<第28代宣化天皇(せんかてんのう)> 異称: 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたおうじ:武小広国押盾尊:日本書紀)、 建小広国押楯命(たけをひろくにのおしたてのみこと:古事記) 生没年: ? 〜 宣化天皇4年 73歳 在位期間 安閑2年(宣化天皇元年)〜 宣化天皇4年 父: 継体天皇 第2子、安閑天皇の同母弟 母: 目子媛(めのこひめ:尾張連草香(おわりのむらじくさか)のむすめ) 皇后: 橘仲皇女(たちばなのなかつひめ:仁賢天皇の皇女) 皇妃: 大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ) 皇子皇女: 石姫(いしひめ)皇女、小石姫(こいしひめ)皇女、 上殖葉(かみつうえは)皇子、倉稚綾姫(くらのわかやひめ)皇女、火焔(ほのお)皇子 宮: 檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや:奈良県明日香村檜前) 陵墓: 身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ:奈良県橿原市鳥屋町)
第28代宣化天皇(せんかてんのう)は、26代継体(けいたい)天皇の第2子で、27代安閑(あんかん)天皇の同母弟。安閑天皇に 後継がなかったため乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておらず、継体天皇の次は 29代欽明(きんめい:継 体天皇の第4子)天皇だとする説もある。これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映してい る。後の蘇我氏の隆盛を思えばその説に頷きたくもなるが、明治政府は二帝は即位したと判断したようである。
天皇は即位後、都を檜隈の廬入野(いおりの)に移し、旧臣大伴金村(かなむら)と物部麁鹿火(あらかい)をともに大連(おおむ らじ)とし、蘇我稲目(いなめ)を大臣に、そして阿倍大麻呂臣(あべのおおまろ)を太夫(まえつきみ)とした。 その翌年仁賢天皇の娘橘仲皇女(たちばなのなかつひめ)を立てて皇后とした。 その年の5月天皇は詔を出して、筑紫国那津の官家(みやけ)に各地から食料を移送して、非常時に備えた。 大伴金村大連以下の臣下に命じて、各地の屯倉から籾を運ばせたとあるが、これは、新羅の圧政に苦しむ任那と百済を助ける目的と、 万が一の新羅侵攻に備えてのものと考えられる。
安閑・宣化天皇の時代には、多くの屯倉が設置され、皇室の財力が一段と強化されるとともに、和風諡号が贈られるなど、天皇権力 が著しく拡大した可能性が指摘されている。 73才で没したとされているが、天皇であった期間は没するまでの4年間である。宣化天皇陵は奈良県橿原市鳥屋町にあり、橿原神宮 から「新沢千塚古墳群」へ向かって歩いていくとその途中にある。
【建小廣國押楯命】宣化天皇 (古事記) 弟、建小廣國押楯命、坐檜[土冏]之廬入野宮、治天下也。 天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比賣命。生御子、石比賣命【訓石如石。下效此】 次小石比賣命。次倉之若江王。又娶川内之若子比賣、生御子、火穗王。次惠波王。 此天皇之御子等、并五王。【男三、女二】故、火穗王者、【志比陀君之祖。】 惠波王者、【韋那君、多治比君之祖也。】 【建小廣國押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)】宣化天皇 弟、建小廣國押楯の命、桧(ひのくま)の廬入野(いほりの)の宮に坐しまして天の下治しめしき。 天皇、意富祁(おほけ)の天皇の御子、橘の中比賣の命を娶りて生みし御子は、石比賣(いわひめ)の命【石を訓みて石(いわ)の 如し。下此れに效え】。次に小石比賣(おいわひめ)の命。次に倉の若江の王。また川内の若子比賣(わくごひめ)を娶りて生みし 御子は、火穗(ほのほ)の王。次に惠波(えは)の王。此の天皇の御子等は并せて五はしらの王【男三はしら。女二はしら】。 故、火穗(ほのほ)の王は【志比陀(しひだ)の君の祖】。 惠波(えは)の王は【韋那(いな)の君、多治比(たじひ)の君の祖也】。