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第7代 孝霊天皇
2001.Feb. 片丘馬坂陵 北葛城郡王子町本町





第7代孝霊(こうれい)天皇陵印
	<第7代孝霊天皇>
	異称: 大日本根子彦太尊/大倭根子日子賦斗邇命【おおやまとねこひこふとにのみこと】
	生没年: 孝安天皇51年 〜孝霊天皇76年  106歳(古事記) 127歳(日本書紀)
	在位期間  孝安天皇102年〜孝霊天皇76年 
	父: 孝安天皇 第二子
	母: 忍鹿比売(姪:おしかひめ)【古事記】/押媛(おしひめ)【日本書紀】
	皇后: 十市県主(とおちのあがたぬし:古事記)または、磯城県主(しきのあがたぬし:日本書紀)とされる大目
		(おおめ)の娘細媛命(ほそひめのみこと:細比売くわしひめ)。
	皇妃: 倭国香媛(やまとのくにかひめ)、紐某弟(はえいろど)
	皇子皇女: 大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと:大倭根子彦国玖琉命)、
		  倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)
	宮: 「黒田の廬戸宮」大和国城下(しきのしも)郡黒田郷【和名類聚抄】(奈良県田原本町黒田)
	陵墓: 片丘馬坂陵(奈良県北葛城郡王子町本町)



	この天皇も第二子である。長子が祭祀を司り、第二子が統治権を継承するという「綏靖天皇」とその兄の故事以来の伝統を
	引き継いでいる。これまでの皇后は一人しか名前が出現しなかったが、この天皇から皇后以外の名前が出現するようになる。




	この天皇も「欠史八代」の一人である。従って古事記・日本書紀、ともに記述は少ないが、古事記の記述に特徴がある。8
	人の子供をつくり、男5人のうち2人が吉備の国を平定したという記事があるのだ。そして吉備の上道臣(かみつみちのお
	み)・下道臣(しもつみちのおみ)・笠臣(かさのおみ)という豪族の祖先であるという。又、別の1人は播磨の牛鹿臣
	(うしかのおみ)の祖先になったとも記されている。他の天皇は系譜的記事が続く中にあって、これは注目すべき点だ。
	神武天皇が大和を平定して、大和朝廷の礎を築いたとすれば、その後の天皇達がその覇を拡大していった事の記憶なのかも
	しれない。

 


	JR王子駅を南へ歩くこと20分程でこの陵へ着く。一寸わかりにくいかもしれない。王子工業高校の裏山とおぼしきところ
	がこの陵だが、附近にも幾つか小高い丘があって、何処が入り口なのかを探すのにとまどった。



 


	記紀はともに、この天皇が「黒田の廬戸宮(いおとのみや)」にあって政治を行ったと記録している。ここは奈良県田原本
	町黒田であるとされているが、日本書紀は先代の孝安天皇が崩御した後、嫡子で皇太子であった大日本根子彦太瓊天皇(お
	おやまとねこひこふとにのすめらみこと)が遷都したと記録している。それまでは、橿原市と御所市周辺が都とされていた
	のに、湿地帯の磯城郡の田原本町へ遷都した事と、即位後遷都がこれまでの慣例であったのに、この天皇は遷都後即位して
	いる。この2点も孝霊天皇の特色である。






	またこの天皇の娘、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は、邪馬台国近畿説で卑弥呼の墓として有名な、
	箸墓古墳の被葬者として知られている。先の吉備の故事と言い、倭国大乱の末擁立された卑弥呼を考えると、唯一、当時の
	様子をしのばせるそれらしき記事が文献に出現した天皇と言えるかもしれない。


	倭迹迹日百襲姫命((やまとととびももそひめのみこと)
	孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫は御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻になったとされる。この神は夜に通っ
	てきて昼間は姿を見せないので、姫は昼間に姿を見せてくれるよう懇願する。神は「明朝お前の櫛箱の中に入っておく。」
	と答えた。姫は朝になるのを待って櫛箱をあけると、中には小さな蛇がいた。姫が驚いて泣きだすと、神は人の姿に戻り
	「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれたな。」といって三輪山に帰ってしまう、姫は後悔しはずみで箸で陰処を突いて
	死んでしまった。そこで人々は大市に葬られたその墓を「箸墓」と呼んだ。この墓は昼は人が作り夜は神が作ったと言う。

	現存する「箸墓古墳」は、前方後円墳で、全長約272メートル、後円部径157メートル、高さ22メートル、前方部幅
	125メートル、高さ13メートル、周囲には周濠がめぐらされていたのではないかと推測される。邪馬台国畿内説を唱え
	る人達の多くは、ここが邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であろうとする。「卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、
	殉死する者、奴婢百余人。」 

 

吉備の臣達の祖とされる3人の親がこの天皇なのだが、ここに陵があると言うことは吉備とどう結びつくのだろうか?

 

この御陵は、同様の丘上に造られた陵の中では珍しく、廻りをぐるりと一周する
事が出来る。また驚いたことに、御陵の際(きわ)まで民家が建ちこめている。

 


	古事記は天皇の享年が百六歳で、御陵は片岡の馬坂のほとりにあると記録しているが、日本書記は、七十六年春二月に崩御
	したと記されており、孝安紀七十六年の条にある26才で立太子という記事と照らすと、書記では百二十八才で崩御という
	事になる。

 


	御陵から降りてきて、王子小学校前の道が168号線にぶつかったあたりに、下の石塔があった。ここを更に南へ行けば第
	25代「武烈天皇」の墓があり、更に南へ行けば23代「顕宗天皇」の陵がある。下右は、小学校前の歩道橋から片丘馬坂
	陵を見たところ。雨が降り出して少し煙っている。

 




	【大倭根子日子賦斗邇命】孝靈天皇 (古事記)

	大倭根子日子賦斗邇命、坐黒田廬戸宮、治天下也。
	此天皇、娶十市縣主之祖、大目之女、名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。【一柱。玖琉二字以音】
	又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命【一柱】
	又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命。次、日子刺肩別命。次、比古伊佐勢理毘古命。
	亦名大吉備津日子命。次、倭飛羽矢若屋比賣。【四柱】
	又娶其阿禮比賣命之弟、蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命。次、若日子建吉備津日子命。【二柱】
	此天皇之御子等、并八柱【男王五。女王三。】
	故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。
	大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口以言向和吉備國也。
	故、此大吉備津日子命【吉備上道臣之祖。】
	次、若日子建吉備津日子命者【吉備下道臣、笠臣祖。】
	次、日子寤間命者【針間牛鹿之祖也。】
	次、日子刺肩別命者【高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。】
	天皇御年壹佰陸歳。御陵在片岡馬坂上也。




	【大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)】孝靈天皇

	大倭根子日子賦斗邇(おおやまとねこひこふとに)の命、K田の廬戸(いおと)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、十市の縣主の祖、大目の女(むすめ)、名は細比賣(ほそひめ)の命を娶りて生みし御子は大倭根子日子
	(おおやまとねこひこ)國(くに)玖琉(くる)の命【一柱。玖(く)琉(る)の二字は音を以ちてす】。
	また春日の千千速眞若比賣(ちちはやまわかひめ)を娶りて生みし御子は千千速比賣(ちちはやひめ)の命【一柱】。
	また意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)の命を娶りて生みし御子は夜麻登登母母曾毘賣(やまとと
	ももそびめ)の命。次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命。次に比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命、
	またの名は大吉備津日子(おおきびつひこ)の命。次に倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)【四柱】。
	また其の阿禮比賣(あれひめ)の命の弟(おと)、繩伊呂杼(はえいろど)を娶りて生みし御子は、日子寤間
	(ひこさめま)の命。次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命【二柱】。
	此の天皇の御子等は并せて八柱【男王(おとこみこ)五たり、女王(ひめみこ)三たり】。
	故、大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命は天の下治しめしき。 大吉備津日子(おおきびつ
	ひこ)の命と若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の命は、二柱相副(そ)いて針間(はりま)の氷河(ひかわ)
	の前(さき)に忌瓮(いわいえ)を居(す)えて、針間を道の口と爲して、以ちて吉備の國を言(こと)向(む)
	け和(やわ)しき。故、此の大吉備津日子の命は【吉備の上(かみ)つ道の臣の祖】。 次に若日子建吉備津日子
	の命は【吉備の下つ道の臣、笠の臣の祖】。 次に日子寤間(ひこさめま)の命は【針間の牛鹿(うしか)の臣の
	祖也】。次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命は【高志(こし)の利波(となみ)の臣、豐の國の國前(くに
	さき)の臣、五百原(いほはら)の君、角鹿(つぬが)の海(あま)の直の祖也】。
	天皇の御年は壹佰陸歳(ももとせあまりむとせ)。 御陵は片岡の馬坂の上に在り。



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