【第121代 孝明(こうめい)天皇】 異称: 統仁(おさひと) 生没年: 天保2年(1831) 〜 慶応2年(1866)(36歳) 父: 仁孝天皇 母: 正親町雅子 皇后: 九条夙子 皇妃: 中山慶子、藤原伸子、藤原紀子 皇子女: 順子内親王、皇子某、睦仁親王(明治天皇)、皇女某 皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ:京都府京都市東山区今熊野泉山町)
歴代天皇が眠る京都東山の泉涌寺「月の輪陵」の脇を登っていくと、孝明(こうめい)天皇陵に着く。途中、後堀河天皇陵が左側に あるが、道の終点にこの天皇陵はある。
下が「泉涌寺」。ここに87代四条天皇を初めとして歴代の天皇が眠る。孝明天皇陵はその脇を登っていった高台に、独立してもうけ られている。この天皇陵から以後昭和天皇に至るまで、古代の古墳をまねた陵墓が復活する。
弘化4(1847)年、16才で即位。この天皇は幕末維新のまっただ中を生きて死んだ。その死をめぐっては諸説あり定かではない。 米・英・仏・露の艦隊が相次いで来航し、西欧諸国が虎視眈々と我が国をうかがっているさなか、この天皇は迫り来る外国の脅威に 対して強い怖れと拒絶反応を示した。徳川幕府に海防と軍艦築造を勅命し、終始攘夷を主張した。ペリーが再び来航した年(1854) に改元して「安政元年」とし、自ら神社に『国家安泰』を祈り、全国の寺社に使者を派遣して祈祷させた。1857年はイギリスがイン ドのムガール帝国を滅亡させ、中国が広州を占領して半植民地化してしまう年だ。アメリカ総領事のハリスは、これら海外の情報を 元に圧力をかけ、アメリカ有利の条約締結を迫った。これに対して幕府は腰くだけとなってしまうが、孝明天皇は断固拒否を主張し 幕府にもそれを求める。しかし大老の井伊直弼は、独断で通商条約を結んでしまい、桜田門外で暗殺された。
孝明天皇は、薩摩長州等の倒幕派とは組みせず、あくまでも幕府による攘夷を望んだため、薩摩長州の倒幕派からは危険視されてい た。異母妹の和宮(かずのみや)を徳川家に降嫁させたのも、あくまでも徳川家を中心に国体の維持を図ろうとするものであった。 (120代)仁孝天皇┬(121代)孝明天皇─────(122代)明治天皇(睦仁親王) └── 親子内親王(和宮) ┃ (14代)徳川家茂━━━━━(15代)徳川慶喜 孝明天皇と将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」だった。
岩倉具視ら倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの理想実現を阻む「敵」であった。彼らの目には、旧態依然とした権威にしがみつく危 険な攘夷派の象徴で、徳川家を温存させてその上に君臨したいと願う保守的な帝として映っていたのだ。孝明天皇を排除し、「幼君」 (睦仁親王:明治天皇)を擁立して一気に新しい体制へ移行したいと考えても不思議ではない。 慶応2年(1866)12月5日、徳川慶喜に第15代将軍を宣下して1週間後疱瘡を発病し、25日「容態急変で崩御」となっている。 明治と改元される1年前、35五歳の若さだった。あまりにも急な崩御のため倒幕派による毒殺の嫌疑もかけられた。また厠から出 た天皇が下から槍で刺殺されたという噂も当時ささやかれたが、例によっての決まり文句、真相は闇の中、である。 孝明天皇の崩御直後、天皇の信任厚かった将軍・家茂も急死した。家茂急死も暗殺だったと言う説もある。
<孝明天皇暗殺説> 犯人は岩倉具視とする説がもっとも有力である。実際に毒物を投与したのは、孝明天皇の妾で、岩倉の姉(異母姉)だった堀河紀子だ と言われる。岩倉具視の孫で16歳になっていた具定(ともさだ)も、天皇の近侍だったので下手人の可能性は大とされる。孝明天皇 の死を巡っては当時も現代でも論議されており、前述したように真相は誰にもわからない。検死した医師の記録は宮内庁編纂の「孝明 天皇記」にも記載がないと言う。