと:古事記)
	生没年: 開化10年(前148?) 〜 崇神68年(前30?)(120歳:日本書記)(168歳:古事記)
	在位期間  崇神元年 〜 崇神68年
	父: 開化天皇 第2子
	母: 伊香色謎命(いかしこひめ:物部氏遠祖・大綜麻杵の娘:日本書紀)、
	   伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと:古事記)
	皇后: 御間城姫(みまきひめ)
	皇妃: 遠津年魚眼眼妙媛、大海媛
	皇子皇女: 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと:垂仁天皇)、伊邪能真若命、国方姫命、
		 千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命 ・・・以上母は御間城姫
		 豊城入彦命、豊鍬入姫命(とよすきのいりひめ) ・・・以上は母遠津年魚眼眼妙媛
		 大入杵命 八坂入彦命 渟名城入姫命 十市瓊入姫命 ・・・以上母は大海媛
	皇宮: 磯城端籬宮(しきのみずかきのみや:奈良県桜井市金屋)  
	陵墓: 山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ:奈良県天理市柳本町:行燈山古墳)  






	景行天皇陵から国道沿いに4,5分歩くと田圃の中に大きな森が見える。御陵の濠の土手が、ひときわ高く積まれているの
	で、すぐここが御陵だなとわかる。有名な「山辺の道」はちょうど国道の反対側を走っている。御陵のすぐ前には「いざな
	ぎ神社」がある。

 




	「騎馬民族征服説」で有名な江上波夫氏の論旨は以下のようなものである。
	(日本古代史・邪馬台国を取りまく謎「騎馬民族は日本を征服したか?」から転載。)

	3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の
	首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。その時
	朝鮮からやってきて、後 100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言
	うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。「九州王朝」
	はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映して
	いる。「第二回目の建国」である。ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残ってい
	る、と言う。

	氏は、崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、「ミマ」の宮殿に居住した
	天皇であるとしている。そしてミマこそ南鮮にあった「任那」だというのである。即ち日本の天皇家の始祖は任那から来た
	ということになる。
	また応神天皇は九州の出身ということが「記紀」に載っており、河内にある現「応神天皇陵」はそのまま応神天皇の墓と見
	なして良く、応神こそ北九州から畿内に進出しそこに大和朝廷を創始した立て役者であろうという、水野祐、井上光貞の説
	を紹介している。
	そして「記紀」神話や伝承に関する考察の結果として、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる
	原住民族の征服− 日本国家の実現が、だいたい二段の過程で行われ、第一弾は南鮮の任那(伽羅)方面から北九州(筑紫)
	への進入、第二弾は北九州から畿内への進出で、前者は崇神天皇を代表者とした天孫族と、たぶん大伴・中臣らの天神系諸
	氏の連合により、4世紀前半におこなわれ、後者は応神天皇を中心とした、やはり大伴・久米らの天神系諸氏連合により、
	4世紀末から5世紀初めのあいだに実行されたように解されるのである」と言う。


崇神天皇陵。奧は、日本に2つしかない双方中円憤の「櫛山(くしやま)古墳」。

 


	この「騎馬民族征服説」は、一般の歴史マニアにはその雄大な構想にロマンを感じて結構ファンが多いが、学会では反論も
	多く、広く定説とはなっていない。しかしながら、崇神天皇の「はつくにしらすすめらみこと」という名前を、初めて国を
	治めた天皇と解釈して、実在した最初の天皇であろうとする見解をとる学者は多い。記紀には「はつくにしらすすめらみこ
	と」という名前を持つ天皇が2人おり、初代神武天皇の異称も同じく「はつくにしらすすめらみこと」(始馭天下之天皇)
	である。崇神天皇と同じであるが、神武天皇事跡の大半は大和に入るまでの神話の世界の記述であり、9代開化天皇までの
	欠史8代同様に後世捏造された歴史であるとし、開国治世の記述はむしろ崇神天皇紀に多いとして、崇神天皇を最初の天皇
	であろうとする推論が有力である。神武天皇記では、古来からの伝聞として「初めて天下を治められた天皇」という形を取
	っているのに対し、崇神天皇記では、「人民の戸籍を作り課役を命じ、物は豊かで天下は平穏であった。そこで天皇を誉め
	讃えて「初めて天下を治めた天皇」という」、となっている。

 


	今年はほんとに桜の開花が早い。もう7,8分咲いている。

 


	もし崇神天皇が実在していたとしたら一体いつ頃の人であろうか。井上光貞氏の説では、応神天皇の在位年代がほぼ確実と
	見て逆算すると、崇神天皇の在位年代は、3世紀後半から4世紀初頭であろうとしている。ほぼ卑弥呼の死の直後である。


 


	東遷説をとれば、今日の大和朝廷の基礎を築いた勢力は西から来たという事になる。そして、それは吉備や四国などではな
	く、明らかに北九州の、大陸文化をいち早く吸収した地域から来たと言うことになるのだが、東遷を率いた可能性のある統
	率者の候補は、記紀上では3人いる。即ち、神武、崇神、応神であるが(いずれにも「神」の字が付いているのもおもしろ
	い。)、学会では応神天皇の東遷説に一番賛同者が多いようだが、この崇神天皇が西から来たと言う人も多い。井上説に従
	えば、邪馬台国において卑弥呼が死ぬと同時に、崇神天皇をリーダーとする集団が東を目指した事になる。崇神天皇東征説
	も、応神天皇東征説も、ともにその出自を大陸からの渡来人であるとしているようだが、いずれにしても、この崇神天皇の
	御代をもってその記述がより具体性を持ち、実在と推測できる根拠が多いとされている。しかし崇神天皇がどういう民族で、
	はたして何処から来て、どうやって大和王朝の基礎を築いたのかについては、完璧に説明できた者はいないのである。

 


	崇神天皇は三輪の磯城端籬宮(しきのみずかきのみや)に皇居を定めて治世にあたったとされている。それまでの欠史8代
	の天皇の多くが、葛城山の麓にその皇宮を構えているのに対し、この天皇は初めて三輪の地にその足跡を残す。三輪王朝発
	祥の祖といわれる所以だが、大田田根子(おおたたねこ:意富多々泥古)に三輪山の「大物主神」を祀らせ、古事記には以
	下のような記述がある。
	
	この天皇の御代に疫病が蔓延して、人々が死に絶えるのではないかと天皇は憂えていた時、夢枕に大物主神が現れ、「これ
	は我が御心である。意富多々泥古をもって(三輪山に)我を祀らせれば、我が心も鎮まり、国も平安になるであろう。」と
	言われた。




	疫病や天変地異に対して、天皇は懸命に天神地祗(あまつかみくにつかみ)を祀り、豊鍬入姫命(とよすきのいりひめ)に
	天照大神を祀らせたりもしている。三輪山麓には、いくつも入り組んだ谷筋が延びており、その谷筋ごとに諸部族が点在し
	ていただろうと推測されており、その諸部族を束ねて、祭祀の中心にいたのが崇神天皇ではないかという説もある。その為、
	漢風諡号にも「崇神」と付けられていると言う。

  


	上、下の写真は、御陵の石段の上から見た陪塚(ばいちょう)である。前方部に、円墳と小さな前方後円墳があり、この古
	墳の被葬者の殉死者と思われる。
	崇神天皇の時代には、四道将軍という政権を支える大将軍がいて、北陸・東海・丹波・西海等々に派遣された話や、武埴安
	彦(たけはにやすひこ)と吾田姫(あたひめ)の謀叛 、出雲の神宝を管理する振根(ふるね)の話などが記されているが、
	なんと言っても関心を呼ぶのは、神懸かりとなって崇神天皇に様々な助言をしたという、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日
	百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)である。邪馬台国畿内説論者達にとっては、この時代がまさに邪馬台国全盛
	時代で、神懸かりとなる点に「卑弥呼」との一致を見いだし、卑弥呼の宮殿に出入りしていた男を崇神天皇に、崇神天皇の
	皇女豊鍬入姫命を台与(とよ)に見立てて、倭迹迹日百襲姫命の墓、「箸墓」を魏志倭人伝に言う「卑弥呼の大いなる塚」
	とする。




	と言う事になれば、崇神天皇以前に、三輪山周辺には既に諸国家が栄えていた事になり、その諸国連合が邪馬台国と言うこ
	とになって、神武以降欠史8代の天皇達も、葛城・三輪山麓で活躍していた事になる。記紀の舞台がもし大和だとすると、
	神武以前はどうなっていたのだろう。何時の時代にか、大陸・朝鮮半島からの渡来人達が大和にも押し寄せたのは間違いな
	い。大和盆地にいきなり降って湧いて青銅器や鉄器が出現したとは思えないし、旧石器人(もし居たとして)から縄文人を
	経て弥生人となった奈良盆地の住民が、自然に稲作を発明できるわけもないのだ。文明・文化は明らかに西から来たのであ
	るし、その記憶は伝承や記録として必ず残っているものだと考えたほうが自然なような気がする。

 






	考古学者の斉藤忠氏は、崇神天皇陵の年代を考古学的には4世紀後半に作られたものと推定しているが、そうなると崇神天
	皇の没年は、早くとも4世紀中頃になり、その前と言うことはまずあり得ない。これは先ほどの井上氏の崇神天皇在位期間
	の推定とは50年以上の開きがある。
	崇神天皇陵は、前期古墳を代表する前方後円墳で全長約240m、山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあると記紀には記録
	されている。
	実在した最初の天皇だろうとされるのだが、ほんとの所はよくわからない。実は、すぐ隣の第12代景行天皇陵が地元では
	崇神天皇陵とされていた、という説もある。江戸時代までは、現在の景行陵は王之塚とよばれ、ここが渋谷村であったこと
	から渋谷向山古墳とも呼ばれているが、古くから王之塚が崇神陵だと伝承されてきた、と言う話もある。そもそも、古墳時
	代の天皇陵については、天皇の名と被葬者とが明らかに一致しているのは、京都山科の天智天皇陵、明日香の天武・持統天
	皇陵、古市の応神天皇陵くらいなのである。応神陵については異論もある。
	こと程さ様に、古代天皇陵については実にあいまいなものなのだ。では掘って確かめればいいではないか、とは誰しも考え
	る。しかし宮内庁は現在でも、天皇陵とその参考地の発掘に関してはこれを一切許可していない。そういう状況なので、森
	浩一氏の提唱により、崇神天皇陵は考古学者の間ではもっぱら、崇神天皇陵とは呼ばずに「行燈山古墳」と呼ばれている。






	天皇陵からまっすぐJR「柳本駅」を目指す。下は三角縁神獣鏡が33面出土した「黒塚古墳」。古墳の側は公園になって
	いて、桜がほぼ満開だった。

 


			下は柳本のMAINストリートに立っているのぼりと駅前にあった石碑。
 






 

	
	山辺の道の、櫻井寄りの所に、崇神天皇の「磯城端籬宮跡」と呼ばれる場所がある。以下は山辺の道散策のHP(歴史倶楽
	部)に書いた部分である。


	【崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)】
	第10代崇神天皇の宮殿があった所とされている。初代神武天皇から欠史八代の、9代開化天皇までは実在した天皇ではな
	い、というのが戦後歴史学界の定説である。この第10代崇神天皇が大和朝廷の初代ではないかという説は結構有力で、そ
	うするとここが日本の最初の首都であったのかもしれないのだ。あとで見て頂くように、この天皇陵は三輪山の北の方にあ
	り、山辺の道の散策コースの脇にある。大きな立て看板の横を進んでいくとすぐ志貴(磯城)県坐(主)神社がある。磯城
	県主神社はこの地の有力な豪族であった磯城県主(しきのあがたぬし)の氏神であろうと思われる。

 



	【御眞木入日子印惠命】(崇神天皇)

	御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。
	此天皇、娶木國造、名荒河刀辨之女【刀辨二字以音】遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命。次、豐[金且]入日賣命。
	【二柱】又娶尾張連之祖、意富阿麻比賣、生御子、大入杵命。次、八坂之入日子命。次、沼名木之入日賣命。次、十市之入
	日賣命。【四柱】又娶大毘古命之女、御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命。【伊玖米伊沙知六字以音】次、伊邪
	能眞若命。【自伊至能以音】
	次、國片比賣命。次、千千都久和【此三字以音】比賣命。次、伊賀比賣命。次倭日子命。【六柱】
	此天皇之御子等、并十二柱。【男王七。女王五也】
	故、伊久米伊理毘古伊佐知命者、治天下也。次、豐木入日子命者【上毛野君、下毛野君等之祖也。】
	妹豐[金且]比賣命【拜祭伊勢大神之宮也。】次、大入杵命者【能登臣之祖也。】次倭日子命【此王之時、始而於陵立人垣。】
		此天皇之御世、疫病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、「是者我之御心。
	故、以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河内之美努
	村、見得其人貢進。爾天皇問賜之汝者誰子也。答曰、「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣、生子、名櫛御方
	命之子、飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古白。」於是天皇大歡以詔之、「天下平、人民榮。」即以意富多多
	泥古命、爲神主而、於御諸山拜祭意富美和之大神前、又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶、【此三字以音】定奉天神地
	祇之社、又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。又於大坂神、祭黒色楯矛。又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣幣也。因此而
	疫氣悉息、國家安平也。此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、
	於時無比、夜半之時、tatimati[冠攸脚黒]忽到來。故、相感、共婚供住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、
	問其女曰、「汝者自妊。无夫何由妊身乎。」答曰、「有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、供住之間、自然懷妊。」是以其
	父母、欲知其人、誨其女曰、「以赤土散床前以閇蘇【此二字以音】紡麻貫針、刺其衣襴。」故、如教而旦時見者、所著針麻
	者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾即知自鉤穴出之状而、從糸尋行者、至美和山而、留神社。故、知其神子。
	故、因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。【此意富多多泥古命者、神君、鴨君之祖】又此之御世、大毘古命者、遣高志道、
	其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴【自麻下五字以音】人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳
	之御笠【此人名也。玖賀二字以音】故、大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰、

		美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜
		意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登
		斯理都斗用 伊由岐多賀比
		麻幣都斗用 伊由岐多賀比
		宇迦迦波久 斯良爾登
		美麻紀伊理毘古波夜

	於是大毘古命、思恠返馬、問少女曰、「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰、「吾勿言。唯爲詠歌耳。」即不見其所如而忽失。
	故、大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之、「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。【波邇二字
	以音】伯父、興軍宜行。即副丸邇臣之祖、日子國夫玖命而遣時、即於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建
	波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑。故、號其地謂伊杼美。【令謂伊豆美也。】爾日子國夫玖命乞云、「其廂人、
	先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是國夫玖命彈矢者、即射建波爾安王而死。故、其軍悉破而逃散。爾追迫其
	逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌。故、號其地謂屎褌。【今者謂久須婆】又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河。
	故、號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士。故、號其地謂波布理曾能。【自波下五字以音】如此平訖、參上覆奏。
	故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津。故、其地謂相津也。
	是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平、人民富榮。於是初令貢男弓端之調、女手末之調。故、稱其御世、謂所知初國之
	御眞木天皇也。又是之御世、作依網池。亦作輕之酒折池也。天皇御歳壹佰陸拾捌歳。【戊寅年十二月崩。】
	御陵在山邊道勾之岡上也。




	【御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにえのみこと)】(崇神天皇)

	御眞木入日子印惠の命、師木の水垣の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、木の國造、名は荒河刀辨(とべ)の女(むすめ)【刀(と)辨(べ)の二字は音を以ちてす】、遠津年魚目目微
	(とおつあゆめまくわし)比賣を娶りて生みし御子は豐木入日子(とよきいりひこ)の命。次に豐入日賣(とよすきいりひ
	め)の命【二柱】。
	また尾張の連の祖、意富阿麻比賣(おおあまひめ)を娶りて生みし御子は大入杵(おおいりき)の命。次に八坂の入日子
	(いりひ)の命。次に沼名木(ぬなき)の入日賣の命。 次に十市(とおち)の入日賣の命【四柱】。また大毘古の命の女、
	御眞津比賣(みまつひめ)の命を娶りて生みし御子は伊玖米(いくめ)入日子(いりびこ)伊沙知(いさち)の命【伊(い)
	玖(く)米(め)伊(い)沙(さ)知(ち)の六字は音を以ちてす】。次に伊邪能眞若(いざのまわか)の命【伊(い)よ
	り能(の)までは音を以ちてす】。
	次に國片比賣(くにかたひめ)の命。次に千千(ちち)都久和(つくわ)【此の三字は音を以ちてす】比賣の命。次に伊賀
	比賣(いがひめ)の命。次に倭日子(やまとひこ)の命【六柱】。此の天皇の御子等は并せて十二柱【男王七たり、女王五
	たり也】。故、伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)の命は天の下治しめしき。次に豐木入日子(とよきいりひ
	こ)の命は【上つ毛野(けの)の君、下つ毛野(けの)の君等の祖也】。妹(いも)豐比賣(とよすきひめ)の命は【伊勢
	の大~の宮を拜(おろが)み祭る也】。次に大入杵(おおいりき)の命は【能登(のと)の臣の祖也】。次に倭日子(やま
	とひこ)の命【此の王の時に始めて陵に人垣を立てき】。
	此の天皇の御世に疫病(えやみ)多に起りて人民盡きなんとす。爾くして天皇愁い歎きて~牀(かむどこ)に坐しましし夜
	に、大物主の大~、御夢に顯われて曰く、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以ちて我が前を祭らし
	めば、~の氣起らず、國、安平らがん」。是を以ちて驛使(はゆまづかい)を四方に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂う
	人を求めし時に、其の人を河内の美努(みの)の村に見得て貢進(たてまつ)りき。爾くして天皇、問い賜わく、「汝は誰
	が子ぞ」。答えて曰く、「僕は大物主の大~、陶津耳(すえつみみ)の命の女、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶りて
	生みし子、名は櫛御方(くしみかた)の命の子、飯肩巣見(いいかたすみ)の命の子、建甕槌(たけみかづち)の命の子、
	僕、意富多多泥古ぞ」と白しき。是に天皇、大きに歡びて以ちて詔らししく、「天の下平らぎ、人民榮えん」。 即ち意富
	多多泥古の命を以ちて~主として、御諸山(みもろやま)に意富美和(おおみわ)の大~の前を拜(おろが)み祭りき。
	また伊迦賀色許男(いかがしこお)の命に仰せて天の八十(やそ)毘羅訶(びらか)【此の三字は音を以ちてす】を作らし
	め天つ~、地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。また宇陀の墨坂の~に赤き色の楯・矛を祭り、また大坂の~にKき色の
	楯・矛を祭り、また坂の御尾(みお)の~、及び河の瀬の~、悉く遺(のこ)し忘るる無く幣帛(みてぐら)を奉りき。
	此に因りて疫(え)の氣悉く息みて國家安平らぎき。
	此の意富多多泥古と謂う人を~の子と知る所以は、上に云える活玉依毘賣、其の容姿(かたち)端正(うるわ)しき。是に
	壯夫有り。其の形姿威儀(よそおい)時に比(たぐ)い無し。夜半の時、忽に來り到る。故、相感(め)でて、共に婚(あ)
	い供に住める間、未だ幾時を經ず其の美人妊身(はら)みぬ。爾くして父母、其の妊身める事を怪しみ其の女に問いて曰く、
	「汝は自ずと妊めり。夫無きに何の由にか妊身みぬ」。答えて曰く、「麗美しき壯夫有り。其の姓名を知らず。夕毎に到り
	來り供に住める間に自然(おのず)から懷妊(はら)みぬ」。是を以ちて其の父母、其の人を知らんと欲して其の女に誨
	(おし)えて曰く、「赤土(はに)以ちて床の前に散らし、閇蘇(へそ)【此の二字は音を以ちてす】紡(うみ)麻(お)
	以ちて針に貫き、其の衣の襴に刺せ」。故、教えの如くして旦時(あした)に見れば、針に著けたる麻(お)は戸の鉤穴よ
	り控(ひ)き通りて出で、唯、遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。爾くして即ち鉤穴より出でし状(かたち)を知りて、
	糸の從(まにま)に尋ね行けば美和山に至りて~の社に留りき。故、其の~の子と知りぬ。故、其の麻(お)の三勾(みわ)
	遺(のこ)りしに因りて其の地を名づけて美和と謂う也【此の意富多多泥古の命は、~の君、鴨の君の祖】。
	また此の御世に大毘古の命は高志の道に遣わし、其の子、建沼河別の命は東の方十あまり二つの道に遣わして其の麻都漏波
	奴(まつろわぬ)【麻より下の五字は音を以ちてす】人等(ひとども)を和平(やわ)さしめき。また日子坐の王は旦波の
	國に遣わし玖賀耳(くがみみ)の御笠(みかさ)【此は人の名也。玖賀の二字は音を以ちてす】を殺さしめき。故、大毘古
	の命、高志の國に罷り往きし時に、腰裳(こしも)服(き)せる少女、山代の幣羅坂(へらさか)に立ちて歌いて曰く、

			美(み)麻(ま)紀(き)伊(い)理(り)毘(び)古(こ)波(は)夜(や)
			美(み)麻(ま)紀(き)伊(い)理(り)毘(び)古(こ)波(は)夜(や)
			意(お)能(の)賀(が)袁(お)袁(を)
			奴(ぬ)須(す)美(み)斯(し)勢(せ)牟(む)登(と)
			斯(し)理(り)都(つ)斗(と)用(よ)
			伊(い)由(ゆ)岐(き)多(た)賀(が)比(ひ)
			麻(ま)幣(へ)都(つ)斗(と)用(よ)
			伊(い)由(ゆ)岐(き)多(た)賀(が)比(ひ)
			宇(う)迦(か)迦(か)波(は)久(く)
			斯(し)良(ら)爾(に)登(と)
			美(み)麻(ま)紀(き)伊(い)理(り)毘(び)古(こ)波(は)夜(や)

			御真木入彦はや
			御真木入彦はや
			おのが緒を
			盗み殺せむと
			後つ戸よ
			い行きたがひ
			前つ戸よ
			い行きたがひ
			うかかはく
			知らにと
			御真木入彦はや
 
	是に大毘古の命、怪しと思いて馬を返して少女に問いて曰く、「汝が謂える言(こと)は何の言(こと)ぞ」。爾くして少
	女、答えて曰く、「吾は言わず。唯に歌を詠(うた)える耳(のみ)」。即ち其の所如(ゆくえ)も見えずて忽ち失せき。
	故、大毘古の命、更に還り參い上りて天皇に請す時に、天皇、答えて詔らししく、「此は山代の國に在る我が庶兄(ままね)
	建(たけ)波邇安(はにやす)の王の邪(きたな)き心を起しし表(しるし)と耳(のみ)【波(は)邇(に)二字は音を
	以ちてす】。伯父、軍(いくさ)を興して宜しく行くべし。」 即ち丸邇(わに)の臣の祖、日子國夫玖(ひこくにぶく)
	の命を副えて遣す時に、即ち丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いわいえ)を居(す)えて罷り往きき。是に山代の和訶羅河(わ
	からがわ)に到りし時に、其の建波邇安の王、軍を興して待ち遮(さや)り、各(おのおの)河を中に挾みて對(むか)い
	立ちて相(あい)挑(いど)みき。故、其の地を號けて伊杼美(いどみ)と謂う【今に伊(い)豆(づ)美(み)と謂う也】
	爾くして日子國夫玖の命、乞いて云いしく、「其廂(そなた)の人、先ず忌矢(いみや)彈(はな)つ可し」。爾くして其
	の建波爾安の王、射ると雖ども中ることを得ず。是に國夫玖の命の彈る矢は即ち建波爾安の王を射て死にき。故、其の軍、
	悉く破れて逃げ散(あら)けき。爾くして其の逃ぐる軍を追い迫めて久須婆(くすば)の度(わたり)に到りし時に、皆迫
	(せ)め窘(たしな)まれて、屎(くそ)出でて褌(はかま)に懸かりき。故、其の地を號けて屎褌(くそばかま)と謂う
	【今は久(く)須(す)婆(ば)と謂う】。また其の逃ぐる軍を遮(さや)りて斬れば鵜の如く河に浮きき。故、其の河を
	號けて鵜河(うがわ)と謂う也。また其の軍士(いくさ)を斬り波布理(はふり)き。故、其の地を號けて波(は)布(ふ)
	理(り)曾(そ)能(の)【波より下の五字は音を以ちてす】と謂う。如此(かく)平らげ訖(お)えて、參い上りて覆奏
	(かえりごともう)しき。

	故、大毘古の命は先の命(みことのり)の隨に、高志の國に罷り行きき。爾くして東の方より遣わされし建沼河別と其の父
	大毘古と共に相津(あいず)に往き遇いき。故、其の地を相津と謂う也。是を以ちて各(おのおの)遣わされし國の政(ま
	つりごと)を和平(やわ)して覆奏(かえりごともう)しき。爾くして天の下、太(おお)きに平らぎ人民富み榮えき。
	是に初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女(おみな)の手末(たなすえ)の調(みつぎ)を貢(たてまつ)らしめ
	き。故、其の御世を稱(たた)えて初國知らしめしし御眞木の天皇と謂う也。また是の御世に依網(よさみ)の池を作り、
	また輕の酒折(さかおり)の池を作る也。天皇の御歳は壹佰陸拾捌歳(ももとせあまりむそとせあまりやとせ)【戌寅(つ
	ちのえ)の年の十二月(しわす)に崩(かむざ)りき】。御陵は山の邊の道の勾(まがり)の岡の上に在り。



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