<第23代 顕宗(けんぞう/けんそう)天皇> 異称: 弘計天皇(をけのすめらみこと:日本書紀)。哀祀命(おけのみこと:古事記)。来目稚子(くめのわくご) 生没年:允恭天皇天皇39年 〜 顕宗天皇3年 38歳(古事記) 在位期間 清寧5年+?(顕宗天皇元年) 〜 顕宗天皇3年(古事記は8年) 父: 市辺押磐皇子(履中天皇の子) 母: 蟻臣(ありのおみ)の娘、夷媛(はえひめ) 皇后: 石木王(いわきのおおきみ)の娘、難波王(なにわのきみ) 皇妃: 難波小野王(なにわのおののみこ) 皇子皇女: 宮: 近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや:奈良県明日香村八釣) 陵墓: 傍丘磐杯丘南陵(かたおかのいわつきのおかのもなみのみささぎ:奈良県香芝市北今市)
JR和歌山線の「志都美駅」で降りて、国道168号線をまっすぐ南下すると、国道が大きくカーブした分岐にでる。そこを曲がらずま っすぐ進むと、小さな川を横切ったあたりでこんもりとした森がみえてくる。顕宗天皇陵である。駅から歩いて15分ほど。周りは住 宅地で静かである。
履中天皇の孫。父は市辺押磐皇子。24代仁賢天皇(幼名億計:おけ)の弟。名は弘計(おけ)。兄弟そろって「おけ」という名であるが、 兄より先に弟が即位する。大和の近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)に遷都。近飛鳥宮で治世を行い、石木王(いわきのおお きみ)の娘、難波王(なにわのきみ)を皇后としたが、皇后は自殺したと伝わっている。兄弟は幼少時、父市辺押磐皇子を雄略天皇に殺さ れ播磨国へ逃れていたが、清寧天皇没後探し出されて即位した。長男億計王、次男弘計王、三男橘王並びに母親のはえ姫等は、雄略天 皇(大泊瀬皇子)の迫害から身を守るため、大和から丹波へ市川大臣等に護られて避難したと言う。
顕宗・仁腎両帝を補佐した平群真鳥の息子であった鮪(しび)と、大連物部氏の娘であった影媛(かげひめ)をめぐって争うのが小泊 瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)である。武烈天皇は影媛がすでに鮪と情を交わした事を知って、平群真鳥も鮪も殺してしまうが、顕宗天 皇の陵と武烈天皇の陵は同じ香芝市にあり、北今市に顕宗天皇陵が、今泉に武烈天皇陵の陵がある。書記によれば、弘計王が見いださ れたのが13才、即位したのが14才、崩御したのは17才である。23代顕宗天皇は在位3年で崩御した。後は兄の億計王が24代仁賢 天皇となる。
『記紀』には、傍丘磐杯の南陵(顕宗陵)と北陵(武烈陵)となっており、葛城氏一族の葦田の夷媛とつながることから、両帝の陵墓 がこの傍丘(片岡)の地に比定されたものと思われる。一般に、明治政府がどういう根拠で天皇陵を比定していったのかの記録は無い ようだ。墓誌・墓碑もなく、はっきりした地図等は勿論無いのであるから、比定の根拠の大部分は、「記紀」と伝承にもとづいたもの と考えられる。この顕宗・武烈陵も例外ではなく、いろいろと異なった伝承や伝説がある。現地では、昭和47年に学術的な発掘調査 が実施され、史跡に指定された「平野塚穴山古墳」が、幕末まで顕宗天皇陵とされていた。また、大和高田市築山の陵墓参考地とその 南の「狐井城山古墳」も、傍丘磐杯の北陵と南陵に比定する説があった。こうした経緯のもとで、明治政府は両陵を現在の地に比定し たのである。
大正14年版の『奈良県史跡名勝天然記念物調査会報告』には、北今市の顕宗陵が前方後円、武烈陵の形状は山形と記されてる。また、 顕宗天皇の異母姉にあたり、同時代とみられる「飯豊皇女」の御陵が、新庄町北花内の埴口丘陵に比定されていて、今なお濠をめぐら した前方後円の墳形をとどめている。考古学者の間では、過去の伝承や編年から、築山の陵墓参考地を武烈陵(北陵)に比定し、その 南の前方後円である狐井山古墳を顕宗陵に比定する意見も根強い。また、近年本市の狐井城山古墳を武烈陵ではないかとする意見もみ られるようである。 陵のある地域は周りより一段高くなっており、御陵は高い石垣で囲まれている。北側には小さな壕の後も見られる。
日本書紀を読むと、顕宗と仁賢が互いに皇位を譲り合い、結果的に弟が先に即位するに至った経緯や、顕宗天皇が父・市辺押磐皇子の 墓を求めて探し、近江の国の老女がそれを手助けして探し当てその老女を宮中に召し抱える話や、父の敵雄略天皇の墓を顕宗が壊そう とするのを、兄仁賢が諭(さと)して思いとどまる話などが載っている。
これらの話からは、仲の良い兄弟の姿や、心優しい顕宗、兄らしく理知に富んだ仁賢の姿などが彷彿とする。まだ10代の後半だった兄 弟だと思えばいかにもと思えるが、一方難波王の自殺を巡る謎などもあって、記載されていない局面もたくさんあったのだろうと想像 できる。 顕宗は、近江の老女が役を退いて故郷へ帰りたいと願い出たのを許し、最後の日に宮中へ来る老婆に対して次のような歌を詠んでいる。 置目もよ 近江の置目 ああ 近江の置目媼(おきめのおうな)よ 明日よりは お前は明日からここを去って み山隠りて 山の向うに行ってしまうのだね 見えずかもあらむ もう会うこともできないのだなぁ
【伊奘本別王御子】顯宗天皇 (古事記) 伊奘本別王御子、市邊忍齒王御子、袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下捌歳也。 天皇、娶石木王之女。難波王无子也。 此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賎老媼、參出白、「王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。」 【御齒者、如三技押齒坐也。】爾起民堀土、求其御骨。即獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓■[冠代脚巾]之子等、 令守其陵。然後持上其御骨也。故、還上坐而、召其老媼、譽其不失見置、知其地以、賜名號置目老媼。仍召入宮内、敦廣慈賜。故、 其老媼所住屋者、近作宮邊、毎日必召。故、鐸懸大殿戸、欲召其老媼之時、必引鳴其鐸。爾作御歌。其歌曰、 阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 於岐米久良斯母 於是置目老媼白、「僕甚耆老。欲退本國。」故、隨白退時、天皇見送、歌曰、 意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟 初天皇、逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人。是得求、喚上而、斬於飛鳥河之河原、皆斷其族之膝筋。以是至今其子孫、上於倭之日、 必自跛也。故、能見志米岐其老所在、【志米岐三字以音】故、其地謂志米須也。 天皇、深怨殺其父王之大長谷天皇、欲報其靈。故、欲毀其大長谷天皇之御陵而、遣人之時、其伊呂兄意祁命奏言、「破壞是御陵、 不可遣他人。專僕自行。如天皇之御心、破壞以參出。」爾天皇詔、「然隨命宜幸行。」是以意祁命、自下幸而、少掘其御陵之傍、 還上復奏言。「既堀壞也。」爾天皇、異其早還上而、詔如何破壞。答白、「少掘其陵之傍土。」天皇詔之、「欲報父王之仇。必悉 破壞其陵。何少掘乎。」答曰、「所以爲然者、父王之怨、欲報其靈、是誠理也。然其大長谷天皇者、雖爲父之怨、還爲我之從父、 亦治天下之天皇。是今單取父仇之志、悉破治天下之天皇陵者、後人必誹謗。唯父王之仇、不可非報。故、少掘其陵邊。既以是恥、 足示後世。」如此奏者。天皇答詔之、「是亦大理。如命可也。」故、天皇崩、即意祁命、知天津日繼。 天皇御年參拾捌歳。治天下八歳。御陵在片岡之石坏岡上也。 【伊奘本別王御子(いざほわけのみこ)】顯宗天皇 伊弉本別の王の御子、市邊(いちのへ)の忍齒別(おしはわけ)の王の御子、袁祁(をけ)の石巣別(いわすわけ)の命、近つ飛鳥 の宮に坐しまして天の下治しめすこと捌歳(やとせ)。天皇、石木(いわき)の王の女、難波の王を娶りて、子无(な)し。 此の天皇、其の父の王、市邊の王の御骨(みかばね)を求むる時に、淡海の國に在る賎(いや)しき老媼(おうな)、參い出でて白 さく、「王子の御骨を埋みし所は、專ら吾(あれ)能(よ)く知れり。また其の御齒(みは)を以ちて知る可し【御齒は三技(さき くさ)の如く押齒(おしは)に坐しき】」爾くして民を起こして土を堀り、其の御骨を求めき。即ち其の御骨を獲て、其の蚊屋野 (かやの)の東の山に御陵を作りて葬りて、韓(からぶくろ)の子等を以ちて其の御陵を守らしめき。然して後に、其の御骨を持ち 上りき。 故、還り上り坐して、其の老媼を召して、其の見しを失(わす)れず、貞かに其の地を知れるを譽め、以ちて名を賜いて置目(おき め)の老媼(おうな)と號けき。仍ち宮の内に召し入れて、敦(あつ)く廣く慈(うつく)しみ賜いき。故、其の老媼が住める屋は、 宮の邊に近く作りて日毎に必ず召しき。故、鐸(ぬりて)を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さんと欲う時に、必ず其の鐸(ぬりて) を引き鳴らしき。爾くして御歌を作りき。其の歌に曰く、 阿(あ)佐(さ)遲(じ)波(は)良(ら) 袁(を)陀(だ)爾(に)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て) 毛(も)毛(も)豆(づ)多(た)布(ふ) 奴(ぬ)弖(て)由(ゆ)良(ら)久(く)母(も) 於(お)岐(き)米(め)久(く)良(ら)斯(し)母(も) 浅茅原 小谷を過ぎて 百伝う 鐸響くも 置目来らしも ここに置目の老媼、白さく、「僕(やつがれ)は甚(いと)耆老(お)いたり。 本つ國に退(まか)らんと欲う」。 故、白す隨(まにま)に退(まか)る時に、天皇見送りて歌いて曰く、 意(お)岐(き)米(め)母(も)夜(や) 阿(あ)布(ふ)美(み)能(の)於(お)岐(き)米(め) 阿(あ)須(す)用(よ)理(り)波(は) 美(み)夜(や)麻(ま)賀(が)久(く)理(り)弖(て) 美(み)延(え)受(ず)加(か)母(も)阿(あ)良(ら)牟(む) 置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ 初め天皇の難(わざわい)に逢いて逃げし時に、其の御粮(みかりて)を奪いし猪甘(いかい)の老人を求めき。是を求むるを得て、 喚し上げて、飛鳥河)の河原に斬りて、皆、其の族の膝の筋を斷ちき。是を以ちて今に至るまで其の子孫、倭(やまと)に上る日に は、必ず自ら跛(あしなえ)ぐ也。故、能く其の老(おきな)の在る所を見志米岐(みしめき)【志(し)米(め)岐(き)の三字 は音を以ちてす】。故、其の地を志米須(しめす)と謂う。 天皇、其の父の王を殺しし大長谷の天皇を深く怨みて、其の靈に報わんと欲いき。故、其の大長谷の天皇の御陵を毀(こぼ)たんと 欲いて人を遣す時に、其の伊呂兄(いろせ)、意富祁(おほけ)の命、奏(もう)して言いしく、「是の御陵を破り壞(こぼ)たん には、他(あた)し人を遣す可からず。專ら僕(やつがれ)自ら行きて、天皇の御心の如く破り壞ちて以ちて參い出でん」。爾くし て天皇、詔らさく、「然らば命の隨(まにま)に幸行(いでま)すべし」。是を以ちて意富祁(おほけ)の命、自ら下り幸して、其 の御陵の傍を少し掘りて還り上り復奏(かえりごともう)して言いしく、「既に堀り壞(こぼ)ちつ」。爾くして天皇、其の早く還 り上りしを異(あや)しみて詔らさく、「如何にか破り壞てる」。答えて白さく、「其の陵(はか)の傍の土を少し掘りつ」。 天皇、詔らさく、「父の王の仇を報わんと欲はば、必ず悉く其の陵を破り壞たん。何ぞ少し掘りたるか」。答えて曰く、「然(しか) 爲す所以(ゆえ)は、父の王の怨(あた)を其の靈(たま)に報わんと欲ふは、是(これ)誠に理(ことわり)也。然れども其の大 長谷の天皇は父の怨(あた)と爲すと雖ども、還りては我が從父(おじ)と爲し、また天の下治しめしき天皇ぞ。是に今單(ひとえ) に父の仇の志を取りて、悉く天の下治しめしき天皇の陵を破れば、後の人、必ず誹謗(そし)らん。唯(ただ)に父の王の仇のみは 報いずある可からず。故、其の陵の邊を少し掘りつ。既に是の恥を以ちて後の世に示すに足れり」。如此(かく)奏(もう)せば、 天皇答えて詔らさく、「是また大きに理(ことわり)なること命(みことのり)の如し。可(よ)し」。故、天皇崩(かむざ)りま すに、即ち意富祁(おほけ)の命、天津日繼(あまつひつぎ)を知らしき。 天皇の御年は參拾捌歳(みそとせあまりやとせ)。 天の下治しめすこと八歳(やとせ)。御陵(みささぎ)は片岡の石坏(いわつ き)の岡の上に在り。