Music: 離宮にて

第45代 聖武天皇
佐保山南陵 2000.5.1 奈良市法蓮町





	【第45代聖武(しょうむ)天皇】
	異名: 首皇子(おびとのおうじ)、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはるきとよさくらひこ)
	生没年:大宝元年(701) 〜 天平勝宝8年(756)(56歳)
	在位: 神亀元年(724) 〜 天平感宝元年(749)
	父:  文武天皇
		母:  藤原宮子(ふじわらのみやこ:藤原不比等の娘)
	皇后: 藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ:こうみょうし:光明皇后:藤原不比等の娘)
	皇妃: 県犬養広刀自、藤原氏、藤原氏、橘古那可智   
	皇子女:阿部内親王(孝謙天皇・称徳天皇)、皇子某王、井上内親王、安積親王、不破内親王
	皇宮: 平城京(へいじょうきょう:ならのみや:奈良市)、恭仁宮(くにのみや:京都府相楽郡加茂町)、
	紫香楽宮(しがらきのみや:滋賀県甲賀郡信楽町)、難波宮(なにわのみや:大阪府大阪市東区)、
	平城京(へいじょうきょう:奈良市)  
	御陵: 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ:奈良県奈良市法蓮町)






		父文武天皇崩御の後、皇位継承には幼すぎたため、祖母の元明天皇、叔母の元正天皇が中継ぎとして即位した後、元正天皇より譲位
		され、神亀元年(724)、24歳で第45代聖武天皇となった。即位のその日に長屋王を左大臣とする。天皇は積極的に唐 (中国)の
		文化をとり入れる一方、仏教を深く信仰して諸国に国分寺・国分尼寺の造営の詔を発し、東大寺に大仏の建立を命じた。天皇の治世
		を中心に,仏教中心の天平文化が栄えた。 皇后の藤原安宿媛(光明子)も、疫病人の看護に尽くしたことで有名。史上初めて皇女の
		阿部内親王(後の孝謙天皇=称徳天皇)を皇太子とし、やがて彼女に譲位する。  

 


		神亀4年(727)、安宿媛との間に皇子(基王)が誕生し、同年皇太子とするが、翌神亀5年(728)皇太子は薨る。那富山に葬られた。
		その1週間後、夜空に流星群が出現し、断散して宮中に落ちたとの記事が見える。
		神亀6年・天平元年(729)、漆部造君足等が、左大臣長屋王の謀反を密告した。「左大臣正二位長屋王私(ひそか)に左道を学び国家
		を傾けんと欲す。」と続日本紀にあり、天皇は兵に長屋王の館を囲ませた。長屋王は自害し、その后吉備内親王も自殺したが、後にこ
		れは讒言であった事が発覚する。いわゆる「長屋王の変」である。近年、長屋王の邸宅跡と見られるところから大量の木簡が出土し、
		この時代の貴族の生活や社会制度・慣習などの解明に役立つ貴重な資料群となった。

		ちなみに、現在長屋王の邸宅跡には「奈良そごう」が建っていたが(その工事に伴い木簡も出土)、それを示す案内は小さなブロック
		表示が1個だけだったので、「そごう」が傾いたのは長屋王の祟りだという人がいた。

 


		天平9年(737)、諸国で疫瘡に倒れる者が多く、参議藤原朝臣房前(ふささき:藤原不比等次男)も4月、疫病で死亡した。7月には
		不比等の四男で参議の藤原朝臣麻呂(まろ)と、長男の左大臣藤原朝臣武智麻呂(たけちまろ)が薨り、8月には三男の参議藤原朝臣
		宇合(うまかい)も薨(みまか)った。立て続けに兄たちを亡くした聖武天皇皇后光明子は、法華寺を建立して兄たちの菩提を弔った。
		法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明皇后の生家、
		藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満一歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った皇后の悲しみが、「滅罪
		寺」という名前を付けさせたのかもしれない。

 


		光明皇后は、人臣として初めて皇后となったが、皇后官職に施薬院を置き、天平9年大流行した疫病(天然痘)の難病者たちを自ら法
		華寺の風呂に入れ介護したと伝えられる。天平12年(740)、藤原広嗣の乱の翌年、光明皇后42才の時(天平13年(741))、聖武
		天皇は「国分寺、国分尼寺の詔」を発するが、光明皇后が創建したこの法華寺も総国分尼寺となる。東大寺大仏の開眼供養が行われた
		のは天平勝宝4年(751年)で、光明皇后は52才であった。賢夫人として名高い光明皇后は、天平宝宇4年(759)6月、56才で崩御した。
		ちなみに法華寺の十一面観音像のモデルは皇后の光明子とも言われる。




		東大寺大仏の造営のきっかけは天平7年の疫病の大流行であった。さらに飢饉が襲い、宮廷内の政局も不安定であった。聖武天皇はこう
		した災いを神仏に祈祷することでくい止め、人臣の不安を和らげようと考えた。その方策として僧・玄肪の意見をいれ考えられたのが
		毘廬舎那大仏の金銅仏の造営だった。大仏造営は資金難によりいったんは中断するが、行基の勧進などにより再開された。帝は、この
		仏をみなが一丸となって造営する事で団結し、同様に利益を分かち合おうとする主旨の誓願を立て、天皇も自ら土を運んだので、皇后
		以下、臣下の者もこれに従った。天平15年(743)の着手から、大仏開眼まで10年の年月を費やし、動員された人員は延べ200数十
		万人、資材は銅、錫、金、水銀など合わせて15万貫にものぼったと言われる。
  



 


		聖武天皇は、天平10年(738)あたりから頻繁に行幸を繰り返し、都も「平城京」を出て、「恭仁京」「難波宮」「紫香楽宮」と遷都
		を繰り返した。しかし人臣にはすこぶる不評で、「紫香楽宮」などは奈良へ帰りたい臣下達が放火を繰り返したとされている。会議を
		開いて臣下に「都は何処がよいか」などと聞いたことが文献に見え、聖武天皇の優柔不断、或いは情緒不安定とも評される。(聖武天
		皇の彷徨)

		天平21年、東大寺に行幸した天皇は「三宝の奴」と称して「天平感宝元年」と改元し、同年皇太子・阿部内親王(孝謙天皇)に譲位し
		て再び天平勝宝元年(749)と改元した。またこの年、大僧正行基、平城右京・菅原寺にて没する。82歳。翌年2月、陸奥国で始めて
		国産の黄金が取れ、これを天皇に貢(たてまつ)るという記事が見える。

		天平勝宝8年(756)、聖武天皇は56歳で崩御し、佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に葬られた。




		御陵の裏側へ廻ってみると結構広い。天皇陵の中でも大きい方だろう。廻りは住宅地が密集している。近鉄奈良駅の北側、東大寺の裏
		手をすこし行った所にこの御陵はある。ちゃんと大仏さんの近くに埋葬されているのである。


		聖武天皇が仏教教義を広めた裏付け

		【江平遺跡 木簡】        2000.02.16 毎日新聞 
  
		奈良時代に聖武天皇(701〜756)が仏教の教えを全国に広めたという「続日本紀」の記述を裏付ける木簡が、福島県玉川村
		小高の「江平遺跡」から出土したと16日、同県教委が発表した。鑑定した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の平川南教授
		(日本古代史)によると、こうした木簡の出土は全国初。同教授は「続日本紀の記述を史実として証明する貴重な資料だ」と話し
		ている。 
		木簡は長さ24センチ、幅4センチ、厚さ3〜4ミリ。昨年12月、県教委よる発掘調査で、同遺跡から奈良時代の土器とともに
		発見された。鑑定の結果、表側には「最勝王経の中でも仏の教えである大辨天品、功徳品、四天王品の3品を1000巻、加えて
		大般若経を100巻」という意味の言葉が書かれていた。 また、裏側には「合わせて1000巻、100巻を呰万呂(あざ(まろ)
		という人物が一生懸命にすべて読経した」と記されていることが分かった。呰万呂は僧侶とみられる。さらに「天平十五年三月
		(二ないし三)日」と読める日付がある。 
		奈良時代の正史「続日本紀」は聖武天皇について、743(天平15)年1月14日から49日間、全国の僧に「金光明王最勝王
		経」を読ませたなどと記しており、木簡の記述と一致。また、木簡の日付は1月14日からほぼ49日目に当たる。当時、仏教を
		通じた中央支配が東北地方にまで及んでいたことを示すとみられる。 
		同遺跡は郡山市中心部の南東約20キロにあり、縄文時代の狩猟のための落とし穴や古墳時代の古墳跡、奈良、平安時代の集落跡
		などが見つかってい  る複合遺跡。 【去石 信一】 

		◇江平遺跡から出土した木簡。(写真略)
		表(右)に、「最□(勝?)□□佛説大□ (辨?)功徳四天王経千巻 又大□(般?)□百巻」、
		裏(左)に「合千巻百巻謹呰万呂精誦奉 天平十五年三月□(二か三?)日」とある。 
 






















邪馬台国大研究・ホームページ゚ /天皇陵巡り/ 聖武天皇