第63代 冷泉(れいぜい)天皇 別名:憲平(のりひら) 誕生: 天暦4年(950) 〜 寛弘8年(1011)(62才) 在位: 康保4年(967)〜 安和2年(969) 父: 村上天皇 第2皇子 母: 藤原安子(藤原師輔(もろすけ)の娘) 皇后: 昌子内親王 皇妃: 藤原懐子、藤原超子 皇子女:師貞親王(花山天皇)、居貞親王(三条天皇)、為尊親王、敦道親王、 宗子内親王、尊子内親王、光子内親王 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 桜本陵(さくらのもとのみささぎ:京都市左京区鹿ケ谷法然院町)
京都市バス「銀閣寺道」で降りて、有名な「哲学の道」を南へ10分ほど下るとこの御陵がある。哲学の道は人だかりだが、この 御陵は、橋を渡って東山の山麓に静かにあり、訪れる人とてない。
村上天皇の第2皇子。天暦4年(950)、生後3ヶ月で立太子。967年に村上天皇が没したため18歳で践祚。 父の村上天皇は前々代の醍醐天皇、前代の朱雀天皇の後を継ぎ、天皇を中心とした政治を押し進めた。藤原時平の兄、忠平も摂政 関白としてよく帝を助け、村上天皇の治世は、後に「延喜・天暦の治」と呼ばれる善政であったとされている。しかし、鎌足を始 祖とする藤原氏の勢力は、これを阻もうとした菅原道真を太宰府へ左遷してしまう程の力を秘めており、やがて親政に取って代わ る事は目に見えていた。 「延喜・天暦の治」は、いわば藤原政治が盤石のものと成っていく過程に咲いたあだ花のようなものかもしれない。「延喜・天暦 の治」の最終期あたりを支えた、醍醐天皇の皇子「源高明」が「安和の変」で左遷されてからは、摂政関白が本格的な執権機構と なり、天皇は次第にお飾り的なものに変質していく。藤原氏は他氏の排斥を終了したばかりか、天皇家をも支配する体制を固めた のである。
冷泉天皇は、藤原師輔の娘安子を母としており、もとより藤原氏に協力的であったが、この帝には怨霊付の噂があった。 皇位を継げないまま世を去った兄の霊が憑依しているというのだ。その噂の原因は、夜中に徘徊したりする冷泉帝の度重なる奇行 にあった。その上病弱でもあった為に摂政関白が本格的に復活する事になる。冷泉天皇の即位後忠平の子実頼が摂政となっていた が、天皇が成人した後関白となり、以降摂関政治がはじまる。この帝の時から藤原氏の権力は不動のものとなったと言ってよい。 帝自身はその後狂気のため、後継に同母弟の守平親王(円融天皇)が立ち、在位2年にして譲位した。上皇となった後も病は治ら ず、42歳で崩じた。
冷泉天皇は、寛弘8年(1011)崩御し、「桜本寺北方」に葬られた。この「桜本寺」は、江戸時代には北区小野にある桜本寺にあ てられ、その近くに冷泉天皇の御陵と伝える石塔もあった。明治に入って進藤千尋が現在の陵地(北塚と呼ばれていた古墳)を考 定し、明治22年(1889)に正式に治定された。現陵墓は直径18.4mの円墳。疏水をへだてて火葬塚もある。火葬塚の方は7. 5mの円墳である。
<安和の変> 安和2年(969)、源高明(父は醍醐天皇。村上天皇の異母弟にあたり、冷泉即位後右大臣から左大臣となる。)を失脚させるべく、 藤原氏が源満仲に密告させた事件。左大臣源高明が、為平親王(村上天皇の皇子で冷泉天皇の皇太子の有力候補)を擁立して陰謀 を企てているとして、大宰権帥に左遷された。事件後左大臣には右大臣藤原師尹が就任する。事件の黒幕は、この師尹と言われて おり、関白の兄実頼を説き伏せ、左大臣源高明を大宰権帥(ごんのそつ)に左遷し代わって左大臣となった。変の五ヶ月後冷泉天 皇は退位するが、程なく師尹も死去したため、高明のたたりと噂された。