<第13代成務(せいむ)天皇> 異称: 若帯日子命(古事記),稚足彦尊(日本書紀)−わかたらしひこのみこと− 生没年: 景行14年 〜 成務天皇60年 107歳(日本書紀) 在位期間 景行天皇60+1年 〜 成務天皇60年(日本書紀) 父: 景行天皇 第四子 母: 八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと:景行天皇皇后) 皇后: 建忍山垂根の娘、弟財郎女(おとたからのいらつめ:古事記、日本書紀には記載なし。) 皇妃: 吉備郎姫(きびのいらつめ) 皇子皇女: 和訶奴気王(わかぬけおう) 宮: 近江国志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや) 陵墓: 狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ:奈良市山陵町)
記紀ともに景行天皇には八十人の皇子女がいたとするが、日本武尊、五邇百城入彦とともにこの天皇も手元に残り、この3名以 外はそれぞれ国司や郡司に封ぜられたと言う。記事満載の父景行天皇と違って、この天皇の記事は記紀にはほとんどない。前帝 景行天皇の時代に、飛躍的に拡大したと考えられている国家としての領域を整備するため、この帝の治世にも中央・地方の支配 体制確立が進められ、国家としての組織が整った。中央では武内宿禰(たけのうちすくね:孝元天皇の孫で蘇我氏の始祖と言わ れる。)が大臣(おおおみ)政務を総括し、これに伴い地方制度も整備された。国県の境を定め、国造・県主を定め、地方支配 の基礎が固まったとされる。
古事記には、この天皇は父の景行天皇が遷都した「近江の国の志賀の高穴穂の宮」で政務を行ったと記述されているが、その宮 跡は実在性も含めて不明である。最近の研究では、滋賀県大津市坂本町穴太付近ではないかとされているようだが、非実在説も 根強い。
天皇は同年の武内宿禰を寵愛し、彼が「大臣」の起源という。この武内宿禰は年齢300歳以上で、景行・成務・仲哀・応神・ 仁徳5代の天皇に仕えたとされる謎の人物だが、蘇我氏以外にも、巨勢・平群・葛城氏などの祖とされる。大正・昭和初期には 紙幣の肖像画にもなっていた。 『古事記』によれば、兄の日本武尊の偉大な功績に鑑み、天皇は実子の和訶奴気王をさしおいて、日本武尊の息子を皇太子にし たという。これは当時の一連の流れの中ではきわめて異例な立太子である。
成務天皇陵の脇に、垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)、狭木之寺間陵があり、その南には称徳(孝謙)天皇陵 がある。これらの3つの陵はかたまって築造されており、上空から見ても、一つの小山を取り崩したのではないかと思われる。 これらの3古墳を佐紀西三陵と呼ぶこともある。陵墓は後世幾度となく盗掘されている。
陵山古墳の影響で石塚山古墳の壕が狭くなっているため陵山古墳が先に作られた事がわかる。 陵山古墳からは、盾、きぬがさ型埴輪と、竪穴式石室内から、内行花文鏡などの大型方製鏡、腕輪型石製品などが出土。 石塚古墳は、盗掘の記録、過去の陵墓図などから長持形石棺があることがわかっている。
第3回宮川寅雄記念講座◎講演会 最近の発掘から見た東日本 大塚初重 明治大学名誉教授 今日は、大塚でございます。第三回宮川寅雄記念講座にお呼びいただきまして、たいへん光栄に感じております。 和光大学の芸術学科には敬愛する李進煕先生がおられますので、私は即座にお引き受けいたしました。 (略) 数年前のことになりますが、地元が農水省から補助金をいただいて、水田の真ん中に公園を造ろうということで発掘を始めた ところ、田圃の中から見事な円筒埴輪の列がぐるっと円を描いて出てきた。発見されたその円筒埴輪をよく見ると、成型技法が 「成務天皇陵」と宮内庁が指定している古墳のものと似ています。 成務天皇陵がどこにあるかと申しますと、京都から近鉄特急で奈良へ向かう途中、西大寺という駅に止まりますが、その一つ 手前に平城という駅があります。その駅から山寄りに一〇分ほど歩くと、「神功皇后陵」とか成務天皇陵とか、垂仁天皇の皇后 の「日葉酢媛命陵」といった、いま天皇陵として宮内庁が指定している大型の前方後円墳が並んでいます。成務天皇陵は、明治 の初めのころに宮内庁がいろいろな記録によって指定したのですが、成務天皇陵であるかどうかは考古学的には論証できないの です。 日本の古代天皇陵のほとんどは盗掘を受けているようでして、鎌倉時代には奈良の興福寺のお坊さんが盗掘をして、伊豆の島 へ流されています。江戸時代には奈良の奈良村のお百姓さんたちが徒党を組んで成務陵やその他の古墳の盗掘をしていますが、 この人たちは時の幕府の政策によって全員が召し捕られ、磔にあっています。 そういうことがあって、その成務天皇陵からこれまでに円筒埴輪がいくつか発見されていますが、その成型技法、造形テクニ ックが、山形県山辺町の天神大塚古墳から出た円筒埴輪のものとほとんど同一である、ということが最近わかってきました。 これがどういうことかと言いますと、奈良の埴輪工人が山形まで旅立って山形で造ったのか、それとも畿内の大和で造った円 筒埴輪をはるばる山形まで運んだのか、これはちょっと判断が難しいのですが、これまでは遥かな東北の田舎の田舎と考えてい た山形と畿内とをほとんどリアルタイムで結ぶ史料が発見されたということになります。成型技法や焼き方などからいって、そ の間に数十年や一〇〇年、一五〇年といった年代を置くことが不可能である。つまり、四世紀後半の段階には山形市の周辺に住 んでいた豪族たちの墓に、畿内と同じような見事な埴輪が立てられていたということを、いまどのように理解したらいいのかが 問題になってきているということです。 (以下 略) 和光大学ホームページより
【若帶日子天皇】(成務天皇) (古事記) 若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。 此天皇、娶穗積臣等之祖、建忍山垂根之女、名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王【一柱】。 故、建内宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺、及大縣小縣之縣主也。 天皇御年、玖拾伍歳。【乙卯年三月十五日崩也。】御陵在沙紀之多他那美也。 【若帶日子天皇(わかたらしひこ)】(成務天皇) 若帶日子の天皇は近つ淡海の志賀の高穴穗の宮に坐しまして天の下治しめしき。 此の天皇、穗積の臣等の祖、建忍山垂根(たけおしやまたりね)の女、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶りて生める御 子は、和訶奴氣(わかぬけ)の王【一柱】。故、建内宿禰を大臣と爲し、大國・小國の國造を定め賜う。また國國の堺、及び大縣 ・小縣の縣主を定め賜う也。 天皇の御年は玖拾伍歳(ここのそとせあまりいつとせ)【乙卯(きのとう)の年の三月(やよい)十五日(とおかあまりいつか) に崩(かむざ)りき】。御陵は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)に在り。