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天皇陵めぐり【番外編】
聖徳太子御廟
大阪府南河内郡太子町 2000.7.20

聖徳太子は、父用明天皇と母穴穂部間人(あなほべのはしひと)の間に生まれた( 574)。当時の婚姻関係は複雑で、現代
の眼から見れば異常な位近親結婚が多く、極めて複雑な家系図を構成している。太子の両親は、ともに欽明天皇を父とする
異母兄弟で、その母親同士は父、母を同じくする姉妹である。太子が生まれたのは、飛鳥橘寺の地にあった橘宮の厩の前と
伝えられている。厩戸皇子(うまやどのおうじ)という名前はこれに由来している。
大阪天王寺(近鉄はあべの橋)を出て古市から長野線に入り、約30分程で「喜志駅」につく。駅前がバスターミナルになっ
ていてここから太子町を北回りに廻るバスと南回りのバスがでている。大阪芸術大学行きのバスも頻繁にでている。どれに
乗っても古墳めぐりは出来るが、太子廟へは北回りが近い。もろに「太子前」というバス停である。すぐ前に「叡福寺」の
南大門が見えている。叡福寺は、聖徳太子の死後推古天皇によって建てられた。古来、歴代皇室の信仰も厚く、今日なお太
子御忌の日には皇室からの勅使が参籠され、太子御廟所のある磯長(しなが)の叡福寺は、太子信仰の中心的な役割を担っ
て今日まで多くの信徒で栄えている。また弘法大師、日蓮聖人など高僧も参籠していたことが知られている。

第33代推古天皇は、我が国初の女帝となった時、甥である厩戸皇子を皇太子にし「摂政」に任じて政務の全てを任せた、と
記録されている。しかし、590 年代当時「摂政」という官職はなかったとする意見も見られ、廐戸皇子がほんとにそのよう
な立場だったかについて疑問視する声もある。



在任中の太子は、政治的理念を仏法に求める事でその独自性を強調。これまでにない斬新な発想から冠位十二階、十七条憲
法などを制定した。また「天皇記」(すめらみかどのふみ)、「国記」(くにつふみ)などの国史の編纂、遣隋使派遣など
を通して、対外政策を積極的に推進した事でも知られる。強国、随との交流の中で多くの文物、文化を摂取する事になった
遣隋使の派遣は、南北朝統一のなった随との交渉を太子が馬子に進言、随の煬帝(ようだい)との間で数度国書が交わされ
た後にはじまった。また、更に特筆すべきは「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)に集約される仏教信仰者としての側面であ
る。太子は、推古女帝との共同事業として、橘寺、法隆寺などを創建、晩年は諸寺のある斑鳩の里に隠棲する形で政務を行
った。斑鳩の宮を仏教の拠点とする考え方の底にあったものは、仏教的理想主義のもとに官僚を育て、それを政治に生かす
事だった。蘇我馬子の監視下という制約はあったものの、これらの政治は全てが太子の見識によって行われた。摂政政治は、
これまでにない天皇親政を実現したと言える。だが、聖徳太子はついに天皇となる事はなく、推古30年( 622)に49才で皇
太子のまま世を去った。
多宝塔(重要文化財:下左)と御廟から南大門方向を見る(下右)


磯長(しなが)廟は叡福寺境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用した円墳で、高さ7.2m経54.3m、内部は横穴式石室にな
っている。後に弘法太子が築いたと言われる聖地と俗界をへだてる結界石が490体あり、いずれも観音の梵字が刻まれてい
る。

200円也を払って「叡福寺宝物殿」を拝観する(下右)。写真撮影は禁止。

叡福寺は、推古30年(622)、推古天皇の勅願により聖徳太子の墓を守護し追福を営むために、香華寺として坊舎(墓守の家10軒)を建立したのが開基とされている。太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)大后の眠る御廟に、太子と、前日に亡くなった妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が合葬され三骨一廟となっている。神亀元年(724)聖武天皇の勅願で、太子御廟の東西に、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺とする、その規模6町(約660m)四方に及ぶ大伽藍が建立された。その後440年を経て平重盛(1138-79)によって堂塔の大修補が行なわれて面目を一新したが、天正2年(1574)織田信長の兵火により伽藍全部が焼失した。その後豊臣秀頼(秀吉の子:1593-1615)の勅願により聖霊殿が再建され、相次いで現在の諸堂が成った。明治12年の御廟改修の際、宮内庁が大石を用いて羨道をふさいだので、現在内部を見ることはできないが、叡福寺に伝えられる「聖徳太子御廟窟絵記文」には窟内玄室の三棺配置図があり、宝物館で見ることが出来る。

物部守屋との合戦(叡福寺蔵「聖徳太子絵伝」)


<謝辞> 冒頭の陵印は奈良の今崎さんからご提供いただきました。
「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁 -asahi.com- 2002_11_15
大阪府太子町の叡福寺境内にある「聖徳太子墓」を整備していた宮内庁書陵部は14日、それに伴う調査状況を考古学・
歴史学の学会代表らに公開した。同墓の敷地内に、研究者の立ち入りを認めたのは初めて。同墓は直径約55メートルの円
墳で、現在は墳丘の周囲が「結界石」と呼ばれる石の列で二重に囲まれている。宮内庁は、鎌倉時代に造られたとされる内
側の結界石の保存処理を進めるため、周辺の発掘調査をしていた。
公開に立ち会った研究者によると、今回の発掘では石製の五輪塔の一部などが出土しているという。聖徳太子墓として整備
された江戸時代までは、墳丘上に周囲に住む人たちの墓地があったとみられる。実際の墳丘の規模は、結界石で囲まれた範
囲より小さくなる可能性があるという。
日本書紀によると、聖徳太子は622年に斑鳩宮(奈良県斑鳩町)で死去し、現在の太子町に葬られたとされている。平
安時代から叡福寺の古墳がその墓と考えられてきた。鎌倉時代の記録によると、同墓の横穴式石室には3つの棺が収められ、
太子と母、妻のものとされている。 (09:53)
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