神武天皇に続く3代の天皇、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)の3陵は奈良県橿原市の畝傍(うねび) 山の麓に、畝傍山を取り囲むようにして設けられている。偉大な初代神武天皇の陵墓と比較するとそれぞれは小振りだが結 構大きな古墳である。 大阪方面から行くと、近鉄大阪線を「八木」で乗り換え、橿原線の「畝傍御陵前」(うねびごりょうまえ)駅で降りる。 奈良県立考古学研究所とその博物館はこの駅が近い。綏靖天皇陵はここから10分たらずだが、安寧、懿徳天皇陵は畝傍山を ぐるっと廻るため、徒歩だと綏靖天皇陵からは1時間ほどかかる。綏靖天皇陵を見た後電車で1駅先の「橿原神宮前」まで 行き、ここから懿徳、安寧陵と廻った方が近い。ここからだと懿徳陵へ10分、安寧陵へは15分ほどである。この二つの陵は 畝傍山の南西にあって廻りは住宅街である。
綏靖天皇は別名を「神渟名川耳尊」(かむぬなかわみみのみこと)と言い、以後9代開化天皇までの8代を「欠史8代」と 呼ぶ。これは、これらの天皇は架空の人物で「記紀」が出来た時あまりに長い年齢により生じた空白を埋めるため創造され た、とする説に基づいている。 この天皇の記事も非常に少なく古事記ではたった3行しかない。具体的な事跡や物語に乏しく人物像が不明瞭である為、従 来これはほぼ「定説」とされてきたが、最近いや実在したのだとする意見も強い。「邪馬台国東遷説」や「葛城王朝説」な どは結構合理性に富んだ説とも言える。そうなると、これらの天皇は実在の可能性が高くなる。
記紀によれば、綏靖天皇は神武天皇が三輪の大物主神(おおものぬしのかみ)の娘、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすず ひめのみこと)に生ませた第三子である。神武天皇には、日向時代の妻吾平津媛(あひらつひめ)が産んだ男子が二人いて、 その内の一人、手研耳命(たぎしみみのみこと)は東征の供をして大和入りし、神武天皇崩御の後は、義母である媛蹈鞴五 十鈴媛命を娶り後継者としての地位を確保しようとする。そのため異腹の綏靖天皇(神渟名川耳尊)兄弟をも抹殺しようと するが、皇后の助けによりそれを察した天皇は兄の神八井耳命(かんやいみみのみこと)とともに手研耳命を討つのである。 その際兄の神八井耳命は手研耳命にとどめを刺すのを逡巡し、恥じて皇位を弟に譲り、自らは神に使える役目に就く。そし て神八井耳命の息子たちは全国に散って、東北・四国・信濃など各地に子孫を残したという伝承が残っている。神武天皇も 四人兄弟の末皇子で、綏靖天皇も三人兄弟の末皇子である。記紀によれば古代には末子が皇位についている記述が多く、こ れをもって古代には末子相続の思想があったとする説も根強い。
綏靖天皇は都を「葛城高丘宮」(かつらぎたかおかのみや)に移すが、ここは現在の奈良県御所(ごせ)市であるとされて いる。皇居を定め、母の妹である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を娶って皇后とした。以下は我が歴史倶楽部の 例会で2000年10月に御所市を廻ったときに写した写真とその時の解説であるが、再考のためここに再録する。
神武の次の第二代綏靖天皇は、学会では実在性は低いとされているが、ここにこういう伝承が残っているのはどういう訳だ ろう。何かその伝承の元となる事象があったのではないだろうか。欠史八代の、多くの天皇の伝承がこの周辺には残ってい る。 記紀によると、綏靖天皇は「葛城高丘宮」に、五代孝昭天皇は「液上池心宮」に、六代天皇は「室秋津嶋宮」にそれぞれ宮 居を営んだ。「高丘宮」はここ御所市森脇にあり、「池心宮」は同市池之内、「秋津嶋宮」は同市室で、いずれも御所市内 にその伝承地がある。また、第三代安寧天皇、四代懿徳天皇、八代孝元天皇の宮居も御所市に隣接する大和高田市と橿原市 に伝承地がある。二代綏靖天皇から八代開化天皇までは、記紀にその実績をほとんど記さず、実在の可能性は極めて薄く 「欠史八代」などと呼ばれているのだが、それらの天皇の多くが、御所市とその周辺に宮居を営んだという伝承を残すのは、 やはり何かありそうだ。明示的な証拠に欠けるため、この説は証明された「定説」とはなっていないが、王朝の存在を思い 浮かべるのは鳥越(憲三郎)氏だけではあるまいと思う。
後世「神道集」という書物には、綏靖天皇は朝夕七人の人間を食べ、人々を恐怖のるつぼに落とし込んだという記事がある そうだが、どういう経緯でこういう話が作られたのかははっきりしない。天皇は33年在位し、古事記では45歳、日本書 記では84歳で崩御したとされている。古事記では「衝田岡」(つきだのおか)に葬られ、「延喜式」では「桃花鳥田丘上 陵」(つきだのおかのえのみささぎ)となっている。江戸時代にこの陵は一度発掘されており、当時はここが神武天皇陵と されたようである。綏靖天皇陵は、近隣のスイセン塚古墳という全長100メートルを越す前方後円墳ではないかとされて いたが、明治11年になって、明治政府により現陵墓が「綏靖天皇陵」と比定し直された。
【沼河耳命】綏靖天皇 (古事記) 神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。 此天皇、娶師木縣主之祖、河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。【一柱】 天皇御年肆拾伍歳。御陵在衝田岡也。 【沼河耳命(かむぬなかわみみ)】綏靖天皇 ~沼河耳の命、葛城の高岡の宮に坐しまして天の下治しめしき。此の天皇(すめらみこと)、師木(しき)の縣主(あがた ぬし)の祖、河俣毘賣(かわまたびめ)を娶りて生みし御子は師木津日子玉手見(しきつひこたまでみ)の命【一柱】。 天皇の御年は肆拾伍歳(よそとせあまりいつとせ)。 御陵は衝田(つきた)の岡に在り。