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第49代 光仁天皇陵
田原東陵 2001.12.22 奈良市日笠町



		太安万侶の墓から車で5,6分のところにある。太安万侶の墓であれほど降っていた雪も、ここへ来る頃にはすっかり止んでしまった。



				【第49代 光仁天皇】
				別名: 白壁王、天宗高紹(あめむねたかつぎ)天皇
				生没年:和銅2年(709)〜 天応元年(781)12月(73歳)  
				在位: 宝亀元年(770) 〜 天応元年(781)4月
				父:  施基(しき)親王(天智天皇の子)第6子
				母:  紀掾姫(きのとちひめ)或いは、紀橡姫(きのつるばみ) 
				皇后:  井上(いのへ)内親王
				皇妃: 藤原曹司、紀宮子、県主嶋姫、県犬養勇耳、大野仲子、高野新笠、尾張女王
				皇子女:山部親王(垣武天皇)・早良親王・能登内親王・・・母は高野新笠
				    他戸親王・酒人内親王 ・・・母は皇后井上内親王
				    稗田親王 ・・・尾張女王
				    開成、大田内親王、彌努摩内親王、諸勝、他
				宮居:  平城京(ならのみや:奈良県奈良市)
				御陵: 田原東陵(たはらのひがしのみささぎ:奈良県奈良市日笠町)

 


		宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没した。そのため藤原百川(式家)・永手(北家)は、天智天皇の孫にあたる白壁王
		(父は天智皇子の子施基皇子)を擁立して光仁天皇とした。称徳天皇の死によって、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智
		系が復活する。当初、吉備真備(きびのまきび:右大臣)は、長屋王の子で臣籍に降下していた文屋浄三(78歳)を推し、浄三が高齢を理
		由に辞退すると、次いでその弟の大市(67歳)を推挙する。藤原北家の筆頭である藤原永手は、吉備真備に対抗する手段が尽きたと判断
		するや、その推挙文書の名前部分だけを奏上の直前に「白壁王」(62歳)にすり替えるという挙に出て、強引に白壁王を次期天皇にして
		しまった。帝は62歳で皇位を継承し、既に井上内親王との間に他戸(おさべ)親王があり、彼が皇太子に立てられた。藤原良継・百川
		兄弟の真の目的は、白壁王の子の山部王(桓武天皇)の擁立にあったが、白壁王即位に際して天武系からの反発が強かったため井上内
		親王の立后と他戸皇子の立太子を受け入れた。吉備真備は引退、道鏡の即位を防いだ功労者である和気清麻呂が復帰し、清麻呂はやが
		て後に桓武天皇の時代に平安京の建築に尽力することになる。




		「続日本紀」によれば光仁天皇は、孝謙朝以後皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れ、「酒を縦(ほしいまま)にして姿を晦
		(くら)ま」していたという。しかし逃げ切れず、藤原一族の手によって皇位に就かされてしまう。62才という高齢の天皇を擁立した
		という点を見ても、良継・百川兄弟の策為が感じ取れる。

		藤原北家の総領藤原永手は、天皇即位の翌年の宝亀2年(771)に急死し、政務の実権を握ったのは式家の藤原良継だった。彼は北家の擁
		立になる他戸王の即位を嫌い、井上皇后に無実の罪を押しつけ廃后し、他戸王も廃太子にする。
		井上内親王(桓武天皇には義母)は、30代を過ぎて光仁天皇に嫁ぐのだが、それまでは伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)の姫であった。
		嫁いでからも加持祈祷をかかさなかった為、宝亀3(772)年、それが天皇呪詛の祈祷であるとの疑いを掛けられ、我が子他戸王ととも
		に処刑された。新皇太子には、翌年山部親王が就いた。






		山部親王は、父は他戸王と同じく光仁天皇であるが、渡来人系の母「高野新笠」から生まれた。高野新笠が渡来系氏族であったことか
		ら当初、山部親王の立太子には反対も多かったが、藤原百川らの強力な後押しもあって皇太子となる。高野新笠は、渡来氏族の和(や
		まと)氏の出身で「和新笠」という名だったが、この立太子に際して「高野」の姓を与えられる。
		天応元年(781)、病を得た光仁天皇は皇太子に譲位し、同年12月23日崩御した。山部親王は即座に、45歳で「桓武天皇」として
		即位した。藤原良継(716〜777)の娘、乙牟漏が桓武天皇皇后となる。これにより、約100年続いた天武系統が途絶え、皇統は完全
		に天智系に戻った。光仁天皇は翌年広岡山陵に葬られ、延暦5(786)年、田原陵に改葬された。






		今日この事件は、山部親王(桓武天皇)を推す藤原良継や藤原百川らの謀略と言うことになっているが、やがて桓武天皇は、相次ぐ異
		変や天変地異を見て、この二人の「怨霊」のせいと信じ、終生これに怯えて暮らすことになる。

 


		光仁天皇の御代は、数十年乱れていた政治体制の再建が行われた時期でもある。予算的にもずっと緊縮財政が敷かれており無駄な出費
		は極力抑え込まれた。そして官位の入れ替えが行われ、不正行為をした者の追放、恩赦・復位などが盛んに行われたようである。
		光仁朝の主な政策・施策として記録に残っているものは、官制の整備・財政の緊縮・国司・郡司の監督強化・兵士制の改革・墾田制の
		復活、などが挙げられる。




		光仁天皇の歌は万葉には伝わらないが、光仁朝において万葉集が現在の形に近いところまで編纂整備されたという説が有力である。
		奈良市大安寺では、桓武天皇が平安京から南都に赴き、光仁天皇の法要をおこなったとされる「続日本記」の故事に因んで、「光仁会」
		なる催しが毎年開催されている。
 


		道を挟んで向かい側にあった記念碑。光ってどうも全文は判読できなかったが、どうやら江戸時代に、荒れていた光仁陵を整備した人
		を称えた碑のようだった。

		平成14年6月6日。度々このHPへ陵印を送ってもらっている奈良の今崎さんから以下のmailを頂いた。親切な解説で大いに納得し
		た。感謝してここに収録させて頂きたいと思う。
		「光仁天皇陵前の顕彰碑は江戸時代後期の武士で、大和の皇陵の調査・修復に人力した北浦定政の顕彰碑と墓です。この人は平城京跡
		の調査・保存の第一歩を記す研究・活動をしています。出身は奈良の古市地区で奈良町奉行所に努めていました。身墓は奈良市古市町
		にありますが(ここでも顕彰されている。)光仁陵の前にも、顕彰の意味を込めて墓があるのが、貴HPの石碑です。」
		そうだったのか、北浦定政の顕彰碑! 名前は幾つかの書物で見たことがあるが、ここに顕彰碑と墓があったんだ。今崎さん、ありが
		とうございました。


		なお光仁天皇時代の初期には、藤原式家の良継が権力者であるが、宝亀8年に死去してからは弟の百川に引き継がれ、この百川も宝亀
		10年に死亡すると、その後は良継・百川兄弟の甥「種継」と、北家の「藤原魚名」が拮抗する時代になっていく。その後魚名も桓武
		天皇即位の2年後に死去し、またその2年後には、「早良親王事件」で今度は種継が暗殺されるということになる。


		【種継の暗殺(785)】
			50代桓武の弟である早良親王を次の天皇に擁立せんとした、という疑いで、「式家」宇合の孫である中納言種継は
			暗殺され、それに組したとされる大伴継人・大伴竹良・大伴家持などが配流された。結果的に、この事件で大伴氏の
			が排除される事になった。早良親王は、後の祟りを恐れられて「崇道天皇」という称号を与えられ、淡路島に祀られ
			た。



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