Music: 離宮にて

第54代 仁明天皇
2000.March 京都市伏見区 深草陵







				【第54代 仁明(にんみょう)天皇】
				別名: 正良(まさら)親王 、深草帝、日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあめしるとよさと)
				生没年:弘仁元年(810)〜 嘉祥3年(850)(41歳)  
				在位: 天長10年(833)〜 嘉祥3年(850)
				父:  嵯峨天皇 第2皇子
				母:  橘嘉智子(たちばなのかちこ)  
				后:   藤原順子(ふじわらののぶこ)、藤原沢子(ふじわらのさわこ)
				皇妃: 藤原貞子、滋野縄子、紀種子、三国氏、高宗女王、藤原賀登子、藤原子童子、百済永慶  
				皇子女:道康親王(文徳天皇)、宗康親王、時康親王(光孝天皇)、人康親王、本康親王、国康親王、常康親王、
				    成康親王、時子内親王(斎院)、久子内親王(斎宮)、高子内親王(斎院)、親子内親王、柔子内親王、
				    新子内親王、重子内親王、真子内親王、平子内親王、源効、貞登他
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				陵:  深草陵(ふかくさのみささぎ:京都市伏見区深草東伊達町)

 


		京阪電車「藤森駅」で下車。まっすぐ東へ歩いていくと15-20分程でこの天皇陵に着く。高速道路のすぐ際にあり、廻りは住宅・駐車
		場である。入り口も家が建っており、住宅の隣を通って陵へ行く。上左が「藤森駅東口」。手前の川は「疎水」である。
		駐車場の脇から柵を越えればすぐだが、正面から正式に行こうとすればぐるっと5,6分住宅街を抜けねばならない。

 

アパート前の空き地に宮内庁の看板も立っている。

 

看板の脇をすり抜けていくと、仁明天皇深草陵である。

 


		嵯峨天皇の第二皇子。叔父にあたる淳和天皇の譲位を受け即位。淳和上皇の第二皇子、恒貞親王を皇太子とした。桓武天皇(50代)の
		皇子達による政治は比較的安定していた。最澄・空海らによる比叡山開山や唐風文化の宮中浸透など、儒教精神に基づく徳治政治が押
		し進められた。52代嵯峨天皇、53代淳和天皇、そしてこの54代仁明(にんみょう)天皇による3代の治世を「崇文の治」(そう
		ぶんのち:809〜850)と呼んでいる。

 


		しかし、淳和上皇、嵯峨上皇ともに健在のうちは世情も安定していたが、絶大な権力者であった嵯峨上皇が承和9年(842)崩御すると、
		その年の7月15日、伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らによる「承和の変」(じょうわのへん)が勃発する。
		伴・橘らは流刑となり、彼らにかつがれた恒貞親王は廃太子となる。この乱をきっかけに、これ以後皇位継承をめぐる乱世へと突入して
		いく事になる。恒貞親王を廃太子した後は、自身の第1皇子である道康親王(後の文徳天皇)を後継に立てた。
		これにより、平城―嵯峨―淳和―仁明と続いた王統の迭立(てつりつ。)の原則が崩れ、嵯峨―仁明―文徳の直系王統が成立した。
		嘉祥3(850))年、出家した直後病により崩御。山城国紀伊郡の深草山陵に葬られた。




		仁明期は、それまでの漢風文化から国風文化の転換期で、宮廷文化の成立期と位置づけられているが、皇位は藤原氏を外戚とする道康
		親王に移り(文徳天皇)、やがて藤原氏全盛時代を招くことになる。


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