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第35代 皇極天皇/第37代 斉明天皇

2000.Sep.2 奈良県高市郡高取町 越智崗上陵 2000.Aug.15 福岡県朝倉郡恵蘇宿 御陵山





		【第35代皇極(こうぎょく)天皇/第37代斉明(さいめい)天皇】

		異名: 宝皇女(たからひめ)、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
		生没年: 推古天皇2年(594?)〜 斉明天皇7年(661)(68歳)
		在位: 皇極天皇元年(642) 〜 皇極天皇4年(645)/ 斉明元年(655)〜 斉明天皇7年(661)
		父:  敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬおう/ちぬのおおきみ)
		母:  吉備姫女王(きびつひめ)
		夫:  舒明天皇
		皇妃: 
		皇女子: 葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)    
		宮居:  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)
		御陵: 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ:奈良県高市郡高取町)


舒明(じょめい)天皇は即位13年目で崩御する。皇位継承は皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)になるはずであったが、16才では若すぎるというので、皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が皇位に就いた。これが「皇極(こうぎょく)天皇」である。舒明天皇と宝皇女との間には、中大兄皇子、間人皇女(はしひとひめ)、大海人皇子(おおあまのおうじ)がいて、舒明天皇と皇妃法堤郎媛(ほほてのいらつめ)との間には、古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)がおり、皇位継承権のある皇子としては、中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王(やましろのおおえ)がおり、争いをさけるため皇極天皇が即位したとも考えられる。
この女帝の就任は、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)に気がねする蘇我蝦夷によるものだったが、病気がちで次第に登朝しなくなってきた蝦夷に代わって実権を握りつつあった、蝦夷の子・入鹿は、より露骨に山背大兄皇子を退け、ついに一家を皆殺しにしてしまう。それを知った蝦夷は、入鹿の将来の身を案じて憂えたとされる。
蘇我の血が流れていない皇太子の中大兄皇子にしても状況は山背大兄皇子と同じであった。専横の限りを尽くす入鹿がいる限り、天皇となれる可能性は薄かった。或いは命の危険も感じていたかもしれない。

そして、中大兄皇子・中臣鎌子は「乙巳の変」を引き起こし、蘇我氏勢力を朝廷から一掃した。世に「大化の改新」として知られる。宮廷での入鹿殺害という惨劇を目の辺りにして、皇極天皇は中大兄皇子を詰問するが、皇子は蘇我氏の悪行の数々を並べたて糾弾した。古人大兄皇子は一目散に自宅へ逃げ帰り、蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。

その後、大化改新を引き起こした中大兄皇子・中臣鎌子は皇極の弟「孝徳天皇」を擁立して難波の宮へ遷都するが、仲違いを起こし、孝徳天皇一人難波に取り残される。その孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。そこで母の皇極女帝が重祚(ちょうそ:再び即位する事)し、「斉明(さいめい)天皇」となる。我が国初の「重祚」である。ちなみに、「皇極天皇」から「孝徳天皇」への譲位も、我が国史上初の「譲位」となる。

斉明女帝は、各地の土木工事を推進、東北の蝦夷侵攻なども積極的に行った。今年(2000年)になって、奈良飛鳥の地から、亀石形の流水施設を含む宮廷施設等が発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。そのあたりの事情については「学ぶ邪馬台国」のコーナー、「亀形石造物出土! −斉明天皇の土木事業− 2000.12.31」として特集しているので、ご興味にある方は是非ご覧いただきたい。。

また対外政策では、新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・皇太子(中大兄皇子)らは百済の救済のため九州に赴いた。太宰府から奥へ入った朝倉の地に、「橘広庭宮」(たちばなのひろにわのみや)という仮宮を建造し指揮にあたったが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退し、斉明天皇も朝倉の地で急死する。



斉明天皇陵へ登っていく途中に、孫の天武天皇妃大田皇女陵がある。
大田皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の姉。大津皇子の母。



近鉄「橿原神宮」駅からTAXIで行くか、JR和歌山線「掖上」駅からTAXIもしくは歩いて20分程で御陵に着く。
人家の尽きたところの広場から登っていく。5分程登る。



 

天武天皇妃大田皇陵の陵から1,2分で斉明(皇極)天皇陵が見えてくる。

 

 

		同じく孫の建王(たけるのみこ)と一緒に葬られている。斉明天皇4年(658)の5月に、建王は8才で薨じている。特にかわいがっていた
		孫の死に、天皇は号泣したと「日本書記」にある。また自分が死んだら必ず建王と一緒に葬るようにと命じてもいる。孫を偲んで歌を
		詠み、時々その歌を口ずさんでは泣いていたと書かれているし、和歌山の白浜温泉に行幸した際にも孫を思いだしては歌を詠んで、
		この歌を後世にまで語り継ぐようにと命じているから、相当かわいがっていた孫だったのだろう。

 

		大化改新の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。日本書紀にはこの女帝と入鹿暗殺を結び付ける記事は何もない。大化改新の
		直接の源因となった「乙巳の変」について考えてみると、皇極天皇4年6月12日は三韓朝貢の日という事になっていた。蘇我入鹿は
		そのため宮中に赴いたのである。入鹿周辺は、宮廷内に不穏な空気があるのを察していたとも言われる。しかし三韓朝貢となれば参内
		せざるを得ない。勿論、三韓朝貢などは虚構である。当時、唐の太宗は高句麗に派兵し朝鮮半島は緊迫状態にあったのに、揃って我が
		国へ朝貢してくる事などあり得ない。又、政治の最高権力者の位置にいた入鹿がそれを知らないわけもない。しかし、「天皇の命令」
		となれば入鹿も受けざるを得ないだろうし、皇極天皇抜きで、中大兄皇子と鎌足が勝手にそのような虚構を設定できるはずがないと言
		うのだ。

		つまり、皇極天皇は「乙巳の変」を事前に知っていたというわけだ。そしてそれを容認したという事になる。

		大化改新の過程においても、孝徳天皇を一人難波宮に置き去りにしたのは皇極天皇の発案ではないかと言う説もある。「乙巳の変」後も、
		孝徳天皇崩御後も中大兄皇子は即位しない。一般には、皇太子のままで居た方が都合がいいと判断したからだと言われているが、実は皇極
		(斉明)天皇の力が強く、中大兄は即位したくても出来なかった可能性もあると言う。
		斬りつけられた入鹿は、斬りつけた中大兄ではなく皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかける。女帝は「何も知らない、
		一体これは何事ぞ」と答えるが、入鹿が女帝に向かって問いただす事がそもそも女帝がその首謀者と知っていたからだというのである。

		又、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったとも言う。

 

		朝倉の地での葬儀にあたって、入鹿の怨霊が山の端から葬列を眺めていたとか、陣営で鬼火が舞ったとかの伝説が残されている。
		福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)にいくと、「御陵山」と呼ばれる古墳が斉明天皇の墓として残されており、恵蘇宮八幡宮がこれを
		護っている。しかし、勿論発掘はされていないので確証はない。「橘広庭宮」跡についても、今まで九州の学者を中心として何度か調査
		が行われたが、未だ判明していない。地元には推定地に「橘広庭宮跡」の石碑が建っている。




斉明天皇埋葬墓
2000・8・14 福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)



 

		夏、帰郷した折り、朝倉の「斉明天皇陵」を訪れた。歴史に興味がある同い年のいとこ夫婦と、史学科卒のその兄夫婦(当然彼もいとこ
		である。)と一緒に、蝉時雨の中苔むす円墳を見学した。筑後川を眼下に見下ろす高い山の上に御陵はある。地元では古くから「斉明天皇陵」
		と言い伝えられているが、発掘されていないのでその真偽は定かでない。しかし、文献と伝承から考察するに、ほぼ間違いないものと思われる。






 

案内板によると、木の丸御殿はほんとにみすぼらしい寓居であったらしい。滞在した中大兄皇子(天智天皇)がそれを嘆いたとあった。

 







天智天皇が奈良で造ったと言われる漏刻(水時計)の模型もあった。木漏れ日の向こう、眼下に筑後川がゆったりと流れている。







みんなで(実家を継いでいる私の弟も含め6人で)ぐるりと円墳の廻りを回ったが、まさしく円墳である。直径10mほどであった。

 

 

		百済の救済に西へ向かった斉明天皇の一行には、中大兄皇子、大海女皇子、太田皇女、鵜野讃良皇女(うののさらさ:後天武天皇
		皇后となり、その後持統天皇となる。)らが参加していた。瀬戸内海を西進し、博多を経由して朝倉の行宮・橘広庭宮へ入ったが、
		ここにはわずか75日間の滞在だった。ここの木を勝手に伐って宮の造営にあてたため朝倉の神の怒りに触れ、雷神が建物を壊し、
		宮殿の中にも鬼火が出没し、付近に病気が蔓延しついに天皇もこの地で崩御する。

		朝倉町では、平成3年度から平成5年度にかけて、その代表的な史跡を公園化し、斉明天皇がまつられている恵蘇八幡宮の裏には、
		中大兄皇子が喪に服したと言われている木の丸殿跡があり、この一帯は木の丸史跡公園として整備されている。 
		仮宮が置かれていたとされる橘広庭宮跡一帯(推定)は、橘広庭史跡公園に整備。また、宮地嶽山頂と湯の隈古墳を遊歩道で結ん
		だ一帯は、宮地嶽史跡公園として整備している。宮地嶽は、斉明天皇と中大兄皇子が山頂に神々をまつり、戦勝を祈願したと伝え
		られる場所である。 

 


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