京都府北桑田郡周山の町にある料理屋が、全日空の機内誌「翼の王国」に載った。以来このステーキ屋には客が押し寄せている。 WIFEがここに行きたいというので、私は天皇陵巡りに、WIFEはステーキ屋さんにと目的が一致し、周山街道ドライブとなった。 京都市内から約1時間。
山里の名刹 常照(皇)寺 京都市内から、北山杉で名高い周山街道を抜けて鯖街道へ出るあたりに、鄙びた山国の里がある。皇室ゆかりの寺常照皇寺はこの里 にある。庭園、境内、裏山をあわせて約12000uという。こんな山奥によくまぁと思わせる。 常照寺は南北朝の北朝初代上皇光厳院が1362年(貞治元年(北)、正平17年(南))頃開創。臨済宗京都嵯峨天竜寺派に属する禅寺 である。天皇はその生涯を南北朝の動乱の中で過ごしたが、南朝方に幽閉されて後出家。帰京後も世俗を離れて禅道を修めるため、 貞治元年(1362)ここに隠棲した。一般的には、天台宗系の成就寺(じょうじゅじ)という廃寺を改修して建てられたと伝えられてい る。以来、歴代皇室と深い縁を結ぶこと650年におよぶ。皇統譜による102代後花園天皇が、境内裏山万樹林や小塩田260石等を光厳院 への香華陵料として献納。皇室と地元檀家が協力して護寺に勤めてきた。戦国期の天正7(579)年、丹波の守明智光秀の山国全焼戦 で寺域全壊を見た後、江戸期の後水尾天皇(ごみのうてんのう)の尽力等もあり漸次回復した。
四季の見どころと言えば、何と言っても春の桜である。山里に訪れる四季の風情はいつもそれぞれに素晴らしいが、とりわけ常照皇 寺の桜は名高い。「九重桜」は国の天然記念物。一重と八重が一枝に咲くという、「御車返しの桜」。御所より株分けしたと言う 「左近の桜」の名木が4月中頃より咲き誇る。 紅葉はもう少し経った、10月末から11月中頃までである。ちらほら赤くなりかかっていた。
【北朝初代 光厳(こうごん)天皇】 異称: 量仁(かずひと)/重仁(ときひと)・持妙院殿・勝光智 生没年: 正和2年(1313)〜 貞治3年(正平119:1364) (52歳) 在位: 元徳3年(元弘2年:1332)〜 正慶2年(元弘3年:1333) 父: 後伏見天皇 母: 藤原(西園寺)寧子 皇后: 三条秀子 皇妃: 懽子内親王、寿子内親王、藤原氏 皇子女: 興仁親王(崇光天皇)、彌仁親王(後光厳天皇)、尊朝親王、義仁親王、光子内親王、恵厳 皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 山国陵(やまぐにのみささぎ:京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山) 両統迭立(てつりつ)の原則により、後醍醐天皇の皇太子となり、後醍醐天皇が蜂起後(元弘の変)笠置山に逃れると、北条氏によ って即位した。北条氏滅亡後廃位。光明天皇即位と同時に院政を行った。晩年は丹波に隠棲。残りの生涯を禅の修行に費やし、京都 府の常照寺(現常照皇寺)で52才で没した。
【第102代 後花園(ごはなぞの)天皇】 異称: 彦仁(ひこひと)・後文徳院・円満智 生没年: 応永26年(1419)〜文明2年(1470)(52歳) 在位: 正長元年(1428)/永享元年(1429)〜 寛正5年(1464) 父: 貞成親王(後崇光院) 母: 源幸子 皇后: 藤原郷子、藤原信子 皇子女: 観心、成仁親王(後土御門天皇)、皇女某 皇居: 平安宮(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 後山国陵(京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山) この帝の在位は36年におよぶ。この間幕府では、6代義教(よしのり)、7代義勝(よしかつ)、8代義政(よしまさ)と変遷し、 改元も7度に及んだ。動乱の世にあっては珍しい長期政権と言える。その間には足利持氏親子の滅亡につながる「永亨(えいきょう) の乱」、将軍義政が暗殺された「嘉吉(かきつ)の乱」や、南朝方の皇族が禁裏に忍び込んで神器を奪って捕らえられ処刑される事 件、後村上天皇の皇孫による挙兵などの事件が起きている。そして「応仁の乱」の勃発した年、帝は世を憂えて出家、譲位して院政 をしいた。将軍足利義政の奢侈(しゃし)を自作の詩をもって戒めたのは有名。
光厳上皇は正和2年(1313)に持明院統の後伏見天皇の第一皇子として生まれ、嘉暦元年(1326)に後醍醐天皇の皇太子となる。元弘 (南朝)元年(1331)の「元弘の変」で、鎌倉幕府に擁立され即位するが、幕府が倒れると後醍醐天皇に廃位されてしまう。 しかし建武(南朝)3年(1336)、足利尊氏が後醍醐天皇方に造反し九州に落ちて行時、廃位されていた光厳天皇から院宣をもらい、弟 の光明天皇が即位し、光厳天皇は上皇となって院政をはじめ、ここに南北両朝の並立が開始される。 しかし、正平(南朝)6年(1351)の正平一統により北朝は廃止され、光厳・光明・崇光の三上皇は南朝によって幽閉される。そして、 賀生名で以前から夢窓疎石に帰依していた上皇は、出家して法名を勝光智とした。さらに、金剛寺に移されてからは、当寺の孤峯 覚明を尊信し覚明から禅衣を授けられ、法名を光智と変えた。 この間に足利幕府は光厳上皇の皇子後光厳天皇を即位させて、北朝を再建した。延文(北朝)2年(1357)、京に帰還した光厳上皇は、 世事に交わらず禅の修業に精進し、晩年、この常照皇寺で禅三昧の生活を送り、貞治(北朝)3年(1364)に崩御し、同寺背後の山国陵 に葬られた。
後花園天皇は、崇光天皇の孫の伏見宮貞成親王(応永23(1416)年〜文安5(1448))を父とする。 称光天皇(101代)は正長元年(1428)7月崩御するが長らく病床にあり、上皇の後小松院は後継者で悩んでいたと言われる。 後小松院の第二皇子、小川宮は同年2月に急死しており、血統からすれば、称光天皇崩御となれば、跡を継ぐのは庶子の 「一休禅師」しかいなかった。しかし当時、皇族が出家することは皇位継承は断念した事を意味し、一方で、旧南朝の小倉宮の名も 浮上していた。後小松院と一休の対話がなされたのは、こうした皇位継承が微妙となっていた時期だった。『年譜』によると、一休 が後小松院に、旧北朝の伏見宮彦仁王を継承者とすることを進言したという。 「一休禅師」は「とんちの一休さん」として有名だが、天皇の子という事はあまり知られていない。 父から「すまん。」と涙を流され、快く伏見宮彦仁王を継承者に推挙したという話などが伝えられているが、しかし、伏見宮彦仁王 の皇位継承は幕府も賛成しており、「一休の進言を待つまでもなく、大勢としてはすでに決していたといっていい」という意見もあ る。(『年譜』を校注(平凡社・東洋文庫)した東大史料編纂所教授、今泉淑夫氏) 帝の父の伏見宮貞成親王は崇光天皇(北朝3代)の孫で、皇家の経済的問題や芸能、事変や事件、庶民の動向まで多岐に渡って記録し た『看聞日記』と言う日記の作者として知られている。本記41巻、別記13巻、包紙集1巻(9年分が欠失しているがその他は現 存している。) の、室町時代前期を代表する日記である。