【第46代孝謙(こうけん)天皇】 異名: 阿倍(あべ)姫、 宝字称徳孝謙皇帝(ほうじしょうとくこうけん) 生没年: 養老2年(718)〜 神護景雲4年(770)(53歳) 在位: 天平勝宝元年(749)〜 天平宝字2年(758) 父: 聖武天皇 第2皇女 母: 光明皇后(藤原安宿媛 ふじわらのあすかべ 藤原不比等の娘) 皇子女: なし 皇宮: 平城京(へいじょうきょう:ならのみや:奈良市) 御陵: 高野陵(たかののみささぎ:奈良県奈良市山陵町) 【第48代称徳(しょうとく)天皇】 在位: 天平宝字8年(764)〜 神護景雲4年(770)
聖武天皇と光明皇后との間に生まれた第2皇女。女性としてはじめて皇太子になった。父、聖武太上天皇の死後39才にて即位する。 母、光明皇太后を後見人に、藤原仲麻呂を用い橘奈良麻呂の乱を鎮圧した。政務の実権は皇太后と藤原仲麻呂が掌握した。聖武太上 天皇が没すると、遺詔に従って新田部親王の子、道祖王が皇太子に立てられたが、器にあらずとして皇太子の位を剥奪される。天皇 は立太子を群臣に図るが、右大臣豊成・中務卿永手らは「塩焼王」を、摂津大夫文屋智努・左大弁大伴古麻呂らは池田王を推挙する。 天皇は、藤原仲麻呂の進言によって、舎人親王の子、大炊王(おおいおう)を選ぶ。これにより大炊王が立太子するが、淳仁天皇と して即位した後の仲麻呂の上表によれば、これ(立太子)を定めたのは光明皇太后とある。天平宝字2年(758)、母への孝養を理由 に、孝謙天皇は大炊王に譲位する。
孝謙から皇位を継いだ淳仁天皇の時代、天平宝字4年( 760)母皇太后が崩御し、翌年保良宮で禅宗僧「道鏡」の看病を受けたのを 期に、孝謙上皇は淳仁天皇・藤原仲麻呂らとの対立を深め、天平宝字6年( 762)出家を宣言して政務を二分し、祭祀・小事のみは 天皇に委ね、国家の大事・賞罰は自らが行うと宣下する。僧・弓削道鏡を重用する孝謙上皇に対し、これを不服とする恵美押勝(藤 原仲麻呂)は乱を起こし失脚する。追い詰められた仲麻呂は越前への逃亡を図るが失敗し、琵琶湖上で斬殺された。孝謙はこの直後、 藤原豊成を右大臣に再任、道鏡を大臣禅師に任命し、乱に連座した淳仁天皇も廃帝流罪(淡路島)とした。この時孝謙上皇は46才。 絶対の権力を持つ信仰深い独身の尼で、既に両親はなく兄弟もなかったため、上皇が称徳天皇として重祚(ちょうそ)するのである。 天武系の最後の天皇であった。「天平神護」と改元し、同年8月、皇太子候補であった和気王(舎人親王の孫)を謀反の罪で捕え、 配流の途次、絞殺せしめる。すでに道鏡への譲位を考えていたのかもしれない。 歴史好きな人々の間では、称徳天皇と道鏡の関係はあまりにも有名である。天皇は、年甲斐もなく色に狂った「淫乱な女帝」として、 道鏡は最後には天皇の座を狙った「天下の大逆賊」として世間に流布している。
保良宮で病に陥った孝謙上皇を僧道鏡が熱心に看病し、上皇の心に愛が芽生えた。上皇は道鏡を寵愛し太政大臣禅師の位を授け、自 らも再び皇位についた。太政大臣禅師とは今で言う総理大臣のような機能である。天皇は愛人を行政府の最高位につけたのだ。当然、 律令制度によって成り立っていた秩序にヒビが入りだす。いかに学識のある高僧であっても、複雑化した制度を一人で統制できるは ずもなく、不平不満が各地で燻りだした。やがて道鏡は、九州宇佐神宮の御神託を得て天皇の位を得ようとする。道鏡の専横もここ に極まったと言える。使者に立った「和気清麻呂」は宇佐神宮から戻って、「古えより天皇と臣下の別は明確である。臣をもって君 に代えることはできない」という神託を告げる。この神託の内容は、「乙巳の変」(大化改新)時、中大兄皇子が母の皇極天皇に言 ったのと同じである。これを聞いた女帝は激怒し、清麻呂と姉の広虫を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と穢虫(きたなむし)と改 名させて、清麻呂を大隅へ流罪にする。しかし天皇と言えども神託は覆せず、女帝はほどなく病に陥り、失意の内に53才で崩御し た。この死によって、これまで度々出現した「女帝の時代」は終焉を迎える。この後、850年後の明正天皇まで女帝は出現しない。
これが、一般的な「称徳・道鏡ストーリー」であるが、この事件についても様々な角度からの見解がある。 人によっては、「日本史上まれにみる狂った治世」と呼び、ある人は称徳天皇をして「孤独な愛に飢えていた女帝」と弁護する。 称徳後の皇位を継いだ光仁天皇は、道鏡を下野国薬師寺の別当(べっとう)に降格・左遷し、流されていた和気清麻呂も中央へ呼び 戻す。以後和気清麻呂は、皇国の危機を救った忠臣として讃えられ、教科書は言うに及ばず、昭和初期頃までの紙幣にも肖像画が印 刷されていた。
3つの古墳がよりそうように築造されている。陵山古墳、石塚山古墳は出土物・陵墓図・盗掘記録などが残っているが、高塚古墳は 詳細不明。記録では、称徳天皇は神護景雲4年(770)西宮の寝殿に崩御し、大和国添下郡佐貴郷の高野山陵に葬られたとされるが、 『続日本紀』は佐紀の旧鈴鹿王邸を陵墓にあてたという。現在、この高塚古墳が称徳天皇陵に比定されているが、当然疑問視する声 も多い。
孝謙天皇と道鏡物語もまた多くの伝説と伝承を生んだ。左遷された弓削道鏡を慕って、称徳天皇は密かに下野の国へ行幸し、この地 で没したとも伝えられ、孝謙天皇を祀る神社もある。或いは、道鏡が女帝の遺髪や遺品を持参し、この地に祭ったとも伝えられてい る。