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第58代 光孝天皇
後田邑陵 2001.11.8 京都市右京区宇多野馬場町








			第58代 光孝(こうこう)天皇
			別名: 時康(ときやす)・小松帝
			在位期間:  元慶8年(884)〜仁和3年(887)
			生誕−崩御: 天長7年(830)〜仁和3年(887) 58才
			父:  仁明天皇(54代)第三子
			母:  藤原沢子(藤原総継の女)
			皇后: 
			皇妃: 藤原佳美子、平等子、藤原元善、讃岐氏、桂心女王
			皇子女: 是忠親王、是貞親王、定省親王(宇多天皇)、繁子親王、穆子内親王、忠子内親王、簡子内親王、
			    綏子内親王、為子内親王、元長、兼善、名実、篤行、最善、近善、音恒、是恒、旧鑒、貞恒、成蔭、
			    清実、空性、国紀、香泉、友貞、遅子、麗子、奇子、崇子、連子、礼子、最子、偕子、黙子、是子、
			    並子、謙子、深子、周子、密子、和子、快、秩子、善子、是茂  
			皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
			陵墓: 後田邑陵(のちのたむらのみささぎ:京都府京都市右京区宇多野馬場町)

 


		京福電鉄「高雄口」駅で降りて、まっすぐ北へ5分ほど歩くと御陵である。住宅街の中にある。入り口は京都の町並みと同じで
		狭く、中へ入るとぐーんと広がっている。御陵まで京都風だ。

 


		武烈天皇以来の暴君とか、狂気の帝とか評価される陽成天皇(57代)には、これまた武烈天皇と同じく皇子がいなかった為に、藤原
		基経(ふじわらのもとつね)は後継選びに奔走する。選ばれたのは54代仁明天皇の第三子で、そのとき55才になっていた時康親王
		である。その性格は、気性の激しかった先帝と異なり、極めて寛大で穏やかな性格だった。基経は、老帝を迎える事で乱れた政治
		の安定を目論んだのだ。勿論政治的な実権は基経にあった。文徳天皇の弟で、宇多天皇の父。醍醐天皇の祖父にあたる。


 


		陽成天皇の崩御とその後継選びを巡る動きも、藤原家の権力掌握の流れの中にあり、今日では山ほどの論評がある。これらを読む
		と、当時権力争いの渦中にあった者達のすさまじいまでの欲望と謀略にほとほと嫌気がさしてくる。光孝帝自身は、幼いころから
		学問や和歌が好きな皇子として知られており(日本三代実録等)、百人一首にも入っている帝御製の歌、
		「きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ」(古今集・二一)は有名である。

		光孝天皇はそもそもそういう経緯の中で即位したので、はなから政務に関心はなかったようで、詔(みことのり)の中で「よろず、
		基経に相談せよ」として、政務一切を基経に任せている。正式には、次代の宇多天皇の即位の詔の中に「関白」という言葉がはじ
		めて出現するが、 実質的にはこの光孝天皇の基経への政務委託をもって「関白」のはじまりとされる。経費の節約を実行し、貢調
		の期日履行を命じ、任に赴かない国守をいましめるなど地方官の綱紀粛正を行なった。
		【関白】
		宇多天皇即位の詔の中に「万機巨細(こさい/きょさい)を関(あずか)り白(もう)せ」とあって、ここから関白という語が
		用いられたとされている。




		この帝にはおもしろいエピソードが伝わっている。突如として白羽の矢が立った帝には、それまで多くの借財があったが、天皇に
		なるや貸主である多くの町民達が大挙して皇居に押し寄せたと言うのである。天皇になったら金ができて、一気に返してもらえる
		と思ったからか、それとも、天皇になったらもう返して貰えないかもと思ったのかは定かでないが、それだけ貸してくれる人々が
		いる人物像というのは、何か親しみを感じる。またこの天皇は料理にも趣味をもって、自ら包丁を執って調理したそうであり、そ
		の調理法の流れをくむという料理屋が、今も京都には残っている。
 


		またこの時期、天変地異が相次いだ。うち続く災禍に心を痛めた帝は、基経の計らいにより臣籍に降下していた第7皇子、源定省
		(みなもとのさだみ:後の宇多天皇)を立太子させると静かに息を引き取ったと伝えられている。在位4年にして崩じた。

		京都洛西の御室仁和寺は、光孝天皇が仁和二年(886)着工し、仁和4年宇多天皇の御代に完成した。年号をとって仁和寺と号した。



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