【第33代 推古(すいこ)天皇】 諡名: 豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきひめのすめらみこと:日本書紀)、 豊御食炊屋比売命(とよみけかしきひめのみこと:古事記)、 異名: 額田部皇女(ぬかたべのひめみこ) 誕生: 欽明15年(554)〜 推古36年(628)75歳 在位: 崇峻5年(592)〜 推古36年(628) 父: 欽明天皇 第三皇女 母: 蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ) 夫: 敏達天皇(訳語田渟中倉太珠敷尊:おさだのぬなくらふとたましきのみこと) 皇子女: 菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子(夭折)、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子、 守皇皇女、田眼皇女(舒明天皇妃)、桜井弓張皇女 宮居: 豊浦宮(とよらのみや:奈良県明日香村豊浦)、小墾田宮(おはりだのみや:奈良県高市郡明日香村) 御陵: 磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)
18才で異母兄敏達帝の皇后となり、34才で未亡人。その間敏達天皇との間に2男5女をもうける。蘇我馬子の姪にあたる。 異母弟の崇峻天皇崩御後、蘇我馬子の擁立によって我が国最初の女帝となった。電光石火行われたこの即位についてはさまざまな 見解がある。しかもわが国初の女帝の誕生である。崇峻帝が馬子に暗殺された1ケ月後に、さしたる混乱もなく天皇の位について いる。蘇我馬子−推古女帝−聖徳太子。このラインが、推古即位前に既に成立していたと見るむきもある。さらに崇峻天皇の暗殺 は、推古女帝−聖徳太子も承知していたという説まであるのだ。
記紀が残す、推古天皇即位前後の状況は、以下のようである。 敏達天皇崩御の後、後継者として橘豊日大兄皇子(欽明天皇と蘇我堅塩姫の子、額田部皇女の同母兄)と泥部穴穂部皇子(欽明天皇と 蘇我小姉君(堅塩姫の妹)の子)が候補に登った。穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮(もがりのみや:天皇遺体の安置所)で額田部皇后 を犯そうとし、三輪逆(みわのさかし)のよって妨害される。結局後継者は豊日大兄皇子となり、用明天皇として即位するのだが、 穴穂部皇子は蘇我氏一族にもかかわらず物部守屋(もののべのもりや)に接近し、三輪逆を殺害してしまう。 用明天皇は在位2年で没し、穴穂部皇子は蘇我氏により殺され、蘇我と物部の対立は激化していく。やがて皇位は穴穂部皇子の同 母弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ:崇峻天皇)が受け継ぐのだが、その即位にあたっては、額田部皇女の馬子への強い推挙があっ たとも言われる。額田部皇太后は、長女の菟道貝蛸皇女を厩戸皇子(聖徳太子)に、次女の小墾田皇女を彦人大兄皇子に嫁がせる。 しかし、崇峻天皇には嫁がせていないのがなかなか面白いという見方もある。 その後、崇峻天皇は蘇我馬子と対立し、馬子の放った刺客、東漢直駒(やまとのあやあたいこま)に暗殺されるという事態になる。 そしてその後継者として額田部皇太后自身が推挙されるが、額田部皇太后は固辞し続け、再三の群臣達の願いにより即位したとな っている。我が国初の女帝「推古天皇」の誕生であるが、これは今日から見れば異例に見えるが、実際には女帝の系譜というのは 天照大神、神宮皇后、他の多くの事例があり、女帝誕生に対する違和感や抵抗は、当時さほどなかったのではないかと推測できる。
推古天皇の在位は36年におよび、これは古代の天皇の在位年数で言えば驚くべき年数である。この帝の時代もっとも特徴的なのは、 甥である厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子とし、合わせて摂政に任じ、すべての政務を厩戸皇子に行わせたことで ある。この天皇記は、多くの記事が聖徳太子の活躍で占められている。「冠位十二階」や「十七条の憲法」の制定・施行、遣隋使の 派遣など積極的な外交を行った。斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『国記』『天皇記』の編纂を命じるなど、文化事業にも力を入れ、 また仏教を信じ、推古天皇も熱心な信徒であったとされる。実質的な政治は全て厩戸皇子によって行われたとされるが、これについ ては幾つか異論もある。おそらく推古天皇は、蘇我馬子と聖徳太子を併用することにより、微妙な政務のバランスを取っていたので はないかと思われる。
聖徳太子が崩御すると、蘇我馬子は政治的に台頭し専横的な行為がめだってくる。しかし推古天皇はそれを押さえ、太子の引いた路 線を押し進む。推古女帝が、蘇我馬子から個人的に公の土地を所望され、これをきっぱりと断ったという逸話が残されているが、そ こには全てを委任するだけの女帝とは一線を画する確固たる意志をもった人物像が見える。 「自分も蘇我の血を引く天皇であり、今まで散々貴方には便宜を図ってきたが、ここで貴方の言い分を聞いてその通りにしたら、私 は愚帝として後世に残り、貴方も不忠という烙印を押されるであろう。」 太子が心おきなく国政を行えたのは、この女帝の後ろ盾があったからこそと言えるだろう。一部には、推古天皇を馬子の傀儡女帝と 見る向きもあるが、これは誤りだと思う。女帝は馬子の専横を、太子を重用する事によって押さえていたのだろう。馬子も、さらな る流血にはもう嫌気がさして、この女帝の治世の元、あまんじて有力者の地位のままで納得していたのではないだろうか。
数々の善政を行ったとされる聖徳太子は、天皇となることなく49才で世を去るが、推古天皇はその後馬子の死も看取り、75才で崩御 するまでさらに6年在位した。 死期の迫った女帝は、孫の田村皇子(後、舒明天皇)を枕元に呼び、皇位に就くことの困難さを説き、謹んで物事をよく見通すよう に諭した。同様に聖徳太子の子、山背大兄(やましろのおおえ)にはよく人の意見を聞くように忠告したが、ついに後継者を明言す ることはなかった。 権力策謀の裏面を見続けた女帝は、末期の遺言通り、幼くして逝った竹田皇子と同じ陵に葬られている。死に臨んで、やっと母に戻 れたのであろうか。 太子町はその御陵の多さから「王陵の谷」とか「王家の谷」と呼ばれる事もある。上左は推古陵のすぐ側にある「二子塚古墳」であ る。近鉄「喜志」駅からバスに乗り「太子前」で降りて、ぐるりと一回り古墳めぐりをし「近つ飛鳥博物館」まで歩いて、だいたい 7、8km歩く勘定だ。炎天下の古墳めぐりはさすがに疲れた。 (*) 古事記の記す天皇家の物語は、この推古天皇の御代で終わりである。古事記は推古天皇の埋葬記事をもって完結している。 従って、これ以降の天皇家物語は日本書紀に譲ることになるが、日本書紀は舎人親王が編纂したものであるから、当然その 時代、すなわち父の天武天皇および持統天皇の御代を持って完結している。
【豐御食炊屋比賣命】推古天皇 (古事記) 妹、豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆歳。 【戊子年三月十五日癸丑日崩。】 御陵在大野岡上。後遷科長大陵也。 【豐御食炊屋比賣命(とよみけかしきやひめ)】推古天皇 妹、豐御食炊屋比賣の命、小治田(おはりだ)の宮に坐しまして天の下治しめすこと參拾漆歳(みそあまりななとせ) 【戊子(つちのえね)の年の三月(やよい)十五日(とおあまりいつか)癸丑(みづのとうし)の日に崩(かむざ)りき】。 御陵(みささぎ)は大野の岡の上に在りしに、後に科長(しなが)の大陵(おおみささぎ)に遷(うつ)しき。
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