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第28代宣化天皇 身狭桃花鳥坂上陵
奈良県橿原市 99.9.25





			<第28代宣化天皇(せんかてんのう)>

			異称:  檜隈高田皇子(ひのくまのたかたおうじ:武小広国押盾尊:日本書紀)、
			    建小広国押楯命(たけをひろくにのおしたてのみこと:古事記)
			生没年: ? 〜 宣化天皇4年 73歳
			在位期間  安閑2年(宣化天皇元年)〜 宣化天皇4年
			父: 継体天皇 第2子、安閑天皇の同母弟
			母: 目子媛(めのこひめ:尾張連草香(おわりのむらじくさか)のむすめ)
			皇后: 橘仲皇女(たちばなのなかつひめ:仁賢天皇の皇女)
			皇妃: 大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)
			皇子皇女: 石姫(いしひめ)皇女、小石姫(こいしひめ)皇女、
				 上殖葉(かみつうえは)皇子、倉稚綾姫(くらのわかやひめ)皇女、火焔(ほのお)皇子
			宮: 檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや:奈良県明日香村檜前)
			陵墓: 身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ:奈良県橿原市鳥屋町)

 


		第28代宣化天皇(せんかてんのう)は、26代継体(けいたい)天皇の第2子で、27代安閑(あんかん)天皇の同母弟。安閑天皇に
		後継がなかったため乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておらず、継体天皇の次は 29代欽明(きんめい:継
		体天皇の第4子)天皇だとする説もある。これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映してい
		る。後の蘇我氏の隆盛を思えばその説に頷きたくもなるが、明治政府は二帝は即位したと判断したようである。

 


		天皇は即位後、都を檜隈の廬入野(いおりの)に移し、旧臣大伴金村(かなむら)と物部麁鹿火(あらかい)をともに大連(おおむ
		らじ)とし、蘇我稲目(いなめ)を大臣に、そして阿倍大麻呂臣(あべのおおまろ)を太夫(まえつきみ)とした。
		その翌年仁賢天皇の娘橘仲皇女(たちばなのなかつひめ)を立てて皇后とした。
		その年の5月天皇は詔を出して、筑紫国那津の官家(みやけ)に各地から食料を移送して、非常時に備えた。
		大伴金村大連以下の臣下に命じて、各地の屯倉から籾を運ばせたとあるが、これは、新羅の圧政に苦しむ任那と百済を助ける目的と、
		万が一の新羅侵攻に備えてのものと考えられる。




		安閑・宣化天皇の時代には、多くの屯倉が設置され、皇室の財力が一段と強化されるとともに、和風諡号が贈られるなど、天皇権力
		が著しく拡大した可能性が指摘されている。
		73才で没したとされているが、天皇であった期間は没するまでの4年間である。宣化天皇陵は奈良県橿原市鳥屋町にあり、橿原神宮
		から「新沢千塚古墳群」へ向かって歩いていくとその途中にある。
		




陵はまわりを濠に囲まれ一方は大きな池となっている。
水鳥の憩う湖の趣(おもむき)もあって、魚も時々はねている。秋の日の午後である。













		【建小廣國押楯命】宣化天皇 (古事記)

		弟、建小廣國押楯命、坐檜[土冏]之廬入野宮、治天下也。
		天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比賣命。生御子、石比賣命【訓石如石。下效此】
		次小石比賣命。次倉之若江王。又娶川内之若子比賣、生御子、火穗王。次惠波王。
		此天皇之御子等、并五王。【男三、女二】故、火穗王者、【志比陀君之祖。】
		惠波王者、【韋那君、多治比君之祖也。】



		【建小廣國押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)】宣化天皇

		弟、建小廣國押楯の命、桧(ひのくま)の廬入野(いほりの)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		天皇、意富祁(おほけ)の天皇の御子、橘の中比賣の命を娶りて生みし御子は、石比賣(いわひめ)の命【石を訓みて石(いわ)の
		如し。下此れに效え】。次に小石比賣(おいわひめ)の命。次に倉の若江の王。また川内の若子比賣(わくごひめ)を娶りて生みし
		御子は、火穗(ほのほ)の王。次に惠波(えは)の王。此の天皇の御子等は并せて五はしらの王【男三はしら。女二はしら】。
		故、火穗(ほのほ)の王は【志比陀(しひだ)の君の祖】。
		惠波(えは)の王は【韋那(いな)の君、多治比(たじひ)の君の祖也】。



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