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第11代 垂仁天皇
2000.Oct.21 奈良市尼辻町 菅原伏見東陵






	<第11代垂仁(すいにん)天皇>
	異称: 活目入彦五十狭茅天皇(日本書紀)/伊久米伊理毘古伊佐知命(古事記)【いくめいりひこいさちのすめらみこと】
	生没年: 崇神天皇29年 〜垂仁天皇99年 139歳(日本書紀)
	在位期間  崇神天皇68+1年〜垂仁天皇99年 (日本書紀)
	父: 崇神天皇
	母: 大彦命(おおひこのむすめ)の娘御間城媛(崇神天皇皇后)
	皇后: 狭穂媛(さほひめ)、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)の娘日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
	皇子皇女: 誉津別(ほむつわけ)皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大中姫(おおなかひめ)
	宮: 纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや:奈良県櫻井市穴師付近)
	陵墓: 菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ:奈良市尼辻町)

尼ヶ辻駅前の地図



	実在した最初の天皇とされる10代崇神天皇の時代に始まった全国統一の動きは、この天皇の御代においても継続して進め
	られたと考えられる。文献から推測するに、この帝の御代にも政治の中央集権化は進められたと考えられる。また斎宮(い
	つきのみや)の齊王である皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を祀るための新たな場所探しを命じられ、近
	江や、美濃を巡ったあげく伊勢の五十鈴川の辺に祠を建てた。これが伊勢神宮(内宮)の始まりとされる。


 


	安康天皇陵にも行けるとあるので帰りに行きかけたが、地元の人が「30分以上は歩くよ」というのでやめにした。
	もう陽が落ちかかっていたし、今日は大分疲れていて、帰りにもしタクシーが無かったら、また30分以上も歩いてここへ戻
	ってくる自信が無かった。残念ながら次の機会にまわすことにした。俺もとしだなぁ、と思いつつ。途中に垂仁天皇の陪冢
	があった。

 

田道間守の塚が壕中にあり、それが途中のポイントから鳥居のなかに見える。

 


	田道間守(たじまもり)あるいは多遅摩毛理(たじまもり)。 4−5世紀頃来日か。新羅の皇子とも言う。名の通り、但馬
	(たじま)の国あたりを支配する実力者であったといわれる。日本書紀によると、ある時タジマモリは、天皇から「常世の
	国から橘(みかん)をもってくるよう」指示をうけて、苦難の末やっと常世の国(現在の韓国済州島と言われる)から帰っ
	てくるが、タジマモリを迎えたものは垂仁天皇の死であった。その悲しみのあまりタジマモリは天皇陵の側で死んでしまう。
	人々は、これを悼み、天皇陵の側に橘の木を植えたという。この故事から、御所には「右近の橘(うこんのたちばな)」が植
	えられる様になったと言われている。現在でもこの垂仁天皇陵の側に、タジマモリのみかんが植えられている。

 

 


	この天皇は古事記に説話が多い。鳥取の河上の宮で太刀千本を作り、石上神宮に奉納したとある。兄の沙本比古(さほびこ)
	にそそのかされ、天皇を刺そうとして刺せず、涙をこぼした佐波遅比売(さはじひめ)の話や、佐波遅比売の子が長じても
	喋らない話、丹波の四姉妹を献上され、美人だけ手元に置いて醜女の方は丹波へ返した話など、読み物としてもなかなかお
	もしろい話が載っている。これらの説話は、それぞれの地方にあった逸話を集めた際、この天皇のエピソードとしてまとめ
	られたものだろうというのが学会では定説のようだ。



 


	後に皇后となる丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)の娘、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)との間に生まれた五十瓊
	敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)は、剣1000本を神社に奉納し、神宮の宝物管理に任ぜられたが、妹の大中姫(おお
	なかひめ)にこれを譲ろうとして断られ、仕方なく物部十千根(もののべのとおちね)大連がこれに代わった。これが石上
	神宮(いそのかみじんぐう)の発祥で、そののち物部氏が朝廷の神宝管理・軍備管理の任にあたることになる。石上神宮は
	長く朝廷の武器庫として存続し続け、有名な「七支刀」(しちしとう)などもここにある。

	五十瓊敷入彦命の墓とされる古墳は、現在大阪府泉南郡岬町淡輪(たんのわ)にあり、結構大きな古墳なのだが、なぜここ
	に墓があるのかについては誰も説明できないようである。

 




	この他、野見宿邇(のみのすくね)の話もよく知れ渡っている。出雲の勇士野見宿邇は、強力で当麻(たぎま)の蹴速(け
	はや)を破り、我が国相撲の発祥・力士の始祖とされているが、殉死の代わりに埴輪を古墳に並べることを天皇に上申し、
	殉死を快く思っていなかった垂仁天皇に採用され、それ以来埴輪が古墳に並べられるようになった、とされる。





宝来山古墳(垂仁天皇陵:上下とも)


	墳丘長227mという大型の前方後円墳。鍵穴形で同一水面の周壕が巡る最初の大型古墳。五社神古墳(神功皇后陵)に続く
	古墳時代前期後半の大王墓とする説が有力。周壕の拡張の際島が取り残され、それが田道間守墓の伝承として残っている。
	嘉永二年(1849)の記録では、盗掘された時、亀の形をした石棺(長持形石棺)があったと記録されている。





	【伊久米伊理毘古伊佐知命】垂仁天皇

	伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。此天皇、娶、沙本毘古命之妹、佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命
	【一柱】又娶、旦波比古多多須美知宇斯王之女、氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命【印色二字以音】次、大帶日子淤
	斯呂和氣命【自淤至氣五字以音】次、大中津日子命。次、倭比賣命。次、若木入日子命【五柱】又娶、其氷羽州比賣命之弟、
	沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命。次、伊賀帶日子命【二柱】又娶、其沼羽田之入日賣命之弟、阿邪美能伊理毘賣命
	【此女王名以音】生御子、伊許婆夜和氣命。次、阿邪美都比賣命【二柱。此二王名以音】又娶大筒木垂根王之女、迦具夜比
	賣命、生御子、袁邪辨王【一柱】又娶山代大國之淵之女、苅羽田刀辨【此二字以音】、生御子、落別王。次、五十日帶日子
	王。次、伊登志別王【伊登志三字以音】
	又娶其大國之淵之女、弟苅羽田刀辨、生御子、石衝別王。次、石衝毘賣命、亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】凡此天皇之御
	子等十六王【男王十三女王三】故、大帶日子淤斯呂和氣命者、治天下也。【御身長、一丈二寸、御脛長四尺一寸也。】
	次、印色入日子命者、作血沼池。又作狹山池。又作日下之高津池。又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口是奉納石上神宮。
	即坐其宮、定河上部也。次、大中津日子命者、【山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无
	別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也。】	次倭比賣命者【拜祭伊勢大神宮也。】
	次、伊許婆夜和氣王者、【沙本穴太部之別祖也。】次、阿邪美都比賣命者、【嫁稻瀬毘古王。】
	次、落別王者、【小月之山君、三川之衣君之祖也。】次、五十日帶日子王者、【春日山君、高志池君、春日部君之祖。】
	次、伊登志和氣王者、【因無子而、爲子代定伊登志部。】次、石衝別王者、【羽咋君、三尾君之祖。】
	次、布多遲能伊理毘賣命者【倭建命之后。】

	此天皇、以沙本毘賣爲后之時、沙本毘賣命之兄、沙本毘古王、問其伊呂妹曰、「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘
	古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下」而、即作八鹽折之紐小刀、授其妹曰、「以此小刀刺殺天皇之寢。」故、天皇不
	知其之謀而、枕其后之御膝、爲御寢坐也。爾其后、以紐小刀爲刺其天皇之御頚、三度擧而、不忍哀情、不能刺頚而、泣涙落
	溢於御面。乃天皇驚起、問其后曰、「吾見異夢。從沙本方暴雨零來、急洽吾面。又錦色小蛇纏繞我頚。如此之夢。是有何表
	也。」爾其后以爲不應爭、即白天皇言、「妾兄沙本毘古王問妾曰『孰愛夫與兄。』是不勝面問故、妾答曰『愛兄歟。』爾誂
	妾曰『吾與汝共治天下。故當殺天皇』云而、作八鹽折之紐小刀授妾。是以欲刺御頚雖三度擧、哀情忽起、不得刺頚而、泣涙
	落洽於御面。必有是表焉。」爾天皇詔之、「吾殆見欺乎。」、乃興軍撃沙本毘古王之時、其王作稻城以待戰。此時沙本毘賣
	命、不得忍其兄、自後門逃出而、納其之稻城。此時其后妊身。於是天皇、不忍其后懷妊及愛重至于三年。故、迴其軍不急攻
	迫。如此逗留之間、其所妊之御子既産。故、出其御子置稻城外、令白天皇、「若此御子矣、天皇之御子所思看者、可治賜。」
	於是天皇詔、「雖怨其兄、猶不得忍愛其后。」
	故、即有得后之心。是以選聚軍士之中、力士輕捷而、宣者、「取其御子之時、乃掠取其母王。或髮或手、當隨取獲而、掬以
	控出。」爾其后豫知其情、悉剃其髮以髮覆其頭、亦腐玉緒、三重纏手、且以酒腐御衣、如全衣服。如此設備而、抱其御子刺
	出城外。爾其力士等、取其御子、即握其御祖爾、握其御髮者、御髮自落。握其御手者、玉緒且絶。握其御衣者、御衣便破。
	是以取獲其御子、不得其御祖。故、其軍士等、還來奏言、「御髮自落、御衣易破。亦所纏御手之玉緒便絶。故、不獲御祖、
	取得御子。」爾天皇悔恨而、惡作玉人等、皆奪取地。故、諺曰「不得地玉作也。」

	亦天皇、命詔其后言、「凡子名必母名、何稱是子之御名。」爾答白、「今當火燒稻城之時而、火中所生。故、其御名宜稱本
	牟智和氣御子。」又命詔、「何爲日足奉。」答白、「取御母定大湯坐、若湯坐、宜日足奉。」故、隨其后白以、日足奉也。
	又問其后曰、「汝所堅之美豆能小佩者誰解「」【美豆能三字以音也】答白、「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比賣、
	弟比賣。茲二女王淨公民。故、宜使也。」然遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦從也。
	故、率遊其御子之状者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而、持上來以、浮倭之市師池、輕池、率遊其御子。然是御子、
	八拳鬚至于心前、眞事登波受。【此三字以音】故、今聞高往鵠之音、始爲阿藝登比。【自阿下四字以音】
	爾遣山邊之大taka[帝鳥]、【此者人名】令取其鳥。故、是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、即到旦波國、多遲
	麻國、追迴東方、到近淡海國。乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取鳥而持上獻。
	故、號其水門謂和那美之水門也。亦見其鳥者、於思物言而、如思爾勿言事。

	於是天皇患賜而、御寢之時、覺于御夢曰、「修理我宮如天皇之御舍者、御子必眞事登波牟。」【自登下三字以音】如此覺時、
	布斗摩邇邇占相而、求何神之心、爾祟、出雲大神之御心。故、其御子令拜其大神宮、將遣之時、令副誰人者吉。爾曙立王食
	ト。故、科曙立王、令宇氣比白、【宇氣此三字以音】「因拜此大神誠有驗者、住是鷺巣池之樹鷺乎、宇氣比落。」如此詔之
	時、宇氣比其鷺墮地死。又詔之「宇氣比活」爾者、更活。又在甜白梼之前葉廣熊白梼、令宇氣比枯、亦令宇氣比生。爾名賜
	其曙立王、謂倭者師木登美豐朝倉曙立王。【登美二字以音】即曙立王、菟上王、二王副其御子遣時、自那良戸遇跛盲。自大
	坂戸亦遇跛盲。唯木戸是腋月之吉戸ト而、出行之時、毎到坐地、定品遲部也。
	故、到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黒巣橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖、名岐比佐都美、餝青葉山而、
	立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言、「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石[石冏]之曾宮、葦原色許男大
	神以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。爾所遣御伴王等、聞歡見喜而、御子者、坐檳榔之長穗宮而、貢上驛使。爾其御子、一宿
	婚肥長比賣。故、竊伺其美人者、蛇也。即見畏遁逃。爾其肥長比賣患、光海原自船追來故。益、見畏以自山多和、【此二字
	以音】引越御船、逃上行也於是覆奏言、「因拜太神、大御子物詔。故參上來。」故、天皇歡喜、即返菟上王、令造神宮。於
	是天皇、因其御子、定鳥取部、鳥甘部、品遲部、大湯坐、若湯坐。
	又隨其后之白、喚上美知能宇斯王之女等、比婆須比賣命、次弟比賣命、次歌凝比賣命、次圓野比賣命、并四柱。然留比婆須
	比賣命、弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是圓野比賣慚言、「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於
	隣里、是甚慚」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死。故、號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死。故、
	號其地謂墮國、今云弟國也。
	又天皇、以三宅連等之祖、名多遲麻毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。【自登下八字以音】故、多遲摩毛理、遂
	到其國、採其木實、以縵八縵、矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵、矛四矛獻于太后、以縵四縵、矛四
	矛獻置天皇之御陵戸而、□[冠敬脚手]其木實叫哭以白、「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登
	岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。此天皇御年壹佰伍拾參歳。
	御陵在菅原之御立野中也。又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。此后者、葬狹木之寺間陵也。




	【伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)】垂仁天皇

	伊久米伊理毘古伊佐知の命、師木の玉垣の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、沙本毘古の命の妹、佐波遲比賣(さはぢひめ)の命を娶りて生みし御子は品牟都和氣(ほむつわけ)の命【一柱】。
	また旦波(たには)比古多多須美知(ひこたたすみち)の宇斯(うし)の王の女、氷羽州比賣(ひばすひめ)の命を娶りて
	生みし御子は印色(いにしき)の入日子の命【印(いに)色(しき)の二字は音を以ちてす】。次に大帶日子(おおたらし
	ひこ)淤斯呂和氣(おしろわけ)の命【淤より氣までの五字は音を以ちてす】。次に大中津日子(おおなかつひこ)の命。
	次に倭比賣(やまとひめ)の命。次に若木入日子(わかきいりひこ)の命【五柱】。また其の氷羽州比賣の命の弟、沼羽田
	(ぬばた)の入毘賣の命を娶りて生みし御子は沼帶別(ぬなたらしわけ)の命。次に伊賀帶日子(いがたらしひこ)の命
	【二柱】。また其の沼羽田の入日賣の命の弟、阿耶美能伊理毘賣(あざみのいりひめ)の命【此の女王の名は音を以ちてす】
	を娶りて生みし御子は伊許婆夜和氣(いこばやわけ)の命。次に阿耶美都(あざみつ)比賣の命【二柱。此の二王の名は音
	を以ちてす】。また大筒木垂根(おおつつきたりね)の王の女、迦具夜(かぐや)比賣の命を娶りて生みし御子は袁耶辨
	(おざべ)の王【一柱】。また山代の大國の淵の女、苅羽田(かりはた)刀辨(とべ)【此の二字は音を以ちてす】を娶り
	て生みし御子は落別(おちわけ)の王。次に五十日帶日子(いそかたらしひこ)の王。次に伊登志別(いとしわけ)の王
	【伊登志の三字は音を以ちてす】。また其の大國の淵の女、弟苅羽田刀辨(おとかりはたとべ)を娶りて生みし御子は石衝
	別(いしつくわけ)の王。次に石衝毘賣(いわつくびめ)の命、またの名は布多遲能伊理毘賣(ふたぢのいりひめ)の命
	【二柱】。凡そ此の天皇の御子等十あまり六王【男王十あまり三たり、女王三たり】。
	故、大帶日子淤斯呂和氣の命は天の下治しめしき【御身の長(たけ)、一丈二寸(ひとつえふたき)。御脛(みはぎ)の長
	(たけ)、四尺一寸(よさかひとき)也】。次に印色入日子(いにしきいりひこ)の命は血沼の池を作り、また狹山の池を
	作り、また日下の高津の池を作りき。また鳥取(ととり)の河上の宮に坐しまして、横刀(たち)壹仟口(ちふり)を作ら
	しめ、是を石上~宮(いそのかみのかみのみや)に納め奉り、即ち其の宮に坐しまして河上部(かわかみべ)を定めき。
	次に大中津日子の命は【山邊の別、三枝(さきくさ)の別、稻木の別、阿太(あだ)の別、尾張の國の三野(きび)の別、
	吉備の石无(いわなし)の別、許呂母(ころも)の別、高巣鹿(たかすか)の別、飛鳥の君、牟禮(むれ)の別等の祖也】。
	次に倭比賣の命は【伊勢の大~の宮を拜み祭りき】。次に伊許婆夜和氣(いこばやわけ)の王は【沙本の穴太部(あなほべ)
	の別の祖也】。次に阿耶美都比賣(あざみつひめ)の命は【稻瀬毘古(いなせびこ)の王に嫁いき】。次に落別(おちわけ)
	の王は【小月(おつき)の山の君、三川(みかわ)の衣(ころも)の君の祖也】。次に五十日帶日子(いそかたらしひこ)
	の王は【春日の山の君、高志の池の君、春日部の君の祖】。
	次に伊登志和氣(いとしわけ)の王は【子無きに因りて子代(こしろ)として伊登志部(いとしべ)を定めき】。次に石	衝別(いわつくわけ)の王は【羽咋(はくい)の君、三尾の君の祖】。次に布多遲能伊理毘賣(ふたぢのいりびめ)の命は
	【倭建(やまとたける)の命の后(きさき)】。此の天皇、沙本毘賣を以ちて后と爲す時に、沙本毘賣の命の兄、沙本毘古
	の王、其の伊呂妹(いろも)に問いて曰く、「夫(お)と兄(え)と孰(いづ)れか愛(は)しき」。答えて曰く、「兄ぞ
	愛しき」。爾くして沙本毘古の王、謀りて曰く、「汝、寔(まこと)に我を愛しと思わば、將に吾と汝と天の下治さん」。
	即ち八鹽折(やしおおり)の紐小刀(ひもかたな)を作りて其の妹に授けて曰く、「此の小刀を以ちて天皇の寢(いね)る
	を刺し殺せ」。故、天皇、其の謀を知らさずて、其の后の御膝を枕と爲して御寢(みね)坐しましき。爾くして其の后、紐
	小刀を以ちて其の天皇の御頚(みくび)を刺さんと爲して、三度(みたび)擧(ふ)りて哀しき情(こころ)に忍びず、頚
	を刺すこと能わずて、泣く涙、御面(みおもて)に落ち溢(あぶ)れき。乃ち天皇、驚き起きて其の后に問いて曰く、「吾
	は異しき夢見つ。沙本の方より暴雨零(ふ)り來て急かに吾が面を沾(ぬら)しき。また錦の色の小さき蛇、我が頚に纏繞
	(まつわ)りき。如此の夢は、是、何の表(しるし)にか有らん」。爾くして其の后、爭わえじと以爲(おも)いて、即ち
	天皇に白して言いしく、「妾が兄、沙本毘古の王、妾に問いて曰く、『夫と兄と孰れか愛しき』。是(か)く面(まのあた)
	りに問うに勝(た)えぬが故に、妾、答えて曰く、『兄ぞ愛し』。爾くして妾に誂(あとら)えて曰く、『吾と汝と共に天
	の下治らさん。故、天皇を殺せ』と云いて、八鹽折の紐小刀を作り妾に授けき。是を以ちて御頚を刺さんと欲(おも)いて
	三度擧ると雖ども哀しき情忽ちに起りて頚を刺すことを得ずて、泣く涙、御面に落ち沾しき。必ず是の表にや有らん」。
	爾くして天皇の詔らさく、「吾は殆(ほとほ)と欺むかれつるかも」。乃ち軍を興して沙本毘古の王を撃つ時に、其の王、
	稻城を作り、以ちて待ち戰いき。
	此の時に、沙本毘賣の命、其の兄に忍(た)うることを得ず、後(しり)つ門(と)より逃げ出でて、其の稻城に納(いり
	き。此の時に其の后、妊身めり。是に天皇、其の后の懷妊めると、愛しみ重(おも)みして三年に至れるとに忍(た)えず。
	故、其の軍を迴らして攻迫(せ)むること急(すみや)かならず。如此(かく)逗留(とどま)れる間に其の妊める御子を
	既に産みき。故、其の御子を出だして稻城の外に置き、天皇に白さしめしく、「若し此の御子を天皇の御子と思おし看さば、
	治め賜うべし」。
	是に天皇、詔らさく、「其の兄を怨むと雖ども、猶、其の后を愛しむに忍ぶことを得ず」。故、即ち后を得ん心有り。是を
	以ちて軍士(いくさ)の中に力士(ちからびと)の輕(かろ)く捷(はや)きを選び聚めて宣らさくは、「其の御子を取ら
	ん時に、乃ち其の母王(ははみこ)を掠(かす)み取れ。髮にもあれ手にもあれ、取り獲ん隨に掬(つか)みて控き出すべ
	し」。爾くして其の后、豫(あらかじ)め其の情を知りて悉く其の髮を剃り、髮を以ちて其の頭を覆い、また玉の緒を腐
	(くた)して三重に手に纏き、且(また)、酒を以ちて御衣(みけし)を腐し、全き衣の如く服(き)たり。 如此(かく)
	設(ま)け備えて、其の御子を抱き城の外に刺し出しき。 爾くして其の力士等其の御子を取りて即ち其の御祖を握(と)
	りき。 爾くして其の御髮を握らば、御髮自ら落ち、其の御手を握らば玉緒且絶え、其の御衣(みけし)を握らば御衣便ち
	破れぬ。 是を以ちて其の御子を取り獲て、其の御祖(みおや)を得ず。故、其の軍士等還り來て奏して言いしく、「御髮
	自ら落ち、御衣易く破れ、また御手に纏ける玉の緒便ち絶えぬ。故、御祖を獲ず御子を取り得たり」。爾くして天皇悔い恨
	みて、玉を作りし人等を惡(にく)み、皆其の地を奪い取りき。故、諺に曰く、『地を得ぬ玉作り』也。
	また天皇其の后に命詔(みことのり)して言いしく、「凡そ子の名は必ず母の名づくるに、何にか是の子の御名を稱(い)
	わん」。爾くして答えて白さく、「今、火の稻城を燒く時に當りて火の中に生む。故、其の御名は本牟智和氣(ほむちわけ)
	の御子と稱うべし」。また命詔せしく、「何に爲て日足(ひだ)し奉つらん」。答えて白さく、「御母(みおも)を取り大
	湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めて日足し奉るべし」。故、其の后の白す隨に日足し奉る也。 また其の后に
	問いて曰く、「汝が堅(かた)める美豆能(みずの)小佩(おおび)は誰か解かん【美豆能の三字は音を以ちてす】」。
	答えて白さく、「旦波の比古多多須美智(ひこたたすみち)の宇斯(うし)の王の女、名は兄比賣(えひめ)・弟比賣(お
	とひめ)、茲(こ)の二はしらの女王は淨(きよ)き公民(おおみたから)ぞ。故、使ふべし」。然れども遂に其の沙本比
	古の王を殺しき。 其の伊呂妹(いろも)もまた從いき。
	故、其の御子を率(い)て遊びし状(かたち)は、尾張の相津(あいづ)に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふた
	またおぶね)に作りて持ち上り來て、倭(やまと)の市師(いちし)の池・輕の池に浮け、其の御子を率て遊びき。然れど
	も是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで眞事(まこと)登波受(とはず)【此の三字は音を以ち
	てす】。故、今高く往く鵠(くぐい)の音を聞きて始めて阿藝登比(あぎとひ)【阿より下の四字は音を以ちてす】爲しき。
	爾くして山邊の大(おおたか)【此は人の名】を遣して其の鳥を取らしむ。故、是の人、其の鵠を追い尋ねて木の國より針
	間の國に到り、また稻羽の國に追い越え、即ち旦波の國・多遲麻の國に到り、東の方に追い迴り、近つ淡海の國に到り、乃
	ち三野の國に越え、尾張の國より傳(つた)いて科野(しなの)の國に追い、遂に高志の國に追い到りて、和那美(わなみ)
	の水門(みなと)に於いて網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて獻りき。故、其の水門を號けて和那美の水門と謂う。また
	其の鳥を見ば、物言うと思いしに、思いしが如く言う事勿し。
	是に天皇、患え賜いて御寢し時、御夢に覺(さと)して曰く、「我が宮を修理(つくろ)いて天皇の御舍(みあらか)の如
	くせば、御子、必ず眞事(まこと)登波牟(とはむ)【登より下の三字は音を以ちてす】」。如此(かく)覺す時に、布斗
	摩邇邇(ふたまにに)占相(うらな)いて何の~の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲の大~の御心なり。故、其の御子を其
	の大~の宮を拜ましめんと將に遣わさんとする時に、誰人(たれ)を副わしめば吉(よ)からん。爾くして曙立の王、ト
	(うら)に食(あ)いき。故、
	曙立の王に科(おお)せて宇氣比(うけひ)白さしめしく【宇氣此の三字は音を以ちてす】、「此の大~を拜むに因りて誠
	に驗(しるし)有らば、是の鷺巣(さぎす)の池の樹に住む鷺や、宇氣比落ちよ」。如此(かく)詔りし時に、宇氣比し其
	の鷺、地に墮ちて死にき。また詔らさく「宇氣比活(い)け」。爾すれば更に活きき。また甜白梼(あまかし)の前に在る
	葉廣熊白梼(はひろくまかし)を宇氣比枯らしめ、また宇氣比生かしめき。爾くして其の曙立の王に名を賜いて倭者師木登
	美豐朝倉曙立(やまとのしきとみとよあさくらあけぼのたつ)の王【登美の二字は音を以ちてす】と謂う。即ち曙立の王・
	菟上(うなかみ)の王の二はしらの王を其の御子に副えて遣す時に、那良戸(ならと)より跛(あしなえ)・盲(めしい)
	に遇わん、大坂戸(おおさかと)よりまた跛・盲に遇わん、唯に木戸(きと)、是、腋月(わきづき)の吉(よ)き戸とト
	(うらな)いて、出で行く時に到り坐す地毎に品遲部(ほむぢべ)を定めき。
	故、出雲に到りて大~を拜み訖(おわ)りて還り上る時に、肥(ひ)の河の中にKき橋(すばし)を作り假宮を仕え奉りて
	坐しましき。爾くして出雲の國造の祖、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝(かざ)りて其の河下に立ちて將に
	大御食(おおみけ)獻らんとする時に、其の御子詔りて言いしく、「是の河下に青葉の山の如きは、山と見て山に非ず。若
	し出雲の石(いわくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大~(あしはらにしこおのおおかみ)を以ち伊都玖(いつく)
	祝(はふり)が大廷(おおにわ)か」と問い賜いき。爾くして御伴に遣わせし王等、聞き歡び見て喜びて御子をば檳榔(あ
	ぢまさ)の長穗宮(ながほのみや)に坐せて驛使(はゆまつかい)を貢上(たてまつ)りき。
	爾くして其の御子、一宿(ひとよ)、肥長比賣(ひながひめ)に婚(あ)いき。故、竊に其の美人を伺えば蛇也。即ち見畏
	みて遁逃(に)げき。爾くして其の肥長比賣、患えて海原を光(てら)して船より追い來たり。故、益(ますま)す見畏み、
	以ちて山の多和(たわ)【此の二字は音を以ちてす】より御船を引き越して逃げ上り行きき。
	是に覆奏(かえりこと)して言いしく、「大~を拜むに因りて、大御子、物詔りき。故、參い上り來つ」。故、天皇、歡喜
	(よろこ)びて、即ち菟上(うなかみ)の王を返して~宮(かみのみや)を造らしめき。是に天皇、其の御子に因りて鳥取
	部(ととりべ)・鳥甘部(とりかいべ)・品遲部(しなぢべ)・大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めき。また
	其の后の白しし隨に美知能宇斯の王の女等、比婆須比賣の命、次に弟比賣命、次に歌凝比賣(うたこりひめ)の命、次に圓
	野比賣(まとのひめ)の命、并せて四柱を喚し上げき。然れども比婆須比賣の命、弟比賣の命の二柱を留めて、其の弟王の
	二柱は甚(いと)凶醜(みにく)きに因りて本つ主に返し送りき。 是に圓野比賣、慚じて言いしく、「同じ兄弟(はらか
	ら)の中に姿醜きを以ちて還さえし事、隣(ちか)き里に聞こえんは是甚(いと)慚(はずか)し」とて、山代國の相樂
	(さがらか)に到りし時に樹の枝に取り懸(さが)りて死なんと欲(おも)いき。故、其の地を號けて懸木(さがりき)と
	謂う、今には相樂(さがらか)と云う。また弟國に到りし時に遂に峻(けわ)しき淵に墮ちて死にき。故、其の地を號けて
	墮國(おちくに)と謂う、今には弟國(おとくに)と云う也。
	また天皇、三宅の連等の祖、名は多遲麻毛理(たぢまもり)を以ちて常世の國に遣して登岐士玖能迦玖能(ときじくのかく
	の)木實(このみ)【登より下の八字は音を以ちてす】求めしめき。故、多遲摩毛理は遂に其の國に到りて其の木の實を採
	りて、縵(かげ)八縵(やかげ)・矛(ほこ)八矛(やほこ)を以ちて將に來らんとする間に天皇既に崩りき。爾くして多
	遲摩毛理、縵四縵・矛四矛を分けて太后(おおきさき)に獻り、縵四縵・矛四矛を以ちて天皇の御陵の戸に獻り置きて、其
	の木の實を(ささ)げて叫び哭きて白さく、「常世の國の登岐士玖能迦玖能木實を持ち參い上りて侍り」。遂に叫び哭きて
	死にき。其の登岐士玖能迦玖能木實は、是、今の橘也。
	此の天皇の御年は壹佰伍拾參歳(ももとせあまりいそとせあまりみとせ)。御陵は菅原の御立野(みたちの)の中に在り、
	また其の大后、比婆須比賣の命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めき。此の后を葬りし
	は狹木(さき)の寺間(てらま)の陵也。


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