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第22代 清寧天皇
2000.Oct.15 河内坂門原陵








		<第22代 清寧(せいねい)天皇>
		異称:  白髪武広押国稚日本根子天皇(しらかのたけひろおしわかやまとねこのすめらみこと:日本書紀)、
			白髪大倭根子命(しらがのおおやまとねこのみこと:古事記)   :白髪皇子とも言う。
		生没年: 允恭天皇33年 〜 清寧天皇5年 41歳
		在位期間  雄略天皇23年(清寧天皇元年) 〜 清寧天皇5年
		父: 雄略天皇 第三子。
		母: 葛城韓姫(かつらぎのからひめ:葛城円大臣の娘)
		皇后: なし
		皇妃: なし
		皇子皇女: なし
		宮: 磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや:奈良県櫻井市池之内)
		陵墓: 河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ:大阪府羽曳野市西浦)

 

		
		雄略天皇の第三子。葛城韓姫(かつらぎのからひめ)を母として、生まれた時から白髪であったと言われる。
		雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、
		東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)らの臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。清寧天皇は、妃・世継ぎもなく崩
		御している事から、非実在説もある。
		上左は峯塚古墳前の案内。峯塚古墳の前を真っ直ぐ5分程行くと道筋に清寧陵がある。


		
		雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前
		から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためには
		まず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇
		子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋
		(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺
		してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。
		白髪大倭根子命は磐余の甕栗(みかくり)に宮殿を造営し、ここで正式に即位する。そして大伴室屋大連、東漢掬直らを従来通り重
		臣として治世を行う。これが、日本書紀に記された清寧天皇即位時の状況である。

		
		<清寧天皇即位前紀>
		雄略天皇の死後、吉備稚媛の子「星川皇子」(ほしかわのみこ)は王位をねらう。しかし白髪(しらかの)皇子(後の清寧天皇)の
		部下、大伴室屋(おおとものむろや)らに焼き殺される。星川皇子を救おうとした吉備上道臣らは、援軍を送ろうとするが、星川皇
		子が殺されたことを知り引き返す。しかし白髪皇子は彼らを追い、その領地である山部(やまべ)を奪った。

		ここに言う吉備上道臣は、現代の岡山県吉備地方に住んでいた豪族である。吉備稚媛(きびのわかひめ)にしても、吉備から来た媛
		であることを窺わせるし、山部も岡山県であろうとされる。吉備は古来より大和朝廷と深いつながりを窺わせる記述が多いが、中で
		も雄略・清寧期に集中しているきらいがある。おそらくこの時期に、吉備地方は大和朝廷の勢力下に組み込まれたのだろうと思われ
		る。



		
		子供の無かった清寧天皇は皇統の絶えるのを恐れ、父雄略が殺害した市辺押磐皇子の皇子たちが播磨の国に居るのを聞いて部下たち
		に捜索を命じる。そして久米部小楯(くめべのこたて)に発見された二人の皇子を皇太子にするのである。この、赤石郡(明石市付
		近)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしみべのみやっこほそめ)の家に寄宿していた履中天皇の孫、億
		計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、次代の顕宗天皇、仁賢天皇となる。

		父の犯した罪に対する贖罪なのか、それとも皇位継承のためなら仕方がないと割りきっていたのか。古代天皇家の王位を巡る殺戮や、
		近親相姦にも近い血脈の乱れは、その一方で血族の強い結びつきをも生んでいたのかもしれない。
	

		
		崩御した清寧天皇は、河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)に葬られた。崩御から顕宗天皇の即位の間には空白があり、
		またこの二人の皇子は互いに皇位を譲り合ってなかなか即位しなかったとされている。そこで、一時的に彼らの姉である飯豊青皇女
		(いいとよのあおひめ:市辺押磐皇子の娘)が皇位に就いたという説もある。古事記によると、「故に、天皇崩りましし後、天の下
		しろしめすべき王なかりき。ここに日継知ろしめす王を問うに、市辺忍歯別(いちべおしはわけ)王の妹、忍海郎女(おしぬみのいらつ
		め)、またの名は飯豊王、葛城の忍海(おしぬみ)の高木の角刺(つのさし)宮に坐しき」 。また、日本書紀によると、「飯豊青の皇女、
		忍海の角刺宮に、みかどまつりごとしたまい・・・・・」 とあって、飯豊皇女が女帝として皇位に就いたと思われる記述が見られる。
		後世の「扶桑略記」や「大鏡」などは飯豊青皇女を女帝と見なしているが、その後の文献には出現しないようである。飯豊青皇女は
		忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや:奈良県北葛城郡新庄町忍海)で政務を執ったので、忍海郎女、忍海部女王などとも呼ばれる。
		『古事記』によれば、億計・弘計王の姉ではなくて叔母だった(市辺忍歯別王の妹)とされていて、二王の発見は皇女の託宣による
		ものとなっている。

		ところで日本書紀はこの飯豊青皇女について、清寧天皇三年秋七月の条に以下のような短い記事を突然挿入している。前後の脈略と
		は何の関係もなさそうに見える記事だが、一体何のためにここに記載されているのか昔からの謎の一つである。
		
		「飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男」 
		「飯豊(いいとよ)の皇女(ひめみこ)、角刺(つのさし)の宮にて、夫(おとこ)と交(ま)ぐわいしたまいき。人に語りて曰く、ひと
		はし女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。終(つい)に、まぐわいを願わじ、とのたまいき」 
		
		「ひとおおり女の道を知ったが、特にどうという事はないので、今後はもう男とは交わらない、と語った」と言うものだが、これは
		何を言うためにここに記事として挿入されたのか。解釈は諸説あって、「夫と初めて交わりたまう」という部分の夫が一体誰を指し
		ているのかを巡っても諸説紛々だが、真相は例によって、永遠の謎である。日本書紀もその註記で「ここに夫ありと云える。いまだ
		詳(つまびら)かならず」と書き添えている。
		角刺の「角」(つの)は(かど)でもあり、かど=かつであり「葛」に通じ、「刺」は、さし(城)と呼んで、「角刺」は「葛城」と
		同義だとする説もあるが、男と交わったことを示す単なる語呂合わせの「角刺し」だと言う説もある。



		
		清寧天皇の甕栗宮跡については、『大和志』に池内御厨子邑とあり、現在の奈良県櫻井市池之内の「御厨子神社」のあたりとされて
		いる。磐余(いわれ)というのは神武天皇以来の皇室の聖地であり、神功皇后の宮もここにあった。『帝王編年記』は十市郡白香谷
		に甕栗宮があったとしているが、この地名は現存していない。白香谷というのは、天皇の名である白髪命(しらがのみこと)にちな
		んだものと思われる。






		
		【白髮大倭根子命】清寧天皇 (古事記)

		御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。
		此天皇、無皇后、亦無御子。故、御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹、忍
		海郎女、亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民、名志自牟之新室樂。於是盛樂、
		酒酣以次第皆■[イ舞]。故、燒火少子二口、居竃傍、令■[イ舞]其少子等。爾其一少子曰、「汝兄先■[イ舞]。」其兄亦曰、「汝弟
		先■[イ舞]。」如此相讓之時、其會人等、咲其相讓之状。爾遂兄[イ舞]訖、次弟將[イ舞]時、爲詠曰、

			「物部之、我夫子之、取佩、
			 於大刀之手上、丹畫著、
			 其緒者、載赤幡、
			 立赤幡、
			 見者五十隱、山三尾之、
			 竹矣訶岐【此二字以音。】苅、
			 末押縻魚簀、
			 如調八絃琴、
			 所治賜天下、
			 伊邪本和氣天皇之
			 御子、市邊之押齒王之奴末。」

		爾即小楯連聞驚而、自床墮轉而、追出其室人等、其二柱王子、坐左右膝上、泣悲而、集人民作假宮、坐置其假宮而、貢上驛使。於是
		其姨飯豐王、聞歡而、令上於宮。
		故、將治天下之間、平群臣之祖、名志毘臣、立于歌垣、取其袁祁命將婚之美人手。其孃子者、菟田首等之女、名者大魚也。爾袁祁命
		亦立歌垣。於是志毘臣歌曰、

			意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理

		如此歌而、乞其歌末之時、袁祁命歌曰、

			意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮

		爾志毘臣、亦歌曰、

			意富岐美能 許許呂袁由良美
			淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理

		於是王子、亦歌曰、

			斯本勢能 那袁理袁美禮婆
			阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由

		爾志毘臣、愈怒歌曰。

			意富岐美能 美古能志婆加岐
			夜布士麻理 斯麻理母登本斯
			岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐

		爾王子、亦歌曰、

			意布袁余志 斯毘都久阿麻余
			斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘
		
		如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命、袁祁命二柱議云、凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者、志毘必寢。亦其
		門無人。故、非今者難可謀。即興軍圍志毘臣之家、乃殺也。
		於是二柱王子等、各相讓天下。意祁命讓其弟袁祁命曰、住於針間志自牟家時、汝命不顯名者、更非臨天下之君。是既汝命之功。故、
		吾雖兄猶汝命先治天下而、堅讓。故、不得辭而、袁祁命先治天下也。


		
		【白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)】清寧天皇

		御子、白髮の大倭根子)の命、伊波禮(いはれ)の甕栗(みかくり)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		此の天皇、皇后無く、また御子無し。故、御名代に白髮部(しらかべ)を定めき。故、天皇崩(かむざ)りし後に天の下の治しめす
		べき王無し。ここに日繼(ひつぎ)知らさん王を問いて、市邊(いちのへ)の忍齒別(おしはわけ)の王の妹、忍海(おしぬみ)の
		郎女、またの名は飯豐(いいとよ)の王を葛城の忍海(おしぬみ)の高木(たかぎ)の角刺(つのさし)の宮に坐(いま)せき。
		爾くして山部の連小楯(おだて)、針間(はりま)の國の宰(みこともち)に任(まか)りし時に、其の國の人民、名は志自牟(し
		じむ)が新室(にいむろ)の樂(あそび)せるに到りき。ここに盛りに樂(あそ)び酒酣(たけなわ)にして次第(つぎて)を以ち
		て皆(ま)いき。故、火を燒く少子(わらわ)二口(ふたり)、竃の傍(かたわら)に居れば、其の少子(わらわ)等にわしめき。
		爾くして其の一りの少子(わらわ)が曰く、「汝兄(なね)、先(ま)ずえ」。其の兄(え)もまた曰く「汝弟(なおと)、先(ま)
		ずえ」。如此(かく)相讓りし時に、其の會(つど)える人等、其の相讓る状(かたち)を咲(わら)いき。
		爾くして遂に兄い訖(おわ)りて、次に弟、將にわんとする時に詠(うたよみ)爲て曰く、

			物部(もののふ)の 我が夫子(せこ)が 取り佩ける
 			大刀(たち)の手上(たがみ)に 丹(に)畫(か)き著(つ)け
 			其の緒は 赤幡(あかはた)を載(の)せ
 			赤幡を立てて見れば
 			五十(いそ)隱る 山の三尾の
 			竹を訶(あ)岐(き)【此の二字は音を以ちてす】苅(か)り
 			末(すえ)押し縻(な)ぶる魚簀(なす)
 			八絃(やつを)の琴を調(しら)ぶる如く
 			天の下 治(しら)し賜える
 			伊邪本和氣(いざほわけ)天皇の
 			御子(みこ)市邊(いちのへ)の 押齒王(おしはのみこ)の奴末(やっこすえ) 

		爾くして即ち小楯(おだて)の連、聞き驚きて、床より墮ち轉(まろ)びて、其の室の人等を追い出し、其の二柱の王子を左右の膝
		の上に坐せ泣き悲しびて、人民を集えて假宮を作り、其の假宮に坐せ置きて、驛使(はゆまづかい)貢上(たてまつ)りき。ここに
		其の姨(おば)、飯豐の王、聞き歡びて、宮に上らしめき。
		故、天の下治しめさんとしき間に、平群臣の祖、名は志毘(しび)の臣、歌垣に立ちて、其の袁祁(をけ)の命の婚(あ)わんとせ
		し美人(おとめ)の手を取りき。其の孃子(おとめ)は、菟田の首(おびと)等の女、名は大魚(おうお)也。爾くして袁祁(をけ)
		の命も亦た歌垣に立ちき。是に志毘の臣、歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)美(み)夜(や)能(の)
 			袁(を)登(と)都(つ)波(は)多(た)傳(で)
 			須(す)美(み)加(か)多(た)夫(ぶ)祁(け)理(り)

			大宮の
 			彼つ端手
 			隅傾けり 
 
		かく歌いて、其の歌の末を乞いし時に、袁祁(をけ)の命、歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)多(た)久(く)美(み)
 			袁(を)遲(じ)那(な)美(み)許(こ)曾(そ)
 			須(す)美(み)加(か)多(た)夫(ぶ)祁(け)禮(れ)

			大匠
			劣みこそ
 			隅傾けれ 
 
		爾くして志毘の臣、また歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 			許(こ)許(こ)呂(ろ)袁(を)由(ゆ)良(ら)美(み)
 			淤(お)美(み)能(の)古(こ)能(の)
 			夜(や)幣(へ)能(の)斯(し)婆(ば)加(か)岐(き)
 			伊(い)理(り)多(た)多(た)受(ず)阿(あ)理(り)

			大君の
			心を緩み
			臣の子の
			八重の柴垣
			入り立たずあり 
 
		ここに王子、また歌いて曰く、

			斯(し)本(ほ)勢(せ)能(の)
 			那(な)袁(を)理(り)袁(を)美(み)禮(れ)婆(ば)
 			阿(あ)蘇(そ)毘(び)久(く)流(る)
 			志(し)毘(び)賀(が)波(は)多(た)傳(で)爾(に)
 			都(つ)麻(ま)多(た)弖(て)理(り)美(み)由(ゆ)

			潮瀬の
 			波折りをみれば
 			遊び来る
 			鮪が端手に
 			妻立てり見ゆ 
 
		爾くして志毘の臣、愈(いよ)よ怒りて歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 			美(み)古(こ)能(の)志(し)婆(ば)加(か)岐(き)
 			夜(や)布(ふ)士(じ)麻(ま)理(り)
 			斯(し)麻(ま)理(り)母(も)登(と)本(ほ)斯(し)
 			岐(き)禮(れ)牟(む)志(し)婆(ば)加(か)岐(き)
			夜(や)氣(け)牟(む)志(し)婆(ば)加(か)岐(き)

			大君の
 			御子の柴垣
 			八節縛り
 			縛り廻し
 			切れむ柴垣
 			焼けむ柴垣 
 
		爾くして王子、また歌いて曰く、

			意(お)布(ふ)袁(を)余(よ)志(し)
			斯(し)毘(び)都(つ)久(く)阿(あ)麻(ま)余(よ)
			斯(し)賀(が)阿(あ)禮(れ)婆(ば)
			宇(う)良(ら)胡(こ)本(ほ)斯(し)祁(け)牟(む)
			志(し)毘(び)都(つ)久(く)志(し)毘(び)

			大魚よし
 			鮪突く海人よ
 			其が離れば
 			心恋しけむ
 			鮪突く志毘 
 
		かく歌いて、鬪い明かして各退きき。
		明くる旦(あした)の時に、意富祁(おほけ)の命・袁祁(をけ)の命、二柱議りて云いしく「凡そ朝廷(みかど)の人等は、旦は
		朝廷に參い赴き、晝(ひる)は志毘(しび)が門に集(つど)えり。また、今は志毘(しび)必ず寢ねたらん。また其の門に人無し。
		故、今に非(あら)ずは謀(はか)ること難(かた)かる可し」。即ち軍(いくさ)を興して志毘(しび)の臣の家を圍(かこ)み、
		乃ち殺しき。
		ここに二柱の王子等、各(おのおの)天の下を相い讓り意富祁(おほけ)の命、其の弟袁祁(をけ)の命に讓りて曰く、「針間の志
		自牟(しじむ)が家に住みし時に、汝命、名を顯さずは更に天の下に臨む君に非ざりき。是、既に汝が命の功(いさおし)と爲し、
		故、吾は兄(え)と雖ども、猶、汝命、先ず天の下治せ」といいて、堅く讓りき。 故、辭(いな)ぶること得ずして、袁祁(をけ)
		の命、先ず天の下治しめしき。


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