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第66代 一条天皇 第69〜71代 後朱雀天皇/後冷泉天皇/後三条天皇 第73代 堀河天皇
2001.4.8 京都市右京区竜安寺




 


	これらの天皇陵は、石庭で有名な京都洛北の「龍安寺」にある。龍安寺は背後を朱山(しゅやま)という、標高4/500mの
	小高い山に支えられて、その麓に位置している。この朱山の山腹に天皇陵が設けられている。どういう経緯でここに天皇陵があ
	るのかは調べていないが、登っていくと結構キツい。朱山を裏側へ下っていくと宇多天皇陵を経由して、高雄の山奥へ至る。

		
	【名 称】 龍安寺/竜安寺(りょうあんじ)
	【所 在】 京都市右京区龍安寺御陵下町  成り立ち  細川勝元が宝徳2(1450)年に徳大寺家の別荘を譲り受けて建立し
		  た寺。
	【見 所】 方丈南側の枯山水庭園(特別名勝)が石庭として名高い。三方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メー
		  トル余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置したもの。一般にこれは虎の子渡しの名で知
		  られている。
	【交 通】 市バス「龍安寺前」下車すぐ






 

下の夫婦が眺めている方向へ歩いていけば天皇陵。まっすぐ行けば石庭である。石庭は有料。御陵は無料。

 

ほどなく御陵らしき生け垣が見えてくる。乗用車と作業車が止まっていた。作業のおじさん達には山の上で出会った。



 

右手には第69代後朱雀天皇の皇后陵がある。天皇はその向かいの三天皇合同陵に眠る。夫婦なかよく同じところに埋葬されている。






	第69代 後朱雀天皇(ごすざく)天皇
	別名:  敦良(あつなが)
	父:  一条天皇 第3皇子
	母:  藤原彰子(藤原道長の娘)
	生没年:寛弘6年(1009)〜 寛徳2年(1045)(37歳)
	在位: 長元9年(1036)〜 寛徳2年(1045)
	皇后: 禎子内親王、藤原嬉子
	皇妃: 藤原生子、藤原延子
	皇子女:親仁親王(後冷泉天皇)、尊仁親王(後三条天皇)、良子内親王、娟子内親王、祐子内親王、正子内親王
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 円乗寺陵(えんじょうじのみささぎ:京都市右京区竜安寺朱山 )
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	第70代 後冷泉天皇(ごれいぜい)天皇
	別名:  親仁(ちかひと)
	父:  後朱雀天皇 第1皇子
	母:  藤原嬉子(藤原道長の娘)
	生没年:万寿2年(1025)〜 治暦4年(1068)(44歳)
	在位: 寛徳2年(1045)〜 治暦4年(1068)
	皇后: 章子内親王、藤原寛子、藤原歓子
	皇妃: 
	皇子女:
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 円教寺陵(えんきょうじのみささぎ:京都市右京区竜安寺朱山 )
	-------------------------------------------------------------------------
	第71代 後三条(ごさんじょう)天皇
	別名:  尊仁(たかひと)
	父:  後朱雀天皇 第2皇子
	母:  禎子内親王(三条天皇の第3皇女)
	生没年:長元7年(1034)〜 延久5年(1073)(40歳)
	在位: 治暦4年(1068)〜 延久4年(1072)
	皇后: 馨子内親王、藤原茂子
	皇妃: 藤原昭子、源基子、藤原氏、侍従内侍
	皇子女:貞仁親王(白河天皇)、実仁親王、輔仁親王、聰子内親王、俊子内親王、佳子内親王、篤子内親王、有佐、他
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 円宗寺陵(えんそうじのみささぎ:京都市右京区竜安寺朱山 )
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	第69代 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)
	敦良(あつなが) 円乗寺陵  関白藤原頼道  京都市右京区竜安寺朱山。
	一条天皇の第3皇子で、後一条天皇の同母弟。藤原道長の孫にあたる。三条天皇の子敦明親王が皇太子を辞退し、寛仁元年(1017)
	同母兄の後一条天皇の皇太弟となり、遺詔により践祚した。世は末法を間近にひかえ、天災や疫病、僧兵の横行が頻発。山門・延
	暦寺と寺門・園城寺の僧徒が天台座主をめぐって争っていたのはこの頃の事である。病に伏した天皇は、藤原家の意向どおり道長
	の孫にあたる親仁親王(後冷泉天皇)に譲位した。同時に三条天皇の第3皇女である皇后禎子内親王との間に生まれた尊仁親王(後
	三条天皇)をの皇太子に定めその二日後に、藤原家の傀儡であった帝は37歳で崩御した。

 


	第70代 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)
	親仁(ちかひと) 円教寺陵  前九年の役 京都市右京区竜安寺朱山。
	後朱雀天皇の第1皇子で、母は藤原道長の娘嬉子。異母弟尊仁親王(後三条天皇)を皇太弟とした。世間はこの帝の24年の治世中
	に永承7年(1052)に末法を迎える。このため各地で寺塔や仏像がしきりに造営された。また蝦夷の反乱である「前九年の役」が
	起こったのもこの頃の事だ。外戚の地位保守の為、藤原頼道は娘寛子を入内させたが、男子に恵まれないまま天皇は崩御し、皇太
	弟尊仁親王が即位する。ここに至って、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が出現し、栄華を極めた藤原氏の
	没落がはじまり、歴史は「武士の時代」へと移行してゆく。



	
	第71代 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)
	尊仁(たかひと) 円宗寺陵  摂関家の斜陽化  京都市右京区竜安寺朱山。
	後冷泉天皇に後継がなかったため、後冷泉天皇の崩御によって即位した。三条天皇の孫に当たる帝は、後朱雀天皇の第2皇子で、
	母は三条天皇の第3皇女の皇后禎子内親王。生母が藤原の出身ではないため関白藤原頼道に疎んじられたが、その反面、藤原家の
	支配が及ばなかったとも言える。そのためこの帝の代に、久しく途絶えていた天皇親政が復活する。頼道の弟教通を関白にしたも
	の積極的に親政を行い、記録荘園券契所の設置や荘園整理令の発布など、帝の直政による活発な治世が実施され、皇室経済基盤の
	強化が図られた。帝は、わずか4年で貞仁親王(白河天皇)に譲位して院政を開こうとしたが、譲位の翌年病魔に倒れ、40歳で崩
	御した。  



三天皇合同陵と禎子内親王陵の間から 一条天皇・堀河天皇陵へ登っていく道がはじまる。長い長い石畳の参道。





 

 

	
	第66代 一条(いちじょう)天皇
	別名:  懐仁(やすひと)
	父:  円融天皇 第1皇子
	母:  藤原詮子(藤原兼家の娘)
	生没年:天元3年(980)〜 寛弘8年(1011)(32歳)
	在位: 寛和2年(986)〜 寛弘8年(1011)
	皇后: 藤原定子、藤原彰子
	皇妃: 藤原義子、藤原元子、藤原尊子
	皇子女:敦康親王、敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)、修子内親王
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 円融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ:京都市右京区竜安寺朱山)



	
	第66代 一条天皇(いちじょうてんのう)
	懐仁(ヤスヒト) 円融時北陵 関白兼家が擁立・王朝文学の絶頂期。京都市右京区竜安寺。
	円融天皇の第一皇子で、母は藤原兼家の娘詮子。兼家らの陰謀により花山天皇が退位した後、7歳で即位した帝の後見にあたった
	のは、帝の外祖父にあたる摂政兼家である。皇太子は、当時11歳だった花山天皇の異母弟居貞親王(三条天皇)。兼家は親族を
	ことごとく高位に就けていった。兼家の死後、元服を迎えた帝の中宮となったのは、兼家の長子・右大臣道隆の娘定子(ていし)
	で、帝に寵愛された。この定子に仕えた女房のひとりが「枕草子」を著した清少納言である。定子は3子をもうけた後、24歳で
	他界する。その後、後宮の中心となった彰子(しょうし)は道隆の末弟道長の娘で、その侍女には紫式部、和泉式部などの錚々た
	る女流文学者がいた。彰子との間に敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)が生まれた。天皇と道長の関係はすこぶる
	良好で、在位中は宮廷文化の花が咲き誇り、天皇は「寛弘の聖主」と称された。  

 

	
	第73代 堀河(ほりかわ)天皇
	別名:  善仁(たるひと)
	父:  白河天皇
	母:  藤原賢子(藤原師実の養女)
	生没年:承暦3年(1079)〜 嘉承2年(1107)(29歳)
	在位: 応徳3年(1086)〜 嘉承2年(1107)
	皇后: 篤子内親王、藤原苡子
	皇妃: 源仁子、藤原宗子
	皇子女:宗仁親王(鳥羽天皇)、最雲親王、喜子内親王、懐子内親王、寛暁
	皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
	御陵: 後円教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ:京都市右京区竜安寺朱山 )



	第73代 堀河天皇(ほりかわてんのう)
	善仁(たるひと) 後円教寺陵 後三年の役  京都市右京区竜安寺朱山。
	白河天皇の皇子で、母は藤原師実の養女賢子。応徳3年(1086)立太子と同時に、父の譲位を受けて9歳で即位した。関白師実が
	摂政となるが、病弱な天皇に政治の実権はなく、院政をしく父白河法王の実質的な治世の元、天皇は、和歌、音曲、文芸にいそし
	んだ。管弦に情熱を注ぎ、一生、政治に携わることはなかった。藤原苡子との間に生まれた皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を皇太子とし
	たが、苡子が没すると宗仁親王は白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。 堀河天皇は、人望も厚く才知にも長けていたと
	されるが、元来の病弱がたたり29歳で惜しまれつつ崩御した。







第64代 円融天皇(えんゆうてんのう)火葬塚 

この天皇の御陵は別にあるが、ここは火葬塚となっている。

   





山中に分け入る


	山伝いに清滝の宇多天皇陵へ行けそうだったので、円融天皇火葬塚の脇から朱山の山道に入っていったがえらい目にあった。






	行けども行けども宇多天皇陵らしきものは見えてこないし、人は勿論一人も通らない。だんだん夕方になってくる。引き返すなら
	ボチボチやな。そう思って引き返したらこんどはちょっと道に迷ってしまった。焦った。こりゃヤバい、ここで死んだら明日の新
	聞に何と載るだろうか、などとチラッと考えたりした。しかし程なく分岐点に戻れ、なんとか竜安寺へたどり着く事ができた。
	山道はちゃんと山靴でこなけりゃだめだわ。



すぐ近所に後何人かの天皇陵がある。宇多天皇陵もリトライしなきゃならんし、またこなくちゃ。






2007年3月20日

仕事で京都へ行った帰り「千本北大路」の交差点の角に、後冷泉天皇の火葬墓があった。











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