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第16代 仁徳天皇陵 1998.7.11 百舌鳥耳原中陵





		<第16代仁徳(にんとく)天皇>
		異称: 大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと:日本書紀)
		生没年: 神功皇后摂政57年 〜 仁徳天皇87年 143歳(古事記では83歳)
		在位期間  応神天皇41年+3年(仁徳元年) 〜 仁徳天皇87年
		父: 応神天皇 第四子
		母: 品蛇真若王(ほむだまわかおう)の娘、仲姫(なかつひめ:五百城入彦(いおきいりひこ)皇子の孫)
		皇后: 磐之媛命(いわのひめのみこと)、八田皇女(やたひめ)
		皇妃: 日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)
		皇子皇女: 大兄去来穂別天皇(おおえのいざほわけのすめらみこと:履中天皇)、住吉仲(すみのえのなかつ)皇子、
			  瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと:反正天皇)、
			  雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのみこと:允恭天皇)、大草香皇子
		宮: 難波高津宮(なにわたかつのみや:現大阪市中央区)
		陵墓: 百舌鳥耳原仲陵(もずのみみはらのなかのみささぎ:大阪府堺市大仙町)

 

 

		応神天皇の崩御に伴う即位を巡っての逸話は、まさにこの天皇が「仁徳」天皇である様をよく表していると言えよう。応神天皇
		41年に天皇が崩御すると、応神天皇が即位を望んだ太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子は、兄の大鷦鷯天皇の方が
		天皇にふさわしいとして即位を辞退する。大山守皇子がすでに葬り去られた後、皇位継承権はこの二人にあったが、大鷦鷯天皇
		は先帝の御心にかなうようにと菟道稚郎子皇子を説得し続ける。しかし菟道稚郎子皇子は耳をかさず3年の歳月が流れる。

		日本書紀によると、菟道稚郎子皇子は兄の意志の強いことを見てとると、長生きして天下を混乱させるのは忍びないと自ら命を
		絶つ。知らせを聞いた大鷦鷯天皇はすぐさま難波宮を出て菟道宮にかけつけ、弟の亡骸(なきがら)をかき抱いて号泣する。
		そして弟の名を三度呼んだとき、菟道稚郎子皇子は息を吹き返して、「兄上こそ聖王であり、この顛末は誤りなく先帝にお伝え
		します。」と言い残すと永の眠りについた。そこで泣く泣く大鷦鷯天皇は即位して仁徳天皇になった、とされる。
		しかし古事記では、単に菟道稚郎子皇子が夭折したので大鷦鷯天皇がやむなく即位したと記されているのみである。




		記紀では仁徳天皇は、その諱名にも表われているように、「仁」と「徳」の聖王として描かれている。高殿から人々の生活を視
		察し、その困窮ぶりに胸を痛めて三年間税を免除したという話は有名である。仁徳に続く「履中」「反正」「允恭」の御代も、
		そういう穏やかな善政の御代として記録されている。
		天皇は宮中でも質素倹約を旨とし、衣食住に至っても粗末なもので通すように徹底した。民衆に負担をかけてはならんと、宮殿
		の垣根も屋根も直さず、屋根は雨漏りがして夜は星が見えたと言う。
		まるで、上杉藩を立て直した上杉鷹山のような話であるが、天皇の努力が功を奏して、やがて五穀豊穣、民は富み、再び各家か
		ら煙が立ち上るようになった。もう十分でしょうと臣下が課税の再会と宮殿の修理を進めたが天皇は受け入れず、免税措置をや
		めたのはさらに3年後だったという。
		宮殿の修復には、人々は老いも若きも進んで参加し、労を惜しまず参加したと日本書紀は記録する。




		仁徳天皇の故事にも見え、また考古学上もこの時代だろうとされる大阪平野の開発も盛んに行われた。中でも「茨田の堤」(ま
		んだのつつみ)の堤防修復工事は有名である。長い期間人々が苦しんでいた堤防の決壊も、この天皇の御代に修復されたことに
		より皆無となった。


		古墳の濠は、採魚を行う鳥たちには格好の場所である。何処に行ってもアオサギ、シラサギの類やカワセミがいる。
 


		聖帝として名高い仁徳天皇だが、女性関係もなかなか発展家である。美人で評判の吉備の黒媛(くろひめ)を宮中へ呼び寄せた
		が、黒媛は嫉妬深い皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)のいじめに耐えきれなくなり、とうとう吉備へ逃げ帰ってしまい、
		黒媛が恋しい天皇は、皇后には淡路島に狩りに出かけると嘘をついて吉備の国へ出かけていったりしている。
		現在、岡山県の「吉備風土記の丘」には、この黒媛の墓といわれるこうもり塚古墳が残っている。

		また、八田皇女を見初めて皇妃にしようとするが、皇后の強烈な反対に遭う。天皇は何とか説得しようと歌を作って皇后へ送っ
		たりするが、皇后は頑として受け入れない。そこで天皇は皇后が紀の国へ出かけた隙を狙って八田皇女を宮中に入れてしまう。
		皇后は怒り狂い、大和へ戻って山城の筒城宮(つづきのみや)に籠もり、とうとうそこで薨去してしまう。

		八田皇女を妃とした後は、今度は八田皇女の妹雌鳥(めとり)皇女(古事記では女鳥王)に心惹かれるが、使者として雌鳥皇女
		を迎えに行った異母弟の隼別(はやぶさわけ)皇子(古事記では速総別王)に雌鳥皇女を取られてしまう。雌鳥皇女が「鷦鷯」
		よりも「隼」のほうがすばらしいという意味の歌を詠んだため、天皇は激高し追っ手を差し向けて二人を殺してしまう。

		
 


		古墳は3段築造の前方後円墳で両側に造りだしを持ち、その墳丘をめぐって3重の周濠が造られ、その外側に12の陪冢が造ら
		れている。墳丘には葺石(ふきいし)が葺かれ、2万個の埴輪が並んでいたと推測される。
		徳川時代中期(嘉永5年:1852)に、時の堺奉行川村修就は御陵の荒廃を憂いて陵内を整備したと伝えられる。明治5年、前方部
		の第2段目がやや崩れ、石積の竪穴式石室が発見された。長持型石棺と、石室面の間から金銅性の甲冑・刀剣の断片、ガラスの椀
		などが発見されたが元通り埋めたとも、外部へ流出したとも言われている。この時、石棺と甲冑を精密に写した図が残っていて、
		それを元にした復元石棺が堺博物館に展示されている。

伝仁徳陵石室内安置・復元石棺(堺博物館)

		また当時の堺県令某は、「鷺の糞の掃除」と宮内省に願い出て古墳を開け、相当の遺物を外部へ横流ししたとの話もある。現在
		堺博物館、ボストン美術館やフィラデルフィア美術館等々に残っている「伝仁徳陵出土」とされる剣や鏡はこの時の流出品だと
		も言う。










		初期古墳が発生して約100年ほどたった5世紀のはじめ頃には、ようやく我が国も統一のきざしが見え始めたと考えられている。
		特に近畿地方においては河内を中心にした勢力が大きく、現在の和泉平野の百舌鳥、古市に大古墳群が築かれている。
		これは、中国の史書「宋書」に見える「讃・珍・済・興・武」の「倭の五王」の時代で、これらの大王達の墳墓がこの百舌鳥・
		古市古墳群であろうとされる。第16代仁徳天皇は倭王「讃」にあたるとする説もあるが、「珍」とする説もある。次の履中天皇
		を「讃」にあてる説もあるし、先の応神天皇を「讃」とする説もある。ことほど左様に、現状では「倭の五王」はほとんど特定
		できていないと言ってよい。またある説によれば、応神天皇と仁徳天皇は同一人物とも言う。
		17代履中天皇陵、「珍」にあたるとされる18代反正天皇の陵も、すべてこの古墳群の中にある。
		



		仁徳天皇陵(大山古墳)は日本最大の前方後円墳で、5世紀中頃の築造と考えられている。堺市大仙町にあり、墳丘の全長486m、
		後円部の高さ35mで、三重の濠が周りを取り囲んでいるが、外側の濠は明治時代に掘り直されたものである。現在の濠の周りを
		歩いて巡れば、約40分程かかる広大な陵であり、大きさで言えば世界一の陵墓である。しかし学会では、この大山古墳を仁徳天
		皇陵に比定する説には否定的な意見が多い。陪塚は10基以上あり、日本最大の前方後円墳。北側にある田出井山古墳(反正天
		皇陵)と、南側のミサンザイ古墳(履中天皇陵)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれる。
		一帯は古墳公園として整備されており、道路を挟んですぐ向かいに堺博物館が建てられている。


		大山古墳(仁徳天皇陵)上空から夕焼けの大阪湾を望む。見れば見るほどデカい。








大阪湾側から中百舌鳥古墳群、河内平野を望む。左側遠望の山々の向こうが奈良である。






☆★☆ 中百舌鳥古墳群(一部) ☆★☆

 

 

 
仁徳陵や履中陵などに押されてあまり目立たないが、この周辺には大小さまざまな古墳がある。ちょっと小高い丘はほとんど古墳である。目立たない線路脇や公園の片隅をふと見るとそこに古墳がある。





		【大雀命】仁徳天皇 (古事記)

		大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。
		此天皇、娶葛城之曾都毘古之女、石之日賣命【大后】、生御子、大江之伊邪本和氣命。次蝮之水齒別命。次男淺津間若子宿禰命
		【四柱】
		又娶上云日向之諸縣君牛諸之女、髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子【自波下四字以音。下效此】亦名大日下王。次波多毘能若
		郎女。亦名長日比賣命。亦名若日下部命【二柱】 又娶庶妹八田若郎女。又娶庶妹宇遲能若郎女。此之二柱無御子也。
		凡此大雀天皇之御子等并六王【男王五柱女王一柱】故、伊邪本和氣命者、治天下也。次、蝮之水齒別命、亦治天下。
		次、男淺津間若子宿禰命、亦治天下也。
		此天皇之御世、爲大后石之日賣命之御名代、定葛城部、亦爲太子伊邪本和氣命之御名代、定壬生部、亦爲水齒別命之御名代、定
		蝮部、亦爲大日下王之御名代、定大日下部、爲若日下部王之御名代、定若日下部。
		又役秦人作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池、依網池、又堀難波之堀江而通海、又堀小椅江、又定墨江之津。
		於是天皇、登高山見四方之國、詔之。「於國中烟不發。國皆貧窮。故、自今至三年、悉除人民之課役。」是以大殿破壞、悉雖雨
		漏都勿修理、以■[木咸]受其漏雨、遷避于不漏處。後見國中、於國滿烟。故、爲人民富、今科課役。是以百姓之榮。不苦役使。
		故、稱其御世謂聖帝世也。
		其大后石之日賣命、甚多嫉妬。故、天皇所使之妾者、不得臨宮中、言立者、足母阿賀迦邇嫉妬。【自母下五字以音】爾天皇、聞
		看吉備海部直之女、名黒日賣、其容姿端正、喚上而使也。然畏其大后之嫉、逃下本國。天皇坐高臺、望瞻其黒日賣之船出浮海以
		歌曰、

			淤岐幣邇波 袁夫泥都羅羅玖
			久漏邪夜能 摩佐豆古和藝毛
			玖邇幣玖陀良須 

		故、大后聞是之御歌、大忿、遣人於大浦、追下而、自歩追去。於是天皇、戀其黒日賣、欺大后曰、「欲見淡道嶋而」、幸行之時、
		坐淡道嶋、遙望歌曰、

			淤志弖流夜 那爾波能佐岐用
			伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆
			阿波志摩 淤能碁呂志摩
			阿遲摩佐能 志麻母美由
			佐氣都志摩美由

		乃自其嶋傳而、幸行吉備國。爾黒日賣、令大坐其國之山方地而、獻大御飯。於是爲煮大御羹、採其地之菘菜時、天皇到坐其孃子
		之採菘處歌曰、

			夜麻賀多邇 麻祁流阿袁那母
			岐備比登登 等母邇斯都米婆
			多怒斯久母阿流迦

		天皇上幸之時、黒日賣獻御歌曰、

			夜麻登幣邇 爾斯布岐阿宜弖
			玖毛婆那禮 曾岐袁理登母
			和禮和須禮米夜

		又歌曰、

			夜麻登幣邇 由玖波多賀都麻
			許母理豆能 志多用波閇都都
			由久波多賀都麻

		自此後時、大后爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。於是大后、御綱柏積盈御船、還幸之時、所驅使於
		水取司、吉備國兒嶋之仕丁、是退己國、於難波之大渡、遇所後倉人女之船。乃語云、「天皇者、此日婚八田若郎女而、晝夜戲遊、
		若大后不聞看此事乎、靜遊幸行。」爾其倉人女、聞此語言、即追近御船、白之状具如仕丁之言。於是大后大恨怒。載其御船之御
		綱柏者、悉投棄於海。故、號其地謂御津前也。即不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、

			都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁
			迦波能煩理 和賀能煩禮婆
			迦波能倍邇 淤斐陀弖流
			佐斯夫袁 佐斯夫能紀
			斯賀斯多邇 淤斐陀弖流
			波毘呂 由都麻都婆岐
			斯賀波那能 弖理伊麻斯
			芝賀波能 比呂理伊麻須波
			淤富岐美呂迦母

		即自山代迴、到坐那良山口歌曰、

			都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁
			美夜能煩理 和賀能煩禮婆
			阿袁邇余志 那良袁須疑
			袁陀弖 夜麻登袁須疑
			和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜
			和藝幣能阿多理 

		如此歌而還、暫入坐筒木韓人、名奴理能美之家也。天皇聞看其大后自山代上幸而、使舍人名謂鳥山人、送御歌曰、

			夜麻斯呂邇 伊斯祁登理夜麻
			伊斯祁伊斯祁 阿賀波斯豆麻邇
			伊斯岐阿波牟加母

		又續遣丸邇臣口子而、歌曰、

			美母呂能 曾能多迦紀那流
			意富韋古賀波良 意富韋古賀
			波良邇阿流 岐毛牟加布
			許許呂袁陀邇迦 阿比淤母波受阿良牟

		又歌曰、

			都藝泥布 夜麻志呂賣能
			許久波母知 宇知斯淤富泥
			泥士漏能 斯漏多陀牟岐
			麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米

		故、是口子臣、白此御歌之時、大雨。爾不避其雨、參伏前殿戸者、違出後戸、參伏後殿戸者、違出前戸。爾匍匐進赴、跪于庭中
		時、水潦至腰。其臣服著紅紐青摺衣。故、水潦拂紅紐、青皆變紅色。爾口子臣之妹、口日賣、仕奉大后。故、是口日賣歌曰、

			夜麻志呂能 都都紀能美夜邇
			母能麻袁須 阿賀勢能岐美波
			那美多具麻志母

		爾大后問其所由之時、答白、僕之兄口子臣也。
		於是口子臣、亦其妹口比賣、及奴理能美、三人議而令奏天皇云、大后幸行所以者、奴理能美之所養虫、一度爲匐虫、一度爲鼓、
		一度爲飛鳥、有變三色之奇虫。看行此虫而入坐耳。更無異心。如此奏時、天皇詔、然者吾思奇異。故、欲見行。自大宮上幸行、
		入坐奴理能美之家時、其奴理能美、己所養之三種虫、獻於大后。爾天皇、御立其大后所坐殿戸、歌曰、

			都藝泥布 夜麻斯呂賣能
			許久波母知 宇知斯意富泥
			佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾
			宇知和多須 夜賀波延那須
			岐伊理麻韋久禮 

		此天皇與大后所歌之六歌者、志都歌之歌返也。天皇戀八田若郎女、賜遣御歌。其歌曰、

			夜多能 比登母登須宜波
			古母多受 多知迦阿禮那牟
			阿多良須賀波良 許登袁許曾
			須宜波良登伊波米 阿多良須賀志賣

		爾八田若郎女、答歌曰、

			夜多能 比登母登須宜波
			比登理袁理登母 意富岐彌斯
			與斯登岐許佐婆 比登理袁理登母

		故、爲八田若郎女之御名代、定八田部也。

		天皇、以其弟速總別王、爲媒而、乞庶妹女鳥王。爾女鳥王、語速總別王曰、「因大后之強、不治賜八田若郎女。故、思不仕奉。
		吾爲汝命之妻。」即相婚。是以速總別王不復奏。爾天皇、直幸女鳥王之所坐而、坐其殿戸之閾上。於是女鳥王、坐機而織服。爾
		天皇歌曰、

			賣杼理能 和賀意富岐美能
			淤呂須波多 他賀多泥呂迦母

		女鳥王、答歌曰、

			多迦由久夜 波夜夫佐和氣能
			美淤須比賀泥

		故、天皇知其情、還入於宮。此時、其夫速總別王、到來之時、其妻女鳥王歌曰、

			比婆理波 阿米邇迦氣流
			多迦由玖夜 波夜夫佐和氣
			佐邪岐登良佐泥 

		天皇聞此歌、即興軍欲殺。爾速總別王、女鳥王、共逃退而、騰于倉椅山、於是速總別王歌曰、

			波斯多弖能 久良波斯夜麻袁
			佐賀志美登 伊波迦伎加泥弖
			和賀弖登良須母

		又歌曰、

			波斯多弖能 久良波斯夜麻波
			佐賀斯祁杼 伊毛登能爐禮波
			佐賀斯玖母阿良受

		故、自其地逃亡、到宇陀之蘇邇時、御軍追到而殺也。其將軍山部大楯連、取其女鳥王所纏御手之玉釧而、與己妻。此時之後、將
		爲豐樂之時、氏氏之女等、皆朝參。爾大楯連之妻、以其王之玉釧、纏于己手而參赴。於是大后石之日賣命、自取大御酒柏、賜諸
		氏氏之女等。爾大后見知其玉釧、不賜御酒柏、乃引退、召出其夫大楯連以詔之、「其王等、因无禮而退賜。是者無異事耳。夫之
		奴乎、所纏己君之御手玉釧於膚atatakeki[扁火旁右榲]剥持來。即與己妻。」乃給死刑也。
		亦一時、天皇爲將豐樂而、幸行日女嶋之時、於其嶋雁生卵。爾召建内宿禰命、以歌問雁生卵之状。其歌曰、

			多麻岐波流 宇知能阿曾
			那許曾波 余能那賀比登
			蘇良美都 夜麻登能久邇爾
			加理古牟登岐久夜

		於是建内宿禰、以歌語白、

			多迦比迦流 比能美古
			宇倍志許曾 斗比多麻閇
			麻許曾邇 斗比多麻閇
			阿禮許曾波 余能那賀比登
			蘇良美都 夜麻登能久邇爾
			加理古牟登 伊麻陀岐加受

		如此白而、被給御琴歌曰、

			那賀美古夜 都毘邇斯良牟登
			加理波古牟良斯 

		此者本岐歌之片歌也。
		此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故、切是樹以作船、甚捷行之船也。
		時號其船謂枯野。故、以是船旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。[玄玄]船破壞以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。爾歌曰、

			加良怒袁 志本爾夜岐
			斯賀阿麻理 許登爾都久理
			賀岐比久夜 由良能斗能
			斗那賀能伊久理爾 布禮多都
			那豆能紀能 佐夜佐夜

		此者志都歌之返歌也。此天皇御年、捌拾參歳。【丁卯年八月五日崩也】御陵在毛受之耳(上)原也。



		【大雀命(おおさざきのみこと)】仁徳天皇 

		大雀の命、難波の高津の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		此の天皇、葛城の曾都毘古(そつびこ)の女、石之日賣(いわのひめ)の命【大后(おおきさき)】を娶りて生みし御子は大江
		の伊邪本和氣(いざほわけ)の命、次に墨江(すみのえ)の中津の王(みこ)、次に蝮(たぢひ)の水齒別(みづはわけ)の命、
		次に男淺津間若子宿禰(おあさづまわくごのすくね)の命【四柱】。また上に云える日向(ひむか)の諸縣(もろあがた)の君
		牛諸(うしもろ)の女、髮長比賣(かみながひめ)を娶りて生みし御子は波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)【波より下
		の四字は音を以ちてす。下此れに效え】またの名は大日下(おおくさか)の王。次に波多毘能若郎女(はたびのわかいらつめ)、
		またの名は長目比賣(ながめひめ)の命、またの名は若日下部(わかくさかべ)の命【二柱】。また庶妹(ままいも)八田若郎
		女(やたのわかいらつめ)を娶りき。また庶妹宇遲能若郎女(うじのわかいらつめ)を娶りき。此の二柱は御子無し。
		凡そ此の大雀の天皇の御子等、并(あわ)せて六たりの王【男王五柱、女王一柱】故、伊邪本和氣(いざほわけ)の命は天の下
		治しめしき。次に蝮(たぢひ)の水齒別(みずはわけ)の命は、また天の下治しめしき。次に男淺津間若子宿禰(おあさづまわ
		くごのすくね)の命は、また天の下治しめしき。
		此の天皇の御世に大后石之日賣(いわのひめ)の命の御名代と爲(し)て葛城部を定め、また太子伊邪本和氣の命の御名代と爲
		て壬生部(みぶべ)を定め、また水齒別の命の御名代と爲て蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下の王の御名代と爲て大日下部
		を定め、若日下部の王の御名代と爲て若日下部を定めき。また秦人を役(えだ)てて茨田(うまらた)の堤及び茨田(うまらた)
		の三宅を作り、また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を作り、また難波の堀江を堀りて海に通し、また小椅(おばし)の
		江を堀り、また墨江の津を定めき。

		ここに天皇、高き山に登り四方の國を見て詔らさく、「國の中に烟(けぶり)發(た)たず、國、皆、貧窮(まづ)し。故、今
		より三年に至るまで悉く人民の課役を除(お)け。」是を以ちて大殿破れ壞れて悉く雨漏ると雖ども都(かつ)て修理(つくろ)
		うこと勿(な)し。(はこ)を以ちて其の漏る雨を受け、漏らぬ處に遷(うつ)り避(さ)りき。後に國の中を見るに國に烟滿
		ちき。故、人民富めりと爲て、今は課役を科(おお)せき。是を以ちて百姓(おおみたから)榮え、役使(えだち)に苦しまず。
		故、其の御世を稱えて聖帝(ひじりのみかど)の世と謂う。
		其の大后、石之日賣(いわのひめ)の命、嫉妬(うわなりねたみ)甚(いと)多し。故、天皇の使える妾は宮の中(うち)を臨
		むことを得ず。言(こと)立つれば、足母阿賀迦邇(あしもあがかに)嫉妬(うわなりねたみ)しき【母より下の五字は音を以
		ちてす】。爾くして天皇、吉備の海部の直の女、名はK日賣(くろひめ)、其の容姿端正しと聞こし看して、喚(め)し上げて
		使いき。然れども其の大后の嫉(ねた)むを畏(かしこ)みて、本の國に逃げ下りき。天皇、高き臺(うてな)に坐しまして、
		其のK日賣の船の出でて海に浮ぶを望み瞻(み)て、以ちて歌いて曰く、

			淤(お)岐(き)幣(へ)邇(に)波(は)
 			袁(お)夫(ぶ)泥(ね)都(つ)羅(ら)羅(ら)玖(く)
 			久(く)漏(ろ)邪(ざ)夜(や)能(の)
 			摩(ま)佐(さ)豆(づ)古(こ)和(わ)藝(ぎ)毛(も)
 			玖(く)邇(に)幣(へ)玖(く)陀(だ)良(ら)須(す)

			沖方には
 			小船連らく
 			K鞘の
 			まさづ子我妹
 			國へ下らす 
 
		故、大后、是の御歌を聞きて大きに忿(いか)りて、人を大浦に遣(つかわ)し追い下(おろ)して歩(かち)より追い去(さ)
		りき。
		ここに天皇、其のK日賣を戀いて、大后を欺きて曰く、「淡道(あわぢ)の嶋を見んと欲(おも)う。」といいて、幸行(いで
		ま)しし時に淡道の嶋に坐しまして遙かに望みて歌いて曰く、

			淤(お)志(し)弖(て)流(る)夜(や)
 			那(な)爾(に)波(は)能(の)佐(さ)岐(き)用(よ)
 			伊(い)傳(で)多(た)知(ち)弖(て)
 			和(わ)賀(が)久(く)邇(に)美(み)禮(れ)婆(ば)
 			阿(あ)波(は)志(し)麻(ま)
 			淤(お)能(の)碁(ご)呂(ろ)志(し)摩(ま)
 			阿(あ)遲(ぢ)麻(ま)佐(さ)能(の)
 			志(し)麻(ま)母(も)美(み)由(ゆ)
 			佐(さ)氣(け)都(つ)志(し)麻(ま)美(み)由(ゆ)

			押し照るや
 			難波の崎よ
 			出で立ちて
 			我が國見れば
 			淡島
 			淤能碁呂島
 			檳の
 			島も見ゆ
 			離つ島見ゆ  
 
		乃(すなわ)ち其の嶋より傳(つた)いて吉備の國に幸行(いでま)しき。 爾くしてK日賣、其の國の山方の地に大坐(おお
		ましま)さしめて大御飯(おおみけ)獻(たてまつ)りき。ここに大御羹(おおみあつもの)を煮んと爲て其の地の菘菜(たか
		な)を採る時に、天皇、其の孃子(おとめ)の菘(たかな)採る處に到り坐(ま)して歌いて曰く、

			夜(や)麻(ま)賀(が)多(た)邇(に)
 			麻(ま)祁(け)流(る)阿(あ)袁(を)那(な)母(も)
 			岐(き)備(び)比(ひ)登(と)登(と)
 			等(と)母(も)邇(に)斯(し)都(つ)米(め)婆(ば)
 			多(た)怒(ぬ)斯(し)久(く)母(も)阿(あ)流(る)迦(か)

			山方に
 			蒔ける青菜も
 			吉備人と
 			共にし摘めば
 			楽しくもあるか 
 
		天皇、上り幸(いでま)す時に、K日賣、御歌を獻(たてまつ)りて曰く、

			夜(や)麻(ま)登(と)幣(へ)邇(に)
 			爾(に)斯(し)布(ふ)岐(き)阿(あ)宜(げ)弖(て)
 			玖(く)毛(も)婆(ば)那(な)禮(れ)
 			曾(そ)岐(き)袁(を)理(り)登(と)母(も)
 			和(わ)禮(れ)和(わ)須(す)禮(れ)米(め)夜(や)

			倭方に
 			西吹き上げて
 			雲離れ
 			退き居りとも
 			我忘れめや 
 
		また歌いて曰く、

			夜(や)麻(ま)登(と)幣(へ)邇(に)
 			由(ゆ)玖(く)波(は)多(た)賀(が)都(つ)麻(ま)
 			許(こ)母(も)理(り)豆(づ)能(の)
 			志(し)多(た)用(よ)波(は)閇(へ)都(つ)都(つ)
 			由(ゆ)久(く)波(は)多(た)賀(が)都(つ)麻(ま)

			倭方に
 			行くは誰が夫
 			隠り処の
 			下よ延へつつ
 			行くは誰が夫 
 
		此より後の時に、大后、將に豐樂(とよのあかり)爲(せ)んとして御綱柏(みつながしわ)を採りに木の國に幸行しし間に、
		天皇、八田の若郎女に婚(あ)いき。ここに大后、御綱柏(みつながしわ)を御船に積み盈(み)てて還り幸す時に、水取(も
		いとり)の司に驅(お)い使わゆる吉備の國の兒嶋の郡の仕丁(よほろ)、是、己が國に退(まか)るに、難波の大渡(おおわ
		たり)に後れたる倉人女(くらひとめ)の船に遇いき。乃ち語りて云いしく「天皇は此日(このひ)八田の若郎女に婚(あ)い
		て、晝夜戲れ遊ぶ。若し大后は此の事を聞こし看(め)さぬか。靜かに遊び幸行(いでま)す」。爾くして其の倉人女、此の語
		る言を聞きて即ち御船に追い近づきて白す状(かたち)は具(つぶさ)に仕丁(よほろ)の言の如し。
		ここに大后、大きに恨み怒りて其の御船に載せたる御綱柏(みつながしわ)は悉く海に投げ棄(う)てき。故、其の地を號(な
		づ)けて御津前(みつのさき)と謂う。即ち宮に入り坐さずして其の御船を引き避(さ)りて堀江に泝(さかのぼ)り河の隨
		(まにま)に山代(やましろ)に上り幸(いでま)しき。 此の時に歌いて曰く、

			都(つ)藝(ぎ)泥(ね)布(ふ)夜(や)
 			夜(や)麻(ま)志(し)呂(ろ)賀(が)波(は)袁(を)
 			迦(か)波(は)能(の)煩(ぼ)理(り)
 			和(わ)賀(が)能(の)煩(ぼ)禮(れ)婆(ば)
 			賀(か)波(は)能(の)倍(べ)邇(に)
 			淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
 			佐(さ)斯(し)夫(ぶ)袁(を)
 			佐(さ)斯(し)夫(ぶ)能(の)紀(き)
 			斯(し)賀(が)斯(し)多(た)邇(に)
 			淤(お)斐(ひ)陀(だ)弖(て)流(る)
 			波(は)毘(び)呂(ろ)
 			由(ゆ)都(つ)麻(ま)都(つ)婆(ば)岐(き)
 			斯(し)賀(が)波(は)那(な)能(の)
 			弖(て)理(り)伊(い)麻(ま)斯(し)
 			芝(し)賀(が)波(は)能(の)
 			比(ひ)呂(ろ)理(り)伊(い)麻(ま)須(す)波(は)
 			淤(お)富(ほ)岐(き)美(み)呂(ろ)迦(か)母(も)

			つぎねふや
 			山代河を
 			河上り
 			我が上れば
 			河の上に
 			生い立てる
 			烏草樹を
 			烏草樹の木
 			其が下に
 			生い立てる
 			葉広
 			斎つ真椿
 			其が花の
 			照り坐し
 			其が葉の
 			広り坐すは
 			大君ろかも 
 
		即ち山代より迴(めぐ)りて那良(なら)の山口に到り坐(ま)して歌いて曰く、

			都(つ)藝(ぎ)泥(ね)布(ふ)夜(や)
 			夜(や)麻(ま)斯(し)呂(ろ)賀(が)波(は)袁(を)
 			美(み)夜(や)能(の)煩(ぼ)理(り)
 			和(わ)賀(が)能(の)煩(ぼ)禮(れ)婆(ば)
 			阿(あ)袁(を)邇(に)余(よ)志(し)
 			那(な)良(ら)袁(を)須(す)疑(ぎ)
 			袁(を)陀(だ)弖(て)
 			夜(や)麻(ま)登(と)袁(を)須(す)疑(ぎ)
 			和(わ)賀(が)
 			美(み)賀(が)本(ほ)斯(し)久(く)邇(に)波(は)
 			迦(か)豆(づ)良(ら)紀(き)
 			多(た)迦(か)美(み)夜(や)
 			和(わ)藝(ぎ)幣(へ)能(の)阿(あ)多(た)理(り)

			つぎねふや
 			山代河を
 			宮上り
 			我が上れば
 			あをによし
 			奈良を過ぎ
 			小楯
 			倭を過ぎ
 			我が
 			見がほし國は
 			葛城
 			高宮
 			我家の辺 
 
		かく歌いて還りて暫く筒木の韓人、名は奴理能美(ぬりのみ)の家に入り坐しき。天皇、其の大后、山代より上り幸しぬと聞こ
		し看(め)して、舎人名は鳥山(とりやま)と謂う人を使わして御歌を送りて曰く、

			夜(や)麻(ま)斯(し)呂(ろ)邇(に)
 			伊(い)斯(し)祁(け)登(と)理(り)夜(や)麻(ま)
 			伊(い)斯(し)祁(け)伊(い)斯(し)祁(け)
			阿(あ)賀(が)波(は)斯(し)豆(づ)麻(ま)邇(に)
 			伊(い)斯(し)岐(き)阿(あ)波(は)牟(む)加(か)母(も) 

			山代に
 			い及け鳥山
 			い及けい及け
 			吾が愛し妻に
 			い及き遇はむかも 
 
		また續きて丸邇(わに)の臣(おみ)口子(くちこ)を遣わして歌いて曰く、

			美(み)母(も)呂(ろ)能(の)
 			曾(そ)能(の)多(た)迦(か)紀(き)那(な)流(る)
 			意(お)富(ほ)韋(い)古(こ)賀(が)波(は)良(ら)
 			意(お)富(ほ)韋(い)古(こ)賀(が)
 			波(は)良(ら)邇(に)阿(あ)流(る)
 			岐(き)毛(も)牟(む)加(か)布(ふ)
 			許(こ)許(こ)呂(ろ)袁(を)陀(だ)邇(に)賀(が)
 			阿(あ)比(ひ)淤(お)母(も)波(は)受(ず)阿(あ)良(ら)牟(む)

			御諸の
 			其の高城なる
 			大猪子が原
 			大猪子が
 			腹にある
 			肝向う
 			心をだにか
 			相思はずあらむ 
 
		また歌いて曰く、

			都(つ)藝(ぎ)泥(ね)布(ふ)
 			夜(や)麻(ま)志(し)呂(ろ)賣(め)能(の)
 			許(こ)久(く)波(は)母(も)知(ち)
 			宇(う)知(ち)斯(し)淤(お)富(ほ)泥(ね)
 			泥(ね)士(じ)漏(ろ)能(の)
 			斯(し)漏(ろ)多(た)陀(だ)牟(む)岐(き)
 			麻(ま)迦(か)受(ず)祁(け)婆(ば)許(こ)曾(そ)
 			斯(し)良(ら)受(ず)登(と)母(も)伊(い)波(は)米(め)

			つぎねふ
 			山代女の
 			木鍬持ち
 			打ちし大根
 			根白の
 			白腕
 			枕かずけばこそ
 			知らずとも言はめ 
 
		故、是の口子の臣、此の御歌を白す時に大きに雨りき。 爾くして其の雨を避(さ)らずして前の殿戸に參い伏せば、違いて後
		の戸を出で、後の殿戸に參い伏せば、違いて前の戸を出でき。爾くして匍匐(はらば)い進み赴きて庭中に跪(ひざまづ)きし
		時に、水潦(にはたづみ)腰に至りき。其の臣、紅の紐を著(つ)けたる青摺(あおずり)の衣を服(き)たり。故、水潦(に
		はたづみ)紅の紐に拂(ふ)れて青きは皆紅の色に變(かわ)りき。爾くして口子の臣の妹(いも)、口日賣(くちひめ)、大
		后に仕え奉りき。故、是の口日賣、歌いて曰く、

 			夜(や)麻(ま)志(し)呂(ろ)能(の)
 			都(つ)都(つ)紀(き)能(の)美(み)夜(や)邇(に)
 			母(も)能(の)麻(ま)袁(を)須(す)
 			阿(あ)賀(が)勢(せ)能(の)岐(き)美(み)波(は)
 			那(な)美(み)多(た)具(ぐ)麻(ま)志(し)母(も)

			山代の
 			筒木の宮に
 			物申す
 			吾が兄の君は
 			涙ぐましも 
 
		爾くして大后、其の由を問う時に、答えて白さく「僕(やつがれ)の兄、口子の臣也。」ここに口子の臣、また其の妹口比賣、
		及び奴理能美、三人議りて天皇に奏さしめて云いしく、「大后の幸行せる所以は、奴理能美の養(か)える虫、一度(ひとたび)
		は匐(は)う虫と爲り、一度は殼(かいご)と爲り、一度は飛ぶ鳥と爲りて三色(みくさ)に變わる奇(あや)しき虫有り。
		此の虫を看に行かんとて入坐すのみ。更に異(け)し心無し。」 かく奏しし時に、天皇詔らさく、「然らば吾も奇異(あや)
		しと思うが故に、見に行かんと欲う。」
		大宮より上り幸行(いでま)して、奴理能美の家に入り坐しし時に、其の奴理能美、己が養える三種(みくさ)の虫を大后に獻
		(たてまつ)りき。 爾くして、天皇、其の大后の坐せる殿戸に御立(みた)ちして歌いて曰く、

			都(つ)藝(ぎ)泥(ね)布(ふ)
 			夜(や)麻(ま)斯(し)呂(ろ)賣(め)能(の)
 			許(こ)久(く)波(は)母(も)知(ち)
 			宇(う)知(ち)斯(し)意(お)富(ほ)泥(ね)
 			佐(さ)和(わ)佐(さ)和(わ)邇(に)
 			那(な)賀(が)伊(い)幣(へ)勢(せ)許(こ)曾(そ)
 			宇(う)知(ち)和(わ)多(た)須(す)
 			夜(や)賀(が)波(は)延(え)那(な)須(す)
 			岐(き)伊(い)理(り)麻(ま)韋(い)久(く)禮(れ)

			つぎねふ
 			山代女の
 			木鍬持ち
 			打ちし大根
 			さわさわに
 			汝が言へせこそ
 			打ち渡す
 			八桑枝なす
 			来入り参い来れ 
 
		此の天皇と大后の歌える六つの歌は志都歌(しづうた)の歌返(うたがえし)也。
		天皇、八田の若郎女を戀いて御歌を賜い遣りき。 其の歌に曰く、

 			夜(や)多(た)能(の)
 			比(ひ)登(と)母(も)登(と)須(す)宜(げ)波(は)
 			古(こ)母(も)多(た)受(ず)
 			多(た)知(ち)迦(か)阿(あ)禮(れ)那(な)牟(む)
 			阿(あ)多(た)良(ら)須(す)賀(が)波(は)良(ら)
 			許(こ)登(と)袁(を)許(こ)曾(そ)
 			須(す)宜(げ)波(は)良(ら)登(と)伊(い)波(は)米(め)
 			阿(あ)多(た)良(ら)須(す)賀(が)志(し)賣(め) 

			八田の
 			一本菅は
 			子持たず
 			立ちか荒れなむ
 			惜ら菅原
 			言をこそ
 			菅原と言はめ
 			惜ら清し女 
 
		爾くして八田の若郎女、答えて歌いて曰く、

 			夜(や)多(た)能(の)
 			比(ひ)登(と)母(も)登(と)須(す)宜(げ)波(は)
 			比(ひ)登(と)理(り)袁(を)理(り)登(と)母(も)
 			意(お)富(ほ)岐(き)彌(み)斯(し)
 			與(よ)斯(し)登(と)岐(き)許(こ)佐(さ)婆(ば)
 			比(ひ)登(と)理(り)袁(を)理(り)登(と)母(も)

			八田の
 			一本菅は
 			一人居りとも
 			大君し
 			良しと聞こさば
 			一人居りとも 
 
		故、八田の若郎女の御名代(みなしろ)と爲て八田部(やたべ)を定めき。
		また、天皇、其の弟(おと)速總別(はやぶさわけ)の王(みこ)を以ちて媒(なかびと)と爲て、庶妹女鳥(めどり)の王を
		乞いき。爾くして女鳥の王、速總別の王に語りて曰く、「大后の強(こわ)きに因りて八田の若郎女を治め賜わず。故、仕え奉
		らじと思う。吾は汝が命の妻と爲らん。」即ち相い婚(あ)いき。是を以ちて速總別の王、復(かえりごと)奏さず。
		爾くして、天皇、直(ただ)に女鳥の王の坐す所に幸して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。 ここに、女鳥の王、機に
		坐して服(はた)を織りき。爾くして、天皇、歌いて曰く、

			賣(め)杼(ど)理(り)能(の)
 			和(わ)賀(が)意(お)富(ほ)岐(き)美(み)能(の)
 			於(お)呂(ろ)須(す)波(は)多(た)
 			他(た)賀(が)多(た)泥(ね)呂(ろ)迦(か)母(も)

  			女鳥の
 			我が大君の
 			織ろす服
 			誰が料ろかも  
 
		女鳥の王、答えて歌いて曰く、

			多(た)迦(か)由(ゆ)久(く)夜(や)
 			波(は)夜(や)夫(ぶ)佐(さ)和(わ)氣(け)能(の)
 			美(み)淤(お)須(す)比(ひ)賀(が)泥(ね)

			高行くや
 			速總別の
 			御襲衣料 
 
		故、天皇、其の情(こころ)を知りて宮に還り入りき。 此の時に其の夫(お)速總別の王到り來る時に、其の妻(め)女鳥の
		王、歌いて曰く、

			比(ひ)婆(ば)理(り)波(は)
 			阿(あ)米(め)邇(に)迦(か)氣(け)流(る)
 			多(た)迦(か)由(ゆ)玖(く)夜(や)
 			波(は)夜(や)夫(ぶ)佐(さ)和(わ)氣(け)
 			佐(さ)邪(ざ)岐(き)登(と)良(ら)佐(さ)泥(ね)

			雲雀は
 			天に翔ける
 			高行くや
 			速總別
 			雀取らさね 
 
		天皇、此の歌を聞きて、即ち軍(いくさ)を興し殺さんと欲(おも)いき。爾くして、速總別の王、女鳥の王、共に逃げ退(そ)
		きて倉椅山(くらはしやま)に騰(のぼ)りき。ここに速總別の王、歌いて曰く、

			波(は)斯(し)多(た)弖(て)能(の)
 			久(く)良(ら)波(は)斯(し)夜(や)麻(ま)袁(を)
 			佐(さ)賀(が)志(し)美(み)登(と)
 			伊(い)波(は)迦(か)伎(き)加(か)泥(ね)弖(て)
 			和(わ)賀(が)弖(て)登(と)良(ら)須(す)母(も)

			梯立の
 			倉椅山を
			嶮しみと
 			岩懸きかねて
 			我が手取らすも 
 
		また歌いて曰く、

			波(は)斯(し)多(た)弖(て)能(の)
 			久(く)良(ら)波(は)斯(し)夜(や)麻(ま)波(は)
 			佐(さ)賀(が)斯(し)祁(け)杼(ど)
 			伊(い)毛(も)登(と)能(の)爐(ぼ)禮(れ)波(ば)
 			佐(さ)賀(が)斯(し)玖(く)母(も)阿(あ)良(ら)受(ず) 

			梯立の
			倉椅山は
 			嶮しけど
 			妹と登れば
 			嶮しくもあらず 
 
		故、其の地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍(みいくさ)追い到りて殺しき。其の將軍(いくさのきみ)、
		山部(やまべ)の大楯(おおだて)の連、其の女鳥の王の御手に纏(ま)ける玉釧(たまくしろ)を取りて己が妻に與(あた)
		えき。此の時の後に、將に豐樂(とよのあかり)を爲んとする時に、氏氏(うじうじ)の女等(おみなら)、皆朝參(みかどま
		い)りしき。爾くして、大楯の連が妻、其の王の玉釧を以ちて、己が手に纏きて參い赴きき。ここに、大后、石の日賣の命、自
		ら大御酒(おおみき)の柏を取りて、諸の氏氏の女等に賜いき。爾くして大后、其の玉釧を見知りて、御酒(みき)の柏を賜わ
		ずして、乃ち引き退(そ)けき。其の夫、大楯の連を召し出し、以ちて詔らさく、「其の王等(みこたち)、禮(あや)无(な)
		きに因りて退け賜いつ。是は異(け)しき事無けくのみ。夫の奴(やっこ)や、己が君の御手に纏ける玉釧(たまくしろ)を膚
		(はだ)も(あたた)けきに剥(は)ぎ持ち來て、即ち己が妻に與(あた)えつ。」乃ち死刑を給いき。
		また一時(あるとき)、天皇、豐樂(とよのあかり)せんと爲て日女嶋(ひめしま)に幸行す時に、其の嶋に、雁、卵(こ)を
		生みき。爾くして建内宿禰(たけのうちのすくね)の命を召して歌を以ちて、雁の卵を生みし状を問いき。其の歌に曰く、
		
			多(た)麻(ま)岐(き)波(は)流(る)
 			宇(う)知(ち)能(の)阿(あ)曾(そ)
 			那(な)許(こ)曾(そ)波(は)
 			余(よ)能(の)那(な)賀(が)比(ひ)登(と)
 			蘇(そ)良(ら)美(み)都(つ)
 			夜(や)麻(ま)登(と)能(の)久(く)邇(に)爾(に)
 			加(か)理(り)古(こ)牟(む)登(と)岐(き)久(く)夜(や)

			たまきはる
 			内のあそ
 			汝こそは
 			世の長人
 			そらみつ
 			倭の國に
 			雁卵生と聞くや 
 
		ここに建内宿禰、歌を以ちて語りて白く、

			多(た)迦(か)比(ひ)迦(か)流(る)
 			比(ひ)能(の)美(み)古(こ)
 			宇(う)倍(べ)志(し)許(こ)曾(そ)
 			斗(と)比(ひ)多(た)麻(ま)閇(へ)
 			麻(ま)許(こ)曾(そ)邇(に)
 			斗(と)比(ひ)多(た)麻(ま)閇(へ)
 			阿(あ)禮(れ)許(こ)曾(そ)波(は)
 			余(よ)能(の)那(な)賀(が)比(ひ)登(と)
 			蘇(そ)良(ら)美(み)都(つ)
 			夜(や)麻(ま)登(と)能(の)久(く)邇(に)爾(に)
 			加(か)理(り)古(こ)牟(む)登(と)
 			伊(い)麻(ま)陀(だ)岐(き)加(か)受(ず)

			高光る
 			日の御子
 			諾しこそ
 			問ひ給え
 			真こそに
 			問ひ給え
 			吾こそは
 			世の長人
 			そらみつ
 			倭の國に
 			雁卵生と
 			未だ聞かず 
 
		かく白して御琴を給わりて歌いて曰く、

			那(な)賀(が)美(み)古(こ)夜(や)
 			都(つ)毘(び)邇(に)斯(し)良(ら)牟(む)登(と)
 			加(か)理(り)波(は)古(こ)牟(む)良(ら)斯(し)

			汝が御子や
 			遂に治らむと
 			雁は卵生らし 
 
 		此は本岐歌(ほきうた)の片歌(かたうた)也。
		此の御世に菟寸河(とのきがわ)の西に一つの高き樹有り。其の樹の影、旦日(あさひ)に當(あた)れば淡道(あわぢ)の嶋
		に逮(いた)り、夕日に當れば高安山を越えき。故、是の樹を切りて、以ちて作れる船は、甚(いと)捷(はや)く行く船也。
		時に其の船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂う。故、是の船を以ちて旦(あした)夕(ゆうべ)に淡道の嶋の寒泉(しみず)
		を酌(く)みて、大御水(おおみもい)を獻(たてまつ)りき。茲(こ)の船、破れ壞れ、以ちて鹽(しお)を燒き、其の燒け
		遺れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里(ななさと)に響きき。 爾くして歌いて曰く、

			加(か)良(ら)奴(の)袁(を)
 			志(し)本(ほ)爾(に)夜(や)岐(き)
 			斯(し)賀(が)阿(あ)麻(ま)理(り)
 			許(こ)登(と)爾(に)都(つ)久(く)理(り)
 			賀(か)岐(き)比(ひ)久(く)夜(や)
 			由(ゆ)良(ら)能(の)斗(と)能(の)
 			斗(と)那(な)賀(か)能(の)伊(い)久(く)理(り)爾(に)
 			布(ふ)禮(れ)多(た)都(つ)
 			那(な)豆(づ)能(の)紀(き)能(の)
 			佐(さ)夜(や)佐(さ)夜(や) 

			枯野を
 			塩に焼き
 			其が余り
 			琴に作り
 			掻き弾くや
 			由良の門の
 			門中の海石に
 			振れ立つ
 			なづの木の
 			さやさや  
 
		此は志都歌(しつうた)の返歌(かえしうた)也。
		此の天皇の御年は捌拾參歳(やそとせあまりみとせ)【丁卯(ひのとう)の年の八月(はつき)の十五日(とおかあまりいつか)
		に崩(かむざ)りき】。 御陵(みささぎ)は毛受(もず)の耳原(みみはら)に在り。












邪馬台国大研究ホームページ/INOUES.NET/ 仁徳天皇陵