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第15代 応神天皇陵
2000.7.16 大阪府羽曳野市誉田





	<第15代応神天皇(おうじん)天皇>
	異称: 誉田別皇子(ほむたわけのおうじ:日本書紀)/大鞆和気命(おおともわけのみこと:古事記)
	生没年: 仲哀天皇9年 〜 応神天皇41年 110歳(古事記では130歳)
	在位期間  神功皇后摂政69+1年 〜 応神天皇41年
	父: 仲哀天皇 第四子
	母: 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
	皇后: 品蛇真若王(ほむだまわかおう)の娘、仲姫(なかつひめ)
	皇妃: 高城入姫(たかきのいりひめ:皇后の姉)、弟姫(おとひめ:皇后の妹)、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)他
	皇子皇女: 荒田(あらた)皇女、大鷦鷯天皇(おおさぎきのすめらみこと:仁徳天皇)、根鳥皇女他
	宮: 軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市大軽町)
	陵墓: 恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ:大阪府羽曳野大字誉田)

 


	朝鮮半島を攻めたとされている神功皇后が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのがこの応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみ
	こと)と言われている。夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である。」という神託を信じず崩御してしまうが、その妃で
	ある神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。(この話自体が事実ではないとする説もある。)
	筑紫へ凱旋してきた神功皇后は、俄に産気づき皇子を産み落とす。この皇子が誉田別尊であり、それ故にこの地が産み(宇美)
	と名付けられたと言う。宇美は現在も福岡県宇美町として残っており、大分県の宇佐神宮は応神天皇を祭神とし、全国に約4万
	社ある八幡神宮の中心である。




	九州生まれの誉田別尊は瀬戸内海を東進し、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して応神天皇となり王権を打ち立て
	た、と書記は伝えている。この逸話を以て、神武東征との共通点を指摘する意見は多い。何らかの勢力が九州から来て近畿に新
	王権を樹立したのだ、と言うのである。
	「騎馬民族征服説」の江上波夫氏は、崇神天皇の時代に第一次の渡来が行われ、騎馬民族が朝鮮半島を経由して筑紫に来たとい
	う。その時のリーダーが崇神天皇で、それから何代か後に、応神天皇をリーダーとする集団が筑紫から近畿に入り、現在の天皇
	家につながる礎を築いたと主張している。従って、実在した最初の天皇は崇神天皇であるという事になる。神武東征はこの史実
	の反映だと言う。
	他にも、応神天皇が実際に九州から来たのだろうという意見を持つ学者も多い。書記は、応神天皇と朝鮮半島の強い結びつきを
	記述しているが、これらは、応神天皇もしくはその遠くない先祖達が朝鮮半島から来たのだという事を示していると言うのであ
	る。

 


	養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、一
	大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人
	々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。
	百済から渡来してきた学者の阿直岐(あちき)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)は「千字文」と「論語」を
	伝えた。職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。
	阿直岐、王仁はさまざまな典籍を日本に伝え、阿直岐史(あちきのふびと)の先祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)」など
	の先祖にあたる。
	この他日本書紀の応神紀には、前朝に引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる話、大
	鷦鷯皇子(仁徳天皇)と大山守皇子を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。
	天皇は多くの皇妃を抱えており、皇后の姉、妹も妃とする。日本書紀によれば、天皇の皇子女は20人、古事記によれば26人
	にのぼっている。




	いずれにしても、この時期に王権を巡る大規模な戦いが近畿地方において繰り広げられたと思われる。それはおそらく、渡来人
	とそれ以前の倭人達との間の争いもあっただろうし、渡来してきた渡来人同士の権力争いもあった。その中から、抜きんでて権
	力を確保した人物が後に「応神天皇」と呼ばれ、この地に葬られたと考えられる。

	江戸時代に、この応神陵は一度発掘されているが、その際、金メッキを施した馬具が出土しており、日本最古の馬具と言う見方
	もある。書記にも、応神天皇が百済より馬を貰ったという記述があり、この帝は乗馬の習慣を持っていたことがうかがえるので
	ある。これらの事からこの応神天皇陵は、そのまま応神天皇の墓と比定してもいいのではないか、という意見が多い。

	またこの天皇の時代は、考古学上の画期点としても注目される。中期古墳時代を特徴づける鉄製の農具や武器が急速に普及した
	ことが確認でき、記紀の記述を見ても、従来に比してかなりの史実性を帯びている事が見て取れるのである。天皇の異名、誉田
	別皇子(ほむたわけのおうじ)も、従来のものより現実的な名前になっており、河内王朝の様相も具体性が高く、この天皇の実
	在についてはその可能性が高いとされている。




	陵へはロープがかけてあってそこへ渡る舟もあったが、すでに朽ちて船底から水が染み込んでいた。最近まで宮内庁関係者が何
	らかの目的で陵へ渡っていたのだ。
	応神天皇は、有名な「宋書倭国伝」に登場する「倭の五王」のうち「讃」(さん)に比定される。次代の仁徳天皇をあてる場合
	もあるが、いずれにしても「仁徳王朝」の開始時期を5世紀前後とする学会の定説は間違いないものと思われる。(だから定説
	なのだろう。)








	この御陵は仁徳天皇陵に次ぐ大きさを持つ古墳として有名である。下を歩いている分にはその大きさは解らないが、この航空写
	真で見るとさすがにデカい。被葬者が相当な勢力を保有していたのが理解できる。









		【品陀和氣命】(應神天皇)(古事記)

		品陀和氣命、坐輕嶌之明宮、治天下也。
		此天皇、娶品陀眞若王【品陀二字以音】之女、三柱女王。一名、高木之入日賣命。次、中日賣命。次、弟日賣命【此女王等之父、
		品陀眞若王者、五百木之入日子命、娶尾張連之祖、建伊那陀宿禰之女、志理都紀斗賣、生子者也。】
		故、高木之入日賣之子、額田大中日子命。次、大山守命。次、伊奢之眞若命【伊奢二字以音】次妹、大原郎女。次、高目郎女【五柱】
		中日賣命之御子、木之荒田郎女。次、大雀命。次、根鳥命【三柱】。
		弟日賣命之御子、阿倍郎女。次、阿具知能【此四字以音】三腹郎女。次、木之菟野郎女。次、三野郎女【五柱】。
		又娶、丸邇之比布禮能意富美之女【自比至美以音】名宮主矢河枝比賣、生御子、宇遲能和紀郎子。次妹、八田若郎女。次、女鳥王
		【三柱】。
		又娶、其矢河枝比賣之弟、袁那辨郎女、生御子、宇遲之若郎女【一柱】。
		又娶、咋俣長日子王之女、息長眞若中比賣、生御子、若沼毛二俣王【一柱】。
		又娶、櫻井田部連之祖、嶌垂根之女、糸井比賣、生御子、速總別命【一柱】。
		又娶、日向之泉長比賣、生御子、大羽江王。次、小羽江王。次、幡日之若郎女【三柱】
		又娶、迦具漏比賣。生御子、川原田郎女。次、玉郎女。次、忍坂大中比賣。次、登富志郎女。次、迦多遲王【五柱】
		又娶、葛城之野伊呂賣【此三字以音】、生御子、伊奢能麻和迦王【一柱】。
		此天皇之御子等、并廿六王【男王十一。女王十五】此中大雀命者。治天下也。
		於是天皇、問大山守命與大雀命詔、「汝等者、孰愛兄子與弟子」【天皇所以發是問者、宇遲能和紀郎子有令治天下之心也。】爾大
		山守命白「愛兄子。」次大雀命、知天皇所問賜之大御情而白、「兄子者既成人、是無悒、弟子者未成人、是愛。」爾天皇詔、「佐
		邪岐、阿藝之言【自佐至藝五字以音】如我所思。」即詔別者、「大山守命爲山海之政。大雀命、執食國之政以白賜。宇遲能和紀郎
		子、所知天津日繼也。」故、大雀命者、勿違天皇之命也。一時、天皇越幸近淡海國之時、御立宇遲野上、望葛野、歌曰、

			知婆能 加豆怒袁美禮婆
			毛毛知陀流 夜邇波母美由
			久爾能富母美由

		故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰、「汝者誰子。」答白、「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河
		枝比賣。」天皇即詔其孃子、「吾明日還幸之時、入坐汝家。」故、矢河枝比賣委曲語其父。於是父答曰、「是者天皇坐那理【此二
		字以音】恐之。我子仕奉。」云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。故、獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是
		天皇、任令取其大御酒盞而御歌曰、

			許能迦邇夜 伊豆久能迦邇
			毛毛豆多布 都奴賀能迦邇
			余許佐良布 伊豆久邇伊多流
			伊知遲志麻 美志麻邇斗岐
			美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐
			志那陀由布 佐佐那美遲袁
			須久須久登 和賀伊麻勢婆夜
			許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣
			宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母
			波那美波 志比比斯那須
			伊知比韋能 和邇佐能邇袁
			波都邇波 波陀阿可良氣美
			志波邇波 邇具漏岐由惠
			美都具理能 曾能那迦都爾袁
			加夫都久 麻肥邇波阿弖受
			麻用賀岐 許邇加岐多禮
			阿波志斯袁美那 迦母賀登
			和賀美斯古良 迦久母賀登
			阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇
			牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母

		如此御合、生御子、宇遲能和紀【自宇下五字以音】郎子也。天皇聞看日向國諸縣君之女、名髮長比賣、其顏容麗美、將使而喚上之
		時、其太子大雀命、見其孃子泊于難波津而、感其姿容之端正、即誂告建内宿禰大臣、是自日向喚上之髮長比賣者、請白天皇之大御
		所而、令賜於吾。爾建内宿禰大臣、請大命者、天皇即以髮長比賣、賜于其御子。所賜状者、天皇聞看豐明之日、於髮長比賣令握大
		御酒柏、賜其太子。爾御歌曰、

			伊邪古杼母 怒毘流都美邇
			比流都美邇 和賀由久美知能
			迦具波斯 波那多知婆那波
			本都延波 登理韋賀良斯
			支豆延波 比登登理賀良斯
			美都具理能 那迦都延能
			本都毛理 阿加良袁登賣袁
			伊邪佐佐婆 余良斯那

		又御歌曰、

			美豆多麻流 余佐美能伊氣能
			韋具比宇知賀 佐斯祁流斯良邇
			奴那波久理 波閇祁久斯良邇
			和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖
			伊麻叙久夜斯岐

		如此歌而賜也。故、被賜其孃子之後、太子歌曰、

			美知能斯理 古波陀袁登賣袁
			迦微能碁登 岐許延斯迦杼母
			阿比麻久良麻久

		又歌曰、

			美知能斯理 古波陀袁登賣波
			阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母
			宇流波志美意母布

		又吉野之國主等、瞻大雀命之所佩御刀歌曰、

			本牟多能 比能美古
			意富佐邪岐 意富佐邪岐
			波加勢流多知 母登都流藝
			須惠布由 布由紀能須
			加良賀志多紀能 佐夜佐夜

		又於告野之白檮上、作横臼而、於其横臼釀大御酒、獻其大御酒之時、撃口鼓爲伎而歌曰、

			加志能布邇 余久須袁都久理
			余久須邇 迦美斯意富美岐
			宇麻良爾 岐許志母知袁勢
			麻呂賀知

		此歌者、國主等獻大贄之時時、恒至于今詠之歌者也。是以建内宿禰命引率、爲役之堤池而、作百濟池。亦百濟國主照古王、以牡馬
		壹疋、牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上。【此阿知吉師者阿直史等之祖】亦貢上横刀及大鏡。又科賜百濟國「若有賢人者貢上。」故、
		受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷、千字文一卷、并十一卷付是人即貢進。【此和邇吉師者、文首等祖】又貢上手人韓鍛、名
		卓素、亦呉服西素二人也。又秦造之祖、漢直之祖、及知釀酒人、名仁番、亦名須須許理等、參渡來也。故、是須須許理、釀大御酒
		以獻。於是天皇、宇羅宜是所獻之大御酒而【宇羅宜三字以音】御歌曰、

			須須許理賀 迦美斯美岐邇
			和禮惠比邇祁理 許登那具志
			惠具志爾 和禮惠比邇祁理

		如此之歌幸行時、以御杖打大坂連中之大石者、其石走避。故、諺曰堅石避醉人也。故、天皇崩之後、大雀命者、從天皇之命、以天
		下讓宇遲能和紀郎子。於是大山守命者違天皇之命、猶欲獲天下、有殺弟皇子之情、竊設兵將攻。爾大雀命、聞其兄備兵、即遣使者、
		令告宇遲能和紀郎子。故聞驚以兵伏河邊、亦其山之上、張施垣立帷幕、詐以舍人爲王、露坐呉床、百官恭敬往來之状、既如王子之
		坐所而、更爲其兄王渡河之時、具餝船楫者、舂佐那【此二字以音】葛之根、取其汁滑而、塗其船中之簀椅、設蹈應仆而、其王子者、
		服布衣褌、既爲賎人之形、執楫立船。於是其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其呉床、
		都不知執楫而立船、即問其執楫者曰、「傳聞茲山有忿怒之大猪。吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執楫者答曰「不能也。」亦問曰
		「何由」、答曰、「時時也徃徃也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中。爾乃浮出、隨水流下。
		即流歌曰、

			知波夜夫流 宇遲能和多理邇
			佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯
			和賀毛古邇許牟

		於是伏隱河邊之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到訶和羅之前而沈入。【訶和羅三以以音】故、以鉤探其沈處者、繋其衣
		中甲而、訶和羅鳴。故、號其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時、弟王歌曰、

			知波夜比登 宇遲能和多理邇
			和多理是邇 多弖流
			阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登
			許許呂波母閇杼 伊斗良牟登
			許許呂波母閇杼 母登幣波
			岐美袁淤母比傳 須惠幣波
			伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久
			曾許爾淤母比傳 加那志祁久
			許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流
			阿豆佐由美麻由美

		故、其大山守命之骨者、葬于那良山也。是大山守命者【土形君、弊岐君、榛原君等之祖】、於是大雀命與宇遲能和紀郎子二柱、各
		讓天下之間、海人貢大贄。爾兄辭令貢於弟、弟辭令貢於兄、相讓之間、既經多日。如此相讓、非一二時。故、海人既疲往還而泣也。
		故諺曰、海人乎、因己物而泣也。然宇遲能和紀郎子者早崩。故、大雀命治天下也。
		又昔、有新羅國主之子。名謂天之日矛。是人參渡來也。所以參渡來者、新羅國有一沼。名謂阿具奴摩。【自阿下四字以音】此沼之
		邊、一賎女晝寢。於是日耀如虹、指其陰上、亦一有賤夫、思異其状、恒伺其女人之行。故、是女人、自其晝寢時、姙身、生赤玉。
		爾其所伺賤夫、乞取其玉、恒裹着腰。此人營田於山谷之間。故、耕人等之飮食、負一牛而、入山谷之中。遇逢其國主之子、天之日
		矛。爾問其人曰、何汝飮食負牛入山谷。汝必殺食是牛。即捕其人、將入獄囚、其人答曰、吾非殺牛。唯送田人之食耳。然猶不赦。
		爾解其腰之玉、幣其國主之子。故、赦其賤夫、將來其玉、置於床邊、即化美麗孃子。仍婚爲嫡妻。爾其孃子、常設種種之珍味、恒
		食其夫。故、其國主之子心奢詈妻、其女人言、凡吾者、非應爲汝妻之女。將行吾祖之國。即竊乘小船、逃遁渡來、留于難波。
		【此者坐難波之比賣碁曾社、謂阿加流比賣神者也】
		於是天之日矛、聞其妻遁、乃追渡來、將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故、更還泊多遲摩國。即留其國而、娶多遲摩之俣尾之
		女、名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥。此之子、多遲摩比那良岐。此之子、多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。
		次清日子。【三柱】此清日子、娶當摩之me[口羊]斐、生子、酢鹿之諸男。次妹菅竃(上)由良度美【此四字以音】。故、上云多遲摩
		比多訶、娶其姪、由良度美、生子、葛城之高額比賣命。【此者息長帶比賣命之御祖】故、其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠
		二貫。又振浪比禮【比禮二字以音。下效此】切浪比禮、振風比禮、切風比禮。又奧津鏡、邊津鏡、并八種也。【此者伊豆志之八前
		大神也】
		故、茲神之女、名伊豆志袁登賣神坐也。故八十神雖欲得是伊豆志袁登賣、皆不得婚。於是有二神。兄號秋山之下氷壯夫。弟名春山
		之霞壯夫。故、其兄謂其弟、吾雖乞伊豆志袁登賣、不得婚。汝得此孃子乎。答曰易得也。爾其兄曰、若汝有得此孃子者、避上下衣
		服、量身高而釀甕酒、亦山河之物、悉備設、爲宇禮豆玖云爾【自宇至玖以音。下效此】爾其弟、如兄言具白其母、即其母、取布遲
		葛而【布遲二字以音】一宿之間、織縫衣褌及襪沓、亦作弓矢、令服其衣褌等、令取其弓矢、遣其孃子之家者、其衣服及弓矢、悉成
		藤花。於是其春山之霞壯夫、以其弓矢、繋孃子之厠。爾伊豆志袁登賣、思異其花、將來之時、立其孃子之後、入其屋即婚。故、生
		子一也。爾白其兄曰「吾者得伊豆志袁登賣。」於是其兄、慷愾弟之婚以、不償其宇禮豆玖之物。爾愁白其母之時、御祖答曰「我御
		世之事、能許曾【此二字以音】神習。又宇都志岐青人草習乎、不償其物。」恨其兄子、乃取其伊豆志河之河嶋節竹而、作八目之荒
		寵、取其河石、合鹽而裹其竹葉、令詛言「如此竹葉青、如此竹葉萎而青萎。又如此鹽之盈乾而盈乾。又如此石之沈而沈臥。」如此
		令詛置於烟上。是以其兄、八年之間、于萎病枯。故、其兄患泣、請其御祖者、即令返其詛戸。於是其身如本以安平也【此者神宇禮
		豆玖之言本者也】
		又、此品陀天皇之御子、若野毛二俣王、
		娶其母弟、百師木伊呂辨、亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子、亦名意富富杼王。次、忍坂之大中津比賣命。次、田井之中比賣。
		次、田宮之中比賣。次、藤原之琴節郎女。次、取(上)賣王。次、沙禰王【七王】。
		故、意富富杼王者【三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君。布勢君等之祖也。】
		又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王。次、伊和嶋王。【二柱】又、堅石王之子者、久奴王也。
		凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歳。【甲午年九月九日崩。】御陵在川内惠賀之裳伏岡也。



		【品陀和氣命(ほむだわけのみこと)】(應神天皇)

		品陀和氣の命、輕嶌(かるしま)の明(あきら)の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
		此の天皇、品(ほむ)陀(だ)眞若(まわか)の王【品陀二字は音を以ちてす】の女、三柱の女王を娶りき。一はしらの名は高木
		の入日賣の命。次に中日賣の命。次に弟日賣の命【此の女王等の父、品陀眞若の王は、五百木(いほき)の入日子の命、尾張の連
		の祖、建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)の女、志理都紀斗賣(しりつきとめ)を娶りて生みし子也】。故、高木の入日賣の御
		子、額田大中日子(ぬかたのおおなかひこ)の命。次に大山守(おおやまもり)の命。次に伊奢(いざ)の眞若の命【伊奢二字は
		音を以ちてす】。次に妹大原(いもおおはら)の郎女(いらつめ)。次に高目の郎女【五柱】。中日賣の命の御子、木の荒田の郎
		女。次に大雀(おおさざき)の命。次に根鳥(ねとり)の命【三柱】。
		弟日賣の命の御子、阿倍郎女。 次に阿貝知能(あはちの)【此四字は音を以ちてす】三腹(みはら)の郎女。次に木の菟野(う
		の)の郎女。次に三野の郎女【五柱】。また丸邇(わに)の比布禮能意富美(ひふれのおほみ)の女【比より美までは音を以ちて
		す】、名は宮主矢河枝(みやぬしのやかわえ)比賣を娶りて生みし御子は宇遲能和紀(うぢのわき)の郎子。次に妹(いも)八田
		若(やたわか)の郎女。次に女鳥(めとり)の王【三柱】。また其の矢河枝比賣の弟、袁那辨(おなべ)の郎女を娶りて生みし御
		子は宇遲(うぢ)の若の郎女【一柱】。また咋俣長日子(くいまたながひこ)の王の女、息長眞若中(おきながのまわかなか)比
		賣を娶りて生みし御子は、若沼毛(わかぬけ)の二俣(ふたまた)の王【一柱】。また櫻井の田部の連の祖、嶌垂根(しまたるね)
		の女、糸井比賣を娶りて生みし御子は、速總別(はやぶさわけ)の命【一柱】。また日向の泉の長比賣を娶りて生みし御子は、大
		羽江(おおはえ)の王。次に小羽江(おはえ)の王。次に幡日(はたひ)の若の郎女【三柱】。また迦具漏(かぐろ)比賣を娶り
		て生みし御子は川原田(かはらた)の郎女。次に玉の郎女。次に忍坂(おしさか)の大中つ比賣。次に登富志(とほし)の郎女。
		次に迦多遲(かたぢ)の王【五柱】。また葛城の野(の)伊呂賣(いろめ)【此の三字は音を以ちてす】を娶りて生みし御子は、
		伊奢能麻和迦(いざのまわか)の王【一柱】。此の天皇の御子等は并せて廿六王【男王十一、女王十五】。此の中の大雀の命は天
		の下治しめしき。
		是に天皇、大山守の命と大雀の命に問いて詔らさく「汝等は兄の子と弟の子と孰(いづ)れか愛(は)しき【天皇、是の問を發し
		し所以は、宇遲能和紀の郎子、天下治さしめん心有れば也】」。爾くして大山守の命、白さく、「兄の子ぞ愛しき」。次に大雀の
		命は天皇の問い賜いし大御情(おおみこころ)を知りて白さく、「兄の子は既に人と成りて、是れ悒(おぼつかな)きこと無きを、
		弟の子は未だ人と成らねば是ぞ愛しき」。爾くして天皇詔らさく、「佐邪岐(さざき)、阿藝(あぎ)の言【佐より藝までの五字
		は音を以ちてす】は、我が思ふ所の如し」。即ち詔り別けしく、「大山守の命は山海の政を爲せ。大雀の命は食國の政を執りて以
		ちて白し賜え。宇遲能和紀の郎子は天津日繼(あまつひつぎ)を知せ」。故、大雀の命は天皇の命に違(たが)うこと勿かりき。
		一時、天皇、近つ淡海の國に越え幸でましし時に、
		宇遲野(うぢの)の上に御立(みた)ちて葛野(かづの)を望みて、歌いて曰く、

			知(ち)婆(ば)能(の)
 			加(か)豆(づ)怒(の)袁(を)美(み)禮(れ)婆(ば)
 			毛(も)毛(も)知(ち)陀(だ)流(る)
 			夜(や)邇(に)波(は)母(も)美(み)由(ゆ)
 			久(く)爾(に)能(の)富(ほ)母(も)美(み)由(ゆ)

			千葉の
 			葛野を見れば
 			百千足る
 			家庭も見ゆ
 			國の秀も見ゆ 
 
		故、木幡(こはた)の村に到り坐しし時に、麗美(うるわ)しき孃子(おとめ)、其の道衢(ちまた)に遇いき。爾くして天皇、
		其の孃子に問いて曰く、「汝は誰が子ぞ」。答えて白さく、「丸邇(わに)の比布禮能意富美(ひふれのおほみ)の女(むすめ)、
		名は宮主矢河枝(みやぬしのやかわえ)比賣」。天皇、即ち其の孃子に詔らさく、「吾、明日還り幸でし時に汝が家に入り坐さん」。
		故、矢河枝比賣、委曲(まつぶさ)に其の父に語りき。是に父、答えて曰く、「是は天皇に坐す那理(なり)【此二字は音を以ち
		てす】。恐し。我が子、仕え奉れ」と云いて、其の家を嚴餝(かざ)りて待ち候わば、明日に入り坐しき。故、大御饗(おおみあ
		え)獻りし時に、其の女、矢河枝比賣の命に大御酒盞(おおみさかづき)を取らしめて獻りき。是に天皇、其の大御酒盞を取らし
		め任(なが)ら、御歌に曰く、

			許(こ)能(の)迦(か)邇(に)夜(や)
 			伊(い)豆(づ)久(く)能(の)迦(か)邇(に)
 			毛(も)毛(も)豆(づ)多(た)布(ふ)
 			都(つ)奴(ぬ)賀(が)能(の)迦(か)邇(に)
 			余(よ)許(こ)佐(さ)良(ら)布(ふ)
 			伊(い)豆(づ)久(く)邇(に)伊(い)多(た)流(る)
 			伊(い)知(ち)遲(ぢ)志(し)麻(ま)
 			美(み)志(し)麻(ま)邇(に)斗(つ)岐(き)
 			美(み)本(ほ)杼(ど)理(り)能(の)
 			迦(か)豆(づ)伎(き)伊(い)岐(き)豆(づ)岐(き)
 			志(し)那(な)陀(だ)由(ゆ)布(ふ)
 			佐(さ)佐(さ)那(な)美(み)遲(ぢ)袁(を)
 			酒(す)久(く)酒(す)久(く)登(と)
 			和(わ)賀(が)伊(い)麻(ま)勢(せ)婆(ば)夜(や)
 			許(こ)波(は)多(た)能(の)美(み)知(ち)邇(に)
 			阿(あ)波(は)志(し)斯(し)袁(お)登(と)賣(め)
 			宇(う)斯(し)呂(ろ)傳(で)波(は)
 			袁(お)陀(だ)弖(て)呂(ろ)迦(か)母(も)
 			波(は)那(な)美(み)波(は)
 			志(し)比(ひ)比(ひ)斯(し)那(な)須(す)
 			伊(い)知(ち)比(ひ)韋(い)能(の)
 			和(わ)邇(に)佐(さ)能(の)邇(に)袁(を)
 			波(は)都(つ)邇(に)波(は)
 			波(は)陀(だ)阿(あ)可(か)良(ら)氣(け)美(み)
 			志(し)波(は)邇(に)波(は)
 			邇(に)具(ぐ)漏(ろ)岐(き)由(ゆ)惠(え)
 			美(み)都(つ)具(ぐ)理(り)能(の)
 			曾(そ)能(の)那(な)迦(か)都(つ)邇(に)袁(を)
 			加(か)夫(ぶ)都(つ)久(く)
 			麻(ま)肥(ひ)邇(に)波(は)阿(あ)弖(て)受(ず)
 			麻(ま)用(よ)賀(が)岐(き)
 			許(こ)邇(に)加(か)岐(き)多(た)禮(れ)
 			阿(あ)波(は)志(し)斯(し)袁(お)美(み)那(な)
 			迦(か)母(も)賀(が)登(と)
 			和(わ)賀(が)美(み)斯(し)古(こ)良(ら)
 			迦(か)久(く)母(も)賀(が)登(と)
 			阿(あ)賀(が)美(み)斯(し)古(こ)邇(に)
 			宇(う)多(た)多(た)氣(け)陀(だ)邇(に)
 			牟(む)迦(か)比(ひ)袁(お)流(る)迦(か)母(も)
 			伊(い)蘇(そ)比(ひ)袁(お)流(る)迦(か)母(も)

			この蟹や
 			何処の蟹
 			百伝ふ
 			角鹿の蟹
 			横去らふ
 			何処に到る
 			伊知遲島
 			美島に著き
 			鳰鳥の
 			潜き息づき
 			しなだゆふ
 			佐佐那美路を
 			すくすくと
 			我が行ませばや
 			木幡の道に
 			遇はしし嬢子
 			後姿は
 			小盾ろかも
 			歯並みは
 			椎菱如す
 			櫟井の
 			丸邇坂の土を
 			初土は
 			膚赤らけみ
 			底土は
 			丹Kき故
 			三つ栗の
 			その中つ土を
 			かぶつく
 			真火には當てず
 			眉書き
 			濃に書き垂れ
 			遇はしし女人
 			かもがと
 			我が見し子ら
 			かくもがと
 			我が見し子に
 			うたたけだに
 			對ひ居るかも
 			い添ひ居るかも
 
 		如此(かく)御合(みあい)して生みし御子は宇遲能和紀(うじのわき)【宇より下の五字は音を以ちてす】の郎子(いらつこ)
		也。
		天皇(すめらみこと)、日向の國の諸(もろ)の縣の君の女(むすめ)、名は髮長(かみなが)比賣、其の顏容(かたち)麗美
		(うるわ)しと聞こし看(め)して、將に使わんとして喚上(めさ)げし時、其の太子(おおみこ)大雀の命、其の孃子(おとめ)
		難波津に泊(は)てしを見て、其の姿容(かたち)の端正(うるわ)しを感(め)でて、即ち建内宿禰の大臣に誂(あとら)えて
		告げしく、「是の日向より喚上(めさ)げし髮長比賣は、天皇の大御所(おおみもと)にて請い白して、吾に賜いしめよ」。爾く
		して建内宿禰の大臣、大命(おおみこと)を請えば、天皇、即ち髮長比賣を其の御子に賜いき。賜いし状(さま)は、天皇、豐の
		明りを聞こし看しし日に、髮長比賣に大御酒(おおみき)の柏(かしわ)を握(と)らしめて其の太子に賜いき。爾くして御歌に
		曰く


			伊(い)邪(ざ)古(こ)杼(ど)母(も)
 			怒(の)毘(び)流(る)都(つ)美(み)邇(に)
 			比(ひ)流(る)都(つ)美(み)邇(に)
 			和(わ)賀(が)由(ゆ)久(く)美(み)知(ち)能(の)
 			迦(か)具(ぐ)波(は)斯(し)
 			波(は)那(な)多(た)知(ち)婆(ば)那(な)波(は)
 			本(ほ)都(つ)延(え)波(は)
 			登(と)理(り)韋(い)賀(が)良(ら)斯(し)
 			支(し)豆(づ)延(え)波(は)
 			比(ひ)登(と)登(と)理(り)賀(が)良(ら)斯(し)
 			美(み)都(つ)具(ぐ)理(り)能(の)
 			那(な)迦(か)都(つ)延(え)能(の)
 			本(ほ)都(つ)毛(も)理(り)
 			阿(あ)加(か)良(ら)袁(お)登(と)賣(め)袁(を)
 			伊(い)邪(ざ)佐(さ)佐(さ)婆(ば)
 			余(よ)良(ら)斯(し)那(な)  いざ子供
 			野蒜摘みに
 			蒜摘みに
 			我が行く道の
 			香ぐはし
 			花橘は
 			上枝は
 			鳥居枯らし
 			下枝は
 			人取り枯らし
 			三つ栗の
 			中つ枝の
 			ほつもり
 			赤ら孃子を
 			いざささは
 			良らしな
 
 		また御歌に曰く

			美(み)豆(づ)多(た)麻(ま)流(る)
 			余(よ)佐(さ)美(み)能(の)伊(い)氣(け)能(の)
 			韋(い)具(ぐ)比(ひ)宇(う)知(ち)賀(が)
 			佐(さ)斯(し)祁(け)流(る)斯(し)良(ら)邇(に)
 			奴(ぬ)那(な)波(は)久(く)理(り)
 			波(は)閇(へ)祁(け)久(く)斯(し)良(ら)邇(に)
 			和(わ)賀(が)許(こ)許(こ)呂(ろ)志(し)敍(ぞ)
 			伊(い)夜(や)袁(お)許(こ)邇(に)斯(し)弖(て)
 			伊(い)麻(ま)敍(ぞ)久(く)夜(や)斯(し)岐(き)

			水溜まる
 			依網の池の
 			堰杙打ちが
 			挿しける知らに
 			蓴繰り
 			延へけく知らに
 			我が心しぞ
 			いや愚にして
 			今ぞ悔しき
 
 		如此(かく)歌いて賜う也。 故、其の孃子を賜わりし後に、太子歌いて曰く

			美(み)知(ち)能(の)斯(し)理(り)
 			古(こ)波(は)陀(だ)袁(お)登(と)賣(め)袁(を)
 			迦(か)微(み)能(の)碁(ご)登(と)
 			岐(き)許(こ)延(え)斯(し)迦(か)杼(ど)母(も)
 			阿(あ)比(ひ)麻(ま)久(く)良(ら)麻(ま)久(く)

			道の後
 			古波陀孃子を
 			雷の如
 			聞こえしかども
 			相枕枕く
 
 		また歌に曰く

			美(み)知(ち)能(の)斯(し)理(り)
 			古(こ)波(は)陀(だ)袁(お)登(と)賣(め)波(は)
 			阿(あ)良(ら)蘇(そ)波(は)受(ず)
 			泥(ね)斯(し)久(く)袁(お)斯(し)敍(ぞ)母(も)
 			宇(う)流(る)波(は)志(し)美(み)意(お)母(も)布(ふ)

			道の後
 			古波陀孃子は
 			争そはず
 			寝しくをしぞも
 			麗しみ思ふ
 
		また吉野の國主(くにす)等、大雀の命の佩かせる御刀を瞻(み)て歌いて曰く

			本(ほ)牟(む)多(た)能(の)
 			比(ひ)能(の)美(み)古(こ)
 			意(お)富(ほ)佐(さ)邪(ざ)岐(き)
 			意(お)富(ほ)佐(さ)邪(ざ)岐(き)
 			波(は)加(か)勢(せ)流(る)多(た)知(ち)
 			母(も)登(と)都(つ)流(る)藝(ぎ)
 			須(す)惠(え)布(ふ)由(ゆ)
 			布(ふ)由(ゆ)紀(き)能(の)
 			須(す)加(か)良(ら)賀(が)志(し)多(た)紀(き)能(の)
 			佐(さ)夜(や)佐(さ)夜(や)

			誉田の
			日の御子
 			大雀
 			大雀
 			佩かせる御刀
 			本吊ぎ
 			末振ゆ
 			冬木の
 			素幹が下木の
 			さやさや
 
 		また吉野の白檮(かし)の上に横臼(よくす)を作りて、其の横臼に大御酒(おおみき)を釀(か)みて其の大御酒を獻る時に、
		口鼓(くちつづみ)を撃ちて伎(わざ)を爲て歌いて曰く、

			加(か)志(し)能(の)布(ふ)邇(に)
 			余(よ)久(く)須(す)袁(を)都(つ)久(く)理(り)
 			余(よ)久(く)須(す)邇(に)
 			迦(か)美(み)斯(し)意(お)富(ほ)美(み)岐(き)
 			宇(う)麻(ま)良(ら)爾(に)
 			岐(き)許(こ)志(し)母(も)知(ち)袁(お)勢(せ)
 			麻(ま)呂(ろ)賀(が)知(ち) 

			白檮の上に
 			横臼を作り
 			横臼に
 			釀みし大御酒
 			美味らに
 			聞こしもち飲せ
 			まろが父

 		此の歌は國主(くにす)等が大贄(おおにえ)獻る時時に、恆(つね)に今に至るまで詠う歌也。

		此の御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定め賜いき。また劍(つるぎ)の池を作りき。また新羅(しらき)人參い渡り來つ。
		是を以ちて建内宿禰の命引き率(い)て、渡の堤の池と爲て百濟(くだら)の池を作りき。また百濟の國主(こにきし)照古王
		(しょうこおう)、牡馬(おま)壹疋(ひとつ)・牝馬(めま)壹疋(ひとつ)を以ちて阿知吉師(あちきし)に付して以ちて貢
		上(たてまつ)りき【此の阿知吉師は阿直史(あちきのふひと)等の祖】。また横刀及び大鏡を貢上りき。また百濟の國に科せ賜
		いしく「若し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつ)れ」。故、命(みことのり)を受けて以ちて貢上(たてまつ)りし人の名
		は和邇吉師(わにきし)。即ち論語十卷・千字文一卷、并せて十一卷を是の人に付し、即ち貢進(たてまつり)き【此の和邇吉師
		は、文首(ふみのおびと)等が祖】。また手人(てひと)韓鍛(からかぬち)名は卓素(たくそ)、また呉服(くれはとり)の西
		素(さいそ)二人を貢上(たてまつ)りき。また秦(はた)の造(みやつこ)の祖・漢(から)の直(あたい)の祖、及び酒釀む
		を知る人、名は仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)等、參い渡り來たり。故、是の須須許理、大御酒釀みて以ちて獻り
		き。是に天皇、是の獻りし大御酒に宇羅宜(うらげ)て【宇羅宜の三字は音を以ちてす】御歌に曰く

			須(す)須(す)許(こ)理(り)賀(が)
 			迦(か)美(み)斯(し)美(み)岐(き)邇(に)
 			和(わ)禮(れ)惠(え)比(ひ)邇(に)祁(け)理(り)
 			許(こ)登(と)那(な)具(ぐ)志(し)
 			惠(え)具(ぐ)志(し)爾(に)
 			和(わ)禮(れ)惠(え)比(ひ)邇(に)祁(け)理(り)

			須須許理が
 			釀みし御酒に
 			我酔ひにけり
 			事無酒
 			笑酒に
 			我酔ひにけり
 
 		此(かく)歌いて幸行(い)でましし時に、御杖を以ちて大坂の道中の大石(おおいわ)を打てば、其の石(いわ)走り避りき。
		故、諺に曰う「堅石(かたしわ)も醉人(よいひと)を避く」也。

		故、天皇崩りし後に大雀の命は天皇の命(みことのり)に從いて、以ちて天の下を宇遲能和紀郎子(うじのわきのいらつこ)に讓
		りき。是に大山守(おおやまもり)の命は天皇の命に違いて、猶天の下を獲んと欲いて、弟皇子を殺さんとの情有りて、竊かに兵
		を設(ま)けて攻めんとしき。爾くして大雀の命、其の兄の兵を備うるを聞き、即ち使者を遣して宇遲能和紀郎子に告げしめき。
		故、聞き驚ろき、兵を以ちて河の邊に伏せ、また其の山の上に垣(きぬがさ)を張り帷幕(あげはり)を立て、詐りて舍人を以ち
		て王と爲し、露(あらわ)に呉床(あぐら)に坐せ、百官(もものつかさ)が恭敬(うやま)い往來(かよ)う状(かたち)、既
		に王子の坐す所の如く、更に其の兄の王の河を渡る時の爲に具え餝(かざ)りき。船・楫(かぢ)は佐那(さな)【此の二字は音
		を以ちてす】葛の根を舂(つ)き、其の汁の滑(なめ)を取りて、其の船の中の簀椅(すばし)に塗り、蹈(ふ)むに仆(たお)
		るべく設けて、其の王子は布の衣・褌を服て、既に賎しき人の形爲て、楫(かぢ)を執り船に立ちき。
		是に其の兄の王、兵士を隱し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の邊に到りて、將に船に乘らんとする時に、其の嚴餝(かざ)れる處を
		望みて、弟の王、其の呉床(あぐら)に坐すと以爲(おも)いて、都(かつ)て楫(かぢ)を執りて船に立てるを知らずて、即ち
		其の執楫者(かぢとり)に問いて曰く「茲の山に忿怒(いか)れる大猪有と傳え聞く。吾、其の猪を取らんと欲す。若し其の猪を
		獲んや」。爾くして執楫者(かぢとり)、答えて曰く「能わず」。また問いて曰く「何の由にや」。答えて曰く「時時、徃徃(と
		ころどころ)、取らんとすと雖も得ず。是を以ちて能わずと白す也」。河中に渡り到りし時に、其の船を傾けしめて、水の中に墮
		し入れき。爾くして乃ち浮き出でて、水の隨に流れ下りき。即ち流れて歌いて曰く、

			知(ち)波(は)夜(や)夫(ぶ)流(る)
 			宇(う)遲(ぢ)能(の)和(わ)多(た)理(り)邇(に)
 			佐(さ)袁(お)斗(と)理(り)邇(に)
 			波(は)夜(や)祁(け)牟(む)比(ひ)登(と)斯(し)
 			和(わ)賀(が)毛(も)古(こ)邇(に)許(こ)牟(む)

			ちはやぶる
 			宇治の渡りに
 			棹取りに
 			速けむ人し
 			我が仲間に来む
 
 		是に河の邊に伏し隱れし兵、彼廂此廂(かなたこなた)一時共に興りて、矢刺(やざし)して流しき。故、訶和羅(かわら)の前
		に到りて沈み入りき【訶和羅の三字は音を以ちてす】。故、鉤を以ちて其の沈みし處を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、訶和羅
		(かわら)と鳴りき。故、其の地を號けて訶和羅(かわら)の前(さき)と謂う。爾くして其の骨を掛け出しし時に、弟の王歌い
		て曰く、

			知(ち)波(は)夜(や)比(ひ)登(と)
 			宇(う)遲(ぢ)能(の)和(わ)多(た)理(り)邇(に)
 			和(わ)多(た)理(り)是(せ)邇(に)
 			多(た)弖(て)流(る)
 			阿(あ)豆(づ)佐(さ)由(ゆ)美(み)麻(ま)由(ゆ)美(み)
 			伊(い)岐(き)良(ら)牟(む)登(と)
 			許(こ)許(こ)呂(ろ)波(は)母(も)閇(へ)杼(ど)
 			伊(い)斗(と)良(ら)牟(む)登(と)
 			許(こ)許(こ)呂(ろ)波(は)母(も)閇(へ)杼(ど)
 			母(も)登(と)幣(へ)波(は)
 			岐(き)美(み)袁(を)淤(お)母(も)比(ひ)傳(で)
 			須(す)惠(え)幣(へ)波(は)
 			伊(い)毛(も)袁(を)淤(お)母(も)比(ひ)傳(で)
 			伊(い)良(ら)那(な)祁(け)久(く)
 			曾(そ)許(こ)爾(に)淤(お)母(も)比(ひ)傳(で)
 			加(か)那(な)志(し)祁(け)久(く)
 			許(こ)許(こ)爾(に)淤(お)母(も)比(ひ)傳(で)
 			伊(い)岐(き)良(ら)受(ず)曾(そ)久(く)流(る)
 			阿(あ)豆(づ)佐(さ)由(ゆ)美(み)麻(ま)由(ゆ)美(み)

			ちはや人
 			宇治の渡りに
 			渡り瀬に
 			立てる
 			梓弓檀
 			い伐らむと
 			心は思へど
			い取らむと
 			心は思へど
 			本方は
 			君を思ひ出
 			末方は
 			妹を思ひ出
 			苛けく
 			其処に思ひ出
 			愛しけく
 			此処に思ひ出
 			い伐らずそ来る
 			梓弓檀
 
 		故、其の大山守の命の骨は那良山(ならやま)に葬りき。是の大山守の命は【土形(ひじかた)の君・弊岐(へき)の君・榛原
		(はたはら)の君等の祖】
		是に大雀の命と宇遲能和紀郎子の二た柱、各(おのおの)天の下を讓りし間に、海人(あま)、大贄(おおにえ)を貢りき。
		爾くして兄は辭(いな)びて弟に貢らしめ、弟は辭びて兄に貢らしめ、相い讓りし間に、既に多たの日を經たり。 如此(かく)
		相い讓ること一二時(ひとふたたび)に非ず。故、海人、既に往き還りに疲れて泣きき。故、諺に曰く「海人や已が物に因りて泣
		く」。然れども宇遲能和紀郎子は早く崩りき。故、大雀の命、天の下治しめしき。
		また昔新羅(しらぎ)の國王(こにきし)の子有り。 名を天日矛(あめのひほこ)と謂う。是の人、參い渡り來つ。參い渡り來
		たる所以は、新羅の國に一つ沼有り。名を阿具奴摩(あぐぬま)【阿より下の四字は音を以ちてす】と謂う。此の沼の邊に一(ひ
		とり)の賎しき女、晝寢しき。是に日の耀(ひかり)虹の如く其の陰上(ほと)を指しき。また一の賎しき夫有り。其の状(かた
		ち)を異しと思いて恆(つね)に其の女人の行(わざ)を伺いき。
 		故、是の女人、其の晝寢しき時より姙身(はら)みて赤き玉を生みき。爾くして其の伺える賎しき夫、其の玉を乞い取りて、恆に
		裹(つつ)みて腰に着けたり。此の人、山谷(たに)の間に田を營(つく)りき。故、耕人(たびと)等の飮食(くらいもの)を
		一つの牛に負せて山谷の中に入るに、其の國主の子、天の日矛に遇逢(あ)いき。爾くして其の人に問いて曰く「何ぞ汝が飮食を
		牛に負せて山谷に入る。汝は必ず是の牛を殺し食わん」。即ち其の人を捕え獄囚(ひとや)に入れんとす。其の人、答えて曰く、
		「吾は牛を殺すに非ず。唯、田人の食(くらいもの)を送る耳(のみ)」然れども猶お赦さず。爾くして其の腰の玉を解きて其の
		國主の子に幣(まいな)いき。
		故、其の賎しき夫を赦し其の玉を將ち來て床の邊に置くに、即ち美麗(うるわ)しき孃子(おとめ)と化りき。仍ち婚いて嫡妻
		(むかいめ)と爲しき。爾くして其の孃子、常に種種(くさぐさ)の珍味(うましもの)を設けて、恆に其の夫に食わしめき。
		故、其の國主の子、心奢りて妻(め)を詈(の)るに、其の女人言いしく「凡そ吾は汝が妻と爲る女に非ず。將に吾が祖の國に行
		かん」。即ち竊(ひそか)に小船に乘りて逃遁(に)げ渡り來て、難波に留りき【此は難波の比賣碁曾(ひめこそ)の社に坐しま
		す阿加流比賣(あかるひめ)の~と謂う】。是に天の日矛、其の妻の遁げるを聞き乃ち追い渡り來たり。將に難波に到らんとする
		間に、其の渡の~、塞ぎ以ちて入れず。故、更に還りて多遲摩(たじま)の國に泊てき。即ち其の國に留りて、多遲摩の俣尾(ま
		たお)の女、名は前津見(さきつみ)を娶りて生みし子は、多遲摩母呂須玖(たじまもろすく)。此が子は多遲摩斐泥(たじまひ
		ね)。此が子は多遲摩比那良岐(たじまひならき)。此が子は多遲麻毛理(たじまもり)。次に多遲摩比多訶(たじまひたか)。
		次に清日子(きよひこ)【三柱】。此の清日子、當摩(たぎま)の灯縺iめひ)を娶りて生みし子は酢鹿(すが)の諸男(もろお)。
		次に妹(いも)菅(すが)竃上(かま)由良度美(ゆらどみ)【此四の字は音を以ちてす】。故、上に云う多遲摩比多訶(たぢま
		ひたか)、其の姪由良度美(ゆらどみ)を娶りて生みし子は葛城の高額比賣(たかぬかひめ)の命【此は息長帶比賣(おきながた
		らしひめ)の命の御祖】。故、其の天の日矛の持ち渡り來し物は玉津寶(たまつたから)と云いて、珠(たま)二貫(ふたつら)、
		また浪振る比禮(ひれ)【比禮の二字は音を以ちてす。下、此に效え】、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮、また奧津(おき
		つ)鏡、邊津(へつ)鏡、并せて八種(やくさ)也【此は伊豆志(いずし)の八前(やまえ)の大~也】。
		故、茲(こ)の~の女、名は伊豆志袁登賣(いずしおとめ)の~坐しましき。 故、八十~(やそかみ)、是の伊豆志袁登賣を得
		んと欲すと雖も、皆婚うを得ず。是に二(ふたはしら)の~有り。兄を秋山の下氷壯夫(したひおとこ)と號け、弟の名は春山の
		霞壯夫(かすみおとこ)。故、其の兄、其の弟に謂いしく「吾、伊豆志袁登賣を乞うと雖も婚うを得ず。汝、此の孃子を得んや」。
		答えて曰く「易く得ん」。爾くして其の兄の曰く「若し汝、此の孃子を得ること有れば、上下(かみしも)の衣服(ころも)を避
		り、身の高(たけ)を量りて、甕(みか)の酒を釀まん。また山河の物悉く備え設けて宇禮豆玖(うれずく)爲ん」と云うこと爾
		(しか)り【宇より玖は音を以ちてす。下、此れに效(したが)え】。
		爾くして其の弟、兄の言の如く具(つぶさ)に其の母に白すに、即ち其の母、布遲(ふじ)葛(づら)を取りて【布遲二字は音を
		以ちてす】一宿の間に衣・褌及び襪・沓を織り縫いき。また弓矢を作りて其の衣・褌等を服しめ、其の弓矢を取らしめて、其の孃
		子の家に遣れば、其の衣服(ころも)及び弓矢、悉く藤の花と成りき。是に其の春山の霞壯夫、其の弓矢を以ちて孃子の厠に繋け
		き。
		爾くして伊豆志袁登賣、其の花を異しと思いて將ち來る時に、其の孃子の後(しりへ)に立ちて、其の屋に入りて即ち婚いき。
		故、子一り生みき。爾くして其の兄に白して曰く「吾は伊豆志袁登賣を得たり」。是に其の兄、弟の婚いしことを慷愾(うれた)
		みて其の宇禮豆玖(うれづく)の物を償(つぐの)わず。爾くして其の母に愁え白す時に、御祖(みおや)答えて曰く「我が御世
		の事は能く許曾(こそ)【此の二字は音を以ちてす】~を習わめ。また宇都志岐(うつしき)青人草を習えか、其の物を償わん」。
		其の兄の子を恨みて乃ち其の伊豆志(いづし)の河の河嶋の一節竹(ひとよだけ)を取て、八目の荒寵(あらご)を作り、其の河
		石を取り、鹽(しお)に合えて其の竹の葉に裹(つつ)みて、詛(とご)わしめて言いしく「此の竹の葉の青むが如く、此の竹の
		葉の萎(しな)ゆるが如く、青み萎えよ。また此の鹽の盈(み)ち乾(ひ)るが如く、盈ち乾よ。また此の石の沈むが如く、沈み
		臥(ふ)せ」。如此(かく)詛(とご)わしめて烟(けぶり)の上に置きき。是を以ちて其の兄、八年の間、干(ひ)萎(しな)
		え病み枯れき。故、其の兄、患え泣きて其の御祖に請せば、即ち其の詛戸(とごいと)を返さしめき。是に其の身、本の如く安く
		平けし【此は~宇禮豆玖(かむうれづく)の言の本也】。

		また、此の品陀の天皇の御子、若野毛二俣(わかのけのふたまた)の王、其の母の弟、百師木伊呂辨(ももしきいろべ)、またの
		名は弟日賣眞若比賣(ひめまわかひめ)の命を娶りて生みし子は大郎子(おおのいらつこ)、またの名は意富富杼(おほほど)の
		王。次に忍坂の大中津比賣の命。次に田井の中比賣。次に田宮の中比賣。次に藤原の琴節郎女(ことふしのいらつめ)。 次に取
		上賣(とりめ)の王。次に沙禰(さね)の王【七王】。故、意富富杼(おほほど)の王は【三國の君・波多の君・息長坂の君・酒
		人(さかひと)の君・山道(やまぢ)の君・筑紫の米多(めた)の君・布勢(ふせ)の君等の祖也】。また根鳥(ねとり)の王、
		庶妹(ままいも)三腹の郎女を娶りて生みし子は中日子(なかひこ)の王。次に伊和嶋(いわしま)の王【二柱】。また堅石(か
		たしわ)の王の子は久奴(くぬ)の王也。
		凡そ此の品陀の天皇の御年は壹佰參拾歳(ももとせあまりみそとせ)【甲午(きのえうま)の年の九月(ながつき)九日(ここの
		か)に崩(かむざ)りき】。御陵は川内(かうち)の惠賀(えが)の裳伏(もふし)の岡に在り。


















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